九話 夫婦って、まあこんなもんでしょ
夫婦とは、しばしば「理想の形」や「幸せのかたち」と称されるものの、
実際には、さほど美しいものばかりではない。
互いに小さな不満を抱き、言葉に尽くせぬもどかしさを胸に秘め、
時にぶつかり合い、怒鳴り合い、すれ違いも生じる。
されど、幾年もの歳月を共にするうち、
言葉にできぬ確かな「守り合い」が自然と生まれている。
それは、見た目には捉え難かろうとも、
確かにそこにある、温かく頼もしいものであると私は思う。
夫婦とは、時に喧嘩もしつつ、
同じ屋根の下で、共に時を重ねてゆくこと。
完璧である必要はなく、むしろ不完全ゆえに、
じんわりと味わい深き日々が紡がれていくのだろう。
「結婚五十二年、いまも変わらぬ感謝を」
区の広報誌の特集見出しの下に掲載されていたのは、
町内でよく見かけるあのご夫婦であった。
どこにでもいるようで、しかしどこか絵になる、そんな二人。
相思相愛とは、まさにこういう姿をいうのだろう。
誰が見ても「理想の夫婦」と頷く写真であった。
男には、心の奥に描く「理想の妻」というものがある。
それは決して口に出せぬ願いであり、
もし漏らせば、「あんたはどうなのか」と返されるのが関の山である。
故に、心の奥深くにそっとしまい込み、都合よく思い描いているのだ。
たとえば、いつも穏やかにして、文句一つ言わず、
食卓には温かな味噌汁が並び、
夫の言葉足らずも察して「はいはい」と笑って受け流すような妻。
服装に過度に気を遣わず、しかし外では夫の面目を立て、
帰宅した夫に「お疲れさま」の一言を欠かさぬ——。
かかる妻は、漫画や映画の中にしか存在しないものと思っていた。
だが、現実にもそういう人がいる。
それが、広報誌に載っていたあの熟年のご夫婦であった。
──記者:「ご結婚されてから、もう五十二年になるそうですね。まずはおめでとうございます」
妻:「ありがとうございます。ねえ、もう五十二年ですって。早いわねぇ」
夫:「うん、気づいたらそんなになってたよ(笑)」
──記者:「長く連れ添う秘訣って、何かあるんでしょうか」
妻:「うーん……そうねえ、『期待しすぎない』ってことかしら」
「うちの人、昔から靴下は裏返しで洗濯カゴに放り込むし、味噌汁も薄味好み。最初はちょっとイラッとしたけど(笑)、まあそれも含めて『この人なんだな』って思うようにしたの」
夫:「いやあ……耳が痛いね(笑)。でも、あんまり言わないんですよ。怒らない。怒るより笑ってごまかすから、こっちも悪いなぁって思って自然と直そうってなるんです」
妻:「怒っても疲れるだけだもの。それより、お味噌汁がちょっと濃かったら『今日はパンチあるね』って言ってくれた方が助かるわ」
──記者:「お互いに直してほしいところは、どう伝えてきたんですか」
夫:「……伝えてない、かもなあ」
妻:「ふふ、わたしも」
夫:「言葉にするより、黙って動くことが多かったね。咳してたら葛湯を出すとか、疲れてたら先に風呂を沸かしておくとか……」
妻:「でもね、ちゃんと気づいてくれてるってわかるのよ」
──記者:「すごく理想的な関係のように聞こえます」
夫:「いやいや、理想だなんて(笑)。夫婦って最初から完成してるわけじゃない。お互い、ちょっとずつ折れて、ちょっとずつ寄って……そうして形になってくもんだと思ってます」
妻:「そうそう、“ちょっとずつ”が大事。全部やってあげようとか、全部わかってほしいとか、無理だもの」
夫:「だから、五十二年一緒にいても、“ありがとう”と“ごめん”はけっこう言ってますよ。年取った今の方が増えたかもしれない」
──記者:「これからの五十二年について、一言いただけますか」
妻:「あら、あと五十二年? それは無理(笑)」
夫:「そしたら、また生まれ変わって出会うかね」
妻:「そのときは、ちゃんと靴下、裏返さずにお願いね」
ふたり、顔を見合わせてくすっと笑った。
——自然体なのに、絵になる理由が少しだけわかった気がした。
その奥さんは、まず声を荒らげない。
怒鳴ることも、ふくれっ面をすることもない。
夫が新聞を取りに行こうとすれば、スリッパを持ってきて黙って玄関を指さす。
何も言わないけれど、夫はそれを「ありがとう」の意味だとちゃんと受け取る。
夫が少し咳き込めば、無言で葛湯が出てくる。
もちろん、三歩下がって歩く。
その歩き方は自然で、下がっているようでいて、しっかり寄り添っている。
