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三十年目の復讐 時効無きもの

作者: 三坂淳一
掲載日:2018/01/21

『 三十年目の復讐:時効無きもの 』


 二月。

雪が降った。

 今年は例年と比べ、雪が多い。

 雪が多い年の夏は暑くなると云われている。

 宮田雄一はそんなことを思いながら、ふと、かつて暮らしたカリブ海沿岸の国の暑い夏を想った。

 随分と昔のことになってしまった。

 どうも、この頃になると、自分は本当にあの国で一年近く暮らしたのか、その事実さえ、疑りたくなってくる。

 歳月は人の記憶さえ消し去っていくものなのか。

 おかしな感じに囚われることがある。

 全ては、夢だったんだよ、と囁く声もあるのだ。

 さて、今日は久しぶりにのんびりできる。

 午前中は、ゴルフ練習場にでも行って来ようか。

 勿論、雪でクローズしていなければ、ということだが。

 午後は、来週の出張の準備でもしよう。

 備えあれば憂い無しだ、とにかく、週末纏めた資料をもう一度読んでおさらいしておくことにしよう。


 夕食が済んで、インターネットを開いてメールをチェックしていたら、珍しく星野美樹からメールが来ていた。

 三月末に、赤坂見附のメキシコ料理のレストランで同窓会を開くから、集まれという開催通知連絡だった。

 同窓会の幹事をしている美樹からの、ほぼ二年毎に開かれる同窓会に関する一般連絡メールだった。

 宮田は美樹からのメールをゆっくりと読みながら、前回の会合から、もう二年になるのか、このところ、一年が過ぎるのが早い、早すぎるのだ、と思った。

 実際の齢よりはずっと若く見える端正な美樹の顔を思い浮かべながら、宮田は早速、『出席する』というメールを彼女に送った。

 美樹は、もう立派なおばさんと言っていい年齢なのに結婚せず、独身を通したせいか、いつまでも若い、私とは大違いだ、私は年齢相応に老けて、まあ、いいおじさんになってしまった、と宮田は思い、苦笑した。


