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五話 よう頑張ったな

 夕日の綺麗な浜辺を歩く。

 懐かしいあの海に、ふと思い立って足を運んだ。

 潮の香りがほのかに鼻をくすぐり、

 足元の砂はひんやりと冷たい。

 静かな波が、ゆっくりと砂を洗っていく。


 真っ白なカモメが、

 沖の彼方へと、静かに消えていく。


 ふと、立ち止まりたくなる瞬間がある。


 鏡のような海面に映る空は、

 晴れていても、どこか翳りを帯び、

 夕日の温もりと、ほんの少しの寂しさを湛えている。


 それはまるで、

 自分の歩いてきた道のように思える。


 人はよく言う。

「諦めたら終わりだ」と。


 確かに、その通りかもしれない。

 けれど、多くのものを抱え、

 踏ん張り続けてきた心には、

 その言葉が、

 ときに、静かに重くのしかかることもある。


 青春時代は、夢も苦労も、汗も涙も、

 転んでも、傷だらけでも、

 立ち上がることに意味があると信じていた。


 あれから、幾度も時代は移り変わり、

 気がつけば、人生の秋にはまだ早いけれど、

 吹き抜ける風に、わずかに冷たさが混じり始めている。


 頬を撫でる風が、肌を冷やし、

 遠くから、波のさざめきが静かに耳に届く。


 そして今、人生を振り返ると――

「手放す」という選択が、

 必ずしも敗北ではなかったことに気づく。


 本気で生きてきたからこそ、

 立ち止まることにも、

 ひとつの意味があると知ったのだと思う。


 もがいた日々も、遠回りした時間も、

 すべてが、今の自分を形づくっている。


 栄光も、挫折も、別れも、死別も、恋も、愛も――

 ひとつとして、無駄なものはなかった。


 だから、こう思う。

「そろそろ、自分を縛る手をほどいてもいいかもしれない。

 寿命を縮めるのなら、諦めることがあってもいいのかもしれない」と。


 それは、何かを投げ出すことではなく、

 ただ、静かに自分を許すこと。


 長い旅路の果てに、ようやくたどり着いた――

 小さな安らぎの場所。


 昭和の激動を生き抜き、

 平成を駆け抜け、

 令和の今、ようやく、肩の力を抜いてこう言える。


「よう頑張ったな」と――

 自分に、そっと微笑みかけながら。


 そして今は――

 穏やかな波音の中、もう一度歩き出してみようと思う。

 何かを始めるためではない。

 ただ、そっと。

 自分を、労わるために。



 真夏の午後だった。太一がこの世に生を受けたのは。

 空には蝉の声が満ち、湿った風がどこへも抜け道を見つけられず、部屋の中でじっと淀んでいた。


 彼の両親は、ともに明治生まれだった。

 父は、その時代らしく、無口で厳格だった。感情をほとんど表に出さず、言葉ではなく背中で語るような人だった。


 けれどその背中を、子どもたちはどこか恐れていた。

 普段ほとんど家にいない父が、年に一度か二度だけ帰ってくる。そのこと自体が、太一にとっては息苦しい出来事だった。

 父の気配が家に入った瞬間から、空気が凍りつく。普段の生活の延長線上にあるはずの“家庭”が、まるで違う場所になってしまう。

 父の帰宅が喜びではなく、むしろ恐怖であったことは、当時の太一にとってどうしようもない事実だった。


 父の足音、ふいに咳払いをする声、食器を持つ手の角度一つ――そのどれもが、子どもたちを緊張させた。

 怒鳴られたことはない。ただ、その存在が、あまりに重たかった。

 父のいない母子家庭で、のびのびと暮らしている友人の家を訪れるたび、太一は思った。

 ――うちは、なぜこんなにも息苦しいのだろう。


 けれど、父もまた、孤独だったのだろう。


 家を空け、季節ごとに咲く花を追いながら、日本列島を渡るように旅を続ける日々。

 蜂に刺され、山中で眠り、誰にも頼れず、誰とも言葉を交わさず、ただ花と蜂と空だけを相手に生きていく。

 孤独というより、孤絶――そう言ったほうが近いかもしれない。


 自然を相手にすることは、自分を偽らずに生きることと同じだった。

 ごまかしも言い訳も通じない。ほんのわずかな判断ミスで、何百という蜂の命が失われることもある。

 その緊張感のなかで生き続けてきた父にとって、「誠実であること」は、生きるための最低限の約束事だった。


 だからこそ、父は子どもたちにも、誠実であることを、どんな言葉よりも強く求めた。

 厳しすぎるほどに。

 それは、父が唯一伝えられる“愛し方”だったのかもしれない。


 ただ、その厳しさは、やがて壁となって父のまわりに立ちはだかり、彼をいっそう孤独にしていった。

 家にいても、誰とも目を合わせず、言葉は少なく、食卓にいても心はどこか別の場所にあるようだった。

 子どもたちは息をひそめ、内側に閉じこもり、母さえも、父の気配にそっと気を配っていた。


 母は、父の孤独を理解していた――いや、理解しようとしていたのかもしれない。

 父が家に戻ると、母は無言で台所に立ち、決まって、あの煮込みを作った。

 鉄鍋に鶏の肝や砂肝、ハツを入れ、生姜と醤油で丁寧に下ごしらえをし、豆腐と玉ねぎを加えて、ことことと煮込む。

 湯気とともに立ちのぼる香りは、どこか懐かしく、静かで、そしてあたたかかった。

 それはまるで、母の心そのものだった。


 口に出せなかった想い――父へのねぎらい。子どもたちへの祈り。

 そして、厳しさの中に閉じ込められた夫の孤独を、少しでも癒してやりたいという、言葉にならない情のようなもの。

 それらすべてが、あの一鍋に込められていた。


