四月の馬鹿
家を出た。いつもと同じだ。
僕の毎日はいつも同じでくすんでいて、例え今日が今年最後の花見日和だとか言っていたって曇ってるようなもんだ。何が春、何が桜、何が新生活だよ馬鹿野郎。
いっそ桜の木の枝で首でも括って、花見客の良い余興にでもなってやろうかとさえ思う。何が、何が社会貢献だよ畜生。
「…いってきます」
目の前に少女が現れた。
新築の家。この休みに引越し業者がいた。新たなお隣さんと言うわけだ。と言っても、僕はボロアパート住みで、一軒家持ちに頭など上がらない。
背後の僕に気付いた少女が驚いて顔を上げる。ただでさえ大きな目を見開いて、その瞳いっぱいに、僕を映す。
なんて澄んだ、綺麗な目だろう。
「おはよう、ございます」
「あっ、おはようございます」
挨拶されるなんて思っていなかった。こんなところで、こんな綺麗な人に、「あっ」を付けないと出来ない会話を披露しなければいけないなんて…。
僕の憂鬱なんて知らずに、少女は歩き出す。僕ものろのろと、重い足を引きずる。
少女は、そのまま水の上だって歩いて行けるんじゃないかと思うくらいの軽い足取りで、そよ風に黒い髪をなびかせる。黒に近い色の制服が、桜並木に映える。…と、待てよ、僕。見過ぎじゃないか、気持ち悪いぞ。少女に変質者だと言われれば、次の瞬間には手錠が掛かって、刑務所にぶち込まれてしまう。
…それ、良くないか?働かなくても、税金で養ってもらえる。刑務官に言われた通りの生活をするだけだ。追い出されたらまた何か悪いことをすれば良い。どうせ最悪でも死刑なんだ。自分で死ぬより楽かもしれない。
「死にたそうな顔をしていますね」
「えっ、あ、まぁ…はい」
少女が振り返って僕を見ている。驚いた。しかも話し掛けてくるなんて。
少女は少し足を止め、僕の横に付いて歩き出す。
夢かこれは。ありえないじゃないか。
少女は無表情で何を考えているかわからないけれど、それでも、綺麗な少女が僕と並んで桜並木を歩いている事実は変わらない。
「否定、しないんですね」
「いや…、否定する、気力も無いと言うか」
少女に緊張して、上手く言葉が出ないと言うか。会議でのプレゼンであれば、馬鹿みたいに口が回るのにな。
「…私も、死にたいんです」
「え」
まさかそんな。こんな綺麗な少女が死にたいだとか、そんな馬鹿な。社会か、社会のせいなのか。それは大きな損失だ。目の前から少女が消えてしまったら、僕の世界はますます淀む。更に生きる理由が減っていく。
「そんな…勿体ない」
「でも、あなたは死にたいんでしょう」
少女が僕を見上げる。大きくて澄んだ綺麗な目いっぱいに、僕を映す。死にたい僕が、瞳に映る。
僕は何も言えなかった。
「この時期なら、環境が変わっても負担は少ないだろう、なんて、馬鹿な考え。私には全てが負担。全てが重い。全てが怖い。だから、桜の木の枝で首でも吊ったら…なんて、考えていたんです。さっきまで」
僕と同じだ。
こんな綺麗な少女でも、僕と同じように、腹いせに桜の木の枝で首でも括ろうなんて思うのか。
でも、それは駄目だ。僕は、桜に吊られた少女を見たいとは思わない。
「それは僕が先に考えていたことです。やるなら僕が先」
僕はどれだけ勇んで首を括ろうが、ただの迷惑にしかならない。そんな馬鹿みたいな光景を見れば、少女だって考えを変えるはずだ。
「嫌です。私はあなたが死んだ世界を見たくない」
「…それは、それは…どういうことですか」
僕は馬鹿を隠しもせずに尋ねる。無表情な少女の瞳いっぱいに、馬鹿な僕が映る。
「言葉通りです。あなたが死んだ世界を、見たくない」
「僕も、同じです。僕もそんな世界は嫌だ」
桜並木を抜けた。見えるものは、コンクリートと、コンクリートと、コンクリート。そして、少女。
コンクリートの中の少女は、やっぱり黒くて綺麗だった。
「朝、いつもこの時間ですか」
「はい。時間はいつも、同じです」
「今日は、登校時間を決めようと思っていて…。来週、新学期からは、毎日隣を歩いても良いですか」
「僕に断る理由は何もありません」
少女は歩き出す。バス停に向かって。最寄りのバス停は、とっくに通り過ぎている。そして、僕も歩き出す。駅に向かって。駅への最短ルートは、とっくに通り過ぎている。
「もし、近い内に死んだりしたら、あなたを馬鹿だと罵ります」
少女が足を止める。僕も足を止めて、振り返る。
「お互い様です」
「桜が散るより先に、死んでしまうつもりでした。こんなにすぐに考え直すなんて…、馬鹿みたい」
「どんなに馬鹿でも構いません。生きていれば」
馬鹿ですね、という小さな声は、僕の幻聴だったのかもしれない。それでも、少女は馬鹿で、僕も馬鹿だという事実は変わらない。
少女はバスに乗り込んで行く。僕もコンクリートに飲み込まれて行く。
振り返って見た桜並木は、とっても、とっても、綺麗に見えた。
(終)