四話 少しだけやさしくなれたら
年を取ると、いろんなことが気になってくるものだ。
昔は気にも留めなかった体の変化や、ふとした自分の振る舞いが、なんとなく心に引っかかるようになってきた。
なかでも「におい」というのは、なかなかやっかいだ。
自分ではまったく気づかないのに、誰かを不快にさせてしまっているかもしれない――。
そんな思いがふと胸をよぎると、それだけで一日がどこか落ち着かないものになってしまう。
朝、洗面所で顔を洗っていると、ふとした拍子に自分の体から、ほんのりにおいが立ちのぼったような気がして、手が止まる。
「ん? こんなにおい、前からしていただろうか……」
気にしすぎだ。大丈夫だ。たしかに、そうかもしれない。
けれどやっぱり、人と会う日には、どこか不安になる。
電車で隣に座った人がふいに顔をそむけたりすると、「あれ、もしかして……」と、つい考えてしまう。
それだけではない。
最近は、言葉にもずいぶん気をつかうようになった。
昔ならなんでもないと思っていたひと言が、「余計だったかな」「誰かを傷つけたかもしれない」と、あとから心に引っかかることがある。
年を重ねるほどに、人づきあいがむずかしくなってくる。
昭和の頃は、もう少し肩の力が抜けていたように思う。
言葉が過ぎてちょっと口論になったとしても、「まあ、そんなこともあるさ」と笑って酒でも飲めば、いつの間にか元通り。
人と人との距離が近くて、どこか安心感があったような気がする。
でも、今は昭和ではない。時代は変わった。
パワハラ、セクハラ、モラハラ、カスハラ、マタハラ、サイハラ……
「ハラ」がつく言葉が次々に増えて、もう何が何だか分からなくなってくる。
ちょっとしたひと言やしぐさでも、「不適切」と受け取られてしまうかもしれない。
世の中全体が、どこか神経質になってきたように感じる。
そのせいか、人と人とのあいだに、見えない壁ができてしまっているような気さえする。
そんな時代の中で、自分はどうやって過ごしていけばいいのだろう。
昔のように、思いのまま突っ走ることはもうできない。
でも、あれこれ遠慮ばかりして、楽しみまで手放してしまうのは、やっぱり悲しい。
だから、揺れる気持ちは無理に押さえつけずに、少しずつ見つめ直していこうと思う。
それだけでも、心の中が少し整ってくる気がする。
今の自分にできる、小さな自衛のようなものかもしれない。
とはいえ、いつまでも引っ込んでばかりいるのは、やっぱりもったいない。
せっかくの時間なのだから、できるだけ笑って過ごしていきたい。
もし、私のにおいが気になったなら、どうか無理をせず、そっと距離を取ってくれたらいい。
話し方や言葉の調子が合わないと思ったなら、無理に付き合わなくてもかまわない。
それは決して、さびしいことではない。
人にはそれぞれ、心地よい距離感というものがあるのだから。
年を重ねた今だからこそ、誰かに合わせようとして無理をするよりも、もっと自分らしくいられたら――。
焦らず、力まず、ほんの少しやさしい目で自分自身を見つめていけたら、それでいい。
そんなふうに思えるだけで、心がふっと軽くなるような気がしている。
茶の間の窓から、夕焼けが柔らかな橙の光を差し込んでいる。
長い時間を共にしてきた家具や本棚、そして色あせた写真立てが、変わらぬ静けさでそこに在る。
空気は、どこか懐かしさを含んだ穏やかさで満ちていた。
太一は座椅子に身を預け、窓の外の茜色の空を、言葉もなく見つめていた。
隣に座る多江子も、無言のままお茶を口に運ぶ。
ふたりのあいだには、言葉を交わさずとも通じ合う、長い年月が育てた静かな絆があった。
けれど、その夜は、ほんの少し、何かが違っていた。
「なあ……加齢臭って、自分で気づけるもんだと思うか?」
太一の声は、夕暮れの余韻のようにぽつりと落ちた。
多江子は少し眉をひそめ、意外そうに顔を向ける。
「どうしたの、急に」
「さっき、ドラッグストアでレジに並んでたらさ、前にいた若い子が、顔をしかめたように見えたんだ」
「え?」
「ただの偶然かもしれない。でも……あの感じは、俺が原因だったんじゃないかって思えてな」
多江子は、驚いたように太一を見つめた。
その瞳には戸惑いと、どこかに小さな痛みがにじんでいた。
「それだけじゃないんだ」
太一は言葉を探すように、ゆっくりと続ける。
「最近、自分の言葉遣いも気になって仕方ない。冗談のつもりが、誰かを傷つけてるんじゃないかって、あとから一人で反省することが増えてな」
少し笑いを交えながら、今日の出来事を話し出した。
「今日も、スーパーで、“なんでこのスーパーには備蓄米売っていないんだ。それも堂々と『備蓄米は販売していません。』とコメ売り場に張り紙してるんだから。銘柄米は高いから安い米を買いたいのに。ここは庶民の味方だなんて言ってるけどけねぇ”なんて隣の人に言ったら、その人、店員さんだったんだよ。もう、穴があったら入りたかった」
太一は肩をすくめ、苦笑を浮かべた。
多江子は思わずくすりと笑った。
「あなたって、昔からそういうところあるわよね」
「あるだろ? でも、昔ならそれで笑いが起きた。今は……空気が止まる」
ふたりのあいだに、ふっと沈黙が落ちた。
やがて、多江子が静かに口を開く。
「でもね、あなたがどういう気持ちで言葉を発しているか、私は知ってる。
人を和ませたい、笑わせたい、誰かの心を少しでも軽くしたい。
あなたの根っこにあるのは、そういう優しさでしょう?
