1 もしかして転移?
あー、またやっちゃった。
液晶画面の中の私は、一心不乱にスコップを振るっていた。ざっく、ざっく。小気味いい効果音と共に、地面がみるみるうちに削られていく。目的は、崖を切り崩して巨大な滝を作ること。私の島、『コーサク島』に、天空の庭園を建造するのだ。
いろいろな工作をしたいと思い、名付けてみたけれど、よく考えてみると、どこかの課長さんみたいなネーミングだった。
一度名付けると変えられないので、島名の変更を泣く泣く諦め、島にリアルフレンドを呼ぶことも諦めた。
ゲームの名前は「飛び散れ動物の肉」。あまりにも物騒なタイトルだけど、内容は至ってほのぼのとしたスローライフシミュレーションだ。無人島に移住して、DIYで家具を作り、どうぶつの住民たちと交流しながら、自分だけの島を作り上げていく。その自由度の高さがウケて、世間ではちょっとした社会現象にまでなった。もちろん、私もその熱狂に呑まれた一人だ。通称、「飛び肉」。私たちは親しみを込めてそう呼ぶ。
「よし、こんなもんかな」
滝の位置決めを終え、コントローラーを置いた私は、大きく伸びをした。ミシミシと鳴る背骨が、長時間同じ姿勢でいたことを告げている。窓の外は、とっくの昔に茜色を通り越して、深い深い藍色に沈んでいた。部屋の明かりもつけずに、画面の光だけを頼りに没頭していたらしい。
私の名前は小林 翠。どこにでもいる、ごく普通の農業高校三年生、17歳。
見た目は、そう、本当に「普通」としか言いようがない。染めたことのない黒髪は、校則ギリギリの長さを保ったボブカット。手間いらずだからという理由だけで、もう何年もこの髪型だ。
顔立ちは、良く言えば癖がなく、悪く言えば特徴がない。二重だけどパッチリというわけでもなく、鼻も高くも低くもない。身長も平均。制服は着崩したりせず、スカート丈も真面目そのもの。
ただ、それは別に優等生だからとかじゃなくて、単純にオシャレに興味が持てないだけ。
クラスメイトが雑誌を片手にコスメの話で盛り上がっていても、私には異国の言語のように聞こえる。
彼女たちのキラキラした世界と、私のいる世界は、透明な壁で隔てられているような、そんな感覚がずっとあった。
学校生活は、可もなく不可もなく。友達がいないわけじゃない。休み時間に当たり障りのない話をして、たまに一緒に購買へ行くくらいの関係性の相手は数人いる。でも、放課後や休日にまで会って遊びたいかと言われると、少しだけ躊躇してしまう。一人のほうが、ずっと気楽だった。
そんな私が唯一、心の底から「楽しい」と思えるのが、この「飛び肉」の世界だった。
コーサク島では、私は創造主だ。地形を自由に変え、好きな花を植え、理想の家を建てることができる。現実の世界では、何一つ思い通りにならないことばかりなのに。
特に私が夢中になっているのが、花の交配だ。
赤と白のチューリップを隣り合わせに植えればピンクが咲き、黄色と赤のパンジーからはオレンジが生まれる。遺伝子の法則に基づいたそのシステムは、農業高校で植物の基礎を学んだ私にとって、知的好奇心をくすぐる最高の遊びだった。
中でも、バラの交配は沼だった。青いバラ。ゲーム内でのレア度が最も高く、咲かせるには複雑な交配手順を踏まなければならない、幻の花。
「赤と白でピンク、黄色と赤でオレンジ……基本はメンデルの法則通りだけど、このゲームの青バラは特殊なんだよなぁ」
攻略サイトを睨みつけ、ああでもないこうでもないと試行錯誤を繰り返す。紫のバラ同士を掛け合わせ、そこから生まれた特別な赤いバラを、さらに掛け合わせて……。気が遠くなるような工程を経て、ついに、一輪の青い蕾が私の島に芽吹いた朝の感動は、今でも忘れられない。
画面の中の、ただのピクセルの塊。そう頭では分かっていても、胸が震えた。まるで、自分で生命を創造したかのような、大袈裟な達成感。
それからというもの、私のコーサク島は、色とりどりのバラで埋め尽くされていった。交配で生まれた黒、紫、オレンジ、ピンクのバラたち。崖の上に広がる青いバラの園。