 宮田は美樹宛のメールを出した後、机の引き出しから十年ほど前に配られた同窓会の名簿を取り出した。

 結構、皆、一流と呼ばれる会社に勤めているな、と改めて思った。

 名簿に記載されている者は十五名いる。

 その名簿の中で、名前は書かれているものの、現住所、職業といった欄が空白になっている者が一人だけいる。

 宮田はその空白となっている箇所を見詰めた。

 いろんな想いが複雑に絡み合い、走馬灯のように宮田の脳裏を過ぎっていった。

 辛く、苦い思い出ばかりだった。

 歳月というものは、楽しく愉快な思い出はあっさりと消してしまうのに、厭な思い出はなかなか消してくれないものだ。

 忘れたいと思っているのに。


 一時間ほどして、携帯電話が鳴った。

 携帯電話を取って、画面を見ると、美樹からの電話だった。

 「宮田君。今度の同窓会には、山田君も来るのよ」

 美樹の声は心なしか沈んで聞こえてきた。

 「山田雅彦か。それは、珍しいね」

 「十年振りよ。彼、今、郷里で県会議員をしているらしいの」

 「そう、随分と出世したものだねえ。政治の世界に興味がある、と昔話していたけれど」

 「で、今度は市長選に出るという話よ」

 「市長選に?」

 「保守党の有力候補者なんだって。当選確実、みたいよ」

 宮田が黙っていると、美樹が強い調子で言ってきた。

 「成功する人はどんどん成功していくものね。真知子、可哀そう。大違いね。神様って、不平等ね」

 それっきり、美樹も黙ってしまった。

 宮田たちは暫く沈黙した。

 黙ってはいたが、お互いの心は通じていた。

 宮田は、じゃあ、同窓会で会おうね、と言って電話を切った。


 携帯電話を切って、宮田は机の前に座り、ぼんやりとした時間を過ごした。

 追憶という名の薄暗がりの中にひっそりと膝を抱えている自分を見詰めていた。

 名簿で一人だけ、空白になっている者の名前は小野真知子と言う。

 真知子の顔を思い浮かべた。

 真知子は若いままだった。

 真知子はいつでも若いままで、齢をとった真知子の顔は宮田には到底想像できなかった。

 真知子は二十歳で死んだ。

 自ら、生命を絶ったのだ。

 それは、三十年も前の忘れえぬ出来事だった。


 宮田は机に頬杖をついて、過去の追憶に浸った。

 三十年前、自分は中南米の或る国に交換留学研修生として行った。

 その国の大統領の肝煎りで始まった交換留学研修制度は第八回目を迎えていた。

 社会人の研修生が五十人、自分のような学生の留学生が五十人という百人の大所帯の日本の若者がその国に渡った。

 その頃、就職は氷河期と云われ、自分たちスペイン語を専攻する学生に就職の門は厳しく閉ざされており、渡航した多くの四年次学生は大学を休学する形で留学生試験に応募し、翌年の就職状況が改善されることを期待して、その国に渡ったものだった。

 首都の大学で学ぶことを希望したが、その希望は認められず、首都から大分離れた地方都市の大学に配属された。

 元来、夏と春の二つの季節しか無いと云われている暑い地域であり、自分たちが行ったのが丁度七月の下旬の暑い盛りの時期で、信じられないほど蒸し暑く、スコールが毎日やって来るという最悪の季節だった。

 仲間は十五人居た。

 企業とか官庁から派遣された社会人研修生が五人、そして、大学を休学して来た学生留学生が十人というグループだった。

 社会人研修生といっても皆若く、一番の年長者が二十八歳という青年たちばかりであった。

 名の通った民間企業からの派遣が四人、官庁から派遣されてきたキャリア官僚も一人居た。

 言葉に関しては、自分たち現役の学生と違い、初心者の域を出なかったものの、皆若くエネルギッシュな感じを自分たち学生に与えた。

 後年、団塊の世代と名付けられた年代で、日本経済自体が右肩上がりといった中で就職は選り取り見取りという状況であったらしい。

 自分たちは大いに彼らを羨んだものだ。

 学生は、と言えば、就職浪人めいた四年次学生ばかりでは無く、二年生、三年生といった年下の学生も居た。

 そして、学生の留学生の中には、女子も三人居た。

 星野美樹は自分と同じ四年生、そして、小野真知子は二年生だった。

 真知子はちょっと幼い感じの残る可愛い女子学生で、年齢も一番若く、自分たちのグループのアイドル的存在となった。

 学校に行けば、真知子に会える、という状況は正直なところ、自分を軽やかな気分にさせた。

 それほど勤勉な学生では無かったが、自分はほとんど毎日学校に通った。

 勿論、真知子に会うためであった。


 真知子を自分は愛していた。

 三十年前の七月の上旬、自分たち交換留学生は成田を発ち、その国の首都の空港に着き、入国の手続きを済ませてから、近郊の国立保養地にある宿舎にバスで行った。

 そこで、二週間ばかり政府主催の総合研修を受講した後、十人から十五人のグループに配属され、各都市に分散することとなっていた。

 総合研修が終了する頃、グループ単位で集まり、顔合わせを行った。

 自分はそこで、二十歳になったばかりの小野真知子に初めて会った。

 真知子はワインのグラスを片手に、自分のところにも挨拶に来た。

 「宮田さん、ですよね。小野です。宜しくお願いします」

 「いや、こちらこそ、宜しくお願いします」

 「宮田さんたち、四年生は皆さん、同時通訳無しで講義を聴いていらっしゃるんですよねえ。羨ましいわ。私なんか、同時通訳のイヤホンを放せないのに」

 「小野さんは、そうか、まだ二年生だっけ。それなら、仕方が無いと思いますよ。僕たち四年生は何と言っても、まる三年間、スペイン語で搾られて来ましたから。何とか、通訳サービス無しで、講義が聴けるようになっただけです。これからは毎日がスペイン語漬けになりますから、小野さんも大丈夫で、その内、楽に理解できるようになりますよ」

