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サプライチェーン異常なし!  作者: ナナチャ
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美人女性コンサルの物流改善日誌

注目を集める物流業界に飛び込んだ美人女性コンサルが物流現場改善と恋愛の狭間で葛藤しつつも成長していくストーリーです。


売れっ子物流コンサルタント


2023年12月東京

 押出しのよい小太りの物流コンサルタント竹本健三が主催する「サプライチェーン・ロジスティクスセミナー」の会場には立すいの余地がないほど、受講者が詰め掛けていた。セミナー会場には異様とも思える熱気が渦巻いていた。

 近年、物流セミナーへの企業の関心が高まっているが、竹本のセミナーも開けば満員、大盛況であった。

 今年45歳になる竹本は物流コンサルタントとして絶大な人気を誇っていた。大手総合物流企業として知られる山本通運の経営企画部の部長として多くの荷主企業の物流改善を行った経験をもとに独立、みずから「タケモト・ロジスティクス・コンサルティング」(TLC)を設立し、さまざまな企業の物流コンサルを行っていた。

 竹本はプロジェクターで投影された画面に目を見やりながら解説を始めた。この日のテーマは「陳腐化商品在庫と物流効率」についての基本事項の説明であった。

「今日はSCMにおけるオブソリュートストック、すなわち陳腐化商品在庫について説明しましょう。オブソリュートストックとは、商品価値のなくなった貯蔵品のことです。つまり新鮮味や新規性のない陳腐化した商品です。デッドストックになっていることがほとんどなのですが、バランスシートには在庫資産として計上されたままになっています。デッドストックをなくすためには、需要の発生時点と実際の調達、製造、流通のオペレーション時期との時間差を最小限にする必要があります。しかし、受注生産が可能でない商品の場合、デッドストックの発生はある程度、しょうがないとも考えられます。見込み生産の場合、売上げの三割程度はデッドストックになると考えられています。」

竹本が巧みな話術で受講者を魅了しながら物流改善の方策を説明すると会場のあちこちで真剣な眼差しで参加しているセミナーの受講者の何人もがうなずいていた。

「オブソリュートストックは一般的な在庫コストとは違うサプライチェーン上のコストです。デッドストックのコストは財務会計上は明確化されません。また、生産部門からも販売部門からも完全には管理できない在庫となります。つまりオブソリュートストックを回避するにはSCMの緻密な構築と情報共有の徹底が不可欠となるのです」

 プロジェクターで大画面に投影されたパワーポイントの画面が毎分のように小気味よく動く。そして竹本の丁寧な説明が続く。

「SCMで重要なのはキャッシュフローの増大、つまりカネの流れをよくすることにあります。陳腐化商品在庫を最小化することがそのための必然策となります。だから近年は受注生産が重視されるわけで酢。これはSCM理論で難しくいうと、調達、生産、物流のオペレーションの同期化を図るということになりますが」

 竹本は、静まりきったセミナー会場をゆっくりと見回した。


ロジスティクスを研究する女

セミナーを終えると、竹本はセミナー控え室でゆったりと煙草をふかした。

ゆっくりと立ち昇る煙が、蛍光灯の光の中にゆらゆらと映し出されている。二時間近くに及んだセミナーのあとの煙草の味は格別であった。竹本は酒も煙草も女もほどほどに好む。「酒、煙草、女、今はこの順番で好きだな。若いときはこの逆、つまり女、煙草、酒の順番で好きだったけど」と竹本はよく部下たちに冗談まじりに語っている。

しかし、酒よりも煙草よりも女よりも、彼が好きなのは仕事かもしれない。「物流コンサル」という仕事である。かつて世界的に著名な経営学者のピーター・ドラッカーは「物流とはビジネスにおける二十世紀最後の暗黒大陸だ」といった。その言葉には「二十一世紀には物流の可視化が進み、暗黒大陸が文明大陸に変わる」というニュアンスもある。物流こそが二十一世紀のビジネスで中心的な存在になるというのだ。竹本は、物流コンサルを行うことによって、苦境にあえぐ企業が経営を改善し、やがて上昇していくさまを見ることが何よりも好きだった。無論、彼のコンサル全てが成功しているわけではない。成功もあれば失敗もある。しかしそれを彼は「自らの物流コンサルの進化の過程」と考えている。

「竹本先生」背後から声が聞こえてきた。若い女性の声である。

「はい、何か」

「白石美咲です。覚えていますか」端整な顔立ちに長髪がよく似合う。

だが竹本はすぐには思い出せなかった。

「もう三年くらい前のことなんですけど、先生のセミナーに参加したことがあるんです。そのあと大学の卒業論文でロジスティクスの事例研究に取り組んで、先生から佐農運送の系列のソフトウエア会社も紹介していただきました。あの時は今よりも髪の毛がずっと短かったんですけど」ずっと聞き惚れていたくなるほどの美しく澄んだ声である。

竹本はようやく思い出した。

「ああ、覚えているよ。確かウエブを活用しての在庫システムの研究をしていた慶早大学の学生さんだったね。実家が物流関係の仕事をしているとかでロジスティクスに興味をもっているとかいっていたかな。大学を卒業してから家電大手の松上電機に就職したとか」

「はい」美咲は答えた。

「でも結局、入社して二年ほどでやめてしまったんです。松上電機では営業関係の仕事をしていたんですけど、どうもその仕事が性に合わなくて…」

「そうですか。それで最近は、どうされているのですか」竹本は訊ねた。

「ええ、どうしても物流の研究がしたくて、大学院の入学試験を受けました。あまり勉強はしてなかったのですがどうにか合格できました。それでこの春から慶早大学の大学院に進学することになります」