私は毎日、甲斐甲斐しく水やりをし、雑草を抜き、住民たちが花を踏み荒らさないように柵で囲いを作った。その姿は、現実の私が失ってしまった、何かへの情熱そのものだったのかもしれない。
「……本物、育ててみたいな」
ぽつりと、そんな言葉が口からこぼれたのは、本当に偶然だった。
ゲームの中のバラに水をやりながら、ふと思ったのだ。この手で土に触れ、太陽の光を浴びさせて、本物のバラを咲かせてみたい、と。
農業高校に通ってはいるものの、私が専攻しているのは野菜栽培だ。トマトやキュウリの育て方なら分かるけれど、観賞用の花、それも「花の女王」と呼ばれるバラとなると、話は別。授業で習ったのは、接ぎ木の方法とか、病害虫の種類とか、ごくごく基本的な知識だけ。
でも、一度芽生えた興味は、まるでゲーム内で交配を繰り返すバラのように、私の心の中でどんどん大きく育っていった。
ネットで育てやすい品種を調べ、初心者向けの栽培キットを探す。画面の向こうの情報は、どれも魅力的で、私の心を躍らせた。
『初心者でも安心!』
『春には美しい花が楽しめる!』
そんな謳い文句を見るたびに、想像が膨らんでいく。ベランダの小さなプランターで、少しずつ色を増やしていく。いつかは、ゲームの中みたいに、自分だけのバラ園を……。
「……なんて、夢のまた夢、か」
現実に引き戻され、小さくため息をつく。私の家には、ベランダなんて洒落たものはない。古びた木造アパートの二階。日当たりは悪いし、そもそも植物を置くスペースすらない。
その後、ほとんど眠れないまま朝を迎え、ぼんやりとした頭で一日を過ごした。そして、学校から帰宅した夕暮れ時。昨夜、胸に芽生えた小さな熱はまだ消えておらず、むしろ燻り続けていた。
そんな時、タイミングが良いのか悪いのか。
ふと、昨日の放課後の出来事を思い出した。実習担当の吉田先生に呼び止められたのだ。
『林、悪いんだが、駅前の園芸店に行く用事はないか? 実習で使う種がいくつか足りなくてな。ついでに買ってきてくれると助かるんだが』
そう言って渡されたのは、走り書きのメモと数枚の千円札。「小松菜、ナス、きゅうり、かぼちゃの種。それと、じゃがいもの種イモ」。完全にパシリだ。断ることもできたけれど、先生の人の好い笑顔を前にすると、首を横に振ることなんてできなかった。
「……ちょうどいいか」
どうせお使いには行かなければならない。それならついでに、自分のバラの種も見てこよう。ささやかすぎるけれど、今の私にはそれくらいしか楽しみがない。
衝動的に立ち上がり、財布とスマホ、そして先生から預かったお金をポケットに突っ込んで、部屋を飛び出した。
「どこ行くんだ?」
リビングのドアを開けると、ソファに寝転がってテレビを見ていた父親が、気だるげに声をかけてきた。母親はキッチンで洗い物をしているのか、背中しか見えない。
「……学校の、お使い」
「ふうん。気楽なもんだな。受験生は今が一番大変な時期だってのに」
嫌味ったらしい口調。いつものことだ。私は何も言い返せず、玄関でスニーカーに足を突っ込む。
「翠。夕飯までには帰ってきなさいよ」
母親が、こちらを振り向かずに言った。その声には、何の感情も乗っていない。ただの義務的な言葉。
「……うん」
返事もそこそこに、私は逃げるように玄関のドアを開けた。
外の空気は、ひんやりと肌を撫でた。季節は秋の始まり。むっとするような部屋の空気とは違う、澄んだ匂いに、少しだけ救われたような気がした。
目指すは、駅前の大きな園芸用品店。先生に頼まれた「野菜の種」も、きっと豊富に取り揃えているに違いない。
自転車のペダルを漕ぐ足に、自然と力がこもる。
家から解放されたせいか、それとも新しい挑戦への期待感か。胸の中で、何かが小さく、でも確かに弾けているのを感じた。
◇
「うわぁ……!」
店のドアを開けた瞬間、思わず声が漏れた。
そこは、植物たちの楽園だった。色とりどりの花々が咲き誇り、観葉植物の瑞々しい緑が目に優しい。そして、ふわりと鼻腔をくすぐる、土と緑が混じり合った独特の匂い。学校の実習棟とも、家の息苦しい空気とも違う、生命力に満ちた香りに、私は大きく息を吸い込んだ。
