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第六章

「影武者ですか?」

 ヨハンナ暗殺の直前、ランツェと電話で話していたイーリスは、父に問うた。

「そうだ。お前があの女を殺したことにしたいところだが、お前はあの古道具屋から目を付けられている。新聞に移送のことが載ってしまった以上、あの男もお前が動くことを想定して狙ってくるだろう。だから暗殺は影武者にやらせる。丁度お前と同じ背格好の孤児を拾ってきた。かつらを被せて、実行させる。その後の始末はどうとでもなる」

 イーリスはそれに同意し、そして作戦を練った。

 レイが自分の影武者を狙うと確信し、そのレイが陣取れる場所を洗い出し……そして、待ち伏せたのだった。


「考えればわかるでしょうに。私がどうして狙撃なんてすると思うの? 銃下手なのに。あなた、ちょっと頭おかしいんじゃない?」

 イーリスはケラケラと笑う。その手には、ナイフが握られている。

「今だって、普通の人なら拳銃を使えばここからあなたを撃てるけど、私は自信ないからこんな物使おうとしてたのよ? まあ、これだったら掠っただけでも致命傷になるし。銃だと急所を撃ったと思っても、生き残っちゃってる場合もあることだし」

 その場合とは、ジュエルのことだろう。絶命していてもおかしくない傷だったが、奇跡的に彼女は回復している。

 対して、イーリスの持つナイフがどのような効果を持つのかは、レイの想像にも難くない。魔法か毒かなどはわからないが、おそらくその歯が体に触れただけで、生命の危険すらあるほどの物であることは明らかだった。

 レイは傍らの狙撃銃を抱え上げた。刃物ではないが、大人の男の腕力でこれを振るい、ひたすらに殴りつければ、イーリスの小さな体はたちまち崩壊してしまうだろう。

 この世界で最も憎むべき少女が、その顔も手足も何もかもが叩き折られ、圧し潰され、自分の目の前で赤い肉塊へと成り果てる様を思い描いて、レイは生唾を飲み込んだ。彼にとっては、想像するだけで射精してしまいそうなほど、蠱惑的な光景だった。

 だが、いざその想像を現実に変えんとしたところで、急に腕が動かなくなった。

「!」

 彼が振り上げようとした狙撃銃は、途端にその重量を増加させ、とても持ち上げられないほどになってしまっていた。慌てて手を離すと、鐘楼の床に巨大な鉄球でも当たったかのような、鈍く低い音が響いた。

「お生憎様。私の魔法が込められた銃なんて、私の下僕、使い魔みたいなものよ」

 少女は薄ら笑いを浮かべながら、手にしたナイフをちらつかせる。

「さあどうするの? ナイフ持ってる? 徒手空拳? それともまた拳銃隠し持ってる? 助けを呼んだって無駄よ。誰も殺人犯の味方なんてしないから」

 込み上げる笑いを堪えるようにして早口でまくし立てるイーリスを、レイはじっと見つめた。拳銃は用意していなかった。ナイフならある。徒手空拳は論外だ。拳にナイフを突き立てられたらおしまいだ。しかし、それはナイフ同士でも同じ事……

 一秒間の逡巡。それがレイにとっては、何時間もの間考え続けていたように感じられた。

「来い」

 言うと同時に、レイはナイフを鞘から抜いた。イーリスが飛び込んでくる。その危険極まりないナイフの攻撃を、レイは身を翻して躱した。後ろを向いたために即座に反撃はできないが、突撃してきたイーリスもそれは同様だった。

 当然ながら、身体能力ではレイの方が圧倒的に高い。まともな食事も摂れていないとはいえ、大人と子供の差は歴然である。再びイーリスに向き直りながら、ナイフを勢いよく振り下ろす。

 イーリスは床に倒れるようにして躱す。続けざまに、レイは逆手に持ったナイフで払うように切りかかったが、床を転がることでイーリスも躱した。

 しかし、レイにとって形勢の有利は明らかだった。イーリスは圧倒的に強い武器を持ちながら、躱すことしかできていない。全く隙が無い。

その攻防が数回続いた後、再び逆手で切りつけたレイの手に、何かを切った感触が伝わる。

「んあぁッ!」

 床に転がったままのイーリスは、右の脛を押さえていた。レイのナイフはそこを切ったらしい。

「死ね!」

 好機と見たレイは、一気に勝負を決めに出た。体重を乗せ、渾身の踵落としを少女の脳天に叩き込もうとする。

 その瞬間であった。

 少女の腕が動いた。

 しかしそれは、レイに向けてではなかった。

 イーリスは、自らの上半身の衣服を思い切り引いた。ボタンが飛び、胸部が露わになる。下着の類は身に着けていなかった。まだ大人の色香など微塵も漂わせていないイーリスと雖も、その胸はわずかに膨らみを成している。薄桃色の突起が、美しく無垢な少女に似合う。しかし同時に、それはあまりにも無垢で、究極の禁忌をも意味してしまう。

 その一瞬の禁忌は、レイから攻撃の意志も、防御の意志も、回避の意志も奪ってしまった。

 直後イーリスが投げたナイフは、レイの左胸部に突き刺さった。

 体験したことのない痛みと、同時に絶望が押し寄せてくる。

「卑怯者……」

 ナイフを抜きつつ、レイは後ずさった。早くも毒が回ってきているのか、うまく立つことができない。

 視界も霞み始めたところで、目の前に立つ少女の姿があった。

「今更こんなことで卑怯だなんて、やっぱり頭がおかしいのかな」

 ピントが合わない目で少女の下半身を見る。イーリスの脚は出血していない。服だけを切ってしまったらしい。二重の罠だったのだ。

 上半身がほぼ裸になったまま、イーリスは言う。

「おかしいな、心臓に結構深く刺さったかと思ったんだけど……まあ、いいか。ほら、最後にこの私の胸を見てあの世へ行けるんだから、精々喜んで笑ってください、お・師・匠・様?」

 言葉の最後、嘲笑を浮かべるイーリスの胸は、もう霞んでしまってよく見えない。次の瞬間、後ずさる足が鐘楼の端の塀に当たった。バランスを崩した体は、後ろへと倒れていく。

 イーリスの顔が明るくなった。まるで、欲しかったおもちゃを手に入れた子供のように。

 レイの足が宙に浮いた。

 彼が鐘楼から落ちていく様を、イーリスは目を輝かせて見るのだった。

 時間にして一秒もないほどの落下の間、レイの霞んだ目に、再び恋人の姿が映った気がした。

「ミーク」

 名前を呼んだつもりだったが、発音していたのかどうかはレイ自身でさえもわからなかった。そして、骨が折れる音がする。

 レイの長い戦いは終わった。

やっと

殺せた。

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