≪誘≫
西日が肌を焦がすように差し込む。ハンドルを握る手がじわりと汗ばむのを感じ、阿諏訪は車用のドリンクホルダーから缶コーヒーを取った。低燃費を謳う阿諏訪の軽自動車は高速道路に乗りまっすぐにS市へと向かっている。郊外を抜け、工業地帯を横目に山深くまで乗りつける。
阿諏訪の目指すところは『能力開発合宿』の行われていた合宿所跡だ。焼け潰れた廃墟に何故逸る思いで向かっているのか。阿諏訪は封筒に残されていたS市の消印を見てからある可能性に賭けていた。
阿諏訪に送られてきた警告文の書かれたカード。差出人は間違いなく『左手の松明』だ。しかし彼らは何故わざわざS市からそれを送ったのか。美鈴も畑中も都会暮らしで、そもそも彼らは消印を残すことなく阿諏訪にメッセージを送りつける手段を山ほど持っている。
阿諏訪の賭けた一つの可能性。それは、この消印が阿諏訪を誘うための灯火であるということ。S市の消印を見て合宿所を連想させる。差出人は「そこに来い」と言っているのだ。
カーブの多い坂を越えると平坦な道が続くので緩くアクセルを踏み込む。ふと脳裏に浮かぶのは真火と島田の不満げな顔だった。二人にはこの遠出のことを伝えていない。一緒に行くと言い出すに決まっているからだ。しかし今回はこれまでのような調査目的ではない。警告してきた相手の陣地に自ら乗り込んでいるのだ。二人を危険に晒す訳にはいかなかった。例えまた手も足も出なくても。
阿諏訪の住む町から車で一時間半。十年ぶりに目の当たりにした合宿所だったものは、夕暮れを背にそのシルエットを浮かび上がらせる。窓ガラスは割れ壁は一部が崩れ落ち、全体的に煤けている。当時は綺麗に剪定されていた庭木は根元から折れ、子どもたちの遊び場だったコートヤードも荒れ果てていた。
阿諏訪は離れた場所にある駐車場に車を停め、静かに建物に近づく。ふと足元を見ると、いくつもの真新しい足跡が同じ方向――正面玄関に向かって続いている。しかし、逆方向に向いている足跡がほぼ見当たらない。阿諏訪はぶるりと身を震わせた。足跡が示すこと、つまりこの建物の中に何人も入り、そして出ていないということだ。
いや、きっと裏口かどこかから出たのだろう。阿諏訪はなんとかしてその思考を頭の隅に追いやりたかった。大勢の人間が阿諏訪を待ち構えているという可能性を考えなかった訳ではなかったが、いざ目の前まで来ると否定したくなる。
正面玄関まで歩を進めると、阿諏訪の視界に人影のようなものが写り込んだ。びくりと跳ねそうになる体をなんとか抑え込み、その正体を確認して目を丸くする。
「まさか、本当に来るなんてね」
以前会った時とは印象の違うゆるいワンピースに軽い化粧をした美鈴は、困惑したような――あるいは何かを諦めたような表情で入り口を塞ぐように立っていた。
「困るのよ、ヨウ先生」
「招待状を頂いたものでね。なるほど、ここは君たち『左手の松明』の隠れ家って訳か。中に居るのは全員お仲間? それとも――」
「それ以上近づかないで」
ゆっくりと玄関口に近づく阿諏訪を一喝し、美鈴は険しい表情を向けた。
「帰って。この中に入ったら私は貴方を――」
「僕をどうするんだ? 僕はこのカードの差出人に会いに来ただけなんだけれど」
阿諏訪の指に挟まるカードを一瞥し、美鈴は大きくため息を吐いて頭を押さえる。
「どうしても帰る気がないのね。私は貴方を捕まえないといけないわ、ヨウ先生」
美鈴のと鋭い視線に射ぬかれた途端、阿諏訪の体がぐらりと揺れた。脳内で爆音がガンガンと響き渡り、平衡感覚が保てなくなり地面に伏せる。阿諏訪は何が起こっているのかわからない表情で頭を抱え、平然とその様子を見下している美鈴を睨み付けた。
「なん、だこれ」
「どう? 私がここでいつも聞いている音よ。煩いでしょう。あの人たち、早く黙ってくれないかしら」
脳内で反響するように鳴り響く多重の音たちは、しばらくすると人の声であることが識別できた。その声は意味のない言葉の羅列をひたすらに繰り返している。
美鈴の能力は他人の思考を読み取り伝えるもの。今、何かの思考を阿諏訪に伝えている。
阿諏訪は四方から打たれるように痛む頭を押さえ立ち上がった。
「これは……誰の声なんだ!?」
「それを知っていてここに来たんじゃないの?」
至極当然のことであるかのように美鈴は能面のような無表情で言い放つ。
「ここに集まってるお偉い先生方の心の声よ」
阿諏訪は愕然とし、目を大きく見開いた。これが失踪した長峰や他の研究者たちの声だと言うのか。ならば駐車場から続いていた足跡は。
「ここにっ……行方不明者を集めているんだな?」
「ふふ、白々しくしちゃって……知っていて取り返しに来たんでしょう? ああ、それともケンに会いに来たのかしら」
そう言う美鈴が近づけば近づくほど、まるでテレビの音量がどんどん上がっていくかのように、阿諏訪の脳内に叫び声の不協和音が鳴り響く。頭痛と吐き気を誘発するその絶叫は阿諏訪の思考を徐々に奪っていく。
「ねえヨウ先生、マホを連れてこなかったことは褒めてあげる」
耳元で囁かれたその言葉の後、阿諏訪は意識を手放した。
*
「マホちゃん!」
友人と大学を出たところで突然背後から大声で名を呼ばれ、真火は弾かれるように振り向いた。ざわつく友人たちから離れ、バイクに跨る声の主に駆け寄る。
「ダイちゃん? 一体どうし……きゃっ!」
「早く乗って!」
真火の頭に問答無用でヘルメットを被せ、自分の後ろに乗るように強く促す島田。真火は目を白黒させながらも言われたとおりにする。
「何なの急に!?」
「ヨウ先生がっ合宿所に行ったかも!」
急いた様子でアクセルを回す島田に必死にしがみ付きながら、真火は大きな声で問う。
「なんで!?」
「俺変な時間に予知夢を見たんだ。ヨウ先生が合宿所で倒れてる夢……心配になって電話したんだけど連絡が取れないんだ!」
「えっ!」
自分もしばらく阿諏訪と連絡を取っていないことを思い出し、真火の顔が青ざめる。
「ヨウ先生の研究室にも行ってみたら、車でどこかへ行ったらしいんだよ。俺、嫌な胸騒ぎがするんだ。マホちゃん、一緒に合宿所まで行ってくれない? 俺の勘違いだったら悪いけど……」
段々と尻すぼみになっていく島田の話に、真火はしばらく考え込んだ後その背にしがみついて無理やり笑みを浮かべた。
「そしたらダイちゃんとのツーリングを楽しむだけね。いいよ、行こう!」