まずは先生に頼まれたものを探さなくちゃ。
野菜コーナーでメモを確認しながら、小松菜、ナス、きゅうり、かぼちゃの種をカゴに入れる。じゃがいもの種イモは、苗物のコーナーに置いてあった。これで、お使いは完了だ。
そして、いよいよ本命の場所へ向かう。
壁一面を埋め尽くす、花の種の陳列棚。その一角に、バラのコーナーはあった。
棚には、数えきれないほどの有名メーカー『サカヤの種』のパッケージが、整然と並べられていた。
写真付きの鮮やかなパッケージは、見ているだけで心が躍る。
深紅のビロードのような花弁を持つ『クリムゾン・グローリー』。
淡いピンク色の、可憐な花を咲かせる『プリンセス・ドリーム』。
純白の花びらが幾重にも重なる『スノー・ブライド』。
まるで宝石を選ぶように、一つ一つのパッケージを手に取って、裏に書かれた説明書きを食い入るように読んだ。育てやすさ、開花時期、樹高。ゲームの攻略サイトを読み込んでいた時のように、夢中になって情報を頭に叩き込む。
「すごい……こんなに種類があるんだ」
ゲームの中では、バラの色は基本の赤・白・黄から始まり、交配でピンク、オレンジ、紫、黒、そして青が生まれる。でも、現実はもっと複雑で、もっと豊かだ。同じ赤でも、燃えるような赤から、ワインのような深紅まで。ピンクだって、桜色からショッキングピンクまで。その無限のグラデーションに、私はすっかり魅了されてしまった。
「お客さん、バラをお探しで?」
不意に声をかけられ、びくりと肩が跳ねた。振り向くと、人の良さそうな笑みを浮かべた、年配の男性店員が立っていた。緑色のエプロンがよく似合っている。
「は、はい。ちょっと見てるだけ、というか……」
しどろもどろになる私に、店員さんは「ごゆっくりどうぞ」とにこやかに言うと、続けた。
「バラはね、奥が深いですよ。手間はかかるけど、その分、花が咲いた時の喜びは格別ですからね。何か分からないことがあったら、何でも聞いてください」
その言葉に背中を押された気がして、私は思い切って尋ねてみた。
「あの、初心者でも育てやすいのって、どれですか?」
「それなら、この『ピースフル・スマイル』なんてどうでしょう。病気に強くて、四季咲きだから長く楽しめますよ」
店員さんが指差したのは、優しいクリームイエローの花が描かれたパッケージだった。平和な笑顔、か。なんだか、今の私にぴったりの名前かもしれない。
結局、私はその『ピースフル・スマイル』に加えて、情熱的な赤の『クリムゾン・グローリー』、可憐なピンクの『プリンセス・ドリーム』、そして、いつか挑戦してみたいという憧れを込めて、深い紫色がミステリアスな『ミッドナイト・ブルー』の種もカゴに入れた。青バラへの道は、まず紫から、だ。
レジで会計を済ませ、領収書を受け取るのも忘れない。ビニール袋はずっしりと重みを増し、中では学校用の実用的な種と、私のための華やかな種のパッケージが混ざり合っていた。それはまるで、今の私の現実と、ささやかな夢が同居しているみたいだった。
帰り道、自転車を漕ぎながら、これからの計画を頭の中で組み立てる。
フリーターとしてバイトを始めたら、少しずつお金を貯めて、日当たりの良いアパートを借りよう。そこでなら、始められるかもしれない。ささやかだけど、私だけの庭を。
コーサク島でやってきたことと同じだ。でも、今度は画面の中じゃない。この手で、現実の世界で、命を育むんだ。
そう思うと、今まで灰色に見えていた自分の未来が、ほんの少しだけ、色づいたように感じられた。親との関係も、将来への不安も、すぐにはどうにもならないだろう。でも、この小さな種が、私の日常にささやかな彩りを与えてくれるかもしれない。
そんな、浮かれた気分だった。
だから、注意が散漫になっていたんだと思う。
いつも使っている、見通しの悪い交差点。赤信号がチカチカと点滅を始めているのが見えた。急げば渡れる。いつもなら、ちゃんと一時停止して、左右を確認するのに。その時の私は、頭の中がバラのことでいっぱいで、ペダルを漕ぐ足を緩めなかった。
―――キィィィッ!
