≪始≫
若葉に乗った朝露が弾け湿った地面へと吸い込まれていく。徒歩通勤をするにはいい季節になった。住宅街に紛れてひっそりと建つ単身用アパートを背に、阿諏訪陽司はひとつ伸びをして歩き慣れた小道を進んだ。
くたびれたワイシャツはアイロン不要の形状記憶素材のはずだが、どう見ても皺が寄っている。それを隠すように濃紺のジャケットを羽織って、適当に合わせたグレーのズボンを履けば今年三十五歳になるにふさわしい格好が出来上がった。しかしそれは彼の顔の造りによって、徹夜明けの大学生にしか見えないスタイルとなるのである。
童顔に似合わない目の下の隈は、何年も消えない彼のトレードマークのようなものだ。乱れた髪は猫の毛のように細く、陽の元では栗色に透けて見える。なで肩の曲線に沿って鞄の持ち手がずり落ちるのを何度も直しながら歩みを進めていると、近くのバス停から数人の若者が声をかけてきた。
「あっ阿諏訪先生おはようございます!」
「はいおはようさん」
阿諏訪は私立K大学の助教授をしている。専門は『サイ科学』。――所謂超常現象と言われる『サイ現象』を科学的に研究している。専攻を極めたいと博士課程へ進んだはいいものの鳴かず飛ばずの内にポスドクを経てこつこつと実績を積み、運よく恩師の紹介により晴れて現在の職を手にしたのだった。
学生時代から研究一本だった阿諏訪は教育者というには立派な見本とは言えないかもしれないが、真面目に仕事に取り組もうという意思はあった。そう、例えば生徒の奇妙な相談事に乗る程度には『先生』の務めを果たそうとしていた。
「ええと、君が相談事があるってメールをくれた清水さん?」
待ち合わせ場所に指定されていた学食のオープンテラスに向かった阿諏訪はひとりの女子生徒に声をかけた。セミロングの黒髪をゆるくまとめ、グレージュのシンプルなワンピースを着た彼女は阿諏訪の問いにひとつ頷く。
「二年の清水真火です。阿諏訪先生、お忙しい中すみません……」
真火は立ち上がりぺこりと頭を下げる。その表情は暗く、また緊張のせいか強張っているように見えた。阿諏訪は真火に座るよう促して自身も向かいに座る。どう話を切り出すか逡巡した直後、真火が鞄から手のひらサイズの包みを取り出した。
「先生これ良かったら……シュークリームです」
「え、僕に?」
「はい、あの、駅前に新しい洋菓子屋さんができたので行ってみたんです。阿諏訪先生、甘いものがお好きですよね」
「ああ! あの店は僕も気になっていたんだ。気を使わせてすまないね。有難くいただくよ」
阿諏訪は自分と真火の分のコーヒーを注文し、ぱくりとひと口でシュークリームを平らげた。その様子に真火の表情が和らぐ。
「ふふ、先生。ちっとも変わらないですね」
「え? 僕たちどこかで会っていたかな」
「はい。十年前……小学生を対象にした『能力開発合宿』で。先生は昼間のスタッフでしたよね」
「あの時の小学生!? こんなに大きくなって……僕も歳を取るはずだ」
真火の言葉に阿諏訪は仰天する。確かに阿諏訪は十年前学生バイトとして小学生の合宿で雑用をしていた。その時の子どもとの予期せぬ再会。阿諏訪は真火をまじまじと見つめた。
「あの頃から先生はおやつの時間を楽しみにしていましたよね」
「いやあ、よく覚えているね」
『能力開発合宿』。それは全国から知能の高い子どもたちを集めてより高度な教育を受けさせる合宿だ。夏と冬に一週間ずつ行われるそれは、高名な学術研究機関が企画をしていた特別な催しだった。
当時の担当教授に誘われてバイトを引き受けた阿諏訪は、昼間に子どもたちの食事の補助や合宿所の掃除洗濯をし、夜には研究室に戻るという生活をしていた。合宿の教育内容は知らないが、阿諏訪の記憶では集まった子どもたちはみな年齢以上に賢かった。真火もそんな優秀な子どもの内の一人だったということだ。
不思議な縁に感心していると、真火がためらいがちに口を開いた。
「それで相談なんですが……先生は『予知』って本当にあると思いますか」
「『予知』?」
阿諏訪はコーヒーを飲む手を止め聞き返す。真火は頷きスマートフォンの画面を阿諏訪に向けた。
――――――
明日14:08にD市でトラック事故るから気つけてね♪
#予言師
――――――
流行りのSNSに奇妙な一文が書き込まれている。しかもこの情報はリアルタイムで恐ろしい勢いで拡散されているようだ。
「これは?」
「昨日SNSに書き込まれた『予言』です。この人はネットで有名な『予言師』で、時々こうやって自分の予知した事をSNSで拡散しているんです」
「昨日書き込まれたということは、この予言が正しかったら……」
「はい、あと数分で事故が起こるということになります」
二人はオープンテラスから身を乗り出し、食堂に設置された大型テレビを見つめる。昼のワイドショーでは芸能人の不倫報道が特集されていた。
ネットで有名な『予言師』。なんとも胡散臭い響きだ。と阿諏訪は内心馬鹿にしていた。その数秒後、テレビの生放送でD市のトラック事故現場が映し出されるまでは。
「本当に事故が起こってしまいましたね」
唖然とする阿諏訪を横目に真火は険しい表情でテレビを見る。なんてことだ、と阿諏訪は独りごち顎に手をやった。
「予知、未来視、プレコグニション。もちろん事例は国内外に多数ある。しかしそれのほとんどは証明できないごく曖昧な感覚に近いものだ。しかし今回は日時まで言い当てている。自ら事故を起こしたとしか思えない」
「ではこの『予言師』自身があのトラックを運転していたと?」
トラックを運転していた人物が救出される様子が報道される。一命をとりとめた中年の男性が救急車で搬送されたようだ。阿諏訪の言うとおり自作自演だとしたらこの人物が『予言師』ということになる。しかし真火は首を振った。
「いいえ違います。運転手は『予言師』ではないのです」
「何故そう言えるんだい?」
「『予言師』は……ダイちゃんなんです」
ダイちゃん? 阿諏訪は突然出てきた人名に眉根を寄せる。覚えていませんか。と真火は言った。
「私と同じ、あの合宿に参加していた子どもです。私のひとつ年上の男子でした」
合宿に参加していた子ども。真火が何故自分に相談したがったのか阿諏訪は理解した。真火はあの合宿のことを知っている人物に相談したかったのだ。そして偶々通っている大学に、当時のバイトスタッフが居た。真火が阿諏訪に相談したいことはあの合宿絡みのことで間違いない。阿諏訪は慎重に言葉を探す。
「その――ダイちゃんが『予言師』だということは何故分かるのかな」
「この前偶然会ったんです。……いえ、偶然だったのかは分かりません。けれど、ダイちゃんが私に教えてくれたんです。自分が『予言師』だと」
真火はそう言って一度深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。そして阿諏訪の目をしっかりと見つめる。
「聞いていただけますか。私がダイちゃん――島田大斗くんに言われたこと」