白い狐と七色の星
それはそれはただ青い風景と言えばいいのでしょうか。さわさわと風が吹いては背の高く伸びた葉の絨毯を少しだけ揺らし、一本のほうき星の様に長い電車が時折ことことと走って行くのが見える、そんな静かな風景でした。
そのまままるで描かれた絵の様に然程変化の無いこの場所に、決まって毎日の同じ頃やって来る白い狐がおりました。
電車が通るにはまだ早い時間ですので、元々この場所に住まっている草の葉たちのさわさわという秘密言以外で言えば、ぽてりと鳴る白い狐の足音が今日この空間で初めての、外部から齎された音でした。初めての音を鳴らしていることを少しだけ嬉しく思いながら、白い狐はいつもそっとそっと、ぽてりぽてりと、自分の足先を見つめながら大事に大事に大きな耳をちょっとだけそばだてて、葉の絨毯の上を湖に向かって歩いて来るのが日課でした。
狐は上手に二本の後ろ足で歩きますけれど、白い狐自身はそれが狐にとってすごいことであるとは知りません。何故なら誰も白い狐にそれがすごいことであるとは教えてくれたことが無かったからです。
何時もと同じ、と或る時間になったら電車が遠くに真っ直ぐ見える岸の位置まで来ると、白い狐はきょろりと辺りを見回しました。歩くのを止めると、聞こえてくる音は葉の囁きだけで、白い狐はやはり自分の足音がこの日初めての湖で生まれた音なのだと改めて嬉しくなって、ひくりと鼻を鳴らすと、風に撫でられたのがくすぐったかったのかふさふさした立派な尾同様に白い手でお髭を一つ撫ぜました。
この時間、この場所。大きな両の銀の目に映る風景は今日もまったくもって青いもので、空と葉の絨毯と、そして湖も、瞬く散りばめられた星たちと今日はほっそりとしているお月さま、そして同じ時間にすうっと流れては消える電車以外は、ただちょっと違いが有るだけで、青であることには変わりません。物にはそれぞれ薄い青色なのか濃い青色なのか、それだけの違いしか有りませんでした。
白い狐は右のお手々で右耳を一掻きすると、いつもの様にちゃぷりとそっと湖の浅瀬に足を踏み入れます。浸した足先はつんとして、其の後すうっと膜の様にひやりとしたものが白い狐の小さな足を包みました。湖に足を浸すと何故そうなるのか毎日毎日不思議に思いながら、考えてみても解りませんでしたので白い狐はぼんやりと疑問を持ったままたぷたぷと二歩、三歩足を進ませました。何時もはぐらぐらと揺れて見える自分の二本足を、これもまた何でなのだろうと思って見つめているだけなのですが、今日は少しだけ様子が違ったのです。
小さな足ところころ転がっている小石たちの他に、微かにきらりと光る物が一つ。皆々がただただ静かに揺らいでいる中で、それはさも白い狐の気を惹くかの様にちらりちらりと、白く光っていました。
どうぞ見つけておくんなさい、まるでそう言われているような気がして、白い狐は転ばないよう、その光る物を驚かせないよう注意しながらそっと光源に近付きました。一歩一歩ゆっくりゆっくり進んで行って、ついにちらちらと消えては生まれる白い光が、こつんと狐の足先に当るところまでやって来たのです。
狐は大きな耳を澄ましました。きらきらという光の声が足元から聞こえるのかと思ったのですが、白い光は無言のままで、電車も来ていないので、やはり音はさわさわという草の音と風の声しか聞こえてきません。白い狐はきょろきょろと辺りを見回すと、恐る恐る右手を湖の水面へと伸ばしました。白い手の先っぽが冷たいものに触れて、しかしそれは形がどうにも掴めないのです。足先と同じ様なちゃぷりと言う音が生まれて、白い狐は少しばかりびくびくとしつつ、勇気を出して右手を奥へと突っ込むと、ちらりちらりと白く光る星の様なそれへと触れて、そしてすぐにひゅっと手を引っ込めました。
こつりと言う音を立てて、固く冷たいそれは光るのを止めることなく、白い狐に驚いた様子も有りません。時たま光を弱めてはまたほわりと強く光るのを繰り返すのです。
白い狐は不思議で不思議で、そしてその星が何なのか知りたくてたまらなくなり、尻尾が濡れないようにピンと立てるとそっとしゃがんで覗き込みました。間近で見る星はゆらゆらと水の流れに揺らされて、色々な形に変わって見えます。くるくると円を描いたり、ゆうらりと曲がった線を描いたり。
「それ、ぼくの」
突然、後ろの方から声が聞こえました。
白い狐はびっくりとして、ぴゃっと飛び上がりました。飛び上がった時にぱしゃりと跳ねた水音が鳴って、その音にまた驚いて大きな尻尾がぶわりと震えました。
振り返ると湖畔に一人の男の子が立っています。白い狐は生まれて初めて見る人間に、銀色の目をしぱしぱとさせました。白い狐と同じ位の背の男の子は、靴とくつ下を脱いできちんとお行儀よく並べると、白い狐の様にたぷたぷと湖の中に入ってきました。近付いて来る男の子にどうしたらいいのか解らず、白い狐はおろおろとしていましたが、未だ光り続ける星がどうしても気になってそのまま動けません。
とうとう男の子は白い狐の目の前にやって来ました。半ズボンから覗く足には自分の様な立派な毛皮も無く寒そうに見えましたが、男の子は気にする気配も無くちらりちらりと光る星へと手を伸ばして取り上げました。掌の中のそれを嬉しそうに見つめると、男の子はそっと白い狐に掌の中のものを見せて言いました。
「遊園地で買ってもらったんだ。今日落としたの」
しぱしぱと目を瞬かせる白い狐に、男の子は「ん」、と更に掌を近付けます。そっと覗き込むと、それは水の中とは違ってぱきぱきとした沢山の色で、眩しく輝いて見えました。
「お星さまなの?」
ぽつりと零した白い狐に、男の子は一瞬黒い目を大きくして驚いた様でしたが、すぐに普通の顔に戻って言いました。
「星の形だけど、お星さまじゃないよ。キーホルダーだから」
男の子の言う事は難しく、白い狐は小首を傾げました。
「ほらお船」
男の子が指差す先では、星の中の透かし彫りの白い帆船が七色の光の色にくるくると飲まれて漂っている様でした。しかし何せ男の子の言う事はさっきから難しく、白い狐は船など見たことも聞いたことも無かったので、またも小首を傾げることしかできません。
「きみ、狐なの?」
男の子の言うことが今度こそ解って、白い狐は嬉しくなって大きくこくりと頷きました。
「ひとり?」
もう一度大きく頷いた白い狐に、男の子はにこりと笑いました。
すると、遠くの方から大きなパーンという音を立てて、一本のほうき星が流れてきました。電車です。近付いて来るとことこと言いながら、そしてまたあっという間に通り過ぎて行ってしまいました。
男の子は白い狐と一緒に電車が行ってしまうのを見ていましたが、はっとする様に言いました。
「きみ、明日もいる?」
白い狐が小さく頷くと、男の子はちょっと嬉しそうに笑ってたぷたぷと水面を揺らしながら湖の外へと戻って行きます。
くつ下と靴を拾うともう一度振り返って狐の方を見るので、白い狐はびっくりして耳と尻尾をぴんと立ててしまいました。
「またね」
男の子はそう言うと、さわさわと微かにおしゃべりを続ける草原の中を去って行ってしまいました。
白い狐はただただじいっと、男の子が揺れる草たちに隠されて見えなくなってしまうまで見つめ続けました。白い狐以外誰も居なくなった湖では、映りこんだほっそりとしたお月さまが音も無く揺れているだけでした。