夫のペースに合わせながらも、自分を消すわけではない。
控えめなのに、芯がある——
ああ、これが“理想”というやつか、と唸ってしまった。
あるとき、夫のほうが言った。
「うちのやつは、オレが何もできない男だってことを、最後まで気づかせないでいてくれた」
その言葉には、正直、ぐうの音も出なかった。
たしかに男は自分が「守っている」と思いたい。
だけど、実際は妻に守られているのかもしれない——
そう思わせてくれる妻。
それこそが男にとっての“理想”なのだろう。
で、うちはというと──。
息子が顔を出すたび、「また喧嘩?」と苦笑いして、そそくさと帰っていく。
そんな我が家の日常は、毒舌と電気ベロの応酬、乱暴な言葉に満ちている。
年が明けて間もないころだったか。
「せめて今年は、もうちょっと優しい言葉を使ってよ」と息子に釘を刺され、
我が家の“今年の目標”は、「乱暴な言葉づかいから、優しい言葉づかいへ」に決まった。
──が、その決意も、三日坊主で終わった。
朝起きて一言目が「ちょっと! 歯磨き粉の蓋、また開けっ放しでしょ!」じゃあ、もうアウトである。
こっちも負けじと、「だったら自分でやれよ」と言い返して、即終了。
言葉の刃は引っ込めたつもりでも、舌のクセってやつはなかなか手強い。
冷蔵庫の隅に、小さく貼られた“優しい言葉”の目標メモ。
そのすぐ横には、多江子が書いた「牛乳・卵・洗剤」の買い物リスト。
現実とは、いつだって実用性の勝利なのだ。
箸を落とせば、「老眼が進んだのね」と容赦なく笑われるし、
新聞を取りに立てば、「ついでにゴミも出して」と、間髪入れず指示が飛ぶ。
ほんのちょっと言い返せば、
「いいから黙って動いて!」
……瞬間湯沸かし器も真っ青な反応の速さだ。
コップに手を伸ばせば、「それ使わないで。わたしの」と取り上げられ、
「今晩、夕飯食べるの?」と訊かれる。……食べないほうが驚くだろうに。
食事中に汁をひとたらしでもすれば、「カーペットが汚れるでしょ!」と怒られ、足をどけさせられる。
黙って拭いてると、「なにその拭き方。ほんと、男って……」と追い討ちだ。
咳ひとつで「それ、うつさないでよ」と一喝され、
夜中にトイレに立って、うっかり布団の端に触れようものなら、
「なに勝手に動いてんの! 眠れないでしょ!」と、雷が落ちる。
でもね、あの怒鳴り声の裏には、彼女なりの“守り方”があるんだ。
多江子は、昔から不器用な女だった。
心配なら「大丈夫?」じゃなくて、「何やってんのよ」。
寂しいときも「寂しい」とは言えず、「勝手にすれば?」と拗ねるように背を向ける。
素直になれない。けど、目はちゃんと、こちらを見ている。
夕飯を作っていても、こっちが何かしようとすると、
「触らないで! ぐちゃぐちゃになるから」と跳ね除ける。
でも、ふと目を離した隙に、味噌汁の中に、私の好きな茄子が沈んでたりする。
そういうやり方でしか、彼女は優しさを表現できない人間なんだ。
夜、布団に入ると、いつものように背を向けて寝ているくせに、
「太一のことは、ずっと見てるから。長生きしてよ」
なんて、小さくささやく。
それはもう、呪文のようで、
私にとっては、それが今日一日を生き抜くためのパスワードになる。
思い返してみれば、
多江子は若い頃から、ずっと家族を背負ってきた。
口では「何もかも私がやってるんだから!」とぶつくさ言うけれど、
洗濯機の使い方も、保険の書類の書き方も、子どもの受験のフォローも──
全部、彼女がやってきた。
私はというと、何かといえば「仕事だから」と言い訳して、
家庭のことは、まあ……どこか任せきりだった。
いま思えば、申し訳なさと感謝とが、入り混じって胸に残る。
私と多江子の毒舌は、きっと、照れ隠しの裏返しだったんだろう。
“怖がられるほうが楽”っていう、ちょっと不器用な強がり。
心の内側を見せるのが、ただ、少しだけ苦手だっただけなのかもしれない。
──たぶん、多江子は、多江子なりに、私を守ってくれている。
うるさいのも、怖いのも、全部、そのやり方で。
理想の夫婦像なんて、きっとどこにもない。
あったとしても、それは他人のものであって、うちらのものじゃない。
だけど、日々の喧嘩と苦笑いのなかに、
ときどき紛れ込んでくる、味噌汁の茄子や小さなささやきに、
確かに、あたたかいものがある。
それで、充分だ。
たぶん、きっと、それでいい。
──そう思える夜があるだけで、
今日も、まあまあ悪くない一日だったと言える気がする。
