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一話 沈黙と小言のあいだに

アパートのベランダに吊るしたすだれが、風に揺れている。

チリチリと、かすかな音を立てて——

蚊取り線香の煙と匂いが、ゆるやかに流れていく。


ああ、いいな。

そう思わずにはいられない。

何でもない光景なのに、

心の奥がふっとやわらかくなる。


 

「足を向けて寝ちゃダメだ」

「足で床を拭くんじゃない」


子どものころ、よく言われた。

足は汚れるものだから、神様や仏様、

きれいなものに向けちゃいけない——たとえ自分でも。


でも、ふと思う。

どうして足だけがそんなふうに言われるんだろう。

これも間違いなく、私という命の一部なのに。


 

人のからだは不思議だ。

蚊の羽音ひとつにも耳が反応し、

かすかな気配にも、肌はちゃんと気づく。


「これは自分じゃない」

そんなふうに、からだが教えてくれる。


でも、いつのまにか——

長く連れ添った妻が、そっと肩に手を置いても、

驚くことも、ときめくこともなくなっていた。


その手は、もう「他人の手」じゃない。

時間の中で、

自分の一部みたいになってしまったのだ。


 

脳も心も、いつしか覚えてしまった。

「この人は、自分の一部だ」って。


ふたりの輪郭はゆるく溶け合って、

どこまでが私で、どこからが妻なのか、

その境目さえ、ぼやけていく。


もともとは他人だったふたりが、

同じ時間を過ごし、同じものを見て、

やがてひとつの命みたいになっていく。


でもそれも、永遠じゃない。


 

日々は、すこしずつ擦り減っていく。

思い出も、しぐさも、声も——

やがて静かに、消えていくのだろう。


「足で床を拭いちゃダメだよ」

あの頃、教えられた言葉が、

今になって、すこしだけわかる気がする。


足は、意識の届かない場所。

ぞんざいに扱われれば、全体のあり方も、

きっとどこか、ゆるんでしまう。


 

人も、そうなのかもしれない。

何気ない仕草のひとつひとつに、

その人の暮らしや生き方が宿る。


どんな出会いを生み、

どんな別れを重ね、

どう忘れられていくのか——

すべては、その積み重ね。


夫婦もまた、同じ。

言葉にならない小さなことの集まり。


ふれる手の温もり。

背中越しの呼吸。

台所に立つ気配。湯気の匂い。洗い立てのシャツ。


そんな一つ一つが、心に降り積もって、

「ふたり」という形になっていく。


 

いつか、その音も、匂いも、消えてしまう日が来る。

だからこそ、今この瞬間を、大事にしなくちゃいけない。


足も、忘れずに。

足さえも、大切に。


それはきっと、

自分を大事にする約束になるから。


 

妻がそっと、肩に手を置いても、もう驚かない。

鈍くなったんじゃない。

心が、静かにほどけているだけ。


いつかすべて失うと知っていても、

それでも今日、この時間は確かにここにある。


老いも、終わりも、その気配をまといながら。

やわらかな光の中で。


 

蚊取り線香の煙が、ゆるやかに揺れている。

すだれが、風に鳴っている。


ふたりの時間もまた——

そっと、揺れている。


 十代のあの頃、私が乗っていたのは、360ccの空冷エンジンを積んだホンダのN360だった。


 走行距離10万キロの中古車だったけれど、私にとってはかけがえのない宝物だった。初めて手にした自由であり、未来への扉でもあった。


 エンジンに火を入れると、頼りない音を立てて目を覚ました。あの頃の私の心も、そんなふうに小さく鳴っていた気がする。


 隣には多江子がいた。ただそれだけで胸がいっぱいだった。何も言わなくても、確かに伝わるものがあった。ハンドルを握る手に、そっと彼女の指先が触れたときの温もり。今でも忘れていない。


 あの丘の上でふたり、窓の外に広がる街の灯りを眺めていた。車内は狭く、寒かった。でも、不思議と心は温かかった。言葉なんかいらなかった。沈黙が、安心に変わる時間だった。