その次の晩も、その次の晩も男の子はやって来ました。
男の子の姿が見えると白い狐はどうしてもびっくりとしてお耳としっぽをぴんと立ててしまうのですが、それでも男の子が悪い生き物ではないということは、間違いの無いことの様に思えました。男の子はこの湖にやって来ますが、別に何をするというわけでも無いのです。白い狐と一緒に湖の水面と静かに遊んで、ここちのよい声で時たまぽつりぽつりと白い狐に色々なことを教えてくれました。
ほうき星の様にあっという間に消えてしまう電車(そうです、あれは電車というものらしいのです)に乗って、「おばあちゃん」とやらが居る此処へとやって来たこと。あの不思議な星型のキーホルダーは、電池というもので光っているということ。
男の子が澄んだきれいな声で教えてくれる事は、白い狐にとって少し難しかったりもするのですが、白い狐は何せ男の子が色々なことを教えてくれるのが嬉しくて、お返しに狐の知っている様々な事をお話しました。
この湖が、冬になると真っ白っで冷たい鏡の様に固まってしまうこと。そこにこっそり穴を開けて覗き込むと、それはそれは美しい蒼い宝石の様に見えること。
男の子は白い狐のお話を目をきらきらとさせて聞いていました。そして「お話するの、上手だね」と笑うので、白い狐は嬉しいやら恥ずかしいやら、お髭をこっそり撫ぜました。
或る晩、白い狐はいつもの様に湖の畔で男の子を待っていました。毎晩の様に男の子がやって来るものですし、男の子とのおしゃべりはあまりに楽しかったものですから、最初は怖がっていた白い狐もすっかり男の子と過ごす晩を楽しみにして待つようになったのです。
男の子は葉の絨毯をさくりさくりと踏みしめてやって来て、白い狐に向かって手を振りました。はじめ、白い狐にはそれが何の仕種なのか解らなかったのですが、どうやら挨拶らしいということは解って来ました。
白い狐は男の子に会えた嬉しさに、白いたっぷりとした尻尾を揺らしました。男の子は近付いて来ると、そっと重ねた両の手を差し出しました。何かを包んだ様な手の隙間から、ちらちらと光が漏れています。
それは何処かで見た事の有る色でした。男の子は得意気に蓋にしていた左手のひらを開けて、右手のひらの上の物を見せました。それは最初の晩に見つけた、星の形のキーホルダーだったのです。
白い狐は嬉しくなって、男の子の掌の中へ長い鼻先をくっつける様に覗き込みました。相変わらず白い帆船は、くるくると渦を巻く七色の光に流され、揺れているかの様に見えます。
「これ、好き?」
白い狐はこくりと頷きました。
「じゃあ貸してあげる」
男の子はそう言って、白い狐の真っ白な手の先っぽに、キーホルダーを乗せました。白い狐はわけが解らず小首を傾げましたが、男の子はにこりと笑うと言いました。
「明日は来られないけど、明後日は来るから。だから明後日きみも来て、ぼくにそれ返してよ」
白い狐は手のひらの上の星をまじまじと見た後、もう一度男の子の方を見ました。
「だって明後日ぼくここに来て、きみがいなかったらさびしいもの」
男の子はそんなことを言って、白い狐の真っ白な手を取ると、「約束」と言って二、三度振りました。白い狐は為されるがまま目を白黒とさせていましたが、何だかとてもくすぐったい気持ちになり、大事に大事に星型のキーホルダーを両の手の中に閉じ込めました。
次の晩、男の子は言った通りにやって来ませんでした。
広い広い湖では水面を撫でる風だけが走り、さわさわと揺れる草の絨毯がひそひそとさざめいて、時折遠くでほうき星みたいな電車の音がするだけです。
それは、今までと何一つとして変わらない風景のはずなのに、白い狐には何だかとてもさびしく思えました。あんなに楽しかったはずのこの場所が、どうしてこんなにさびしい場所になってしまったのかよく解りません。
白い狐は湖の畔の石にちょこんと腰を掛け、男の子に借りたキーホルダーを見つめました。真っ白く小さい手の中で、くるくると回る七色は、この夜の世界の何処にも存在しない色で、まるで夢の国の様でした。
ゆらゆらと揺れる透かし彫りの帆船を見ながら、白い狐はほうと一つ息を吐きました。明日の晩になれば男の子はまた此処にやって来て、きっとこの湖の畔も楽しい場所へと戻るに違いありません。
白い狐はそう思うと、今日はもう寝てしまおうといつもよりずっと早く塒へと帰って行きました。狭い塒で丸くなりながら、白い狐は早く明日の晩にならないものかとそればかり考えていました。
未だ高くに登っているお月さまが、今日は速く帰ってしまって、太陽がさんさんと照る時間にも、慌てて出てきてくれたらいいのに。
いつもよりもずっと長く長く感じられる時間を過ごし、今日も変わらずのんびりとお日さまが沈んで行って、いよいよお月さまが顔を出した頃、白い狐は待ち切れなくなって塒を飛び出しました。
大事に大事に星型のキーホルダーを握り締め、どきどきとしながら白い狐は湖の畔に立ちました。しかし、男の子はなかなか現れません。少し早く来過ぎてしまっただろうか、白い狐はそう思いましたが、待っても待っても男の子はやって来ること無く、いよいよお月さままで帰って行ってしまったのです。
とうとうその次の晩もその次の晩も、男の子が湖へと現れる事はありませんでした。
もしかしたら、いつもと違う場所に行ってしまったのかしら、そう考えて夜中ぐるぐると湖の周りを回ってみたり、ほうき星の様に去っていく電車の近くに行ってみたり、白い狐は色々な場所で待ちましたがやっぱり男の子は見つかりません。
もしかしたら、いつもと違う頃にやって来てしまったのかしら、そう考えて、お月さまが去ってお日さまがやって来ても眠らずに、さんさんと灼く様な、熱くてまっ白な昼の世界で待ってみましたが、やはり男の子は見つかりません。
色々な時間、色々な場所で探しましたが、それでも見つからないのです。
白い狐は諦めて、同じ時間、同じ湖の畔で待つようになりました。
来る日も来る日も待ちました。大粒の雨が湖面をばたばた鳴らし、自慢のふかふかの尻尾が濡れそぼってぐしゃりとなる日も。きらきらの星たちを纏った夜空が隠れ、分厚い灰色の雲から不気味な雷が走る日も。
湖の畔は日によって姿を変えて行きましたが、それでも白い狐の知る同じ世界のはずでした。けれどももう、こんなにも何もかもがさびしく見えて仕方が無いのです。形を変えながらも毎日同じ様に現れるお月さまとお日さまを見るにつけ、白い狐はどうにもこうにもぽっかりとした気分で、ますます悲しくなって仕方が無いのです。
それでもいつもと同じように湖の畔にやって来た晩、白い狐の手の中で、星がちかちかと激しく瞬きました。肌身離さず持っていた男の子のキーホルダーが、いつもと違う様にジグザグと光っているのです。
白い狐はびっくりとして目を白黒させ、鼻の先をくっつける様にして星の中を覗き込みました。くるくると回る七色が時折真っ黒に塗り潰され、透かしの帆船が闇に飲まれる様に姿を消すのです。
白い狐は慌てました。両手の中の星を持って、草の絨毯を踏みしだき右往左往しましたが、どうする事もできません。お月さまを見上げてみても、柔らかく光るだけで知らん顔です。
とうとう手の中の星は目に痛い程のすみれ色からゆっくりと真っ黒になり、帆船はとっぷりと飲まれてしまいました。