 「本当に、宜しくお願いします」

 自分と真知子は無邪気にグラスをカチッと合わせ、今後の健康を祈念して乾杯をした。

 それ以来、真知子は自分の心の中で大きな比重を占めるようになった。

 一目惚れなんて、他人事だと思っていた。

 少なくとも、自分には関係の無い言葉だと思っていた。

 自分は真知子のまだあどけなさが残る笑顔を見ながら、これからの十ヶ月という至福の留学期間に思いを馳せた。

 人生で最高の黄金の時となるはずだった。


 美樹は、久し振りの宮田の声を聞いた後で、携帯電話を台所の食卓の上に置きながら、昨年の十一月に母親と行ったばかりの旅行を思い出していた。

 美樹は一週間ほどの旅程でほぼ三十年振りに、かつて留学した街を、母親を連れて訪れた。

 日本から十数時間という飛行機の長旅で疲れた母親をホテルに残し、美樹は一人で街を散策してみた。

 ホテルから歩いてソカロ(カテドラルがある広場)に行き、木陰のベンチにも座ってみた。

 昔はこのベンチに座っていると、樹の上からリスが下りて来て、きょとんとした眼でベンチに腰を下ろしている人間を見詰めていたものだが、今はリスもいなくなったらしい、と美樹は思った。

 ベンチから立ち上がり、ぶらぶらと辺りを見物しながら歩いた。

 三十年という歳月はやはり長く、カテドラルとか市庁舎、教会といった大きな建物はそのまま在ったが、メルカード(市場)とかレストラン、カフェテリアは様変わりしていた。

 メルカードはすっかり現代的な建物に改築されており、昔の鄙びた面影は一切残されていなかった。

 少し、覗いてみた。

 果物の類は驚くほど安い。

 美樹は昔を思い出し、ジュースの売店でスイカの生ジュースを飲んだ。

 味は昔のままで変わらず、美味しかった。

 少し離れていたが、十ヶ月通った学校にも行ってみた。

 しかし、かつて中庭にどかんと巨大な姿を見せて立っていたセイバの樹は切り倒されたのか、その姿はもう存在していなかった。

 片隅にあったプールも、バスケットボールのコートも無くなっていた。

 美樹は暫く、校舎の片隅に立って、テキストを小脇に抱えて教室に急ぐ学生をぼんやりと眺めていた。

 昔は小柄な学生が多かったが、今、こうして見ると、背の高い学生が多いことに気付いた。

 私の背が縮んだのかしら、と美樹は微笑んだ。

 学校を出て、また、ぶらぶらと歩いてホテルに戻った。

 部屋に入ると、ベッドで横になっていた母親が起き上がり、街の様子はどうだった、と訊いてきた。

 「駄目よ、お母さん、街もすっかり変わってしまって、昔の面影はもう無いわ。学校もあるにはあったけど、中庭のセイバの巨木も無くなり、ペンキ塗り立てみたいな新しい校舎になっていて、コロニアル情緒たっぷりだった面影はさらに無し、といったところよ」

 この街はもういいわ、明日はバスに乗って、マヤの遺跡見物とか、カリブの海を見て来ようかしら、と美樹は思った。

 ふと、心の隅で、かつて訪れて感動した『思い出の地』はそのままにしておけ、決して再訪してはならぬ、再訪すれば味わうのは幻滅ばかり、という誰かの格言を聞いたような感じがした。


 その頃、宮田は(ぬる)めの風呂に浸かりながら、人類学教室の中庭に立っていた巨木のことを想っていた。

 セイバという樹で樹齢は数百年にもなるのであろうか、人類学教室のシンボルのように周りの木々を圧して立っていた。

 フアンという名前の中年のごつい体の学校用務員がいた。

 宮田が学校に行くと、フアンはいつも気だるげにセイバの周りの落葉をのろのろと掃き集めていた。

 厚い胸のがっしりした男で、本人の話に依れば、若い頃はキャバレーの用心棒をして暮らしていたらしい。

 丸太のように太い腕を誇示しながら、腕力では誰にも負けなかった、と威張っていた。

 しかし、その店で踊り子をしていた女と一緒になり、その女のたっての願いでやくざな商売をやめ、堅気になって、今はこのようにしがない学校用務員をしている、とも話していた。