 言葉はいらなかった。沈黙が安心に変わる、あのひととき。

 ――この時間が、ずっと続けばいい。

 そんな願いを、胸の奥に秘めていた。


 それから、時間はゆっくりと流れていった。

 季節が静かに巡るたび、二人の間には少しずつ年月の重みが積み重なっていった。


「右、曲がるんだからね。次の角よ」


「ほら、前の車……気をつけて。急に止まるかもしれないんだから」


 助手席から聞こえてくる、多江子の変わらぬ声。


 あの頃の彼女は、何も言わず、ただ私の横顔を見ていたのに。今はこんなにも言葉が多い。

 ――でも、それはきっと、私を気づかってくれているから。心配してくれているから。

 そう思うと、ふっと胸があたたかくなる。


「ちゃんとウインカー出してよ。危ないじゃない」


「またスピード出して……無理しなくていいのに」


 本当は、こんなふうに小言ばかり言いたくないはずだ。


 ……そうだ。私が黙ってばかりいるから、彼女も不安になるんだ。何を考えているのか、何を感じているのか、わからないから。だから声をかけてくれる。怒っているんじゃない。心配しているんだ。優しさのかたちが、変わっただけなのかもしれない。


「交差点に入ったとき、信号が黄色だったわよ。ほんとに気をつけて」


 間違ってなんかいない。正しい。全部、正しい。

 でも……その言葉の奥に、まだあの頃の優しい多江子が隠れている気がする。

 肩が触れたときの温もり。曇った窓ガラスに指でなぞったハートマーク。夜の静けさに重なった、かすかな笑い声。

 どこかに、まだ残っているんじゃないか――そんな気がしてならない。


「また黙ってる……昔からそうよ、ほんとに」


 ふと横を見ると、多江子は窓の外を見ていた。

 白い息。頬にかかる髪。

 ……あの夜と、変わらない。年を重ねても。変わったのは、私のほうかもしれない。

 ちゃんと「大丈夫だよ」って言えばいいのに。なのに、それが言えない。

 だけど、心の奥ではちゃんとわかっている。多江子の声も、言葉も、その全部が私への気持ちだってこと。


「前見てよ。太一、ちゃんと運転してる?」


「聞いてる?……聞いてるなら返事くらいして」


 聞いてる。ちゃんと聞いてる。全部。

 おまえの声、昔と変わらないじゃないか。少しだけ言葉が増えただけ。

 そのぶんだけ、私たちの時間も積み重なったということだろう。


「やっぱり次の角だったわね。ほんとにもう……」


 多江子が、小さくため息をついた。

 その肩の動きが、昔と変わらない。

 ふいに手を伸ばして、あの頃みたいに肩に触れたくなった。……でもできなかった。今は、黙って微笑むだけだ。


「仕方ないわねえ……ほんとに」


 その声に、優しさが混じっている。小言の中にも、ちゃんと温もりがある。

 たとえ言葉が少しとげとげしくても、その奥にある思いは変わらない。

 それが、うれしかった。安心した。


 エンジンの音が、冬の夜を静かに登っていく。

 ――この車も、私たちも、まだ進んでいる。まだ止まってはいない。あの頃と同じように。

 ゆっくりでも、確かに前へと。


 私はハンドルを握り直し、少しだけスピードを落とした。

 すると、多江子がふっと目を細め、静かに窓の外を見やった。

 まるで、あの夜に戻ったみたいに――。


 言葉にしなくても、伝わるものはまだ、ちゃんとここにある。

 そう思うと、胸の奥がじんわりとあたたかくなった。

 これからも、こうしてふたりで歩いていける――そんな気がした。


 あれから四十年。

 変わったことも、変わらないことも、そのすべてが愛おしい。


 そしてきっと、この先にも、ふたりの時間は続いていく。

 いつまでも、変わらぬぬくもりとともに。

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