男の子の星は、くるくると回る七色の光を失って、炭の様になってしまったのです。
白い狐はとうとうおいおいと泣き出しました。両の手の先っぽで黒く死んでしまった星を持って、おいおいおいおい泣きました。はらはら落ちる涙が草の絨毯を揺らし、ひゅうひゅうと掠れたこの世の何より悲しい泣き声が響いても、それでも湖の畔の世界は何処までもいつもと同じで、静かで、青いままでした。
男の子も、男の子の星も居なくなってしまったのに、ほうき星の様な電車が今日も同じ様に去って行きました。
死んでしまった星を手に、それでも白い狐は同じ時間同じ場所へ行きました。
もしも男の子が現れたら、この星の事を何て言おう。どう謝ればいいのだろう。そう思うと、今までの様にどきどきすることはできず、白い狐の小さな心臓のあたりがぎゅっと締められる様に痛く感じましたが、それでも白い狐は男の子に会いたいと思うのでした。それに、男の子が来た時に白い狐がいなかったら、彼はきっとさびしく思うことでしょう。そう思うとどうしても毎日同じ頃、湖に行かずにはおれないのでした。
来る日も来る日も待ちました。
葉の絨毯が色を鮮やかに変え、電車のことことという音に紛れて虫が鳴き始めた日も。心地よかった夜風が凍る様に冷たくなり、ぴんと張ったひげが震えてしまう様な日も。そしてとうとう草の絨毯がカラカラになって、湖面がうっすらと固くなり、湖の畔一面が白い狐の身体と同じ様な色に染まっても、男の子は現れませんでした。
ひらひらと、白く冷たい花の様なものが舞って落ちては、白い狐の鼻の先を濡らしました。ぽくぽくと積もって行くそれは冷たくて、しかし白い狐は身体を丸めずにぴんと背筋を伸ばしたまま座っていました。小さく丸くなってしまえば、男の子がやって来ても一面の白と同じになって、きっと解らなくなってしまうかもしれません。
ほうき星みたいな電車が、ことことといつもよりゆっくり去って行った後は、しんと静まり返った世界の中で、音を立てるものは何一つ有りませんでした。
白い狐はすっくと立ち上がりました。今日もぼんやりとしたお月さまが、空のてっぺんに悠々と腰を落ち着ける時間になったのです。ふるふると顔を振ってひげや鼻先に積もった雪を落とすと、とぼとぼとふかふかの真っ白い絨毯に足跡を残しながら、塒へ向かって帰って行きました。
* * *
湖の畔からずっとずっと続く草の絨毯を踏みしめて、すっくと伸びた木々のトンネルを深く深く歩いて行くと、そこには年を取った大きな木がどっしりと立っていました。その大きな木の下に、白い狐の塒は有りました。
きらきらと朝のお日さまに照らされて雪が輝き、塒の外はとても美しい銀色の世界となっていましたが、白い狐は元気も出ないままちらりとそんな外を見やると、動かずにまた丸まっていました。
最近白い狐はこうして、お日さまが出ている間も塒から出ない日が増えて来ました。どうにもこうにも、外に出る気も冷たい雪で遊ぶ気にもなれないでいたのです。
「また寝てるのかよ」
ひょこりと、一面真っ白だった塒の入口に、黒い何かが顔を覗かせました。白い狐と同じような顔をして、しかし全く色違いの黒い狐でした。
「こんなに雪が積もってるっていうのに、もったいない! ほら、ふかふかで、もこもこだ」
塒の入口前にこんもりと積もった雪の上を、黒い狐はぴょこぴょこと跳ね回ります。時折蹴飛ばされた雪の欠片が目元に当たって迷惑でしたが、白い狐はうるさそうに目を眇め、またふっさりとしたしっぽの中に顔を隠してしまいました。
黒い狐は意地悪そうな顔に更に意地の悪い笑みを浮かべて、勝手に白い狐の塒の中に顔を突っ込み言いました。
「ほらだから言ったろ。人間なんてみんな嘘つきだって」
つんと黙ったまま、白い狐は何も答えません。
「どうせ人間なんかに騙されたんだろ。あいつら昔から嘘ばっかついて頭悪いのにずる賢くて、悪さばっかりしやがんだ。そのくせそれらを全部、俺ら狐のせいにするんだぜ」
ふんと鼻を鳴らして苛立った様に言い捨てると、黒い狐は後ろ足で雪の山を一蹴りしました。崩された雪の山からさらさらとした砂糖みたいに、雪の粉が舞いました。
白い狐にとって黒い狐は、この山での唯一の友達であり兄弟みたいなものでしたが、彼はどうにもこうして意地悪いことばかり言うのです。
違うのにと思いながら、白い狐は聞かぬふりでつんとそっぽを向きました。
「なんだい」
そんな白い狐の態度に、黒い狐もヘソを曲げた様に、さらに悪口を続けました。
「俺見たよ? 湖に来た人間のこどもだろ? どーせ有ること無いこと言ったんだい。お前は何も知らないから、騙されたんだい」
ケラケラと笑う黒い狐にむっとすると、白い狐は起き上がってぴんと耳を尖らせました。
「ちがうもの。そんなことしないもの」
ころりと転がった星型のものに、黒い狐は首を傾げて言いました。白い狐が起き上がった拍子に、ふさふさの毛並みに隠れていたあのキーホルダーが落ちたのです。
「なんだいこれは、わ! 人間臭い!」
ふんふんと鼻を寄せると、黒い狐は顔を顰めて真っ黒な手の先っぽで鼻をさすりました。白い狐はさっと星型のキーホルダーをしっぽの下に隠すと、黒い狐に言いました。
「これを貸してくれたんだい。とっても綺麗な星だよ。中でおふねもくるくる動くんだよ」
「きれい? 真っ黒な石ころみたいじゃないか。おふねってなんだい。なんにも見えないし」
「それは……」
もごもごと口ごもる白い狐に、それ見たことかと黒い狐は得意そうに言いました。
「ほらやっぱり騙されてんだ。俺がこらしめて来てやろうか!」
「やめてよ」
やる気満々な黒い狐を迷惑そうに見て、白い狐は顔を隠していよいよ丸くなってしまいました。そんな白い狐の態度に腹を立て、黒い狐もまたぷいとそっぽを向くと、ほくほくと雪を踏みしめ去って行きました。
雪を蹴り上げながらしばらく行くと、黒い狐は白い狐の塒の方に振り返りました。
「なんだいなんだい」
つんと小さく鼻を鳴らし、誰にとも無く零します。
「人間なんて悪いんだって、あんだけ言っていたじゃないか。父さんも母さんもじいさんもばあさんも。それに俺はそんなのしっかりこの目で見て、知っているんだぜ」
黒い狐は散歩の最中、何度か白い狐と人間の男の子が湖の畔で会っているのを見かけていました。男の子が白い狐と何を話していたのかはまったく聞こえませんでしたが、どうせ悪いことを吹き込んだに違い有りません。お陰ですっかり白い狐は元気が無くなってしまったではありませんか。
黒い狐は立派なふさふさのしっぽでぼすぼすと雪を叩き、周囲に白い粉を撒き散らしました。お日さまに照らされてきらきらとした山は何処までも真っ白で、しんと静まりかえっています。
「そうだ、何にも知らない白い狐! 俺が確かめて来てやろう」
ふと思いついた名案に、黒い狐は耳としっぽをピンと立ててぴょんと跳ね上がりました。真っ白い雪の塗されたけもの道を、さっき嗅いだキーホルダーの微かな匂いを思い出しながらぽてぽて進んで行きます。キーホルダーと同じ匂いを辿って行けば、いずれ人間の男の子に辿り着くと黒い狐は考えたのです。黒い狐は山の生き物の中でも特別鼻が効くのが自慢なので、けもの道が雪に埋もれてしまっても何ら問題有りません。