「あなたのような方がそこまで物流に入れ込むとは、面白いですな」 

竹本はうなずいた。美咲の話に興味が沸いてきたようである。


部分最適と全体最適

控え室のドアをノックする音がした。タケモト・ロジスティクス・コンサルティング(TLC)の社員、井上圭介が入ってきた。長身で三十代半ばの井上は竹本の山本通運時代の部下だった。税理士の資格も持っている。今はTLCの事務方の複雑な仕事を一手に引き受けている。竹本にとっては右腕のような存在である。

「社長、来週末が締め切りの『月刊物流改善』のSCMの用語解説、どうしましょうか」井上がメモ帳を片手に訊ねた。竹本が書いた記事をワープロで打ち直し、電子メールで出版社まで送るのは井上の仕事である。来月分の原稿がまだできあがっていなかったのだ。このところセミナーや講演が相次いでいて、竹本の執筆活動は遅れ気味になっていた。何人かの物流マスコミの関係者から「竹本先生も一度、ホテルで缶詰めになって原稿を書いてもらうかもしれませんよ」とも言われている。もともと現場の仕事の好きな竹本にとって最近は原稿書きが苦痛になってきていた。

「ああ、そうだったな。俺は来週いっぱい、星王製菓の物流改善の件で忙しいから、自分で書き上げる時間は、きっとないなあ。今日もこれからその件で大阪に行かなきゃならないし…。今回は君がわが社を代表して書いてくれよ」

『月刊物流改善』には毎回、TLCの広告が載る。それに合わせていつもは竹本がSCM関連用語の解説を書いている。連載は好評で関連の問い合わせも多い。出版社から「そろそろまとめて本にしたらどうですか」と打診されてもいる。

「そんな…。どんなことを書けばよいのでしょうか」井上の表情は不安げだ。

「今回は部分最適と全体最適について書いてくれ」竹本が言う。

「はあ」だがこれまで井上が解説記事を書いたことはない。しかし実務経験も豊富だし、税理士の資格を持っているほどの男だから物流理論の解説も書けないことはないだろう。

「例えば、調達部門が部分最適を実現するためには大量輸送が必要だ。生産部門の部分最適は大量生産で実現できる。物流部門では大量保管、大量輸送が、販売部門では大量販売が好ましいし、コスト削減につながる。しかし、物流をコストだけで管理することはできないんだよ。なぜならそれぞれの部門が部分最適を実現すればどうなるか。結局、在庫があちこちで増えるということになるだろう」

「ええ」井上は短く答えた。

「だから全体最適を実現するためには需要予測を綿密に行い、需給調整を正確に行う必要があるんだ。そのためには各部門はコスト至上主義ではなく、いかに全体最適を実現できるかという巨視的、経営的視点からのアプローチが必要になるというわけだ。また全体最適の実現にはそれぞれの部署が勝手に改革を進めるのではなく、トップマネジメントの視点から物流改革を断行しなければだめなんだ。それを書いてくれればいいんだけど」竹本はそういうとコーヒーを飲み干した。


大学院物流専攻コース

美咲は黙って竹本の説明を聞いていた。だが井上が控え室から出て行くと、美咲はコーヒーに口をつけた。

「竹本先生のお話はいつもわかりやすくてためになります」

「ただ、俺は実務家であって、学者じゃないからね。はたして白石さんのお役に立てるかどうかはなんともわからないよ」竹本は表情を緩めた。

「そんなことありません。先生のご指導が私には必要なんです」

 美咲は控え室のソファから身を乗り出した。白地のセーターの胸元のふくらみが竹本の視界に入り込んでくる。長い黒髪には茶色のメッシュが入っている。瞳が大きく眉毛がしっくりと細く、色白でプロポーションもよい。身につけているものは地味ではないが不思議な落ち着きがある。化粧もていねいにしているが自然な感じにまとめている。

<以前、会ったときよりもはるかに艶っぽくなったな―>

 竹本は歳甲斐もなく、顔に血が上ってくるのを感じた。

「慶早大学の情報経営学科には物流専攻コースがこの春から新設されます。それにともなって大学院でもロジスティクスの授業が開始されます。私はその授業を聞く第一期生になります。ただ正直言って、物流実務の経験がないのに授業についていけるかどうか心配です。物流専攻コースの教授陣は著名学者や企業のトップや物流担当の実務家で構成されています。机上の空論ではなく、授業を受ける学生には相応の実務知識も求められます。実際に物流実務の事例研究なども、かなり突っ込んで行われるみたいなんです」

「その話は聞いたことがあるよ」竹本は言った。実際、山本通運の同期で常務取締役に出世している大山重四郎からも「春から慶早大学の客員教授に就任する」という話を聞かされていた。

「しかし物流の学問としての位置付けは実学でオーラルセオリーが中心になるから、大学院の勉強だけでは物流の本質を理解できないかもしれないよ。理論と実践を両輪とすることで物流の本質が見えてくると思うけどね」

「そうですね。ところで先生、オーラルセオリーって何ですか」美咲にはなじみのない言葉だったようだ。

「オーラルセオリーとは書物や文献になっていない実践や伝承中心の理論だよ。これまで物流に関しては実際の実務や先輩などからの直接のアドバイなどが重視されてきたわけだよ。まあこれからの物流業界は少し変わってくるのかもしれないけど」竹本は近年、物流関連の良書がいくつも店頭に並んでいることを思い出した。

「確かに私も実務の必要性を感じています」美咲は切り出した。

「そこでお願いなんですが、大学院の勉強が始まるまで竹本先生のコンサルされている取引先企業で物流実務の修業をさせていただけないでしょうか。春までの数か月の期間だけでも結構なんですが。物流とは何か、先生とお仕事をしながら考えてみたいんです」美咲は訴えるように竹本を見つめた。