これが、うちの夫婦。
どこにでもあるような、ありふれた、でも、かけがえのない日々である。
そしてこれからも、
互いの小さな欠点も含めて、
笑い合い、ぶつかり合いながら、
新しい日々を積み重ねていくだろう。
残された未来は少ないだろうが、まだ白紙だ。
だからこそ、どんな色にも染めていける。
だから今日もまた、
この不完全な二人の時間を大切に歩いていきたいと思う。
それは、ある日のことだった。
私と多江子は、見てはならぬものを見てしまった。
知ってはいけないことを、知ってしまったのだ。
長いこと追い求めてきた“理想の夫婦像”は、その瞬間、音もなく崩れ去った。
区の広報誌に、「理想の熟年夫婦」として紹介されていたあのご夫婦である。
ふたり寄り添う写真は、誰の目にも微笑ましく、まさに“お手本”のようだった。
ああ、あんなふうに年を重ねられたら──そう思わされたのは、きっと私たちだけじゃないと思う。
そのご主人が、ある日、静かに旅立たれた。
通夜の夜、私たち夫婦も参列した。
奥様は深い悲しみに包まれ、凍りついたようにその場に立ち尽くしていた。
虚ろな瞳のまま、震える唇で、こう呟いた。
「あなた……わたしも、すぐに追いかけます。一人にはしませんから」
かすかな声だった。けれど、はっきりと覚えている。
その言葉には、決意と悲しみが重なっていた。
周囲にいた人たちは、皆、そっと目を伏せ、静かに涙を流した。
──ああ、やっぱりあのふたりは、本物だったんだ。
そう、私も信じた。多江子も、そうだったと思う。
けれど──二週間が過ぎたころだった。
葬儀の余韻が、まだ街の空気に残っているその日、
私と多江子は、渋谷の雑踏の中にいた。
彼女は、履き慣れたスニーカーを履いていた。
それは、まあ当然といえば当然だ。
以前ヒールで出かけて、あれだけ足を痛めたのだから。
あれ以来、多江子はもう無理はしないと決めたらしい。
そのときだった。
──私と多江子は、見てしまった。
あの奥様が、白髪まじりの年配の男性と腕を組み、
まるで長年連れ添った夫婦のように並んで歩いていた。
人目をはばかる様子もなく、互いに視線を交わし、穏やかに笑っていた。
ときおり顔を寄せ、耳元で何かを囁き合うような仕草。
まるで、恋人同士のようだった。
その瞬間、胸の奥に、ひやりと冷たいものが広がった。
──あの「永遠を誓った愛」は、何だったのか。
あの涙も、あの言葉も……演技だったのか?
言葉を失った私は、ただその光景を見つめていた。
隣の多江子も、言葉にならない声を喉の奥で止めたまま、立ち尽くしていた。
信じていた理想の夫婦像は、どこに消えてしまったのか。
あの二週間で、いったい何があったのだろう。
──でも、思い返せば、あの夜の言葉は、たしかに本物だった。
「すぐに追いかけます。一人にはしませんから。」
そこには、深い悲しみと、覚悟のようなものが滲んでいた。
けれど、今、目の前にいる彼女もまた、偽りには見えなかった。
その横顔はどこかほころび、
視線は男に向けられ、
しぐさには──
たしかに「女」としての自分が宿っていた。
私は混乱した。
けれど、心のどこかで、ふと小さな声がささやいた。
──これが、彼女の“本当”なのかもしれない。
長い結婚生活の中で、彼女は「良き妻」としてすべてを捧げてきたのだろう。
夫を支え、家庭を守り、周囲に気を配りながら、
一人の“女”としての自分を、いつしか置き去りにして。
そして夫が逝き、初めて訪れた空白。
その隙間から、押し殺してきた何かが、そっと顔を出した。
──誰かに求められたい。触れてほしい。甘えたい。
それは、年齢とは関係のない、人間としての欲求だったのかもしれない。
私は、その姿を責めることができなかった。
むしろ、どこか切実で、人間らしいと思った。
だからこそ、胸の奥がざわついた。
あの夜の涙は、嘘ではない。
そして今、渋谷の雑踏にいる彼女も、嘘ではない。
女であることを封じて生きてきた半生。
女であることを、いま思い出し、生き直そうとする残りの時間。
どちらも、彼女自身なのだ。
理想という仮面の裏に、人はそれぞれの真実を抱えて生きている。
私と多江子は、その日、たしかに聞いた気がした。
崩れていく“理想の音”を──静かに、深く、胸の奥で。
私たちは、そっとその場を離れた。
道の先に何があるのかは、もう気にならない。
ただ、今──
隣に誰がいるのかを、確かめながら。
歩いていこうと思う。