海賊マリク・クルドと幽霊船
それは生温い風の吹く夜だった。
空に瞬く無数の星が、黒い水平線の境をくっきりと浮かび上がらせている。
「ねえ…あれ…」最初にそれに気づいたのはワムルだった。
その水平線の上に、星の光ではない何かが揺らめいている。
オルギア号の上甲板にいた他の海賊たちも、舷側に寄って目を凝らす。灯らしいそれは、真っ暗な海のなかをゆらゆらと頼りなげに漂っている。
「何か…流されてるみたい」また一番夜目の利くワムルが呟く。
徐々に近くなる船の形にラカムも眉をひそめ
「軍艦ってことはなさそうだが…商船にしても様子が妙だな」
どうやら錨を失っているらしい、ゆらゆらと揺れている明かりを眺めていた海賊たちは、互いに顔を見合わせた。
風も波も穏やかな夜で、遠くにはスベリアに海岸の灯が見える。当直として上甲板にいるのはワムル、ラカム、マークと帆を見張る操帆手のピーターに舵を握るウィルだけだった。
「何か…あのゆらゆらしてるの見てたら…」
「うん…無性に近寄ってみたくなる」
「右に同じ」
ラカム、ワムル、マークはもう一度顔を見合わせ、ニヤリと笑う。
「な、何だよ」
側にいたピーターが後退る。ラカムがその肩をつかみ
「なあピーター…ちょっとでいいからあそこでフラフラしてる船に近寄っちゃあもらえねえか」
「ヤだよ…勝手に進路かえたらおやっさんにもフランシスにも怒られる」
「大丈夫だってえ」
もう一方の肩をマークがつかみ
「下の連中が寝てるうちにちょおっと乗り移ってささーっと帰ってくるだけだから」
「ヤだよ!」ピーターは二人の手をうっとうしげに払いながら
「第一、俺がいいって言ったところで真面目なウィルが承知しないだろ!」
「船を寄せてくれるって!」
「へ?」
船尾から駆けてきたワムルの言葉に三人が振り返る。
「あの船に、もしかしたら困ってる人がいるかもしれないって言ったら近づいてくれるって」
船尾で舵を握るウィルが、こちらに大きく頷いて見せる。
「成程…元従軍牧師の良心を刺激したか」
「ワムル…恐ろしい子」
「そうと決まれば武器の準備だ!」
まるでピクニックにでも行くようにラカムがはしゃぎだす。
「そっとやれよ…ぶつけるなよ!」
鉤付き棒で謎の船をこちらへと引き寄せるラカムたちにピーターが言う。
船尾のウィルも心配そうに見下ろしている。少しでも船同士がぶつかれば、下で寝ている連中が目を覚ましかねない。
「…やっぱり誰も乗ってねえみてえだな」
二隻の間が一メートル程になったところで、ラカムが拳銃片手に謎の船へと跳び移った。
後から続いて跳び移るワムルとマークにピーターが
「ほんとにすぐに戻って来いよ!長いことは無理だからな!」
「イエッサー!」とおどけて応えるマークの背中を胡乱げに見送るピーターの肩に、誰かが腕を回してきた。
「なーんか楽しそうだな」
「うわっマリク!」
とっさに口を塞いだピーターは、夜目にも赤い髪と上着の船長を窺う。マリクはオルギア号の真横に浮かぶ謎の船を眺めていたが、やがて
「ピーター、十五分経っても俺たちが戻らなかったらあの船から離れてくれ」
「は、離れろって…おいマリク!」
言うなり謎の船に乗り移る赤い頭に、ピーターは呆気に取られながらウィルと顔を見合わせた。
「何だこりゃ」マークが首をひねる。
三人が手始めに覗いた食堂は皓々と明かりが灯り、食卓の上には皿やジョッキが並べられいまにも晩餐が始まりそうだった。
「やっぱり…誰かいるのかな」
気味悪げに言うワムルにマークが