湖の畔の周囲をぐるりと迂回して、夜になるとことことと電車の通る鉄橋を過ぎれば、すっかり山の外です。狐たちはお父さんやお母さんにあまり山の外へ出ては行けないと言われ続けてきましたが、悪戯好きな黒い狐はそんな事に構う事無く、何度かこっそり山を出ていました。そうして時たまみんなが悪い悪いと言う人間たちを唆したり、悪戯をしたりしては遊んでいたのです。そうやって外の世界で遊ぶ内に、黒い狐は人間たちの世界のものについて、白い狐よりも大分と物知りになっていました。
黒い狐は確かに小さな悪い事をしたことも有りましたが、人間たちと来たら本当にまあ適当なものでした。黒い狐の仕掛けた悪戯なのに、まったく関係も無い小さな子が叱られていたり。反対に黒い狐のまったく知らない事が、狐のせいにされていたり。
そういう事を見かけるたびに、なるほどなるほど、人間とは悪いし適当だし、なによりバカなのだなあと黒い狐はこっそりくすくす笑うのでした。
電車の来ない鉄橋の下に差し掛かった時、はたと黒い狐は立ち止まりました。くるくると辺りを見回し、それから自分の手や足の先っぽ、しっぽを真っ青な目でじっと見つめます。お日さまに燦燦と照らされた手や足の先っぽ、そしてしっぽは真っ黒でよくよく見えましたし、何より積もった雪が真っ白な所為で、いつもより目立って思えました。
「これじゃあダメだ」
ぽつんとそう独り言を言うと、黒い狐はくるりと踵を返します。
お日さまを見送ってお月さまが出てくる頃まで待たねばなりません。出発までの算段を考えながら、黒い狐は自分の塒へとうきうきと戻って行きました。
さて、何もかもを真っ白に照らしていたお日さまが段々と山を橙色に染め上げて、とっぷりと濃紺に塗り潰し、お月さまと交代し終えた頃です。
黒い狐は自分の塒からぴょこりと出て、朝行った道をもう一度辿って行きました。湖の畔を迂回しようとすると、今日も真っ白い草の絨毯の上で白い狐がぽつんと座っているのが見えました。
黒い狐は声も掛けず、ことこととほうき星の様な電車が去って行ったのを確認すると、今度こそ鉄橋を越えて山の外へと駆け出しました。
黒い狐はぴたりと足を止め、自慢の鼻をふんふんと鳴らしました。追っていた匂いが、鉄橋を越えるとぷつりと途切れてしまったのです。
「おかしいな?」
黒い狐は首を傾げると、集中して匂いを辿りました。どうやら、匂いは鉄橋上に続く線路に沿って、ずっとずっと向こうからやって来ている様です。黒い狐はぴょんと土手を駆け上がって鉄橋の上へと上がり、素早く駆け出しました。
突然、パァンっと大きな音が鳴りました。黒い狐は目を真ん丸くして、思わず隅っこで身を縮ませました。ほうき星の様なものは電車でしょうか、遠くから見ていたのよりもずっと早く、雷みたいな激しさで黒い狐の目の前を通り過ぎて行きます。初めてこんなに間近で見たそれは、まるで別の生き物の様です。
流石の黒い狐も驚いて去って行く電車を見送っていましたが、はっとして電車を追って駆け出しました。もしかしたら男の子は、この電車に乗ってやって来ていたのかもしれません。
凄まじい速さの電車に追いつけそうも無く、遠くなっていく灯りを追いかけて、黒い狐は悔しくて悔しくて一生懸命走りました。夢中で走り続けて、自分の体もしっぽも何だか風になった様に感じ始めた頃、目の前に漸く電車が見えました。電車は次第にゆっくりことことと音を立て、そして停まったのです。
黒い狐は人間たちが電車から吐き出されるのを見ながら、見つからないように隅っこへと隠れ、疲れた体を休めました。とてもとても疲れましたが、電車と追いかけっこをした狐なんてきっと自分が初めてでしょう。そんな事を思って得意になり、黒い狐は元気になると休憩もそこそこに再び歩き始めました。
少し高い場所を走る電車の道から逸れると、ぽつぽつと何軒かの家の灯りが灯っていました。それは黒い狐が今まで見てきた人間の街とよく似ていましたが、来たことの無い街でした。
黒い狐はふんふんと鼻を効かせました。山とは違いごちゃごちゃとした沢山の匂いが邪魔をして来ましたが、その中の微かな匂いを辿りに黒い狐はぽてぽてと街を進んで行きました。雪の積もった街はしんと静かで、人ひとり歩いていません。黒い狐はそれでも見つからないように、建物の影に隠れながらこそこそと街の奥へと進みました。
ぼんやりとした外灯がお月さまの様に照らす路の脇に、数件建物が建っていました。その内の一軒、やわらかい灯りが窓から零れている家からキーホルダーと同じ匂いが微かにします。
「ははん、ここだな?」
黒い狐はふさりとしたしっぽを一度ふわりと振ると、音も立てずに跳び上がり、塀を越えて家の庭へと入って行きました。
夜の冷気で次第に硬くなり始めた雪の上に、さくさくと足跡を残しつつ、そおっとそおっと窓の下に近付きます。こっそり窓枠の下から覗き込むと、人間の子どもが窓から外を見ていました。黒い狐は鼻先を近付けてすんすんと匂い、辿って来た匂いと照らし合わせて確かめました。間違い無く、この男の子です。
黒い狐がもっとよく見ようとそっとそっと窓ガラスの方へと鼻先を近付けた時、「わっ」という小さな声が聞こえました。思い切って覗き込むと、男の子が目をまん丸くしてこっちを見ています。その驚いた顔に黒い狐は何だか得意になって、真っ黒い体をすべて窓ガラスの前へと晒しました。男の子は目をしぱしぱさせて黒い狐の方を見ていましたが、手を伸ばしてそっと窓を開けました。
「きつね?」
黒い狐は窓の下にあるプランターの上に乗って、男の子に近付きました。男の子は少しびっくりしつつも、まじまじと狐の顔を覗き込みます。
「おいお前、悪いこどもだろう」
黒い狐はくるりとした青い目を細めて、意地悪く言いました。
「やいやい、嘘吐きこども! 白い狐は今日も真っ白、雪の中で真っ白け!」
はやし立てて歌う様に、黒い狐は言います。男の子はよく解らない様子で目を瞬いていましたが、黒い狐の話を聞いて、はっとして身を乗り出しました。
「白いきつね! 白いきつねさんは?」
きょろきょろと黒い狐の後ろの方を覗き込みますが、居るはずも有りません。
「なんだい、来やしないよ。バカな白い狐、人間なんかにだまされて。来ないこどもをずっとずっと待っている。だから俺が、ほんとうを教えてやろうと確かめに来たんだ!」
胸を張って、黒い狐はえっへんとして言いました。男の子は外の寒さに赤くなった鼻を少し擦ると、困ったような顔をしました。
「ちがうよ、嘘なんて吐いてない。会えなくなっちゃったんだもん」
男の子は悲しそうに、ほうと息を吐き出しました。大きい真っ黒な目があまりに悲しそうに揺れるものですから、黒い狐は一瞬本当かと思いかけましたけれども、それでも相手は子どもとは言え人間です。何を企んでいるか解ったもんじゃない、黒い狐はそう思い、青い両目を細めました。
「そんなこと有るかい」
「有るんだよう。お母さんったらいきなりおうちに帰るって言ったんだ。ぼく、何度もいやだって言った。きつねさんに約束したって言ったのに。でも帰って来ちゃったもんだから、会いに行けないんだもん」
「何だいそれは、行けばいいじゃないか。俺なんてやって来たぜ? あの湖のもっと向こうの、山の奥の塒から。電車なんかと競争して来たぜ?」
誇らしげにフフンと鼻を鳴らして言う黒い狐に、男の子はちょっと唇を尖らせて言いました。
「ムリだよ、こどもだもの」