 宮田のいい話相手だったフアンは宮田にいろいろとマヤの伝説を話してくれた。

 このセイバにだって、怖い伝説があるんだ、とフアンは精一杯恐い顔をして宮田に話したこともあった。

 セイバにはシュタバイという女の妖怪が住んでいるんだ。

 昼間は木陰に隠れて人前には出ないが、夜になると絶世の美女となって、通りかかる旅人の前に現われるのさ。

 旅人はふいに現われた女のあまりの美しさに心を奪われる。

 男なら、誰だって綺麗な女には弱い。

 そして、その女はいろんな手練手管を使って、旅人を誘惑する。

 お堅い旅人もその女の魅力にイチコロで、あっさりと陥落する。

 翌朝、旅人は喉を食いちぎられた無残な骸となってセイバの樹の下で発見されるのだ。

 一夜の快楽の代償として、旅人は命を奪われる。

 どうだい、このマヤの妖怪伝説は、とても面白いだろう、とフアンが真面目な顔をして言う。

 「フアン。君は、シュタバイに会ったことがあるのかい?」

 話を聞き終わった宮田がフアンに尋ねると、フアンは哀しげな顔と口調で、肩を竦めながら言った。

 「無い。残念ながら、無いんだ。でも、会ったことがあれば、今、こうして生きちゃいないさ」


 宮田の回想は続いた。

 クラスメートの誕生会には何回か招待されたことがある。

 十人程度の気の置けない友人を自宅に招き、誕生日を祝うフィエスタ(パーティー)をするのだ。

 都度、宮田も何かお祝いの品を持参して出席した。

 日本から持参した土産の類で結構喜ばれたのは、紙風船が何種類か入ったセットだった。

 紙風船を膨らまし、観葉植物がフィエスタの部屋に置いてあれば、枝に乗せるのだ。

 色とりどりの紙風船が天井扇に煽られて少しゆらゆらと揺れ動く。

 フィエスタに彩りを添えるという効果もあり、案外喜ばれたものだ。

 でも、真知子には敵わなかった。

 真知子は折り紙で鶴を何羽も作り、折った後は鶴の中央をプーと吹いて膨らましてから、相手に渡すのだ。

 真知子の形の良い指がしなやかに動き、綺麗に折られた鶴は何にも増して喜ばれた。

 宮田は折りが完成した鶴に命を吹き込むようにプーと吹く真知子の官能的な唇に背筋がぞくぞくっとするような刺激を感じた。

 真知子が同席するフィエスタでは、宮田は寡黙な観察者となった。

 観察の対象は言うまでも無く、真知子の姿であり、仕草であり、交わす会話であった。

 寡黙な宮田はよく、その家のセニョーラ(女主人)から、からかわれたものだった。

 「ユーイチ、どうしてあなたはそんなに真面目くさった顔をしているの。今夜は大いに楽しんでちょうだい。人生は一回限り、一回限りよ」


 フィエスタと言えば、研修生一同が学校でお世話になっている教授とか学生たちを招待して開催したフィエスタもあった。

 社会人研修生が数人で首都に遊びに行った際、長ネギ、シラタキ、春菊、豆腐と云った鋤焼きの材料、日本の米と似ているカリフォルニア米をふんだんに仕入れてきた時のことだった。