「ひょっとしたら海賊船に…つまり俺たちに気づいて船底に隠れたのかもしれないぜ」
「もう他の海賊に襲われたあととか…」
「それにしちゃあ荒らされもしないで綺麗すぎるだろ」
「おい、お前ら」隣の船長室を覗いていたラカムが二人を呼ぶ。促されて一緒に覗き込んだワムルとマークは、揃って「ひっ」と声を上げる。
食堂と同様に一見整然として、やはり皓々と明るい船長室がそれでも異様に映ったのは、船のなかで最も大きく設けられた船尾窓のせいだった。
そこには滴る赤い色で、大きく文字が書かれている。
「ななな何て書いてあるのマーク」
「ななな何て書いてあるんだラカム」
「ばば馬鹿野郎!俺に訊くなよ!」
「『聖人を恐れぬ者に裁きの雷を』」
「うわあああっ!!」
跳び退いた三人を、マリクがニヤニヤと見回す。
「かってに遊んでるとフランシスに怒られるぞ」
「驚かすなよマリク!」
「あー寿命が縮んだー」
「ここにいるってことはお前も同罪だろ!」
「しっかし」マリクは部屋を見回し
「妙な船だな。人間だけが突然消え失せたみたいな」
その言葉に三人は押し黙る。
「まえに…他の船の奴に聞いたことがある」
何かに怯えるように辺りを窺いながらマークが話し出した。
「これによく似た…積み荷も索具もそのままなのに…人間だけがいない船が時々夜の海に現れるって」
「うええっそういう話乗り込む前に言ってよマーク」
ワムルも首を竦め部屋を見回す。
「明かりが灯ってるのはここと食堂だけか」
マリクも船長室を見回しながら、ふと壁に目を止めた。
「ねえねえこれ!」
ワムルが船長室の床に落ちていた一枚の金貨をつまみ上げる。名前は知らないが、聖人の横顔が刻まれている。
「…スベリア金貨だ」
三人はしばし金貨を見つめていたが、腰に差していた拳銃を引き抜きラカムが言った。
「下も見てみようぜ」
「ええっ!?」
「まだ幽霊船と決まったわけじゃねえ」
壁にかかった、やけに油の多いランタンを取り
「ひょっとしたら財宝船の可能性もあるだろ」
「ええっやだよ怖いよ」
「怖いけどそう言われると気になるー」
下甲板へ下りる昇降階段へと向かうラカムに、マークとその背中にしがみついたワムルが着いてゆく。
一人薄暗い船長室に残されたマリクは、ぼんやりと浮かぶ壁の肖像画を見つめていた。
亜麻色の髪と青い瞳の、白いドレスの女性が微笑みながマリクを見返す。
「船首像はないし…造りから言ってグランドの商船には違いないんだ」
赤文字の書かれた船尾窓を見やり
「何なんだこの船…」
考えあぐねて赤い髪をかき回すマリクの目の前で突然絵が外れ、大きな音をたてて床に落ちた。
数メートル跳び退いたマリクの目が、暗がりのなか絵の裏から転がり出たものを捉える。
それは銀の台座に大振りな黒い石のついた指輪だった。
「…どうして絵の裏なんかに」
指輪をためつすがめつしていると、背後で気配が走った。
ばっと船長室から出ると、男の後ろ姿が主甲板へと駆けてゆく。
「誰か乗ってたのか…!」
マリクは指輪をポケットに突っ込み後を追う。
「うう…やだよ怖いよ…」
先頭をゆくラカムの後をマークとワムルが懸命に着いてゆく。
「ひょっとして…乗ってた人全員…人魚に海に引きずり込まれちゃったんじゃ」
「それなら部屋が荒らされてない説明もつくけどな…」
「おいこれ!」
ラカムの声に二人は竦み上がる。
下甲板へと下りる昇降階段の途中に、金の鎖が絡みつくようにぶら下がっている。
「こいつはほんとにお宝が潜んでるかもしれねえぞ」