「こどもが何だい。行けないなら俺が連れて行ってやろうか?」
黒い狐がそう言って、ふっさりとした黒いしっぽを一振りして立ち上がると、男の子はふるふると首を横に振ります。
「ムリだよ。こどもは勝手に遠くに行っちゃいけないし、勝手に夜に外に出ちゃ行けないんだ」
「ふーん。こどもってのは不便だな」
ふむ、と小首を一つ立てに振り、しかし黒い狐はけたけたと意地悪く笑いました。
「でもどうにせよ、白い狐は待ちぼうけ。人間のこどもは会いに来ない」
「そんなこと無い! 行くもん!」
男の子が小さな頬をりんごの様に真っ赤にして反論したその時でした。閉められた部屋のドアの向こうから、女の人の声がします。
「お母さんだ!」
男の子がそう声を上げるよりも少し早く、黒い狐は獣の勘でプランターから下り、影へとその身を隠しました。大胆不敵な悪戯好きとは言え、あまりに堂々と人間に見つかってしまったら、捕まってどうされてしまうか解りません。
「なんでもない! 大丈夫!」
黒い狐はピンと耳を立て体を緊張させていましたが、女の人の声はもう聞こえては来ず、
代わりに男の子のほう、というため息が聞こえてきました。何やら会話をしていた様でしたが、焦って隠れた黒い狐には何を言っているのかは聞こえませんでした。
黒い狐はくるりと窓の前へと躍り出ると、塀の方へと体を向け、再び窓の外へと顔を覗かせた男の子に向かって言い放ちました。
「大人じゃないか、危ない危ない! 人間の大人になんか見つかったらろくな事ない!」黒い狐は真っ白な雪の上をくるくると三度回り、
「もう帰る! 人間のこどもは嘘つきだった、白い狐にそう言ってやるのさ、帰らないとね」
可笑しそうにそう言って、ピンと張ったお髭を撫ぜました。
そのままぴょんと空にまで飛び跳ねてしまいそうな勢いの黒い狐を、待って、待ってと男の子が呼び止めます。そして男の子は胸の高さまである窓の枠に手を置くと、真っ赤な頬を膨らませ、窓の外へと身を乗り出しました。
「行く! ぼくも行く! 連れてって!」
そう頬を真っ赤にして言うと、よじよじと窓枠に足を掛け、ぴょんと跳ねて庭へと着地します。ぬくぬくとした部屋の中から飛び出してきた男の子は、真っ白な雪の上に小さな足を付くやいなやぴゃっ!、と声を上げました。
「つめたい!」
冬の寒い夜でしたので、男の子はあたたかな寝巻きとガウンを着こんでいましたが、もこもことしたくつ下も雪の冷たさには歯が立ちません。
黒い狐はしらんぷりして帰ってしまおうとしましたが、男の子は小さな足が冷たいのかぴょこぴょこ跳ねながら、ひっしと黒い狐に抱きつきました。
「わ! 何すんだい!」
おどろいた黒い狐は、しっぽをぶわりと広げて逃げようとします。けれども男の子はぎゅっと抱きついて離れてくれません。
「離せ! 離せって!」
「やだ! やだい!」
黒い狐はぶるぶると身を捩りましたが、それでも男の子は踏ん張り続けます。
「なんて頑固なこどもだろう!」
「だってぼくはあやまらないとダメなんだい。約束を破ってしまったもの。連れてってくれるまで放さないもん」
ぎゅうぎゅうと、黒い狐を抱きしめる力はどんどんと強くなっていきます。黒い狐は観念すると、わかったわかったと弱ったように言いました。
「わかったわかった、まいったまいった! 行こう行こう!」
黒い狐は器用に体をくるりとひねり、男の子を背に乗せると、開け放しの窓へと近付き言いました。
「行くとなったら準備だ準備! 逃げやしないから、毛皮を着といで。そんな薄い足の皮じゃ凍えっちまう」
男の子はうん、と元気にお返事すると、窓から部屋の中へと戻り、濡れてしまった靴下を脱いで、そっと箪笥の引き出しから洗濯されたくつ下を取り出しました。ちらちらと黒い狐を見て来るので、
「まだいるよ、まだいるよ」
と黒い狐は小さな声で男の子に伝えてやります。いそいそと新しいくつ下に履き換えると、男の子はそうっとドアの向こうへと消えて行きました。姿の消えてしまった男の子が何をしているのかは解りませんでしたが、黒い狐は窓の前で大人しく座って待っていました。なんせしんしんと冷える外はこんなにも寒く、凍えてしまいそうな夜なのです。男の子がドアの向こうからここへと戻って来るのか、本当に白い狐に会いに行くつもりなのか、黒い狐はうきうきと待ちました。
(きっとイヤになるに違いない。あったかい部屋から出たくなくなるに違いない。そうしたらほうら嘘つきだった、お前に会うのがイヤになったんだ、とんだ薄情ものだったと白い狐にたくさんたくさん言ってやろう。そしたら白い狐だって、こんなイヤな奴を待つのなんてやめるに違いない)
黒い狐はそんなことを考えながら、ゆらゆらと黒いしっぽを揺らしました。しかし、右に、左に、それぞれ十回程しっぽが行き来した頃、ドアの向こうから何かを持った男の子がそろりそろりと戻って来ました。黒い狐はやや、と目を瞬かせました。男の子は左胸に手を当てるとふうと大きく息を吐き出し、お部屋の中をくるくると動き回って準備をしているようでした。黒い狐は興味がわいて、そっと窓から部屋の中を覗き込みました。男の子は床に並べた物たちを、黒い狐に見せながら言います。
「これがくつ」
「くつ? なんだいそれは」
「足にはくんだよ。寒くないし、汚れない」
「はぁなんだいそりゃ、人間の足は不便だ不便」
「これは懐中電灯」
「かいちゅう? なんだいそれは」
「電気だよ。真っ暗な中でも光るよ」
「はぁなんだいそりゃ、そんなもん無くたって、狐にゃ夜でも何でも見えるぜ」
誇らしげに髭をぴんと張る黒い狐を笑うと、男の子はまた新しいものを持って来ました。
「やや、それは上等な毛皮じゃないか」
薄水色の大きな毛皮に、男の子はすっぽりと包まれていました。黒い狐は少しだけ負けた気がして、立派できれいな黒いしっぽを大きく見せる様にピンと立てました。
「毛皮じゃないよ、これは毛布」
薄水色の毛布に包まれた男の子は、何だか体が大きくなって見える気がします。
「準備できた! さあ行こう」
男の子はそう言うと、懐中電灯を毛布の中へとくるりとしまい、靴を窓の枠へと置いて身を乗り出しました。そして窓枠に腰掛けて靴をはくと、雪の積もった庭へと再び降り立ちました。
準備万端な男の子を、黒い狐はじっと見つめました。きらきらとした男の子の目は、なんだか今まで黒い狐が見てきた様な、意地悪でバカな人間のものとは違って見えました。
はて、と黒い狐は小首を傾げました。白い狐が騙されていることを確かめるためにこんな遠くまでやって来ましたが、男の子がそんな事をする様にはだんだん思えなくなってきたのです。けれども男の子も人間です。子どもとは言えずるがしこく、適当な事を言っているのかもしれません。でも、だとしたらこんな寒い冬の夜に、白い狐に謝りに行きたいなどと言うでしょうか。
黒い狐は悩みました。黒い狐は狐の中でも物知りで、よく働く頭の持ち主でしたが、うーんうーんとその場で三回くるりと回ってみても、よく判らなかったのです。
「よし、わかった」
黒い狐は意を決し、薄い水色の毛布に包まった男の子をひょいと背中に乗せました。きっと白い狐は、男の子がやって来たらとてもとても喜ぶことでしょう。もしも男の子がやっぱり嘘つきで、白い狐に会うなりひどい事を言うようなら、その時は湖にでも落としてこらしめてやればいい、黒い狐はそう考えて、しっぽをぐるりと回すと男の子に言いました。