ただ、それがうまく伝わらないだけ。だからこそ、今こうして悩んでいるのよね」
太一はうなずいた。
その顔には、深く沈んだ不安の色がにじんでいた。
「伝わらないって、怖いよな……」
「うん」
「自分では善意のつもりでも、相手にとってはそうじゃないかもしれない。
そのギャップが……すごく怖いんだ」
「それはね、誰にでもあることよ。
年を重ねると、そういう距離感により敏感になるだけ。
言葉の届き方が見えにくくなるのよ」
多江子は、そっと太一の手に自分の手を重ねた。
「ねえ、今日のその若い人だって、本当にあなたが原因だったのかしら?」
「……たぶん、違うかもしれない。考えすぎだって、頭ではわかってる。でも……」
「でも、そうやって自分を省みている。
それが何より大切なこと。あなたの誠実さの証よ」
「……振り返るだけじゃ意味がない。変わらなきゃって思ってる。
でも、どう変わればいいのかがわからない。答えが見えないんだよ」
太一の声は少しかすれ、窓の外へ視線を落とした。
暮れていく空が、ゆっくりと紺の深みに染まっていく。
「無理に変わらなくていいのよ」
多江子の声は、風のない夜のように静かだった。
「問いを持ち続けること。それだけで、もう十分。私は、そう思うわ」
ふたりのあいだに、言葉では表せない、やさしい時間が流れていった。
どこか遠くで電車の音がかすかに響き、日常の音が夜のなかへ溶け込んでいく。
「あなたがね、こうして黙り込んだり、悩んだりしている姿を見ると……私、ちょっと嬉しくなるの」
「え?」
「だって、それはきっと、誰かを大切に思っている証でしょう?
気づける人は、優しいのよ」
太一は、ようやく笑った。
その笑みには、自嘲でも諦めでもない、静かな安堵がにじんでいた。
「……俺は、まだまだ昭和を引きずってるんだな」
「引きずっていいのよ。だって、それが“あなた”なんだから」
多江子の言葉は、心にそっと毛布をかけるように、やわらかだった。
ふたりは再び、窓の外を見つめた。
街はすっかり夜に包まれ、光と影が交差する。
そのなかに、ふたりだけのあたたかな灯が、小さく、しかし確かに灯っていた。
「ありがとうな、いつも」
太一のつぶやきに、多江子は微笑んで答えた。
「こちらこそ。あなたが、いてくれてよかった」
夕暮れの柔らかな闇が4畳半を包み込む中、太一はふと思いを巡らせた。
自分が感じている不安や戸惑いは、決して一人だけのものではないのかもしれない。
多江子もまた、同じ時代を生きてきて、同じように心の揺れを抱えているのだろう。
「昔の話をしようか」と太一がぽつりと言った。
多江子は穏やかに微笑み、頷いた。
昔の町のこと、子どもたちのこと、笑いあった日々のこと。
言葉はゆっくりと紡がれ、部屋の空気は温かく満ちていく。
その中で、太一は気づいた。
人との距離が変わっても、時代が変わっても、心の根っこにあるものは変わらないのだと。
「伝えたい」「わかり合いたい」という思いこそが、いつの時代も人をつなぐ。
だから、焦らず無理せず、自分のペースで歩んでいこう。
そして、互いに手を取り合いながら、静かに老いていく日々を味わっていこう。
窓の外、夜の帳がさらに深まっていく。
その中に、小さな灯りのように二人の心がともっていた。
数日後の午後、電話が鳴った。
黒電話の名残を思わせる、昔ながらの留守番機能付きの受話器から聞こえてきたのは、懐かしい名前だった。
「太一か? 久しぶりだなあ、オレだよ、照重。覚えてるか?」
太一は思わず受話器を握りしめた。
あの頃、4人でバンドを組み、仕事を終えると倉庫に集まって練習をしていた。照重はそのメンバーで、ドラムを担当していた。
汗まみれで肩を組み、練習が終わると居酒屋でバカな話をしていた仲間たち――その中でも一番のムードメーカーだった照重の声に、一気に昭和の情景がよみがえった。
「なんだよ、お前、まだ生きてたのか?」
口から出たのはそんな冗談めいたひと言だったが、声は震えていた。