ほどいた鎖をランタンに掲げ、ニヤリと笑うラカムにマークとワムルも弱々しく笑う。
「わあ…俺たち海賊みたい」
「潜んでるのがお宝だけならいいけど…」
三人は下甲板の部屋を一つひとつ覗いていったが、上の部屋と違いどこも殺風景で最近まで人のいた形跡はない。
「人の気配も明かりがあるのも上だけみてえだな」
ラカムにしがみついながらマークが言う。そのマークにしがみつくワムルが
「ねえ…そろそろ船に戻ろうよ…皆にもバレちゃうよ」
「ここまで来て確かめもせずに戻れるかよ」
更に下の船倉へと下りながらラカムが言う。
「見ただろ。ただの棄てられた空船なら金貨だの金の鎖だのが落ちてるわけねえんだ。ひょっとしたらとんでもない金塊が…」
「ぶひんっ」
突然立ち止まったラカムの背中にマークが、その背中にワムルが順番にぶつかる。
「どっどうした!?」
やはりがらんどうの、すえた臭いの漂う真っ暗な船倉をラカムが獣のように窺う。
「…何か聞こえねえか」
「え…」言われてマークとワムルも耳を澄ます。確かに、奇妙な音が鼓膜に触れた。
それは大勢の男が低く唸っているような、それでいて時々女性の悲鳴のような高い音も混じる、いままで聞いたことのない音だった。
「え…え…何の音!?」
「何かいる!?何かいるの!?」
屈み込んだラカムの手には、またスベリア金貨が握られていた。
「どうやら」置いていたランタンをつかみ立ち上がったラカムが、最下層の船底へと続く昇降口を見下ろす
「下から聞こえてくるみてえだな」
「待ってくれ!」
主甲板の昇降口を下りようとする男の腕をマリクがつかむ。
見返った顔に、マリクははっとする。帽子の下の、白髪に片目を覆われた…
「ジョン船長…」
思わず呟いてから羞恥心に襲われる。実際白髪というだけで、相手はジョン船長とは似ても似つかない風貌だった。
「あの…この船は何なんですか」
誤魔化すように訊ねるマリクを、男はジョン船長と同じ静かな目で見返す。その口が微かに動いた。
「え…」マリクは男の口元に目を凝らす。
「い…か…いかづち…?」
男の目がすっと昇降口に向けられる。マリクが目を見開く。
「まさか…」
「うう…臭いよ怖いよ」
「おい、ここにも金貨が落ちてるぞ」
湿った砂の上で鈍く光る物をマークが拾い上げる。ラカムが臭気の立ち込める真っ暗な船底にランタンを巡らす。見ると足元に更に数枚の金貨が落ちていて、それは船底の中央に置かれたぶ厚い革張りの大きな箱へと続いていた。
「へへん、やっぱりお宝が隠れてたぜ」
あの奇妙な音は、大きさを増して足元から響いてくる。
ラカムが箱に近寄ろうとすると、闇のなかで何かが動いた。
「なっ何かいる!」
「ラカム!そこ!ガサガサしてる!」
「うるせえなあ、ただのネズミだろ」
しがみつき合っているワムルとマークを尻目に、ラカムが宝箱の向こうに隠れたらしいネズミへ拳銃の銃口を向ける。
「よせラカム!」
「うわっ」
突然上の昇降口から降ってきたマリクがその手をつかみ、逸れた銃口から放たれた銃弾が低い天井の梁にめり込んだ。
「なっ何だよマリク!あっぶねえな!」
「危ないのはお前だ!」
マリクはラカムの手をつかんだまま、箱を目で示す。
「あの箱に近づくな」
「はあ?何でだよ」
手を払うラカムに、マリクは箱から目を逸らさず
「たぶんこの船は危険だ」
「だからどの辺が危険だってんだよ!せっかくお宝が手に入るかもしれねえってのに」
「そうだぜマリク、危ない船にこんなもの落ちてるわけないだろ」