物流実務への挑戦

竹本はしばらく視線を遠くにやった。美咲の申し出は内心うれしかった。しかし言葉として出てきたのは本心とは異なる躊躇だった。

「面白い話だが、二つ返事では引き受けられないな。スケジュールも詰まっていてかなり忙しいんだ。手取り足取り面倒を見て実務のノウハウを教えてほしいというのなら難しいかもしれないね」竹本は煙草に火をつけ、ちょっとふかしてから言った。

「ある程度、無理は承知でお願いしています。なんでも先生のご都合に全て合わせますけど」美咲は消え入るような声で言った。顔は真っ赤になっていた。

「困ったな」だが若い女性にここまで頼まれては竹本もやはりいやとは言いにくかった。沈黙が少し続いた。

その時、竹本の携帯電話がなった。五橋電機の物流担当部長だった太田育夫からだ。

「お久しぶりですが、どうしましたか」竹本が言った。意外な人物からだったのだ。業界中堅の五橋電機が物流改革を進めているという話は竹本も業界紙のニュースで知っている。太田は以前は竹本の物流セミナーによく出ていた。よく竹本に質問もしていた。しかし、業界大手の3PL企業、日東物流に五橋電機の物流がアウトソース(外部委託)されてから、すっかり顔を見せなくなっていた。五橋電機の業績は物流改善の効果も出たのか上々で、太田もその仕事ぶりが認められて役員に昇進したと竹本は聞いていた。だから太田の話は物流の相談ではなく「久しぶりに飲みに行きませんか」といったことかもしれないと竹本は思った。だがどうもそうではないようだ。

「竹本先生、大変、ご無沙汰致しまして恐縮です。物流改善について先生のお力をお借りできないでしょうか。実は折り入って相談があります」仕事の話である。美咲にも竹本の携帯電話から太田の声が断片的に漏れ聞こえる。太田は手短かに何か説明しているが美咲には聞こえない。竹本は、時々、美咲のほうに視線を向けながら電話の話を聞いていた。

「そうですか。協力しましょう。一度、お会いしてゆっくり話を聞かせてください。お力になれるようにがんばりますから」竹本は電話を切った。それから竹本はゆっくり煙草の火を消しながら考えた。

<この件を彼女にも手伝ってもらおう―>竹本は決めた。

それから美咲に向かって言った。

「それじゃあとりあえず、俺の抱えている案件のひとつを手伝ってもらうことにしようか。来週にでも新宿にあるTLCの事務所のほうに来てくれないか」

「本当ですか。先生のご指導が仰げるなら、私、なんでもします」美咲の顔がぱっと明るくなった。そして白い歯が見えた。

「白石さんにできることが何かは、そのときに考えよう。俺はもうすぐにでも新幹線に飛び乗って大阪に行かなければならないから」

竹本は立ち上がった。

「どうもありがとうございます。私、がんばります」美咲の澄んだ明るい声が控え室に響いた。


サプライチェーン上のビジネスプロセスの同期化

美咲の父、白石昭夫は、その作業現場の隅で、薄汚れた作業着を着た男が黒色の小型ノートパソコンのキーを叩いている。 

やや暗いオレンジ色の照明に映し出されている。商品が入ったダンボールが床から天井まで積み重ねられている。送風機の音が絶え間なく聞こえている。

 事務所から通路に出て少し厚めの古びたドアを通り抜けると保管倉庫にたどりつく。美咲は父の方に歩き始めた。近づくにつれて父の真剣な雰囲気が伝わってきた。昭夫は小規模な衣料品を取り扱う会社を経営しているがこのところ業績が大きく低迷している。

「お父さん」美咲が声をかけた。

「ああ」昭夫は無愛想にパソコンに目をやりながら言った。

「今朝も話したけど、新製品の売れ行きが芳しくないな。これまでよく売れていた商品も急に売れなくなってきてるし。在庫もかなり過剰になっている」父はため息をついた。

「シンクロナイゼーションが行われてないということね」

 近年の物流理論では、在庫管理は極めて重視される。生産と販売に時間差が生じると在庫は過剰になったり、過小になったりする。そこで生産と販売の時期的なズレをなくすことでSCMが円滑に構築されることになる。これを専門用語で「シンクロナイゼーション」(初期化)と呼ぶ。

「確かにそのとおりだよ。しかしではどうすればよいかという解決策が見えてこないんだ。これまで随分とSCMの理論が書いてある本を読んだ。物流改善のセミナーにも顔を出したりてみたよ。しかし現場の感覚と理論とは違う」

「個々の生産工程や物流プロセスを改めて検証する必要があるかもしれませんね。生産と販売の同期化といった大枠での同期化だけでなく、生産における各工程の同期化や物流プロセスの細部での同期化も必要になってくるはずだから」

「まあ、理屈ではそうなるだろうが実務ではなかなかそれがうまくいかない。商品がどれくらい売れるかということはなかなかわからない。特にアパレル製品の場合、流行に売れ行きが左右されることが多い。ある年によく売れても次の年には全く売れなくなるんだ。それに取り扱う商品の種類も多い。在庫管理も複雑なんだ。返品だってばかにできない。」昭夫は、はき捨てるように言った。

「物流よりも販売戦略やマーケティングをしっかりやったほうが企業経営は好転し、取引銀行の印象も良くなるんだ。物流は後処理的に行ったほうが効率的かもしれないな」

「でもいくら中国で縫製や染色を行って、生産コストを下げて売れる商品を作っても、物流コストで利益を吐き出しているんじゃないの」美咲は言った。

「それでも日本で生産するよりは低コストだよ。物流にかかるお金を気にしていては生産なんかできないんだよ。海外有名ブランドも物流コストよりもリードタイムのほうを気にしているようだしね」父の顔は曇ったままである。