「おいおい、人を幽霊みたいに言うなって! でもまあ、お互い似たようなもんかもな。なあ、今度みんなで集まらないかって話しててさ……」
そして、週末。
太一は外出の支度をした。お気に入りのベレー帽をかぶり、コートの襟を整えるその姿に、多江子は小さく笑って言った。
「行ってらっしゃい。昭和の男たち、今日はどんな話をするのかしらね」
昔から馴染みのある古びた喫茶店。
カウンターには昭和歌謡が流れ、壁にはコチコチと古時計がゆっくりと時を刻んでいた。
「太一! 変わってないなあ!」
「いや、そっちこそ、頭の光り方だけは進化してるな」
開口一番、そんなやり取りが飛び交い、テーブルの周りに笑い声が広がる。
照重は塗装業。真夏の炎天下でも文句ひとつ言わず、黙々と刷毛を動かしていた。あの頃から、誰よりも泥臭く、だけど誰よりも熱い男だった。口癖は「汗かいてなんぼだよ」。その言葉通り、手拭いを首に巻いて笑う顔は、いつだって真っ黒に日焼けしていた。
ベースの健ちゃんは市の職員。公務員らしい几帳面さで、バンドの会計やスケジュール管理を一手に担っていた。表向きは大人しく見えるが、飲み会ではスイッチが入ると別人のように陽気になり、ギター片手に即興で替え歌を歌い出すムードメーカーだった。
ギターの駒ちゃんは、地元ではちょっと知られたシャッター会社の所長。職人気質で寡黙な一方、ギターを持たせると人が変わった。指先は厚く硬く、でもその指で奏でる音はやわらかくて繊細だった。結婚式でも、商店街のイベントでも、頼まれれば嫌な顔ひとつせず演奏していた。
そして太一。外資系のセールスマンとして全国を飛び回っていた。言葉のキレと勘の良さで成績はいつも上位。でも、週末になるとスーツを脱ぎ捨て、ベレー帽をかぶって倉庫に現れた。「売るより歌うほうが性に合ってるかもな」と笑っていた。
それぞれの道を歩きながらも、心のどこかに、同じ音を持っていた。
バンドの名前は──「Thirty」。
結成当時、4人の平均年齢がちょうど30歳だったことに由来している。
「俺たち、もう若くはないけど、遅すぎるってこともない」
照重がそう言って名付けた。
響きも悪くないし、英語にすればちょっとカッコつけた感じになるだろう、と笑いながら決まった名前だった。
けれど、その裏にはささやかな願いが込められていた。
自分たちの音楽が、誰かの人生の風向きを、ほんの少しでも変えることができたら──。
そんな思いが、音の隙間にそっと忍ばせてあった。
楽器の腕前はそこそこだったし、歌だってプロには遠く及ばなかった。
けれど、倉庫で鳴らしたその音には、嘘がなかった。
仕事に追われ、家庭を守り、時に夢をあきらめかけながらも、
音を合わせている瞬間だけは、自分に戻れる気がしていた。
皆、皺が増え、背中が丸くなり、声も少し小さくなった。
けれど、目の奥に光るものだけは、あの頃と何も変わっていなかった。
「最近さ、会話ひとつとっても難しいなって思うんだよ」
太一がぽつりとこぼすと、健ちゃんも頷いた。
「わかるよ。昔みたいに“空気読まないのが面白い”って時代じゃないもんな。
でも、だからって黙ってるだけじゃ、どこにも届かない。
間違ったって、ぶつかったって、言葉を交わすこと自体が大事なんじゃないかって思うんだ」
「言葉を交わすこと自体が大事か……」
駒ちゃんは深く頷いた。
「オレたちは昭和を生きて、平成を渡って、令和を迎えた。
時代は変わっていくけどさ、自分が本当に大事にしたいものまで変える必要はない。
今の時代に合う“やり方”を見つければいいだけなんだよな」
グラスが重なり、小さく乾いた音が響いた。
ビールではなく烏龍茶だったが、そこにはたしかに「青春の残り火」が灯っていた。
ふと、窓の外を見ると、夕陽が沈みかけていた。
あの頃は、こんなふうにゆっくりと日が暮れるのを眺めることもなかった。
いつも未来ばかりを見て、焦って走っていた──。
けれど今は、沈む陽に寄り添いながら、これまでの道を丁寧に振り返る時間がある。