マークが拾い上げてきた金貨を見せる。
「ああでも、お宝は欲しいけどこの船から早く降りるのは賛成!」
ワムルが足踏みしながら
「この底から響いてくる声…不気味すぎ」
声はどんどん高く、そして低くなってくる。
「だからさっさとお宝を頂戴してずらかろうぜ」
「やめろラカム!」
マリクの足が何か蹴飛ばすのと、ラカムが箱を開くのが同時だった。
箱の中には一見砂粒のような、しかし炭と硫黄の混じった独特の臭いを発する黒い物がびっしりと詰められていた。
ラカムはそっと蓋を閉じ、仲間に告げた。
「火薬だ」
けれどもマリク、マーク、ワムルの三人はじっと足元を見ている。つられてラカムも見ると、倒れたランタンから流れ出た油が、ちろちろと小さな火を運んでいた。
「…火薬だ」ラカムがもう一度言った。
「火薬かあ…」三人はじっと動いてゆく火を見ている。
「何してんだお前らさっさと消せよ!」
「だめだよラカム!」
火を足で踏み消そうとしたラカムをワムルが止める。
「まえにフランシスさんが言ってた…油に着いた火を足で消そうとして、足に着いた油のせいで全身に火が回って丸焦げになった人の話…」
ラカムがサンダル履きの足を引っ込める。
「じゃあどうすんだよ」
「周りの砂で埋めるってのは?ちょうど湿ってるし」
マークが言って砂を掬い上げようとして、動きを止めた。
「…どうした」
「…この砂にも火薬が混ざってるなんてことはない…よな」
臭気と湿気の満ちた船底で、四人は黙って箱の方へ進んでゆく火を見つめる。
「逃げるぞ」
マリクの声に弾かれたように海賊たちは走り出した。
「うわああやだよ怖いよおっ!」
「どこの誰かは知らねえが随分と奮発してくれたな!」
「この船吹き飛ばすのにあの火薬の量って気合い入れすぎだろ!」
「ひいいっ最後尾って色んな意味で怖いいっ」
四人は必死に昇降階段を這い上り、外の上甲板へと飛び出した。そのとき、船が波に大きく傾き海賊たちは甲板を転がる。
「おい!飛び込むぞ!」
舷側をつかみラカムが怒鳴る。ワムルが振り返り叫んだ。
「マリクがいない!」
「何!?」
「さっきの揺れで階段から落ちちまったんじゃないか?」
やはりさっきの揺れのせいで閉じた昇降扉をラカムが見やる。
「…あいつなら何とかするだろ」
「でも」
「いまは早くこの船からずらかるんだ!」
言うなり舷側に足をかけ暗い海へと飛び込んだ。その後をマークとワムルも追って飛び込んだ。
「いっててて」
突然の大きな揺れのせいで、昇降階段の上から下甲板へと振り落とされたマリクは腰をさすり、よろよろともう一度階段を上ると閉まった昇降扉を持ち上げようとしたが、ビクともしない。
「おいおい冗談だろ」
船底からは相変わらず不気味な声と、それに加えて微かな焦げ臭さも上がってくる。
「ええーどうしよ…」
階段に座り込みマリクは頬杖をつく。追い詰められすぎると現実逃避が働くため、普段にも増して呑気になる。
「このまま海の藻屑…うん?モズク?…ラカムたちはちゃんと逃げられたかね…ジョージを連れてこなくてよかった…」
そんなことをつらつら考えていると、誰かが腕をつかんだ。
見るとあの白髪の男が信じられない力で自分の腕を引っ張っている。
「えっあのっどこへ」
男がちらりと、怒ったような、呆れたような目を向ける。そのままマリクを引きずりながらバンッと突き当りの扉を開いた。
船首部分にあたるそこは本来、錨索を収納するための空間だが、錨が失われたこの船ではただ丸い錨鎖孔だけが空いている。