VMI倉庫

  美咲はマンションに一人で住んでいる。「はやく結婚しろ」と口うるさい両親と一緒に住むのがいやで一年ほど前に家から飛び出したのだった。しかし大学院に進学することになり、しばらくまた両親の世話になろうと考えていた。学費は自分の貯金から出すにせよ、生活費は浮かさなければならない。両親と一緒に住めば、当面の住居費の負担はなくなる。それを考えて、この日は父に一緒に住むことを告げに来たわけであった。

「美咲が一緒に住んでくれると、お母さんも助かるな」美咲の父は素直に喜んでいた。

「大学院の学費くらい出したいところなんだけど、あいにくの不景気で会社の経営のほうがいささか心配なんだ。春の新商品の売れ行きが好調ならなんとかなるんだけどね」

「無理をしなくてもいいわ。私も何かアルバイトをすると思うし、それにこれまでの貯金も結構、あるから」美咲は言った。

「とりあえず部屋はあるわけだからね。以前の部屋をそのまま使えばいいから。慶早大学にはここから電車で一時間かからないし」父は小型のノートパソコンをしまい始めた。

「そうだ。それに大学で物流を研究するというなら、ひとつこの会社の物流改善にも取り組んでみたらどうかな」父は切り出した。

「私が」美咲は驚いた。これまで父が美咲に自分の仕事をさせようとしたことは一度もなかったのだ。

「ああ、私は物流にあまり興味がないし、その重要性もよくわからない。しかし、美咲が自分の信念で物流改善をやってみようというのならそれも面白いと思うんだ。それにいくら大学院で勉強しても実務で役に立たなければなんにもならないだろう」

「でも私にできるかしら」

「小さな会社だ。莫大なコンサル料を払って売れっ子の物流コンサルタントを招く気分にはなれない。美咲がやらなければ、この会社の物流はこのままだ。自分の親の会社をつぶしたくないなら、一生懸命やってみたらどうか」父は他人事のようにさりげなく言う。

<私にそんなことできるのかしら。私のコンサルのせいで会社がめちゃくちゃになったらお父さんもお母さんも―>美咲は困った。

「私の目から見て特に困っているのは在庫管理なんだ。最近流行りのVMI、つまりベンダー管理在庫とかあるじゃないか。ああいうシステムをわが社にも導入できないかなあとは思っているんだよ。美咲のアイデアでなんとかやってみてくれよ」

VMIとは製造業、卸売業などのベンダーが小売業に代わって行う在庫管理方式である。必要に応じて商品補充を行う物流改善の手法である。日本国内の物流では小売業配送センターなどでも一般的に行われるようになってきた。例えばメーカーが工場に生産指示すると、工場から商品が出荷されるがユーザー企業が在庫を搬入するまでメーカーの資産として扱うという方式である。

<お父さんもちょっと無責任だわ。自分の会社なのに―>美咲は興味を感じる反面、大きな不安も覚えた。


アパレルの物流

 美咲たちは事務所に戻った。美咲が父にお茶を入れた。腕時計に目をやると、午後十時を回っていた。

「まあ、不安ならすぐに始めなくても構わないがね。会社としては早急に必要な用件でもないと思うんだ。春の新商品の発売に合わせてゆっくりやってもらえばいいよ。売れ行きが順調なら後回しにしても困らないことなのだから」保管倉庫から出て事務所に戻ると、美咲の父はお茶をすすりながら言った。

「それにアパレルの物流には独特の特徴がある」美咲の父は言葉を続けた。

「まず種類と数がとてつもなく多くなって在庫管理が大変だ。それに夏物とか冬物とか、季節によって商品が目まぐるしく変わる。季節波動が大きいということだけど。だから単品管理を徹底することができるかどうかが大きなポイントになる。それに商品にトレンド性が高く天候にも左右されやすいことを考慮すると、消費者の嗜好で多品種・少量・短サイクルの生産と供給も求められる。でも場当たりで処理していくと部分最適の物流になってしまうんだ」美咲の父はお手上げだと言わんばかりの顔をして言った。

「確かに自動車や家電の物流とは違うわね」美咲は言った。物流の担当者ではなかったが家電メーカーに勤めていたこともあり、家電の物流については美咲もかなりのことをイメージできる。大学時代に企業研修に出かけた佐農運送の系列のソフトウエア会社の取引先も家電メーカーが多かった。だがアパレルの物流についてはこれまで興味が沸かなかった。小さい頃から父の仕事を見ていたせいかもしれない。親の仕事とは違う未知のビジネスフィールドに接してみたかったのである。しかし、大学院への進学がきっかけで実家に戻ることになってみると、父の会社の業績が悪いことが、どうしても気になる。

「でも大学院の勉強と関連させるかたちでお父さんの会社の物流改善をできるんじゃないかと思っているんだけど」美咲の頭に物流セミナーで竹本が話していたいくつかのアパレル企業の物流改善事例やSCMの遅延差別化の理論なども頭に浮かんだ。

<なんとかなるんじゃないかしら―>美咲は漠然と思った。

「そんな甘い考えで大丈夫かな」だが美咲の父は水を指すように言った。自分の娘の物流コンサルとしての腕前を全く買っていないようである。

 陽はすっかり沈んだ。冬空に星がいくつか浮かんでいる。事務所にはもう美咲たちの他には誰もいない。

美咲の父はスーツケースを持って出口に向かった。駐車場にシルバーメタルの軽乗用車が止めてある。美咲の父のクルマである。事務所からクルマで二十分ほどのところに住まいがある。美咲は実家に立ち寄り、母とも少し話がしたいと思った。母ともしばらく会っていなかった。