それを分かち合える仲間がいる。
それが、どれほど貴重でありがたいことか、年を重ねた今だからこそわかるのだ。
帰り道、太一はぽつりと呟いた。
「やっぱり、会ってよかったな……。昭和の時代に出会った仲間って、やっぱり特別だ」
自宅の扉を開けると、多江子が湯気の立つ急須を抱えて笑っていた。
「おかえりなさい。今日は、どんな“昭和”が集まってたの?」
「うるさくて、懐かしくて、ありがたかったよ」
太一はそう言って座椅子に身を沈め、急須から注がれた熱いお茶をすすった。
その味は、あの日の夕暮れのように、心の奥まで染み渡っていった。
初夏の風がやわらかく吹くある日、4人の男たちは、県境にある小さな温泉地に向かった。
かつて職場の慰安旅行で何度か訪れた、鄙びた山あいの一軒宿。昭和の空気を今も色濃く残している宿だった。
「昭和の遺産だな、この宿も。見てみろよ、テレビがブラウン管だ」
照重が笑いながら言うと、皆がどっと笑った。
照重は、少し痩せた身体を気遣いながらも、ゆっくりとした足取りで玄関をくぐった。
旅の道中、太一がずっと隣で歩調を合わせていた。言葉少なに、それでも自然に寄り添うその姿は、どこか兄弟のようでもあった。
部屋は八畳間。縁側の外には川の音が絶え間なく響いている。
障子を開けると、青もみじが風に揺れ、どこか懐かしい匂いが鼻先をかすめた。
「……これだな」
照重が小さくつぶやく。
「昔、こんな景色を見ながら、酒をちびちびやってたっけな」
「今もできるさ」
太一が小さな徳利を取り出した。
「今日は特別。多江子が“照ちゃんの好きだった徳利、見つけたから”って言ってくれたんだ」
照重は目を細め、口元だけで笑った。
「……ありがたいな。ほんとに」
その晩、夕食を済ませたあと、皆で露天風呂に入った。
山あいにある岩風呂。湯けむりの向こうに星がぽつぽつと浮かぶ。
誰もが、いつの間にか無言になっていた。
「あったかいな……」
照重がぽつりと言った。
「……生きてるって感じがする。湯の中に体が浮かんで、何も考えず、ただ星を見てるだけで」
誰もすぐには答えなかった。
ただ、その言葉が湯気に溶けて、空に昇っていくのを、皆黙って感じていた。
風呂上がり、浴衣に身を包んで縁側に並び、皆で冷たい麦茶を飲んだ。
虫の音と、遠くの川のせせらぎだけが響いていた。
「昔な、うちのガキがまだ小さかった頃、夜中に一緒に風呂入ったんだ」
照重がふいに語り出した。
「そしたらあいつが言うんだ。“お父さんと星、どっちがずっとそこにあるの?”って。
困ったよなあ。星はずっとあるけど、お父さんは……ってさ」
太一がゆっくり頷いた。
「でも、あの子の記憶には残ってるだろ。その言葉も、お前の背中も」
「……そうかもしれんな」
照重の声は小さく、どこか遠くを見つめていた。
その晩、布団に入りながら、誰からともなく寝息が聞こえてきた。
まるで修学旅行の夜のようだった。
翌朝、鳥の声で目覚めると、照重は縁側に座って朝日を見ていた。
「……生きてるうちに来れてよかった」
ぽつりとそう呟いた彼の顔には、不思議なほどの穏やかさがあった。
「また来よう」
太一が言うと、照重は首を横に振った。
「……それは、わからない。でも、“今ここにいる”ってことが、もう十分なんだ。ありがとう、太一」
「いや……ありがとうは、こっちのセリフだよ」
照重はゆっくり立ち上がり、皆のいる部屋へ戻っていった。
背中は少し小さくなっていたけれど、その歩みは、凛としていた。
帰りの電車の中、太一は窓の外を眺めながら思った。
あの温泉での時間は、もう二度と同じ形では戻らない。
だが、確かにそこに“生”があった。かけがえのない、今この瞬間が、たしかに息づいていた。
「また、会えるよな」
そう呟いたその言葉が、誰に向けたものなのか、自分でもわからなかった。
ただ、太一は知っていた。
その旅は、照重にとって“別れの準備”ではなく、“人生の締めくくりのひと筆”だったということを。
夕暮れの光が、窓に反射して柔らかく揺れていた。