「しっかり首へとつかまってな!」
自分と背格好の変わらない男の子はさすがに重く感じましたが、それ以上に黒い狐は不思議と心が躍りました。
今、人間を背中に乗せている! こんな経験をしている狐はきっと多くないはずです。
黒い狐はどんどん張り切って来て、真っ黒な右の前足で二、三度柔らかく雪を掻くと、弓の様にからだをしならせ男の子の家の庭から飛び出しました。
ひゃあ、と男の子は声を上げました。すごい速さです。黒い狐はびゅんびゅんと夜の風を切って走り、薄水色の毛布はまるでおとぎ話の騎士のマントの様にはためきます。
不思議と寒くはなくて、男の子はほっぺがぽかぽかと暖かく感じました。男の子は、誰かに見られたらどうしようという気持ちと、誰かに見てほしいという自慢したい気持ちがない交ぜになってどきどきしていましたが、とっぷりとした紺色の空に浮かぶお月さまと星たち以外に、男の子と黒い狐の走りを見守るものはありません。
通り過ぎていく電灯や曲がり角を数える間も無く、目の前には駅が見えて来ました。男の子がおばあちゃんの所に行く際、電車に乗る駅です。黒い狐は入り口から駅に入るのでは無く、右に曲がってホームの方へと向かいます。そして土手を駆け上がり、壊れてたわんだ柵をぴょんと一越えすると、ホームを駆け抜け線路の上へと乗りました。
元来た方へと真っ直ぐ真っ直ぐ走ります。黒い狐はちらちらと後を気にしましたが、電車はもう走っていないようでした。
「なんだい電車、さっき俺に負けたのがくやしかったのかい」
黒い狐はますます上機嫌になって、走るスピードを速めました。男の子は飛ばされまいと、黒い狐に捕まる腕に力を込めます。
街を離れ、駅を離れた線路の周りはどこまでも真っ黒で、男の子は不意に怖くなりました。まるで真っ黒な分厚いカーテンに何もかも覆われて、隠されてしまったかの様です。
「そうだ!」
男の子は声を上げると、落とされない様に気を付けながら上手に毛布の中から手を出して、懐中電灯を取り出しました。そしてスイッチを入れると、黒い狐の頭の上から進む先を照らします。鈍色の線路が懐中電灯の光を反射して、キラリと鋭く光りました。
「おいおいそりゃどんな小さいお月さまだい!」
黒い狐は走りながら驚いた様に言いました。ごうごうと鳴る風の音に負けじと、男の子も大きな声で答えます。
「懐中電灯だって。これで周りも見えるよ」
男の子は黒い狐の足元から、線路の周りへと懐中電灯を当てなおすと、真っ黒だった風景がうっすらと浮き立ちました。その風景は電車から何度か見ている景色にも関わらず、まったく知らない異国のものの様です。夜の齎す青さと雪の白さばかりの、何もかもが眠ってしまった美しい風景でした。暗闇に慣れて来た目で空を見上げると、お月さまだけでなく沢山の星たちのきらめきもはっきりと見えて来て、ただたださびしく思えた景色が宝石によって彩られて見えました。
黒い狐はぐんぐんとスピードを上げ、まるで一筋の電車になってしまった様でした。
(すごいや、きっと電車になった狐は俺が初めてだ!)
黒い狐は嬉しくなって、心の中で跳ね回りました。そしてぐんぐんぐんぐん速く速く走って、もう電車さえも越えて、一筋のほうき星にさえなってしまった様でした。
どれ位走ったでしょうか、びゅんびゅんと流れていく景色の先に鉄橋が見えて来て、男の子は「ここだ!」と声を上げました。この鉄橋の近くに、白い狐と出会った湖が有る事を覚えていたのです。鉄橋の上へと進むと、男の子は一生けん命首をのばして、鉄橋の下の湖を覗き込みました。こんな夜更けです。白い狐はもうとっくに帰ってしまっているかもしれません。男の子は懐中電灯を橋の下に向け、雪に覆われた草原の上を目を凝らして探しました。
すると、いるではありませんか! ぽつんと小さな白い体が、お行儀よく湖の畔に座っていたのです。
「おーい! おーい!」
男の子は声を上げると、懐中電灯を空に向けて振りました。手元の懐中電灯から一筋の光がお月さまたちの方へ真っ直ぐ真っ直ぐ向かって伸び、男の子の手の動きに合わせて右へ左へと揺れています。
真っ直ぐ真っ直ぐ線路を走っていた黒い狐はくんと左に曲がり、雪の塗された線路の砂利を蹴り上げると今までで一番高くジャンプしました。まるで空を飛んでいるようで、男の子は今までで一番近い所から、お月さまを見たように思いました。
「おーい! おーい!」
今夜もまたひとりぼっちで湖に来ていた白い狐は、微かに聞こえてきた不思議な声に耳をそばだてました。
電車はもうとっくに行ってしまい、ひゅうひゅうと耳を掠める風の内緒話が聞こえているだけでしたのに、突然聞こえてきた声に白い狐は辺りを見回します。すると、電車の行ってしまったはずの鉄橋から、一筋の白い光が、真っ直ぐお月さまの方へと伸びながら右へ左へと揺れているでは有りませんか。白い狐はびっくりして、ぴょんと立ち上がりました。まるでほうき星の様な電車が戻ってきて、こちらに向かってくる様に思えたのです。
どうしよう、白い狐は右往左往しました。何せ、電車がこちらに向かってくる事なんて今まで一度として無かったのですから。あんな速いものがここまで来てしまったら、この湖はどうなってしまうのでしょう。
しかし、白い狐がうろうろと困っている間にも、真っ直ぐに伸びた一本の白い光はぐんぐんと近付いて来ます。白い狐は思わず身を縮ませました。あまりの不安にぎゅっと固く目を瞑ってしまおうかと思った時です。白い狐はあれ?、と思い、じっと目を凝らしました。とてもとても早く走る、薄水色のマントをたなびかせた黒い小さな獣――白い狐も良く知る、黒い狐だったからです。
鉄橋から飛び下り、ぴょんぴょんと跳ねながらこちらへと向かって来た黒い狐は、たっしと湖の畔に着地しました。そして少しばかりスピードを落とし、微かに揺れる草の中を白い狐の方へと向かって来たのです。
「やぁ、やぁきみ。どうしたんだいこんな夜更けに」
白い狐は問い掛けました。
「おい見たかい。俺は電車になったんだ!」
黒い狐は白い狐の質問にも答えず、頬を高潮させて嬉しそうにしっぽをぶんぶんと振っています。黒い狐は確かにまるで電車の様な速さで走って来たものですから、白い狐もうんうんと頷きました。
「そりゃきみ、まるで今ほうき星の様な速さだったよ」
白い狐の反応に気を良くした黒い狐は、髭をピンと張って更に得意気に言いました。
「そうだろそうだろ、でもそれだけじゃないぜ。俺は人間を運んで来たんだ」
そして背中に乗せていた薄水色の塊を、そっと背中から下ろしました。白い狐は不思議に思い、黒い狐の後ろにある薄水色の塊をいぶかしげに見ていましたが、なんと薄水色の塊の中から、隠れていた男の子がひょこりと顔を出したのです。
ぴゃっ、と白い狐は飛び上がりました。男の子です。薄水色の塊の正体は、ずっとずっと待っていた男の子だったのです。
白い狐は目を白黒させて、しかしあまりの嬉しさにその場を飛び跳ねました。
「男の子だ! 男の子だ! ほら、きみ、やっぱり男の子は嘘つきなんかじゃなかった!」
黒い狐に向かってそう言いながら、白い狐は雪の粉を蹴り上げて、まるでうさぎの様にぴょんぴょんくるくると回ります。
「白いきつねさん!」