「今日は家に泊まるんだろう。美咲が一緒に住むと聞けばお母さんも喜ぶよ」美咲の父はエンジンキーを回した。 

 

遅延差別化理論

 助手席に座りながら、美咲はぼんやりと外の景色を眺めていた。美咲の父はFMラジオ番組のポップミュージックに耳を傾けている。二人を乗せたクルマは大通りの絶え間ない流れに乗りながら、スムーズに進んでいく。オフィスビルや店舗が走馬灯のように目の前を流れていく。美咲の頭の中に本で読んだ遅延差別化の理論の概要が浮かんできた。アパレル物流改善のキーワードとなるのだろうか。

 在庫管理における基本的なルールに「集約されたデータは集約前のデータよりも常に正確である」というものがある。一例をあげると、関西の女性がどのようなセーターを好むかということよりも、日本の女性がどのような衣類を好むかを考えるほうが容易といえる。細かい状況や条件を設定するよりも大まかな状況下のほうが予測が行いやすい。しかしそうした漠然としたデータはこれまではあまり役に立たないと考えられてきた。実際、大阪で売れる商品を考える際に、いくら日本各地でよく売れても肝心の大阪で売れなければ何にもならない。

 しかし遅延差別化の理論を用いれば、集約された予測情報が効果的に活用できる。具体的に言うと、製造する商品の特定化を後回しにすることで流行をタイムリーに捉えていくのである。

 例えば、衣料品メーカーは、以前は染色を行ってから縫製を行っていた。だから流行の色を見極めるのが大変、重要になった。一年近くも前から流行色を意識していなければ、大量の売れ残りを招くことになるからだ。

 しかし、遅延差別化の理論が導入されてからは、染色の工程は最後に回されるようになった。セーターやスカートは縫製をまず先に行い、流行色のメドが立ってから染色が行われるようになったのである。セーターのサイズや形などだけでトレンドを読むならば需要予測の精度は上がるわけである。遅延差別化は欧米のビジネススクールでは必ず勉強するロジスティクスの典型的成功事例である。

 ただし、遅延差別化の理論を実務に活用するのは物流改善の視点だけでは不可能だ。いわゆる「デザイン・フォー・ロジスティクス」(DFL)は設計・開発の段階からメーカーと物流事業者、小売店などがコラボレーション(協業)を行わなければならない。

<でも、父の経営するような小さな会社では日々の物流改善を行うのがやっとだわ。ビジネススクールで学ぶロジスティクス高度化事例も役に立たないというわけね。もう少し実践的な対策を考えないといけないわ―>美咲はため息をついた。

 美咲たちを乗せたクルマは大通りを右折し、住宅街に入った。

「明日はどういう予定なんだい」父がブレーキに軽く押し、クルマのスピードを緩めながら言った。まもなく家に着く。

「明日は新宿で友だちに会うことになっているわ」美咲は前方を見ながら答えた。ボーイフレンドの三木橋貴文に会うことになっていた。美咲の父は三木橋を知らない。

 

アパレル業界の物流規模

 翌朝、美咲は朝食を両親と一緒にとってから、一人暮らしをしている青山のマンションに戻った。緑の多い住宅地の中のクリーム色のマンションの七階である。大通りに近いとはいえ、周囲の人通りは少ない。

 マンションのエントランスルームには人影はほとんどない。玄関のドアはオートロックでスモークガラスが使われている。

 部屋に入ると、広い窓のカーテンが閉まっていて、昼間というのに薄暗かった。部屋の空気がよどんでいる。上着をハンガーにかけると、美咲はカーテンを開け、窓を少し開いた。FMラジオのスイッチをオンにすると、陽気なアメリカンポップスが流れてきた。三木橋との約束は夕方である。まだ時間がある。

 洋服を丁寧にたたんで洗濯籠に入れる。美咲はバスルームに向かった。シャワーの下で美咲の昨日からの緊張がほどけていく。胸の膨らみに温水が当たり、心と身体の疲れが落ちる。乳首から盛り上がった乳房の周辺に、そして脇腹へと水滴が流れていく。なだらかな肩の線と腰のくびれが眩しい。ウエストから下腹部への曲線が美しく艶やかだ。

 湯を張ったバスタブの中に身を横たえながら、美咲はまた、アパレルの物流について考え始めた。

<アパレル業界の市場規模を八兆円と考えると、物流コストはだいたいその五%に当たる四千億円前後になるわ。でもそのうちの三千億円くらいは人件費かもしれない。アパレルの場合、値札付けとかの流通加工にかかるコストが大きいのよね。だから最近は非接触タグの導入とかに業界が躍起になっているのね。非接触タグの導入で値札付けなどの業務が省けるはずという期待があるのよね。でも非接触タグのコストはまだ安価とはいえないわ。それに日本のやり方が国際標準として認められるかどうかもわからない―>美咲の考えはまとまらなかった。

 バスルームから出ると、暖房を十分に利かせた部屋で美咲はTシャツとジーンズに着替えた。それからパソコンの前に座り、メールのチェックを始めた。竹本からメールが来ていた。物流実務の件で協力したいから、竹本の経営する「タケモト・ロジスティクス・コンサルティング」(TLC)の事務方の責任者である井上圭介とコンタクトをとってほしいという内容だった。

<父の会社の件も竹本先生に相談してみればいいのかしら―>美咲は思った。

 その時、携帯電話のメール着信を告げるバイブが揺れた。ボーイフレンドの三木橋からである。待ち合わせ時間は七時だったが一時間遅らせて八時にしたいという連絡であった。

美咲よりも四歳年上の三木橋は米国留学でMBA(経営学修士)を取得した。そして帰国後、IT関係のベンチャー企業を起業した。業績は順調に伸び、本社を先日、西新宿の高層ビル群に移転したばかりである。