「えっまさかっここからっ!?」
孔から押し出そうとする男にマリクは狼狽えながら
「俺っ実は泳げないんでっ!ちょおっと無理があるかなあって」
孔の縁をつかみしつこく抵抗するマリクの背中を、しびれを切らした男が蹴り飛ばす。その瞬間、轟音とともに船が爆発した。
「マリク…!」
船から離れるべく泳いでいたワムルたちが、暗闇に赤々と燃える炎を見つめる。
「マリク…大丈夫かな…」
「…大丈夫だろ。あいつだって腐っても船長だ」
「でも…マリク泳げないよな」
海の上で黙り込む三人を、うっすらと朝陽が照らし始める。
「あっあれ…」また最初に気がついたのはワムルだった。
炎の塊になった船の陰から、木の破片にしがみついた赤い頭が漂ってくる。
「マリク!」
三人は急いでそちらへと引き返す。そしてその後ろからは、マリクに言われたとおり離れて待っていたオルギア号がゆっくりと近づいていた。
「得体の知れない船には乗らない近づかないといつも口を酸っぱくして言っているはずだが!?」
すっかり明るくなったオルギア号の上甲板に、ラカム、ワムル、マーク、そしてマリクが正座させられている。それをフランシスが仁王立ちで見下ろし
「お前たちは自分の迂闊な行動のせいで吹き飛ばされるところだったんだぞ!下手をすればオルギア号もろともな!」
その言葉に、周囲でニヤニヤとその光景を眺めていた仲間たちの顔が強張った。
「でもさあ、どうしても気になって」
マークがフランシスに睨まれ縮み上がる。
「そうだよ!実際お宝だってあったんだぜ!」
ラカムが拾った金貨や金鎖を見せる。それをフランシスは一瞥し
「お前たちはチョウチンアンコウに食われる間抜けな魚か」
「チョウ…チン?」
「アン…コウ」
「つまり」フランシスは既に遥か後方の、謎の船が燃えていた辺りを見やり
「明かりに誘われ、更には金におびき寄せられ、気付けば相手の術中にはまっていたということだ」
「あーやっぱり幽霊船じゃなかったんだ」
「じゃあ何だったんだよあの船は!」
大きくため息をつくフランシスに、マリクが恐る恐る言った。
「あのーフランシス?長くなるようなら朝飯の後にでも」
ダンッと足を鳴らされマリクが身を引く。
「お前たちはポート・コリンの件で学習しなかったのか…?餌でおびき寄せるスベリアのやり方を」
ゴクリとオルギア号の海賊たちは息をのむ。声音から、それでもフランシスが怒りを抑えているのが分かった。
「あれは…あの船は…スベリアの、海賊を駆除するための罠だ」
「駆除!?」
「罠ってのは何となく分かるが…海賊狙いの罠だってどうして分かるんだよ」
「まともな船乗りは錨もない人気もない船に近づいたりはしない」
ラカムが口を歪める。
「それに船尾窓に書かれていたとかいう文字。『聖人の裁き』なんて文句を見たら大抵のスベリアの船乗りならその船から逃げ出すだろう」
「まあ、やたら聖人を大切にするスベリア人なら?」
「それじゃあスベリア人以外なら海賊じゃなくても罠にかかる可能性だってあるだろ」
「それでも別に構わないんだろう」
「え」海賊たちはまじまじと副長を見る。フランシスは青い目でそれを見返し
「勿論標的は海賊だろうが…別に罠にかかるのがスベリア人じゃなければ、それが普通の船乗りだろうとどちらでもいいんだろう。現に、あの罠に使われた船はマリクの話だとグランドの商船だ。グランドがスベリアとの貿易協定を破棄して以来、スベリア海軍がグランドの商船を盛んに拿捕しているらしいから、あの船もそのなかの一隻だろう」
