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七話 誰かのために

 真夏の午後、歩道の向こうから小学生たちが列をなして歩いてくる。

 通学帽をかぶり、背筋を伸ばして、足取りも軽く。

 ふと、その小さな列に目を留めた。


 男の子たちが、日傘を差していた。

 それも、ごく自然に。誰に遠慮するでもなく、まるで昔からそうしていたかのように。


 心のどこかが、すこしざわめいた。

 私の子ども時代、日傘といえば、大人の女性か、おしゃれな女の子のものだった。

 男の子が日傘? そんな発想すらなかった。

 何しろ、日焼けは元気の証で、真っ黒になって遊ぶのが夏の勲章だったのだから。


 ランニングシャツ一枚で、夕暮れまで野原を駆け回った。

 草の匂い、土の熱、遠くで鳴く蝉の声。肩と背中の皮がむけるほど日差しを浴びた。

 それでも痛みより、むけた皮を指先で剥がすことのほうが楽しかった。

 汗だくで帰ると、母が笑いながらタオルを差し出してくれた。

「また黒くなって!」

 その声が、蝉時雨のように耳に残っている。


 あのころ、太陽はこわいものじゃなかった。

 ただ、まぶしくて、自由そのものだった。

 日焼けも、疲れも、明日のことさえも気にせずにいた時間が、たしかにそこにあった。


 それが今では、紫外線がどうとか、熱中症対策がどうとか。

 子どもたちも日傘を差す時代になったのだ。


 もちろん、それはいいことだ。

 命を守る知識が、子どもたちにも届くようになったのだから。

 日焼けをまるで我慢比べのようにしていたあの頃より、ずっと健全だろう。


 でも──そう思いながらも、どこか胸の奥で、言葉にならない名残惜しさが揺れる。

 あのどうしようもなく暑くて、どうしようもなく自由だった夏。

 光の中で汗を流し、足を泥だらけにしながら笑っていた、自分の姿。


 日傘の下で歩く男の子たちの目に、あの夏と同じ輝きは宿っているのだろうか。

 それとも、彼らはまったく新しい夏を、生きているのだろうか。

 私は黙ってその列を見送りながら、遠い日々の陽射しを、そっと心の中で感じていた。


 もうすぐお盆だ。

 生まれ育った家へ帰るのが、いつも何よりの楽しみだった。

 母や兄が迎えてくれるのも嬉しかったが、一番の楽しみは、中学校時代の同級会に顔を出すことだった。


 年を重ねるごとに変わっていく幼なじみたちの姿。

 田舎の象徴のように地味だったあの娘が、都会の色に染まり、すっかり垢抜けていたりする。

 誰もが日頃の苦しみを忘れ、幼かったあの頃にひとときタイムスリップしていた。


 それなのにあんなに楽しみにしていた中学校の同級会も、いまでは開かれなくなってしまった。

 幹事をしてくれていたあの人が、もう手を引いたのだという。

 誰よりも、みんなの笑顔を見たくて、陰で黙々と準備を重ねてくれていた。

 けれど、あるときから――

 心ない言葉に、少しずつ、心が削られていったらしい。


「勝手に個人情報を使ってるんじゃないか」


「もう会いたくない」


「案内葉書なんて送ってくるな」


 そんな言葉が、いくつか、平然と口にされたという。

 ほんの少数の声だったのかもしれない。

 でも、善意なんてものは、案外あっけなく折れてしまう。

 誰かを喜ばせたいという気持ちは、ほんのひとことで、ひゅっとしぼんでしまうのだ。


 思えば、同級会というのは、いつも不思議な場だった。

 転職の話、昇進の話、企業を立ち上げてどうこう――

 そうした話題が出ると、みんな頷いてはいたけれど、心ここにあらずといった顔をしていた。

 自慢話ほど、興味を持たれないものはない。

 むしろ、会話がふいに弾むのは、

「人の不幸は蜜の味」なんて、どこかで聞いたような言葉を、笑いに混ぜたときだった。


 離婚、リストラ、介護や病気。

 似たような傷や疲れを抱えているからこそ、

「わかるよ」と笑いながら語れるのかもしれない。

 その笑いの奥にある、苦しさややるせなさ――

 誰かが少し声を漏らすと、それが水面の波紋のように、ふっと場に広がっていった。


 同級生の中に、惣一郎という名の男がいた。

 田舎町ではちょっとした有名人で、財閥の跡取りとして誰もが一目置く存在だった。

 何をするにも自信に満ち、幼いころから欲しいものは何でも手にしてきた。