<仕事が忙しいみたいだから仕方がないかな―>美咲はパソコンを閉じて、引越しの準備を始めた。外はまだ明るかった。


IT長者

 美咲の目の前にはそびえたつ西新宿の高層ビル群が広がっている。三木橋が予約を入れたのはイタリア料理店だった。カンツオーネが低く流れる店内は居心地がよくリラックスできる空間になっている。美咲たちは店内で最も静かで見通しのよい窓辺のテーブルに通されていた。街の灯りが撒き散らされた星屑のように眼下の闇底で光っている。夜景とムードだけで十分に酔いが回りそうである。

 美咲と三木橋がシャンパングラスを合わせると、透き通るような澄んだ音が店内に響いた。

「美咲の大学院進学をお祝いしなくちゃね」三木橋はグラスを少し斜めに傾け笑みを浮かべて言った。

「まだお祝いなんて早いわ。まだ入学したわけでもないし、試験に受かっただけなんだから」美咲が答えた。実際、うれしいという気持ちよりも、これからどうしようという気持ちのほうが強い。

「僕も大学院での勉強をステップに今の会社を創ったから、美咲が大学院に行くことは本当に良いことだと思うよ」三木橋は運ばれてきたオードブルを軽くつまみながら言う。三木橋は米国の大学院でマーケティングを専攻し、MBAを修得している。留学前には有名銀行の融資担当だった。ファイナンスのプロでもある。

「米国の一流の大学院のMBAコースでは、僕が専攻したマーケティングやファイナンス、トップマネジメントの理論やケーススタディと並んで、オペレーションズ・マネジメントにも力点が置かれている。そしてオペレーションズ・マネジメントの選択科目の中で大抵、ロジスティクスの授業も履修できるようになっている。だから僕も講義を聞いているよ。それに僕がやっているITビジネスではインターネットと融合した物流システムの構築ということが重要なポイントになっているからね」そういうと三木橋は運ばれてきたパスタをほおばった。

「ただ私はMBAコースの学生ではなくて、慶早大学の大学院のカリキュラム編成が変わったことで新しくできた経営情報学研究科の物流専攻コースなんだけどね」美咲が口を挟んだ。三木橋が自分がMBAコースに進学すると誤解していると思ったのだ。ウエイターがワインを運んできた。ボージョレーの新酒である。美咲がグラスに口をつけた。三木橋は美咲を見ながら小さく首を横に振って言った。

「いや、別に誤解しているわけじゃあないよ。物流について経営トップが十分な認識を持っていなければ現代ビジネスの成功はないと僕は思っている。物流を後処理的に解決すればいいと思っている会社に未来はないわけだからね」そういうと三木橋もボージョレーワインに軽く口をつけた。

<確かに物流が企業経営で占める位置は今後、ますます高くなってくるわ。だから単なる物流改善ではなくもっと別の視点から物流を考える必要が出てきているのよね―>美咲は無数にきらめくダイヤモンドのような高層ビル群の灯りに目をやりながら思った。


日本とは違う物流

 コーヒーが運ばれてくるころを見計らって、三木橋は携帯電話をかけにレストランの出口の方に向かった。仕事の電話が絶え間なしにかかってきていた。

 店内の客はほとんどが若いカップルである。ただ、美咲は三木橋に対して恋愛感情はない。美咲にとって三木橋は「友だち以上恋人未満」の関係で、まだ二人の関係がどうなるのか美咲自身にもわからない。二人は男女の関係でもない。美咲にとって三木橋はあくまで単なるボーイフレンドの一人なのだ。

<確かに話題も豊富だし、仕事もよくできるし頼りがいもあるわ。でも何かが物足りないわ―>美咲は三木橋のことを考えた。

 松上電機に勤めていた頃、美咲には結婚してもいいと思って付き合っていた男がいた。だが結局、その男とは別れてしまった。彼がロンドン支店に転勤したためである。

もちろんその男は「僕と一緒にロンドンに来てくれないか」と美咲にプロポーズしてきた。

 しかし美咲はプロポーズを断った。どうしても決心がつかなかったのである。

だが別れたあとに美咲は言いようもない後悔を感じた。そしてそれまで頼ってきたその男がいなくなったことで猛烈な脱力感に襲われた。それまで曲りなりにも務めてきた営業課の仕事も耐え切れなくなった。

<だから私が大学院に進学しようと思った動機は物流の研究がしたいということよりも、彼と別れたからかもしれないわ―>美咲は思った。

 三木橋が戻ってきた。携帯電話を背広の裏ポケットに入れ、手帳を取り出した。

「ヨーロッパに行かなければならなくなったよ」三木橋は美咲の顔を見た。

「羨ましいわ。それが仕事だなんて」美咲は言った。

「とんでもない。東京の仕事だけで手一杯なのに」三木橋が渋い顔で答えた。

「そうだ、美咲も一緒に来てくれないか。会社を辞めたばかりで今のところ特にすることはないんだろう」

 美咲には三木橋の提案に乗る気は全くなかった。

「行きたいのは山々だけど、でもやっぱりお仕事について行くのは迷惑だと思うわ」美咲はやんわりと拒否の気持ちを伝えた。しかし三木橋は美咲の気持ちに気がつかないようである。

「そんなことはないんだけどなあ。美咲がいてくれればきっとヨーロッパも楽しくなるんだけど」三木橋は赤ワインを飲み干した。

<でも私ひとりでヨーロッパの物流センターを見学に行くのは面白いかもしれないわ。確か竹本先生はヨーロッパに何度か物流センターの視察旅行に出かけていたわ。相談してみるのがいいかもしれないわ。―>美咲は考えた。パリやロンドンの街並みやアムステルダム郊外の物流センターが頭に浮かんだ。日本とは異なる海外の物流施設を見に行く時間的な余裕は大学院に通い始めたらないかもしれない。三木橋の話をヒントに思わぬ選択肢が出てきたわけである。