耳をつんざくような、甲高いブレーキ音。
横を向くと、巨大なトラックのヘッドライトが、すぐそこまで迫っていた。
眩しい光に目が眩み、世界から、音が消えた。
時間が、スローモーションになる。
宙を舞う自分の身体。手から滑り落ちる、ずっしりと重いビニール袋。カラフルな種のパッケージが、夜空に散らばる星のように、きらめいて見えた。
『あぁ、私の、種……』
それが、小林翠としての、現世での最後の思考だった。
◇
……ふわり。
まるで、温かい水の中に浮かんでいるような、不思議な感覚。
痛みも、苦しみも、何もない。ただ、どこまでも穏やかで、心地よい浮遊感が、私を包んでいた。
瞼の裏に、木々の隙間から差し込む、柔らかな光を感じる。
ゆっくりと、本当にゆっくりと、目を開けた。
最初に目に飛び込んできたのは、幾重にも重なる緑の葉と、その隙間から覗く、吸い込まれそうなほどに青い空だった。
日本の森とは、少し違う。もっと葉の色が濃くて、生命力に満ちている。見たことのない形の葉を持つ木々が、天に向かって真っ直ぐに伸びていた。
「……ここ、どこ……?」
掠れた声が、自分の口から漏れた。
身体を起こそうとして、自分が落ち葉や腐葉土が積もった、柔らかな土の上に横たわっていることに気がついた。
見渡す限り、木々の海。
風が吹くたびに、ざわざわと葉が擦れ合う音がする。遠くからは、聞いたこともない鳥の鳴き声が聞こえてきた。
空気を吸い込むと、湿った土と、植物の青々しい香りが混じり合った、濃密な匂いが肺を満たした。
トラックは? あの交差点は? けたたましいブレーキ音は?