 彼の弁当箱を覗くたび、胸の奥がぎゅっと締めつけられたのを、今でもはっきり覚えている。

 分厚いステーキ、つややかなウインナー、真っ赤なさくらんぼ――

 それは、あの時代の子どもたちにとって夢のような詰め合わせだった。


 惣一郎は、羨望のまなざしを向けられることに、いつの間にか慣れていたのかもしれない。

 人生とは、自分の思いどおりに進んでいくものだ――どこかで、そんなふうに信じて疑わなかったのだろう。


 だが、実家の広大な土地を担保にして始めたビジネスを境に、彼の世界は少しずつ変わっていった。

 仲間たちと立ち上げた事業は、当初こそ順調だった。

 地元でも話題となり、人も金も自然と集まってきた。


 だが、うまくいっているときほど、人は集まり、

 一度つまずけば、蜘蛛の子を散らすように去っていく――それが現実だった。


 去っていったのは、他人だけではなかった。

 血のつながった家族さえも、同じように彼のもとを離れていった。


 事業の失敗をきっかけに、妻とは離婚。

 二人の娘とも、今ではほとんど連絡を取らなくなってしまった。


 どこかのタイミングで、惣一郎が同級会に顔を出したことがあった。

 かつての華やかな姿はそこになく、

 痩せて背中を丸めた彼に、「あれ、誰だったっけ?」と誰かが小さく呟いたほどだった。


 いまは生活保護を受けて、ひっそりと暮らしている――そんな噂も聞こえてきた。

 かつて豪華な弁当を広げていたあの手は、

 今、何を掴もうとしているのだろうか。


 同級会で彼の名が出たとき、誰も笑わなかった。

 誰も哀れみもしなかった。


 ただ、少しだけ長い沈黙が流れた。


 たぶん、それがすべてだった。


 その沈黙を破ったのは、西村だった。

 眼鏡の奥から静かにこちらを見つめながら、ぽつりと口を開いた。


「……俺、あいつに救われたことがあるんだ」


 その言葉に、みんなの手が止まった。

 誰かがグラスを置く音だけが、ぽつりと響いた。


「高校の頃さ、うちは貧乏だったから、参考書なんて買えなくて。

 一週間くらい、何にも持たずに学校に通ってたんだ。

 そしたらある日、あいつが新品の参考書一式を持ってきてさ。

 『うち、予備で買ってるから』って笑って渡してくれたんだよ」


「……そんなこと、あったんだ」


「うん。でも、あとで分かった。あれ、全部あいつが自分で買ってくれてたんだって。

 親に内緒でな。俺、そのとき、涙が出そうになった。

 でも……ありがとうって、言えなかったんだよ。結局、一度も」


 西村の言葉に、誰も返すことはなかった。

 けれど、その沈黙は先ほどのものとは違っていた。

 あたたかさのある、沈黙だった。


「……俺も、実は一回だけ、飲ませてもらったことがある」

 今度は柳田が言った。


「大学に落ちてさ、働くのも嫌で、もう全部投げ出したくなってたときに、たまたま街で会ってな。

 ファミレスでハンバーグ奢ってくれたんだ」


「へぇ、あいつが奢るなんて」


「うん。でも、そのとき言ったんだよ。『落ちるのも才能のうちだぞ』って。

 何言ってんだこいつって思ったけど、妙に心に残った。

 それが、不思議と支えになったんだ」


 誰かが言葉を終えるたびに、みんな目を伏せ、小さく頷いた。

 誰の口からも、「あいつ、どうしてるんだろうな」なんて言葉は出なかった。


 けれど、それぞれの胸の中に、同じ問いが静かに生まれていたように思う。


 ――太一にも、あった。


 高校には進学しなかった。

 本当は行きたかった。

 だが、受験できるのは公立校だけ。

 家には私立に通わせる余裕などなかった。


「公立も、合格は難しいかもしれないな」

 そう言われ、諦めて職業訓練所に入った。

 そして町工場に住み込みで働くことになった。


 ある日、道路でばったり惣一郎とすれ違った。


「学歴は、あったほうがいい。せめて高校は」


 そう言って、通信教育を勧めてくれたのは、あいつだった。

 そのひとことで背中を押され、太一は働きながら通信制高校を卒業した。

 そこから、地元の自動車販売会社に就職し、数年後には外資系のメーカーへ転職。

 今の暮らしがあるのも、あのとき、彼がかけてくれた言葉があったからだ。


 もし、高校に入っていなければ――

 いまの自分は、まるで違う人生を歩んでいたかもしれない。


 転職して間もない頃、仕事に慣れずミスが続いた。自分には無理なんじゃないかと、気持ちが沈んでいた時期がある。