 

プランニングサイクルタイム

 三木橋は美咲を自宅のマンションの前まで送ってくれた。ほどよく酔いが回った美咲の足元は少しふらついている。美咲は三木橋に礼を言う。三木橋は美咲が玄関ホールからオートロックで守られたスモークガラスの奥に消えていくのを見守っている。エレベーターホールまで辿りつくと美咲は大きく肩で息をした。飲みすぎたようだ。

 部屋に戻ると、美咲は暖房のスイッチを入れてからキッチンの椅子に腰掛け、眠気覚ましに熱いコーヒーを飲み始めた。時計の針はすでに十二時を回っていた。美咲は白いセーターをゆっくりと脱いだ。

<大学院に入学するまで、まだかなりの時間があるわけね―>美咲は考えた。ふと大学時代に習った「プランニングサイクルタイム」の概念が頭に浮かんだ。SCMを考えるうえでは重要な概念である。

 プランニングサイクルタイムとは、計画を策定するまでにかかるリードタイムのことである。世の中にはしっかりと計画を立ててから行動に移す者や、とりあえ行動してみてある程度まで来てから途中で立ち止まって考える者、あるいは行動がしながら考えたり、何も考えずに行動したりする者など、さまざまなタイプの人がいる。

 だが、緻密なSCMを構築しようとしたら、まず入念にプランを練って、それから入念に状況を見定めながらプランを推進していく必要がある。プランニングサイクルタイムとは、その入念な計画を練る時間のことを指すのである。

 だがもちろん、実務はそんなに単純には進まない。例えば、トヨタ生産方式では月次計画、週次計画、日次計画が立てられ、計画が常にオペレーションの現状を反映するように、現場レベルでは自律的な対応が求められる。言い換えれば、しっかりと計画を立て、絶えず状況をチェックしながら必要に応じて計画を修正していくわけである。

<私の将来設計もプランニングサイクルタイムを考えないといけないかしら―>美咲はカップをスプーンでかき混ぜ、それから少し冷めた残りのコーヒーを一息に飲んだ。

<もっとも計画と実行は連続的に一体化されていなければならないわ。月次計画をきちんと立てても一か月の間に予期できない状況の変化が起こるかもしれないわ。一般的にプランニングサイクルが長くなれば計画当初の値と結果が異なってくるわ。プラン通りに実行できなければ当然、在庫が増えることになるわ―>

 美咲の将来設計にも同じことが当てはまるようだ。目標が達成できなければいくら計画を綿密に立てても仕方がない。

<大学院で物流について研究するだけでも大変なのに竹本先生と物流の仕事をしたり、お父さんの会社の物流改善をしたりするのは在庫過剰の状態に陥っているようなものかもしれないわ。可能なことをムリなく、ムダなくやることが重要かもしれないわ―>美咲は立ち上がってカップを片付けた。


ヨーロッパ物流見学へ

 翌朝、美咲は旅行代理店に出かけた。三木橋との食事の際に思いついたヨーロッパの物流施設見学を実行に移したいと考えたのである。運のよいことにヨーロッパ便はシーズンオフということもあり、格安航空券がいくつも入手可能となっていた。一応、ツアーの形式をとるが実際は自由行動ができるがホテルや食事がパックに含まれているものもある。

 だが、格安航空券が入手できてもヨーロッパのどのような物流施設を見ればよいかということは皆目、見当がつかない。それにたとえ見当がついたとしても、いきなり訪ねていってもどの企業も見学などさせてくれないだろう。誰か、しかるべき人の紹介が必要なのは言うまでもないだろう。美咲は竹本に電話をして相談してみることにした。

 セミナー会場で会ったときに教えてもらっていた携帯電話の番号にかけると、竹本の声がすぐに聞こえてきた。

「白石さんだね」電話番号が登録してあるらしく、竹本は美咲が名乗る前に話始めた。

「この前はどうも。物流実務の件でうちの井上から電話の連絡が行ってないかな」

「いえ、まだですけど。ただメールは見ました」美咲が答えた。

「近日中にでもまた会って話がしたいと思っていたんだ」

「ええ、私の方もちょっとまた別の相談ができたので」

「相談、というと」竹本が聞き返した。

「実は一週間くらいの予定でヨーロッパの物流を見てきたいと思っているんですけど、先生、どこか物流センターをご存知ないですか」美咲が切り出した。

「物流センターかい。そりゃ心当たりがないわけではないけど。ひとりで行くのかい」竹本が聞いた。

「そうなると思います。ヨーロッパの日本企業の物流担当者とか、誰か紹介していただけるといいんですけど」

「うーん、ヨーロッパの物流担当ねえ…」竹本が唸った。心当たりがないわけではなかったが、あまりに唐突なリクエストに思えたのだ。

「とりあえず、オランダに本社のある山通ヨーロッパの副社長が昔の部下だから紹介しようか」竹本が勤めていた山本通運(竹本は略して山通と呼んでいるが)は、全世界に三十以上の支社を持っている。そしてちょうどかつての部下のひとりが山本通運のヨーロッパの現地法人「山本通運ヨーロッパ」の副社長をしている。

「ぜひ、お願いします。ご迷惑はおかけ致しませんから」美咲は弾んだ声で言った。

「しかし若い女性が一人でヨーロッパに物流視察とは尋常ではない感じがするけど」

「大丈夫だと思います。それに私、英語は結構、得意ですから」大学時代には米国に短期留学したこともあり、語学には自信があった。これまでも何度か海外へは一人で出かけている。ロンドンやパリには大学時代の友人も何人か住んでいる。

