六話 湯呑みに残る日々
足がだるい。腰回りも、どこか重たい。
運動不足だろうか。最近は外に出る機会もめっきり減り、散歩すら億劫になってきた。
そんな自分に苦笑しながら、ふと思う――たまにはマッサージでも行ってみようか、と。
こうして自分に小さな贅沢を許すのは、半年ぶりになる。
やましい気持ちがあるわけじゃない。ただ、施術者は女性に限る。年齢は問わない。どうにも男に体を触られるのが昔から苦手なのだ。
思い出すのは、以前行ったあるマッサージ店でのこと。
受付にいたのは、八十をとうに過ぎたと思われる小柄な女性。
「この年齢で現役とは、立派なものだ」と自然と頭が下がった。
セルフ式の端末でコースを選ぶ仕組みだったが、操作がさっぱりわからず、受付の彼女に尋ねてもおぼつかない。結局、受付だけで二十分も費やしてしまった。
ようやく施術室に通されると、そこにいたのは、さきほどの彼女だった。
「強くありませんか?」とやわらかに声をかけられ、「もう少し強めで」と何度かお願いするも、撫でられているような感触で、途中から諦めたのを思い出す。
さて、今日訪ねた店には、そこまでの高齢者はいないようだった。
受付にいたのは、がっしりとした体格の、手慣れた雰囲気を漂わせる女性。
名前を書き、受付を済ませると、「前金でお願いします」と静かに告げられる。
財布を開いた瞬間、冷や汗がにじんだ。五千円札が一枚。
まさかと思って確認すると、やはりクレジットカードは使えない。現金のみ。
結局、そのまま施術は諦め、店を後にすることになった。
思いつきの贅沢も、現実の前ではあっけなく潰れる。
帰り道。
ふと視線の先に、ひと組の老夫婦がいた。肩を並べ、ためらいのない歩幅で、静かに歩いてゆく。
言葉を交わすことなく、それでも呼吸のように自然に歩を揃えているふたり。
七十を過ぎているだろうか。
その背中には、年月の重みよりも、共に歩いてきた誇りのようなものが漂っていた。
――お前は、妻に先立たれたのか。どうだ、羨ましいだろう。寂しいだろう。
そんな声が、風に混じって聞こえた気がして、私は思わず足を止めた。
老夫婦の背が角を曲がって見えなくなるまで、ただ黙って、目で追っていた。
――ああ、羨ましいよ。
風が抜ける道の片側。
そちら側だけが、妙に軽い。隣にいるはずの誰かの気配が、そこにはない。
誰かと歩く時間を「ふたり」と呼ぶなら、ひとりきりで歩くこの時間は、「ひとり」として受け入れるしかないのだろう。
胸の奥で、そっとつぶやく。
そして、また歩き出す。けれど歩幅はどこかぎこちなく、心なしか、左側だけがすうすうと風に吹かれていた。
無意識のうちに、そこにいたはずの彼女の足音を──探してしまっていた。
朝の陽射しが差し込む台所。
そこには、ふたり並んで座っていた頃の食卓があった。
湯気の立つ味噌汁、コトリと置かれる箸の音、くすくすと笑う彼女の声。
あの空気は、いまもなお、台所の隅に、ひっそりと息を潜めているような気がする。
太一は、晩酌を控えていた。
歯医者で処方された薬のせいで、しばらく酒を我慢するよう言われていたのだ。
それだけでも物足りないというのに、今夜はそのうえ、ひとりだった。
刺身も焼き魚もない、質素な夕食。
昨夜の味噌汁の残りに、冷ややっこ、小さな焼きナス。
切り昆布の煮物を少し添えて、静かな箸の音だけが部屋に響いていた。
酔うこともできなければ、起きていても仕方がない。
太一は、まだ七時半だというのに布団にもぐり込んだ。
――これが、“ひとり”というものなのか。
そう思った瞬間、心の奥に、じわりと染みてくるものがあった。
願うのは、ただひとつ。
順番を、守りたい。順番どおりに、逝きたい。それだけだ。
けれど、気がかりなことがひとつだけあった。
多江子が、その“順番”を、あまり気にしていないのではないかということだった。
だからこそ、祈るように願っている。
頼むから、順番を守ってくれ。
見送るつらさだけは、味わいたくないのだ、と。
そのとき、枕元の携帯が静かに震えた。