 太一は、そんな母の横顔を、子どもながらに見ていた。

 火を見つめる母のまなざしの奥に、何か静かな決意のようなものを感じていた。

 母は、父のために、自分ができることをただ黙々と続けていた。

 それが、家族というものを守る、たったひとつの手段だったのかもしれない。


 太一にとって、あの煮込みは、すき焼きよりもずっとあたたかく、豊かで、深く、記憶に残る味だった。


 父は、成績には無関心だった。通知表に赤点が並んでも、何も言わなかった。

 ただ、「人間の価値は勉強で決まるものではない」という、確固たる信念だけは、揺らがなかったのだろう。


「正直であれ。まっすぐであれ。」

 それが、父の教えのすべてだった。

 言葉では語られずとも、その背中はずっとそれを語り続けていた。


 幼い頃の太一には、それが恐怖でしかなかった。

 けれど今は、ほんの少しだけ、わかるようになってきた。


 父が伝えたかったもの。

 厳しさの奥にある、切実な祈りのようなもの。

 誰かに甘えることも、気持ちをうまく伝えることもできない父が、たったひとつ、子どもたちに遺せたもの。

 ――誠実に、生きていけ。


 そんな父が命を落としたのは、ある年の晩秋のことだった。

 巣箱を並べていた山中で、クマに襲われたという。六十七歳だった。


 自然とともに生き、自然に命を奪われた。

 太一には、その死をすぐには受け入れられなかった。

 けれど今になって思うことがある。

 あの最期は、父らしかったのかもしれない。


 誰にも助けを求めず、誰にも看取られず、蜂と山に囲まれて――

 その静けさのなかで逝った父の背中は、今も太一の心に焼きついている。



 あれは中学生になった頃のこと。太一は初めて恋をした――いや、それが本当に恋だったのか、今でもはっきりとはわからない。


 その相手は、町で評判の家具屋の娘だった。明るくて、どこか気品があり、いわゆる“お嬢様”。

 いつも小さなリボンをつけた髪が陽に透けて、笑うとまぶしいほどだった。

 品のある服を身にまといながらも、気取らず、誰にでも優しく接する、そんな女の子だった。


 自分とは釣り合わないと、太一は遠くから見ているだけだった。

 教室の向こうの席。廊下の窓辺にたたずむ横顔。下駄箱の前で友人と笑い合う声。

 近づくことも、声をかけることもできなかった。ただ、すれ違うたびに胸がきゅっと締めつけられるような感覚だけが残った。


 太一は朝が苦手だったはずなのに、いつの間にか一番に教室へ着くようになっていた。

 まだ薄暗い廊下を歩き、教室のドアを開ける。誰もいない静かな空間で、迷うことなく彼女の席へ向かい、腰を下ろして手を机に添えた。

 木のぬくもりにまぎれて、どこか彼女の気配が残っているように感じられた。


 それだけの時間が、太一にとっては宝物だった。

 やがて響く足音に、はっとして自分の席へ戻り、何事もなかったように教科書を開く。

 それが彼にできる、唯一の“接点”だった。


 夜になると、太一は布団にもぐり込む。やわらかな眠気に身をまかせながら、願った。

 ――どうか、また夢で会えますように、と。


 夢の中では、すべてが違っていた。

 放課後の帰り道、ふたりで並んで歩く。彼女は笑いながら、「将来は世界を旅してみたいな」と話す。

 太一は少しうつむきながら、「俺は、どこでもついていくよ」と答えた。


 ふとした瞬間、手と手が触れ合い、そのまま、指を絡める。

 春の光はやわらかく、風もやさしかった。夢の中では、世界にふたりだけしかいないような気がした。

 彼女は太一だけを見て笑い、名前を呼び、隣を歩きながら未来を語ってくれる。


 太一はその世界の中で、生きていた。


 朝が来れば、すべては消えてしまう。


 目を覚ますと、現実の彼女は友人たちに囲まれ、屈託なく笑っていた。

 太一は教室の隅の席で、開いた教科書をただ眺めている。

 彼女の名前すら、声に出して呼んだことがなかった。夢の中では、あれほど自然に呼べたのに。


 現実では何も始まらず、何も動かない。何も変わらない。

 それでも夢の中では、彼女は太一のすべてを受け入れてくれていた。

 その世界のやさしさに、太一はすがるようにして生きていた。


 沈黙の家庭に育ち、感情を表に出すことを知らずに育った。

 そんな太一にとって、誰かに名前を呼ばれること、誰かと手をつなぐこと、誰かと同じ景色を見つめることは、すべて夢の中でしか得られない奇跡だった。


 現実には存在しない会話。交わすことのなかった視線。歩くことのなかった帰り道。

 それらすべてが、太一の中では確かに“あった”。


 彼の青春は、夢と想像の中にだけ存在していた。

 誰にも知られず、誰にも気づかれずに、生まれて、消えていった初恋。


 今でも太一は、ときおり思うのだ。


 あの夢は、本当に“夢”だったのだろうか、と。

 あのぬくもりは、あの笑顔は、本当に存在しなかったのだろうか、と。


 もしあの頃に戻れるなら――今度こそ、声をかけられるだろうか、と。


 ――いま、太一は父が亡くなった年齢をすでに越えている。

 蝉の声を耳にすると、ときどきあの夏の日々を思い出す。

 重たい空気のなかで揺れていた障子、鉄鍋のぐつぐつという音、そして誰にも触れられなかった夢の中の少女の笑顔。


 それらすべてが、太一の人生の始まりだったのかもしれない。

 たとえ現実に届かなかったとしても、その想いは、確かに彼を生かしていた。


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