 竹本との電話が終わると、美咲は早速、東京・アムステルダムの格安往復チケットの手配を始めた。


クロスドッキング

 航空券とホテルの手配が終わると、美咲は竹本の銀座にある「タケモト・ロジスティクス・コンサルティング」(TLC)の本社に出向いた。竹本は会議中だった。美咲は応接室に通され、しばらく待たされることになった。クリーム色の壁面には山本通運のカレンダーがかかっている。美咲は出されたお茶にちょっと口をつけてからカレンダーに目を向けた。カレンダーの写真はクロスドッキングのオペレーションがイメージされたもののように見える。

<クロスドッキング・センターには基本的に在庫はないわ。トラックへのパレットやケースの積み替えだけで小売まで商品が配送されることになるわ。リードタイムの短縮や保管効率の向上によるコストダウン、在庫削減の効果があるからサプライチェーンの全体最適を促進する有力手段になっているわ。ただ、導入に当たってはパレット構成をどうするかよく考える必要があるし、梱包単位でバーコードを設定するなど、手間もかかるわ―>美咲がそんなことを考えていると、竹本が入ってきた。

「すまない。随分、待たせてしまったね。近々に荷主に新しい提案をしなくちゃいけなくて、その打ち合わせが長引いてしまってね」竹本は頭をかいた。

「いえ、私の方こそ、ご無理をいったんじゃないかと」美咲は小さな声で言った。

「確かに白石さんがヨーロッパに一人で物流センター見学に出かけると聞いたときは驚いたよ。でも俺の昔の部下の中島がちょうどうまい具合に山通ヨーロッパの副社長をしている。あまり英語が得意じゃないヤツなんだけど、どういうわけか海外勤務が長くてね…。いろいろと便宜を図ってくれるんじゃないかと思うんだけどね」竹本は穏やかな表情で言った。美咲にとっては心強い紹介である。

「向こうの物流施設は日本とは比べものにならないくらい大きいものもあると聞いています。それに土地が高いことから多階でのオペレーションが常識の日本の物流とは違って、平屋でのオペレーションが多いとも聞いています。日本と欧米の物流の違いは何なのか、大学院入学までまだ少し時間があるから向こうの物流事情を見てきたいと思ったんです」

「白石さんの物流に対する向上心を俺も見習わなきゃならないかもなあ」竹本は感心した。

 実際、竹本が物流業界に足を踏み入れたのは軽い気持ちからだった。大学時代の同級生が運送会社の息子で「家業を継ぐために山本通運に入りたいからお前も付き合え」といわれて、一緒に入社試験を受けたのがきっかけだった。だがその同級生は入社試験に落ちて竹本だけが入社することになったのだ。しかも入社してからも決して仕事に熱心ではなかった。

「そんな俺と物流との出合いに比べれば、白石さんの場合は、何か物流に魅せられていくみたいなところが、あるねえ…。俺は自分がただ運が良いだけの男と思っているけど」竹本は美咲の顔をしみじみと見た。


物流センター建設の選択肢

 竹本の銀座の事務所に五橋電機の物流担当部長だった太田育夫が来ている。差し出された名刺の肩書きは常務取締役になっている。恰幅のよい太田は窮屈そうに応接室の椅子に座っている。 緊張しているのか額に少し汗をかいている。

「本当にご無沙汰していました」太田がハンカチで額の汗を拭きながら言った。しばらく顔を見せなかったことにすっかり恐縮しているようである。

「いえ、いえ、ご無沙汰しているのは私の方でしたよ。ところでご用件は」竹本は愛想よく笑いながら、太田に話を促した。

太田は出されたお茶を一口飲んでから切り出した。

「私の勤めている五橋電機の系列の会社で新しい物流センターを建設する計画がありまして…。このへんなんですけど」太田が地図を広げた。

「ほほう。それは、それは」竹本も地図に目をやった。建設予定地は東京近郊のY市のウォーターフロントの倉庫街にある。高速道路のインターにも近い絶好のロケーションだ。

「ところがいざ建設するとなると資金面などネックとなることも多くて話がなかなか進まないんですよ。例えば政府の補助金をもらえるように工夫してみるとか、そうした選択肢もないわけではなかったんですが…。ただそれもなかなかうまく行かず、それでこれは諦めるしかないなと思い始めていたときに新しい角度から提案がありまして」太田は声量を少し落とした。

「なるほど。で、その新しい角度とは」竹本が身を乗り出した。面白そうな話である。

「ええ、実は物流ファンドを活用してみたらどうかという提案なんです」太田が言った。

「物流ファンドですか」竹本はよく知らない。未知の分野である。

 不動産投資ファンドとは機関投資家の資金などをもとに不動産を取得し、運用していく金融商品のことである。その運用の成果は投資家に分配される。従来は、オフィスビルや住宅施設などを中心としていたが、安定した収益を見込める物流施設も有力な投資先として注目されている。それが「物流ファンド」と呼ばれているのである。最近は物流業界紙などが頻繁に取り上げているので竹本の耳にも情報としては入ってきていた。しかし、それがどのように物流実務に関係を及ぼすのかはよくわからなかった。

「物流ファンドに物流センターなどが組み込まれる場合には二通りのケースが考えられます」太田は話を続けた。

「ひとつはリースバックという方法です。荷主の持っている既存の物流センターを買い取り、それをファンドに組み込むというものです。オーナーは変わりますが荷主は続けて物流センターを使うことができます。これはリースバックと呼ばれています」

「なるほど」竹本がうなずいた。

「しかし私どもにはこの選択肢は魅力的ではありませんでした。私たちが興味を持ったのはもうひとつの選択肢です」

 竹本は唾を飲み込み、太田の話に耳を傾けた。





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