画面を覗くと、浴衣姿の多江子が、旧友たちと並んで笑っていた。
満面の笑顔でピースサインを送る多江子。
テーブルにはご馳走がずらりと並び、画面の端々から楽しげな空気が溢れていた。
三泊四日の、“女子会と称した豪華温泉ツアー”の真っ最中だった。
太一は小さく笑い、スマホを手に取る。
――楽しそうだな。よかったな。
湯呑みが寂しがってるぞ。
座椅子も、ひとつだけ妙に軽い。
写真、ありがとな。
もうちょっと、しっかり笑ってるやつも、送ってこい。
そのころ、多江子は宿の露天風呂にいた。
ぬるめのお湯に肩まで浸かり、月を見上げていた。
湯気越しに広がる夜空は、どこか静かで、どこか懐かしかった。
隣では旧友たちの笑い声が、湯けむりのように立ちのぼっている。
「多江子、顔が赤いわよ〜。飲みすぎ!」
「ほら、写真撮るわよ! ピース、ピース!」
高校時代の仲間たちと並んでいると、あの頃の自分がふいに戻ってきたような気がする。
はしゃぐ声の奥に、一瞬、静けさが差し込んだ。
湯に沈めた手を、そっと握りしめる。
誰にも気づかれないように、そっと。
――太一、ちゃんとごはん、食べたかしら。
月明かりの下、多江子はそっと目を閉じた。
湯けむりの向こう。太一のぬくもりが、ほんの少しだけ、近くにあるような気がしていた。
三泊四日の旅を終えた多江子が、玄関の扉を開けたのは、夕暮れの少し手前だった。
郵便受けにはチラシと回覧板が挟まれていて、風に揺れている。
コツ、コツと廊下を進む足音に、台所の奥からわずかな物音が返ってきた。
「ただいま」
多江子の声は明るく、そして少しだけ照れくさそうだった。
「おう、おかえり」
太一は新聞をたたむ手を止め、ゆっくりと立ち上がる。
とがった文句も、浮かれた歓迎もなかった。
けれど、目尻に寄ったしわが、すべてを物語っていた。
「留守番、ちゃんとしてた?」
「犬じゃねぇんだから」
「……でも、なんかそんな顔してる」
多江子は笑いながら、土産袋をいくつか台所に並べた。
漬物、地元銘菓、小さな湯呑みのセット、海鮮の燻製。
そして、旅館で撮った写真を印刷したハガキ。
太一はその中の一枚を手に取り、じっと見つめる。
笑いすぎて目が細くなった彼女の顔が、浴衣姿で写っていた。
「……シワがくっきり写ってるな。こうして見ると、ずいぶん増えた」
「いいのよ、増えたって。笑ってできたシワは、人生の勲章なんだから」
太一は鼻で笑い、茶箪笥の上に写真を立てかける。
湯呑みに茶を注ぐ手元を、多江子は黙って見守っていた。
その目が、ふとやわらかくなる。
「ごはん、炊こうか?」
「いや、もう炊いた。備蓄米、意外とイケたぞ。半分の値段にしては上出来だ」
「ほんと? おかずは?」
「冷ややっこと、焼きナスと……あ、切り昆布」
「昨日と同じじゃない、それ」
「三日分、作っといたんだよ」
「ほんとに犬みたい……」
ふたりは顔を見合わせ、声を立てずに笑った。
湯気の立つ湯呑みがふたつ並び、やがて、台所にふたり分の箸の音が戻ってきた。
それは、特別でも劇的でもない、どこにでもある帰宅の風景。
けれどその夜、太一はふと気づいていた。
湯呑みの重さが、ほんの少し戻ってきたことに。
多江子もまた、座椅子に腰を下ろしたとき、心の中でつぶやいていた。
――あぁ、やっぱりこの座椅子の感触がいちばん落ち着く。
夜が更け、布団に並んで眠るころ。
「なあ、多江子」
「なに?」
「……順番、ちゃんと守るつもりあるのか?」
一拍置いてから、くすくすと笑い声が返ってきた。
「太一より先に逝ったら、怒る?」
「怒るに決まってる」
「じゃあ、ちょっとだけ遅れてあげる。ほんのちょっとだけね」
「……それじゃ意味がない」
「ふふ、分かってる。ちゃんと、ちゃんと守るわよ」
その夜、ふたりは並んで眠りについた。
太一の左手と、多江子の右手が、ふとした拍子に触れ合って、そっと重なった。
風が窓の外で揺れ、どこか遠くから猫の鳴き声が聞こえる。
月は雲の合間から顔をのぞかせ、静かにふたりの眠りを見守っていた。