 日頃、お世話になっている人を呼んで、鋤焼きパーティーを開こうということになったのだ。

 こんな時は、女子学生の晴れ舞台となる。

 星野以下、皆、気合いが入っていた。

 牛肉はとにかく日本と比べたら極端に安い、来賓含め、参加した全員が野菜はともかく、肉を中心とした鋤焼きを十分堪能した。

 おにぎりも途中から参加者に振る舞われた。

 ボラ・デ・アルロース、つまり、ライス・ボールとおにぎりは呼ばれて、珍しがる教授たちに振る舞われた。

 おにぎりも予想に反して、結構好評で喜ばれていたようだ。

 甲斐甲斐しく、お給仕をする星野以下三人の女子学生はそれぞれ、可愛いエプロンをしていた。

 エプロン姿が皆似合い、本当に可愛かった。

 日本人の女性が外国でもてる理由が分かった、と宮田は彼女たちの姿を見ながら、そう思った。


 四年時学生の一人に、山田雅彦という学生が居た。

 自分と同様、就職難を避け、来年を期待して学校を休学してこの国に留学してきた学生だった。

 しかし、彼は自分たちと異なり、スペイン語科専攻の学生では無く、英語科専攻の学生だった。

 留学生選抜試験は当然スペイン語で行われたが、結構易しい試験で、彼はスペイン語を一年ほど独学しただけで合格した。

 スペイン語の単語の中には、英語の単語と酷似しているものが沢山あり、随分助かった、英語の力で合格したようなものだ、と山田は自分たちに話していた。

 人なつこい感じの男だったが、どうも自分たちスペイン語科専攻の学生とは肌が合わなかった。

 スペイン語は日本ではマイナーな外国語だ。

 英語が第一外国語となるのは仕方が無いが、第二外国語として学生が履修するのは、スペイン語の教師が少ないということも勿論あろうが、理科系の学生ならばドイツ語、文科系の学生ならばフランス語、と相場が決まっているという日本の現実がある。

