≪美≫
「最近随分忙しそうにしているじゃないか」
定時を迎えてすぐに帰り支度をする阿諏訪の様子に御堂が目ざとく声をかけた。
阿諏訪はぎくりと肩を揺らし、ぎこちなく首を回して御堂に答える。
「今日はちょっと用事が……」
「今日は、ねえ。ああ、残業しろと言っているわけではないんだが。あまり無茶をされるとこちらも庇いきれないのでね」
「は、はあ。羽目を外しすぎないよう気を付けます……」
刺さるような視線から逃れるようにそそくさと研究室から出て行く阿諏訪の背を見送り、御堂は皺の寄る眉間に手を当てた。
――ばれている。阿諏訪はひやりとしたものが背筋を駆けるのを感じた。
十年前に起こった『能力開発合宿』での火事に関する記事の切り抜きや、御堂が独自で集めた情報を阿諏訪は譲り受けている。何に使うか明確に伝えてはいないが、阿諏訪が危険なことに首を突っ込みかけていることを御堂は察知している様子だった。
御堂はあの火事のことを調査した上で、葬られたままにした方がいいという結論に至ったのだろう。しかし阿諏訪はあの火事だけを調査しているわけではない。その一つが合宿関係者の連続失踪事件だ。
恩師である長峰の失踪に当時の合宿参加者が関わっているのならば、彼らによる放火の可能性がある合宿所の火事についても調査を続けるべきだと判断したのだ。
依然として長峰の行方は分かっていない。阿諏訪は唇を噛み、目的の場所へと急いだ。
「もう先生! 遅いですよ。電車一本行っちゃいました」
「ごめんごめん。辻さんとの待ち合わせには間に合うから……」
むすっとした顔で改札を通る真火に、阿諏訪はへらりと笑みを浮かべて許しを請う。二人は仕事終わりに駅前で待ち合わせをしていた。学内で会おうとするとまた真火が「そういうのを気を付けてくださいと言ってるんです!」と文句を言うからだ。
こうしてこそこそする方が周囲に余計な誤解を招くのではないかという阿諏訪の小さな懸念は、都会のど真ん中に位置する目的地に着くころにはすっかり消え去っていた。
大学のある郊外の港町から電車で三十分程。丁度日の暮れた頃の大都会は仕事帰りの勤め人で賑わっていた。
人波に逆らうように進む阿諏訪の後ろを真火が遅れてついていく。しばらくすると二人の間を観光客の集団が横切り、真火はその集団に飲みこまれてしまった。
「わわっ」
「大丈夫? ほらおいで」
人と人の間から何の躊躇いもなく目の前に差し出された手に、真火はぎょっとして阿諏訪をじっとり睨み付けた。
「先生そういうところですよ」
「はあ。止まると危ないよ」
中々手を取らない真火。このまま集団の流れの中に置いて行くわけにもいかず、阿諏訪は真火の腕を引っ張った。
O商事といえば近年破竹の勢いで企業成長している半導体を取り扱う専門商社だ。都会のど真ん中にオフィスを構え、世界の最前線で仕事をするプロフェッショナルたちを擁している。そんな企業戦士たちが集う場に私服でぼんやり立ち尽くす阿諏訪と真火の姿は浮いていた。
立派なオフィスビルの一階ロビーには小奇麗なソファが置いてあり、二人は落ち着かない様子でそれに腰かける。
「あっ先生。あの人じゃないですか?」
真火が示した先を見ると、丁度紺色のスーツ姿の女性がエレベーターから降りてくるところだった。蜂蜜色をしたロングヘアーの毛先をふわりと巻き、きつすぎない化粧で彩られた容貌は、できる女のお手本のようだ。その洗練された歩き姿を視界に入れ、阿諏訪はまるでこれから重要な商談でも始めるかのように表情を硬くした。
「絶対にミスズですよ! うわあ、すごい美人になって……先生?」
「き、緊張してきた……」
研究一本で生きてきた阿諏訪はOLとの関わりなどほぼ皆無といっていい。普段年上の研究者たちに気を遣いながら仕事をすることが当たり前の阿諏訪にとって、大手商社の秘書という肩書を持つ年下の女性と共に時間を楽しむなど想定したこともなかった。
さらに、できる女という印象でとっさに脳裏に浮かんだ人物に阿諏訪はげんなりとした表情をする。
「それって美人が相手だからですか?」
阿諏訪の表情の変化を見た真火がそっけなく呟く。
「いや……ああいう仕事できますオーラを放つ女性を見ると姉を思い出して」
「先生のお姉さん?」
「ちょっと苦手というか。仲が悪いわけではないんだけど」
「へえ」
阿諏訪は職探しで路頭に迷っていた頃、キャリアウーマンの姉に口煩くされたことで心身ともに疲弊したことを思い出す。それ以来仕事のできそうな女性を見ると緊張感を覚えるようになっていた。美鈴が姉と同じような性格ではないことを祈りながら阿諏訪は立ち上がった。
「お待たせしました。お久しぶりですね、ヨウ先生」
ふわりとした笑みを浮かべ近づいてくるスーツ姿の女性はやはり待ち人だったようだ。電話口でも聞いた穏やかな声に、阿諏訪の緊張も徐々に溶けていく。
「お忙しい中押しかけてしまってすみません、辻さん」
「いいえ。大斗くんから連絡をもらった時は嬉しかったです。まさか、合宿で大人気だったあのヨウ先生と再会できるなんて。あら、そちらは――」
美鈴はそう言って阿諏訪の背後を見遣る。そこからちらりと顔を出した真火を見て、驚喜の声を上げた。
「マホ……!? 本当にマホなの? まさか貴女に会えるなんて!」
「えへへ、ミスズ! 久しぶり」
二人は手を取り合い飛び跳ねるように再会を喜んだ。そうしている間に美鈴の瞳に涙が溜まっていく。あふれ出した水分が頬に一筋流れたのを見て、真火は慌てて美鈴の背中を擦った。
「やだ、泣かないでよーミスズ」
「ごめんね。嬉しくて……だって、もう会えないと思っていたから」
「ダイちゃんに会いに行くなら私にも会いに来てくれればよかったのに」
「ええ、そうね。本当に……そう思うわ」
美鈴は涙を湛えながら真火に切なげな笑みを向ける。真火はその艶やかさにぱっと頬を染め、それを誤魔化すように話題を変えた。
「ええと、ミスズ仕事終わったんだよね? これから先生のインタビューを受けるんでしょ。今更だけど私も一緒に行ってもいい?」
「もちろんよ。ねえヨウ先生、インタビューは三人でご飯でも食べながらどうかしら」
「ああ、構わないよ」
女子二人は嬉しそうに外に向かう。阿諏訪はそんな美鈴の様子を見て違和感を覚えた。島田の話によると、美鈴は精神感応者だ。自分の考えや感覚を他者に伝達し、他者のそれを読み取ることができる。
そんな風には見えないが、油断はできない。阿諏訪は二人の後ろを歩きながらぼんやりと思考する。考えを読まれてしまうのならば何を誤魔化しても無駄だ。阿諏訪は美鈴に対して小細工をするつもりはなかった。
ふと美鈴が僅かに振り返り、阿諏訪を見てにこりと笑みをこぼす。
聞くべきことを直球で聞く。読み合いなしの三球ストレート勝負。
阿諏訪もその笑顔に応えるように無理やり口の端を引き上げた。