朝陽のなか、海賊たちが一様に押し黙る。
「…何だか、生きてる人間のほうがおっかねえって話になってきたな」
傍らで聞いていたグランが丸い肩を竦める。
「じゃ、じゃあフランシスさん…あの船の底から聞こえてきた不気味な声は…」
それまで黙っていたワムルが小さく訊ねるのに、フランシスは幾分口調を和らげ
「それは、よくあることだよ」
「よくある!?」
「不気味な声が響いてくるのが!?」
「少なくとも、この辺りの海域ではよくあることだ。原因は、クジラのだとも、遠くで氷河が崩れる音だとも言われているがな。恐らくこの辺りの海底の地形が関係しているんだろう」
「だあっ」とラカムとマークが足を伸ばす。
「何だよ!財宝船でもなけりゃ幽霊船でもなかったのかよ!」
「おまけに吹き飛ばされかけて…何やってんだろ俺たち」
「う…ひっく…色んな意味で怖かった…」
「ワムルまで巻き込んで…お前たち恥ずかしくないのか!」
「いやいやワムルもノリノリだったんだけど!?」
「年長者として注意すべきところを率先して悪ふざけしてどうする!罰としてラカムとマークはトイレ掃除一ヶ月だ」
「俺たちだけかよ!?」
「うっ…うっ…怖かった」
「ワムル…恐ろしい子」
「あのう」
ジョージにバナナを与えていたマリクがまた恐る恐る訊ねる。
「俺があった白髪の人は…誰だったんでしょ」
フランシスが横目でマリクを見る。
「知らん」
「え」
「自分で考えろ。今回のことは立場上お前が一番重罪なんだ。トイレ掃除二ヶ月だからな」
「ええっ!?」
マリクの肩をジョージがぽんと叩いた。
「うーん」
舷側にもたれ、マリクはポケットに入れっぱなしになっていた指輪を改めて眺める。
明るい陽の下でよくよく見ると、黒い石のなかに髪の毛らしいものが埋め込まれていた。
それはちょうど、あの船にあった肖像画の女性と同じ亜麻色をしている。
「この指輪と…何か関係があったのかな?」
「でも意外だった」
背後から頭にジョージをのせたワムルが来て、舷側をつかんだ。
「マリクって割と幽霊とか平気だったんだ。その男の人見てるのマリクだけだし」
「…そうだな」
マリクは青く輝く海面に目を細め
「幽霊でもあいたい人がいるからかな」
突然側で咳払いが聞こえマリクとワムルが振り返ると、通りすがりらしいフランシスが横目でこちらを見ながら
「それはモーニングジュエリーだ。きっとその人物は大切な人の遺品を船と一緒に沈められたくなかったんだろう」
言うだけ言って去ってゆくフランシスの背中から、マリクは指輪に目を戻す。ワムルとジョージが一緒に目を丸くして
「そっか、その指輪を助けるためにその人はついでにマリクも助けてくれたんだ!」
「ついでって…けど助け出したところで渡しようがないよなあ、これ」
更に舷側にもたれ、マリクは指輪を空にかざす。その手に大きな黒い影が覆い被さった。
「うわあああっ!?」マリクは手をつかみ
「何あれ怖い怖い!手ごと持ってかれるかと思った!」
狼狽えるその横で「アホウドリだ!」とワムルが舷側から身を乗り出し目で追う。
黒い翼の白い鳥は、ゆらゆらと漂うように青のなかへと溶けてゆく。
「…そういえばアホウドリってさ、海で死んだ人の生まれ変わりなんだって」
「…そっか」
空になった手をマリクは見つめる。
「じゃあ、ちゃんと返せたんだな」
アホウドリの姿は青空のなかの小さな星になり、やがて完全に見えなくなった。