 その中で、スペイン語をあえて専攻する学生はどちらかと言えば、まあ良く言えば、ロマンティストであり、悪く言えば、少しひねくれている者である。

 山田は英語専攻であり、自分の目から見たら、人付き合いはいいものの、少し打算的な感じもする怜悧な学生であった。

 しかし、やっかみも含めて言えば、女性にはよくもてた。

 潔癖でとっつきにくい感じを異性に抱かせる美樹でさえ、山田と話す時は少しうきうきとした雰囲気となるのを自分に感じさせたものだ。

 明るく積極的にアプローチする男に、女は弱いものであろうか。

 いつの間にか、山田は真知子と親しい関係となっていた。

 図書館でマヤ文明に関する本を読んでいた時だった。

 自分の前に座っていたイサベルという名の女子学生が急に自分に囁いた。

 ほらっ、ノビオス・ハポネセス(日本人の恋人たち)が来るわよ。

 言われて、振り向いた自分の前方に、山田と真知子が並んで歩いていた。

 自分は迂闊にも、二人が既にそのように言われる仲になっていようとは思っていなかった。

 ドン・キホーテの中の一つの格言が自分の脳裏を過ぎった。

 『愛と戦争は同じこと』という格言だった。

 どんな手段を尽くしても、とにかく勝たなければ意味が無い、という意味で使われていた格言だ。

 愛していても、何の行動もせず、ただじっと真知子を見詰めているばかりの自分に到底勝ち目は無かったのだ。

 自分はイサベルの前では何気ない顔をして、本に視線を戻したが、心の中では、愕然とした思いと暗欝な落胆を同時に感じていた。


 当時、暮らした街で一番の娯楽と言えば、何と言っても、映画だった。

 一番賑やかなところに、映画館が数軒、まさに軒を並べて建っており、いずれも立派な外観を有していた。

 中は、あたかも大きな劇場といった風情で千人以上の観客を収容できるほどの大きさをいずれの映画館も誇っていた。

 平日でも夜になるとほぼ満員という盛況を誇っていたが、特に週末は超満員という活況を呈した。

 家族、或いは、若い恋人たちがきちんとした身なりで開演時間に合わせてぞくぞくと並んで入場する光景はなかなか見ごたえのある光景だった。

 日本人の目から見たら、入場料も安いこともあり、自分も語学の勉強と称して、やたら映画を観に行った。

 トラボルタのサタデイ・ナイト・フィーバーという映画もその頃観た映画だった。

 カトリックの社会はかなり禁欲的な一面もある社会だ。

 勿論、この禁欲性は表面的なものかも知れないが、映画で愛欲シーンになると、必ず自分たち異邦人を驚かす光景が見受けられる。

 それは、野次が入ることだった。

 場内の各所から一斉に指笛が鳴らされたり、冷やかすような掛け声がかかるのだった。

 自分には、淫らな行為に対する無邪気な抗議のように思えた。

 しかし、本心からの抗議では無く、一応このように抗議するのが信仰深いカトリック信者たる務めであるかのようにも自分には思えた。

 少し、偽善的な臭いを感じたが。

 或る時も、ベッドシーンが展開されようとした時に、場内の後方からけたたましい指笛が鳴らされた。

 自分も他の観客同様、笑いながらそちらの方向を見た。

 盛んに指笛を鳴らしている中年の男の前の席に、自分は見慣れた男女を見た。

 見たくは無かった二人連れだった。

 そこに、後ろからの指笛に苦笑しつつ、迷惑そうにしている山田と真知子が座っていたのだ。

 幸い、彼らは自分の存在には気付かなかったようであったが、映画が終わると、自分は真っ先にその映画館を逃げるようにして飛び出した。

 観た映画はかなり官能的な映画だったので、彼らに、何かもの欲しげに来ている自分の姿を見られるのは嫌だった。


 自分たち学生留学生は政府支給の奨学金を頼りにかなり質素に暮らしていたが、社会人研修生は自分たちとは異なり、奨学金の他、所属する企業或いは官庁からの給料も貰っていた。

 当時で、物価は日本と比べ、三分の一から四分の一程度であると云われていた。

 かなり、裕福な暮らしをすることができたのだろう。

 時々、街で彼らに会うと、彼らは決まって自分たち学生を誘い、食事とか飲みに連れていってくれた。

 或る時、街の中央郵便局でばったり彼らと会ったことがあった。

 一緒に、お酒を飲もうということになり、少し離れたバル(酒場)に行った。

 「宮田君、ちょっと痩せたみたいだなあ。ちゃんと、食っているかい」

 最年長の二十八歳の社会人研修生が自分の顔を覗き込むようにして、笑いながら訊いてきた。

 「ええ、ご心配無く。ちゃんと、食べていますから」

 「時に、君の仲間のことだけど。少し、気になることがあるんだ」

 「僕の仲間、のことで。どんなことでしょうか」

 「山田君と小野さんのことさ」

 自分が黙っていると、彼はさらに続けて言った。

 「このところ、山田君が小野さんを避けているということを聞いたんだ」

 「そんな、・・・、ことは無いと思いますよ」

 「でも、二人の様子を見ていると、そんな感じを受けるぜ。つい、この間も、街で山田君が女の子、何て言ったっけ、そうアマポーラという女の子と歩いているのを見かけたよ。一体、小野さんとの仲はどうなっているんだ。他人事ながら、どうも気になって仕方が無いんだ」

 そう言われて、自分も一体あの二人、どうなっているんだろう、と思った。

 アマポーラという女の子は茶色の髪をしたメスティーサで、どちらかと言えば、白人系の顔立ちをした可愛い女の子で、自分たちが配属された大学の教室では自分たちに親切なクラスメートの一人だった。

 性格のいい女の子であったが、少し気が強く、それが難点と言えば難点と言えた。

 山田がちょっかいを出したのか、アマポーラがちょっかいを出したのか、男と女の仲とて、自分には到底判らなかったが、真知子が大いに傷ついたことだけは間違いない事実であった。