 そんなある日、届いた年賀状の裏に、小さな文字でこう書かれていた。


「いつか、その苦労が笑い話になるといいな」


 ――どうして、こんなにも大切な言葉を忘れていたんだろう。


 記憶の底に沈んでいたその一文が、ふわりと浮かび上がってくる。

 あのときの自分も、そして今の自分も、きっとその言葉に救われている。


 あの頃は、ただの“いいやつ”だと思っていた。

 でも、違った。


 彼は、ずっと誰かの背中を支え続けていたのだ。

 静かに、目立たず、見返りも求めず。


「……今、どこにいるんだろうな」

 誰かが、ようやくその言葉を漏らした。


「市営住宅の裏の公園に、昼過ぎによくいるらしい。……ホームレスになってるって」

 柳田がそう言うと、数人が顔を見合わせた。


 その場で、「会いに行こう」と言い出す者はいなかった。

 けれど、きっと誰もが心のどこかで決めていたのだ。


 ――近いうちに、そっと足を運ぼう。


 彼が今も、どこかで生きているのなら。

 そのことを、ただ確かめたい。


 そしてあの頃、心のどこかで支えてもらった分を、

 今度は、自分たちの手で返したい。


 そう思えた同級会だった。


 同級会の夜、駅へ向かう帰り道に吹く夜風が、なぜかいつもより肌に優しく感じられた。

 懐かしさとは少し違う。

 どこかで途切れていた何かが、静かに繋がったような気がした。


 その日から、太一は散歩のコースを変えた。

 午後になると、なぜか無意識のうちに、市営住宅の裏手にある小さな公園へと足が向いていた。


 けれど、彼自身が公園のベンチに座ることはほとんどなかった。

 いつもベンチの上には、空き缶のコーヒーや誰かが忘れていった雑誌が無造作に散らばり、

 まるで時間が止まったかのような静けさだけがそこにあった。


 それでも、太一は毎日そこに立ち寄った。

 誰かと会うためではない。

 おそらく、自分の内側にある何かと向き合うためだったのだろう。


 ある日、ふと視線を落としたベンチの端に、サインペンで書かれた惣一郎の名前を見つけた。

 いたずらか、偶然か。

 けれどその瞬間、胸の奥がじんと熱くなった。


「……ここに、ちゃんといたんだな」


 震える声でそう呟いたとき、自然と涙がこぼれた。

 惣一郎の優しさに、ようやく触れられたような気がした。


 ある日、太一は抑えきれない感謝の想いを胸に、焼肉弁当とコーヒー牛乳、そして手紙を添えてベンチにそっと置いた。


 翌日、公園を訪れると、白い小さなボックスが置かれていた。

 表には「太一ありがとう」と丁寧な文字。

 そっと蓋を開けると、一通の手紙が入っていた。


「俺にも見栄がある。太一に会いたい気持ちもあるが、会いたくない気持ちもある。

 こんな俺を見せたくない。ただ、太一の気持ちはちゃんと受け取った。

 俺の好物の焼肉弁当とコーヒー牛乳、よく覚えていたな。ありがたくて、涙が出た」


 そう綴られていた。


 よく見ると、コーヒー牛乳がひとつ、手つかずで残されていた。

 その脇に、こんな一文が添えられていた。


「太一、感謝はしている。ただ、このコーヒー牛乳は腐っていた。

 腹を壊しては大変なので飲まなかった。それだけは言っておく」


 思わず笑ってしまうような、その一行に、太一は声を立てずに笑った。


 時は流れ、太一はもう後期高齢者になっている。

 背筋は曲がり、視力も衰え、忘れ物も増えた。


 けれど、あの日の記憶だけは、今も胸の奥で静かに灯っている。


 人に優しくするのに、理由なんていらない。

 見返りなど、なおさらだ。


 それを教えてくれたのは、かつて豪華な弁当を広げていたあの少年だった。


 もし、あのベンチで偶然、彼と再会できたなら――

 太一は、ようやく素直に言えるだろう。


「ありがとう」


 あの同級会は、もう二度と開かれないかもしれない。

 けれど、あの夜に交わされた想いは、これからも誰かの胸の奥で生き続けていく。


 過去は思い出の中にあっても、

 優しさは、未来へと手渡されていく。

 静かに、確かに、次の誰かのもとへ。


 そして今日も、太一はベンチのそばに、コーヒーをひとつ置いていく。

 誰のためでもなく。

 誰かのために。


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