記憶の断片を手繰り寄せようとするが、まるで分厚い靄がかかったように、思考がはっきりしない。
「……夢?」
そう呟いて、自分の頬をつねってみる。
じわりと、確かな痛みが走った。夢じゃない。これは、現実だ。
パニックになりかけた頭で、必死に状況を確認しようと試みる。
まず、自分の身体。手足を動かしてみる。どこにも痛みはない。事故に遭ったはずなのに、擦り傷一つないのが不思議だった。服装も、家を出た時のまま。パーカーにジーンズ、履き慣れたスニーカー。
次に、持ち物。
ポケットを探ると、ひんやりとした感触があった。スマートフォンだ。画面には、ひび一つ入っていない。電源を入れると、見慣れた待ち受け画面が表示された。コーサク島で咲かせた、青いバラの写真。
だが、画面の左上には、絶望的な文字が表示されていた。
『圏外』
まあ、そうだろうな、と妙に冷静に納得してしまった。こんな、森のど真ん中だ。電波が届くはずもない。
もう片方のポケットには、財布と、先生から預かったお使いのお金。中身もそのまま。
そして、私のすぐ傍らに、あのビニール袋が落ちているのを見つけた。
『サカヤの種』のロゴ。
慌てて拾い上げると、ずっしりとした重みが手に伝わる。中には、私が選んだ色とりどりのバラの種と、学校で使うはずだった小松菜、トマト、きゅうり、かぼちゃの種、そしてじゃがいもの種イモが、一つも欠けることなく入っていた。
あの瞬間、確かに手から滑り落ちたはずの、私の現実と希望。それが、どういうわけか、無事にここにある。
状況を整理しよう。
私は、トラックに轢かれたはずだ。
なのに、怪我一つなく、見知らぬ森の中で目を覚ました。
持ち物は、なぜか無事。
スマホは、圏外。
頭の中で、今まで読んだり見たりしてきた、数々の物語の筋書きが、パズルのピースのように組み合わさっていく。
トラック。事故。そして、目覚めた先は見知らぬ世界。
……まさか。そんな、ありきたりな。
「……異世界、転移……?」
口に出した瞬間、ぞわりと鳥肌が立った。
馬鹿げてる。フィクションの中だけの話だ。そんな非科学的なことが、現実に起こるはずがない。
でも、目の前に広がるこの光景は、どう説明すればいい?
日本のどこを探しても、こんな、見たこともない植物が生い茂る森なんて、あるとは思えない。空気の匂いも、鳥の声も、私の知っているものとは、どこか決定的に違う。
だとしたら。
もし、本当に、ここが異世界だとしたら。
私は、もう二度と、あの息の詰まるような家に帰らなくていい?
失望と侮蔑が混じった、父親の視線を浴びなくていい?
感情の死んだ、母親の声を聞かなくていい?
何者にもなれない自分に、焦りを感じなくてもいい?
退屈で、灰色の、未来予想図を描かなくてもいい?
そう考えた瞬間。
私の胸に込み上げてきたのは、恐怖や絶望ではなかった。
もちろん、途方もない不安と、心細さはある。一人ぼっちで、右も左も分からない世界に放り出されたのだから。
でも、それと同時に。
まるで、ずっと背負ってきた重たい荷物を、不意に下ろしたかのような。
檻に閉じ込められていた鳥が、大空へ解き放たれたかのような。
―――とてつもない、解放感があった。
「……そっか」
はは、と乾いた笑いが漏れる。
「嬉しい、のかも……」
親からすれば、私は出来の悪い娘だっただろう。将来の夢もなく、ただ無気力にゲームに逃げるだけの、情けない人間。そんな私がいなくなって、案外せいせいしているかもしれない。
それでいい。私も、もうあの人たちの顔色を窺わなくて済む。
ショックではある。間違いなく。
でも、それと同じくらい、嬉しい。
不謹慎かもしれないけれど、そう思ってしまったのだ。
私はゆっくりと立ち上がった。
木々の隙間から差し込む光が、私の足元を照らしている。
これからどうなるのか、全く分からない。食べ物はどうする? 寝る場所は? 危険な生き物はいないのか?
問題は、山積みだ。
でも、不思議と、絶望的な気持ちにはならなかった。
私は、ビニール袋を握りしめる。中には、私の夢と、当面の食料になるかもしれない現実が詰まっている。
そうだ。私には、この子たちがいる。
私の、新しい希望。
「とりあえず……まずは、この森を抜けなくちゃ」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
返事はない。ただ、木々の葉を揺らす風の音だけが、私の言葉に応えるように、ざわざわと鳴っていた。
私は、太陽の位置を確認し、少しでも開けていそうな方角へ、あてどなく歩き始めることにした。
どこかに、人が住んでいる場所があるかもしれない。水が飲める場所が、あるかもしれない。
小林翠としての人生は、あの交差点で終わった。
ならば、ここから始まるのは、全く新しい、私の物語だ。
袋の中のたくさんの種が、これから始まる物語を、静かに祝福してくれているような気がした。