男の子もまた飛び跳ねたい程の嬉しい気持ちでしたが、しかし白い狐に呼びかけると深々と頭を下げました。
「ごめんなさい!」
男の子のまあるい頭のてっぺんが向けられて、白い狐は跳ねるのを止めました。白い狐には男の子が頭を下げている意味が解らず小首を傾げていましたが、男の子は続けて言いました。
「約束したのに、来られなくてごめんなさい! ずっとずっと待ってくれてありがとう」
その様子を見ていた黒い狐は、男の子の言葉に感心した様に髭を一撫でしています。
男の子の見せるポーズがごめんなさいのポーズなのだと解ると、白い狐もまた慌ててぺこりと頭を下げました。
「ぼくこそ! ぼくこそごめんなさい」
そしてふっさりとしたしっぽの中に隠していたものをそっと取り出し、白い狐はおずおずと男の子の前へと差し出しました。光を失ってしまった真っ黒い星型のキーホルダーは、白い狐の手の上でしんと静まり返っています。
「お星さまが死んじゃった……」
白い狐はぺたりと耳を垂らし、今にも泣きそうな声で言いました。男の子に会えた嬉しさで忘れてしまっていましたが、そうです、自分は大切なお星さまを助けられずに、とんでもないことをしてしまったのかもしれなかったのです。
白い狐は、男の子が怒ったり悲しんだりしてしまうのではと思うと怖くて顔を上げられませんでした。
「それなら大丈夫!」
しかし、想像もしていなかった明るい声で男の子が言います。白い狐が驚いて顔を上げると、男の子が薄水色の毛布(白い狐にはそれはもう上等な毛皮に見えました)の中から、筒状の物を取り出しました。
「カイチュウデントウだぜ?」
黒い狐が得意そうにふふんと言います。白い狐がカイチュウデントウという言葉を反芻している間に、男の子は懐中電灯のスイッチを入れました。突然筒の先から真っ白く真っ直ぐな光の線が伸びます。白い狐は鉄橋から見えたものの正体はこれだったのだなぁと感心しました。
男の子は光を消した懐中電灯から電池を取り出すと、白い狐から受け取ったキーホルダーの電池を取り出し、交換して入れ替えました。狐たちには男の子が何をしているのかまったく解りませんでしたが、興味津々に身を寄せ合って男の子の手元を覗き込みます。
「ほら!」
男の子がそう言うと、真っ黒だった星が不意に七色の光を取り戻しました。沈んで消えてしまっていた帆船は再び虹色の波の中を揺蕩い、小さな星の中をゆらゆらと動いています。
「すごい! すごい! お星さま生き返った! お船もくるくる戻って来た!」
白い狐はしっぽをぴんと立てて、ぴょんぴょんと跳ね上がりました。
「一体どんな魔法だい」
黒い狐は驚いた様に、声をひっくり返らせて言います。
「電池だよ。きっと無くなっちゃったんだ」
「デンチっていう魔法かい!」
黒い狐もまた白い狐の周りをくるくる跳ね回りました。
ああ、なんて素敵な夜でしょう!、白い雪の上を跳ねながら白い狐は思いました。
さっきまであんなにさびしく感じられた場所が、とてもたのしい素敵な場所に戻ったのです。夢の様な沢山の色が、七色の星によって真っ青でさびしいだけのこの場所に戻ってきたのです。そして男の子と黒い狐と共に、あたたかさが帰ってきたのです。
あんまり狐たちがよろこぶものですから、男の子も嬉しくなって毛布をはためかせ、一緒にぴょこぴょこ跳ねました。真っ白い雪の草原の上を、黒と白の狐と薄水色の男の子が鞠の様に跳ね回り、雪の粉がきらきらと舞っています。
「よかったよかった、会えてよかった!」
「ぼくも! ぼくも嬉しい! お母さんの言いつけ守って、会いにいけなかったんだもん! ぼく本当に悲しくて、それで……」
しかし、ふと男の子はスキップしていた足を止め、はっとてのひらで口を覆いました。困った様に止まってしまった男の子に、どうしたんだいどうしたんだいと黒い狐、白い狐の順に問い掛けました。さっきまでの元気が急にしおれてしまったのです。
男の子は眉をハの字にして呟きました。
「ぼく、今度はお母さんとの約束破っちゃった……。夜はお外に出ちゃいけないって言われてるのに、お母さん、お部屋にぼくがいないからびっくりして心配してるかもしれない……」
とうとうぼそぼそと声まで小さくしてしまった男の子を、白い狐は心配そうに見つめました。大人の狐たちから人間の世界に行かないようきつくきつく言いつけられていた白い狐には、男の子の気持ちが何だかわかるような気がしたのです。
しかし、悪戯好きの黒い狐はあっけらかんと言いました。
「何だいそんなもの。見つかっていやしないやい。お母さんなんてもの、気づいていやしないよ。だってお母さんになんか、俺の姿を見られてなんていやしなかったじゃないかい」
「でももう、お部屋にぼくがいないことに気付いちゃったかもしれない」
「何だい、白い狐との約束を守りに来たのがそんなに悪いことかい。お母さんとやらの都合で、白い狐は待ちぼうけだったのに。それをお母さんがどうこう言う謂れが有るかい!」
黒い狐は自分のことの様に憤慨し、白い雪をたしたしと後ろ足で蹴り上げました。男の子も、白い狐にもう会えないという時には本当に本当に悲しく思い、お母さんたちに腹も立ちましたが、それでも黒い狐の様に怒る気にはなれなかったのです。
「でも、お母さんも夜道は危ないって心配してくれてるんだもん。ぼく、わかる」
男の子はますます気を落としてしまった様で、黒い狐と白い狐は顔を見合わせました。黒い狐は鼻をフンと鳴らすと、ぺたりと前足を雪の上に着き、鉄橋の方に体を向けました。
「仕方がない、人間たちなんて勝手なんだ、どんな理由で怒り出すかわかったもんじゃない。とにかく気付かれる前に早く帰る、それがいい! 」
男の子は、黒い狐の言い分には頷きかねましたが、急いで帰らなければいけないという事には賛成だったのでこくりと首を縦に振りました。
「ぼくも行く!」
白い狐も言いました。
「もしきみが怒られたら、ぼくがお母さんとやらに、きみが約束を守りに来てくれただけなんだよって話すよ! ごめんなさいって一緒にするよ。さあぼくの背中に乗って」
物静かだった白い狐もピンと尻尾を立てて言うので、男の子はとても心強く思ってもう一度こくりと頷きました。
薄水色の毛布に包まり直すと白い狐の上に乗り、真っ白でふかふかの体に抱きつきました。白い狐の体はまるで雪の様に真っ白なのに、あたたかくて不思議な感じがします。
「なんだい、俺が乗っけてやるのに! 人間を乗っけないと電車になれないだろ」
キャンキャンと黒い狐が文句を零しましたが、白い狐は
「ぼくだって男の子を乗せて走りたいやい」
と答えて、ぱっと雪の草原を蹴り上げて鉄橋の方へと駆け出しました。ふわりと湖の畔を飛び、まるで蝶の様なやわらかさで進んで行きます。黒い狐の雷の様な鋭さとは違った、静かな速さでした。
「きみも走るの速いね」
男の子がほうと感動してそう零すと、白い狐の耳が恥ずかしそうにぴくぴく動くのが見えました。
黒い狐はしばらく文句を言って膨れていましたが、直ぐに白い狐に追いつくと隣を走り始めます。正反対の色をした二匹の狐が、暗闇の鉄橋の上をぐんぐんぐんぐん進んで行きました。男の子には不思議と、湖に来た時の様な不安は有りませんでした。白い狐にもちゃんと会えましたし、何より今は狐が二匹も味方でいてくれるからかもしれません。
お月さまは変わらず空の高い所から男の子と狐たちを見守っていましたが、先程よりもその位置は高い場所へと移動していました。白い狐の白い毛皮がお月さまのひかりを反射するせいでしょうか、懐中電灯を使わなくても周りは明るく見えました。
同じ道を走っているのに、駅から湖にやって来た時よりもずっと早く駅が見えて来ました。来た時同様人の気配はまったく有りません。ぴょんぴょんと二匹の狐は駅のホームに駆け上り、今度は寝静まった構内を抜けて改札から街へと出ました。駅員さんはとっくに帰ってしまったのでしょう、狐たちと男の子を止める人は誰もおらず、男の子はひっそりと胸を撫で下ろしました。
「こっからは俺が案内するぜ」
駅を出るなり、黒い狐が一歩前に出て、鼻をひくひくさせながら走り始めます。白い狐は初めて来た街に目をきょろきょろとさせていましたが、今は男の子を送り届ける方が先だと考えているのでしょう、どきどきを隠して一生懸命走りました。
ぽつぽつと灯りの点った家々では、それぞれの家族が暖かい団欒の時間を過ごしているのでしょう。その内の一つに自分の家が見えて来た時、男の子の心臓はバクバクと割れそうに音を立てました。お母さんに怒られたらどうしよう、その事で頭がいっぱいになってしまったのです。
狐たちはしなやかに体を跳ねさせ、塀を越えて男の子の家の庭へと降り立ちました。雪に着地する微かな足音以外には、物音一つ有りません。家の窓からは橙色の柔らかい光が漏れていて、お父さんとお母さんがまだ起きていることを伝えていました。
狐たちと男の子は身を低くし、そろりそろりと男の子の部屋の方へとぐるりと庭を回りました。男の子の部屋の窓は、出てきた時と同じ様に開けっ放しになっていました。
「そら、行け!」
黒い狐が小声で言います。男の子はふわりと白い狐の背中から降りると、急いで窓をよじ登りました。窓枠に登った状態で庭の方へと靴を脱ぎ捨て、部屋の中に転がる様に入ります。部屋の中は男の子が出て来た時のまま、何も変わらずしんとしていました。どうやらお母さんには気づかれていない様でした。男の子はぺたりと座り込み、はぁーと大きく大きく息を吐き出しました。心の底から安心したのです。
白い狐は、鼻先で窓枠の上へと恐る恐る男の子の靴を並べてあげました。
「ありがとう、だいじょうぶだったよ」
男の子は靴を受け取りながら、心配そうに見ていた狐たちに小声でお礼を言いました。黒い狐と白い狐は顔を見合わせ、声を上げて喜ぶ代わりにしっぽを二、三度ゆらゆらと振ります。
男の子は薄水色の毛布をベッドの上へと畳み、電池の無くなった懐中電灯を床に置くと、少し考え込んでからこう言いました。
「でもぼくやっぱり、お母さんにあやまらなくちゃ。約束を破ったから、あやまる」
黒い狐と白い狐はそれぞれ違った色をした大きな目をぱちりと瞬くと、驚いた様に小首を傾げます。
「なんだいせっかく見つかる前に急いで帰ったのに。馬鹿だなぁ」
黒い狐は呆れた様に言いました。けれども、今まで見てきた他の人間たちの様に男の子のことを愚かしいとは思いませんでした。これが素直で正直という人間の性質だということを黒い狐は知りませんでしたが、何だかとても良いものだと感じたのです。だからそれ以上、男の子に意地悪を言うのは止めにしました。
白い狐は慌てた様に窓の方へと近付くと、しっぽを鼻先に埋めて何かを取り出しました。
「これ、これをあげる」
男の子は不思議そうな顔で、白い狐の差し出したものを右掌で受け取ります。それはふわふわとしたたんぽぽの綿毛みたいで、まるでうさぎのしっぽの様なまっしろい毛玉でした。
「これは狐の毛皮玉。お母さんに怒られたら、狐との約束を守った証拠として見せるんだよ。白い狐と会ってた証だよ。ぼくはお母さんにお話できないけど、これできっと信じてくれるよ」
白い狐は、どうか男の子が怒られませんようにと思いながら伝えます。
男の子はきもちのいい手触りの毛玉を大切そうに受け取ると、「ありがとう」とお礼を言い、代わりに左掌に握りこんでいた星型のキーホルダーを白い狐に差し出しました。
「じゃあぼくもこれあげる。返してもらったけど、今度はきみにプレゼントする」
白い狐は銀色の目を白黒とさせて、おずおずと手を差し出しキーホルダーを受け取りました。白い狐の小さな両手に乗ったキーホルダーのスイッチを、男の子はカチリと入れてあげました。静かに眠っていた星の中で再び虹色の光がうねり出し、帆船は再びの新しい航海へと出発しました。
「電池が無くなったら、また変えてあげる。光らなくなっても、死んじゃうわけじゃないから。また、きっとまた会いに行くから」
男の子の言葉に、白い狐はうんうんと大きく首を縦に振りました。もしかしたらきっとまた、男の子はなかなか湖まで来ることができないかもしれません。けれど、今夜の様な素敵なことが起こったのです。白い狐は、この約束とキーホルダーを大事に大事にしようと心の中で決めました。
黒い狐も、誇らしそうに胸を張って言います。
「そうなったら、また俺が電車になってやろう!」
男の子と白い狐は、黒い狐の頼もしさに顔を見合わせてにこりとしました。
「さあ、行って。見つかっちゃう」
名残惜しくは有りましたが、このまま居ると何時人間の大人に見つかってしまうか解りません。お父さんやお母さんが狐たちにひどいことをするとは思えませんし、二人に狐たちを紹介したい気持ちはたくさんでしたが、けれどもまだ人間の大人に対する狐たちの警戒も解りましたので、男の子はそう言いました。きっといつか近い内、お父さんとお母さんにも狐たちを紹介できる日が来るように思えました。だって狐たちは、こんなにすてきでやさしい狐たちなのですから。
「今日はありがとう、また会おうね」
黒い狐と白い狐は返事の変わりにくるりとしっぽを回すと、ぱっと雪を蹴り上げて塀を越えて行きました。黒い体と白い体がまるでほうき星の様に夜空へと消えて行くのを見送ると、男の子は白い毛玉を手に持って、お母さんのところへと向かいました。
「お母さん、お母さん」
そうして男の子のごめんなさいと今夜起こった素敵なことの話を聞いたお母さんが、白い毛玉をきれいだとほめてくれたこと、そのことを白い狐が知るのは、また別の夜のお話です。
黒い狐と白い狐は並んで線路を走りました。お月さまとお星さまはきらきらと瞬いて、お疲れ様と二匹に言っている様です。二匹の狐は何だかとてもいい気分でした。
「ほら、嘘つきじゃなかったよ」
白い狐は黒い狐に嬉しそうに言いました。黒い狐は少しだけ面白くなさそうに、けれども嬉しそうにフンと鼻を鳴らします。
「あの人間のこどもはいい人間だ。それは認めてやろう」
わざと意地悪くそんな風に言うので、白い狐は黒い狐の口ぶりが面白くてくつくつ笑いましたが、
「そしてきみもいい狐だ。心配してくれてありがとう」
とお礼を言いました。黒い狐は返事をする代わりに、ピンと立てたしっぽをぶんぶんと大きく振りました。
黒い狐と白い狐の小さな体が、鉄橋からぴょんと消えると湖の畔を滑る様に駆け抜けていきます。二匹は今夜の素敵な出来事を思い返しながら、塒の方へと帰って行きました。
白い狐のしっぽの中では、星型のキーホルダーが虹色の光を放っています。透かし彫りの美しい帆船は、いつまでもいつまでもくるくると波の中を揺らぎ続けていました。
おわり