 「星野さんみたいに、超然としている女の子も珍しいけど、小野さんは少し相手を間違えたようだね。むしろ、君みたいな男性が小野さんには相応しいのにねえ」

 そう言われて、自分は少し涙ぐんでしまった。

 自分の様子に気付いたのか、彼は意外そうな顔をして、そのまま黙ってしまった。

 窓の外で、ざあっという音がした。

 ガラス戸越しに激しい雨粒が見えた。

 「もう、夏も終わりだと云うのに、またぞろ、スコール来襲かい。雨があがれば、また、蒸し暑くなる。さあ、遣らずの雨だ。もうちょっと、飲もうや。おい、宮田君。元気を出して、もう少し、飲めよ」


 十月になると雨季も漸く遠のき、爽やかな春の季節となる。

この街の一番いい季節が半年は続く。

そんな在る夜、真知子が突然自分のホームステイ先を尋ねて来た。

 自分は驚いた。

 しかし、自分の部屋に入れるわけにはいかなかった。

 カトリックの国のホームステイ先では若い娘を自分の部屋に入れるわけにはいかない。

 好奇心に溢れるセニョーラ(ホームステイ先の奥さん)の視線をかわし、自分は真知子を連れて、近くのカフェテリアに行った。

 そのカフェテリアは米国風な感じがするモダンなカフェテリアで、店にはアメリカン・ポップスが流れており、自分の好きな店だった。

 パイ・デ・ヌエスという名前のナッツ・パイがとても美味しく、自分のお気に入りだった。

 週に一度、その店で本を読みながらお茶を飲む、というのが貧乏学生である自分の唯一の贅沢となっていた。

 その店で、真知子はハマイカと呼ばれるハイビスカスのハーブ・ティーを飲み、自分はカフェ・コン・レチェ(カフェ・オ・レ)を飲んだ。

 秘かに憧れていた真知子が夜、自分に会いに来た。

 自分は少し胸をどきどきさせながら、真知子の言葉を待った。

 期待しないほうがおかしい。

 もう、山田は厭になった、私と付き合って欲しい、といったような甘い打ち明け話を自分は秘かに期待していたのだ。

 しかし、現実はそんなに甘くは無いものだ。

 真知子の話は自分を憂鬱にさせる話であった。

 山田がこの頃、自分に冷たく接するということで、自分はとても口惜しく悩んでいる、と真知子は自分に話したのだ。

 山田に新しい恋人もできたらしい、ということも自分に話した。

 話しながら、真知子は時々涙ぐみ、話す口調も荒くなっていった。

 「山田さんが好きなんです。宮田さんには話しますが、私は身も心も捧げたつもりなんです。それなのに、山田さんはひどいんです。私というものがありながら、アマポーラに心を動かすなんて。アマポーラもアマポーラだわ。山田さんと私がノビオスであることを知りながら、彼と付き合うなんて。人間として最低な女よ。ねえ、宮田さんもそう思うでしょう。アマポーラなんて、屑よ、本当に屑だわ。それに、山田さんも山田さんだわ。あんなに、私のこと、好きだとか、愛していると言いながら、その舌の根も乾かない内に、アマポーラとも付き合うなんて。おかしいわ。絶対、おかしいわよねえ、宮田さん。人間として許されることではないわよねえ」

 真知子はその後も私にくどくどと山田とアマポーラに対する憤懣と恨みを話した。

 誰かに聞いて欲しい、というのが真知子の気持ちであり、その誰かというのがたまたま自分であったということなのだ。

 自分はほとほとうんざりした。

 好きな女が、自分以外の男に対する愛情と未練を情熱的に語る時、聞かされる男は本当にたまったものではない。


 自分のうんざりした表情に気付いたのかも知れない。

 真知子は、ふと我に返ったような口調で呟いた。

 少し自嘲気味に聞こえた。

 「私って、随分と汚い言葉で話しているわ」

 「別に、そうは思わないけど」

 真知子は自分の顔をまじまじと見詰めた。

 自分の顔に、気の毒そうな表情を、そしてもしかすると、憐れみの表情を見てとったのかも知れない。

 「捨てられた女に、美しい言葉なんてありはしないわ」

 そう言って、彼女は自分の顔をじっと見た。

 その時、自分は何か言うべきであったかも知れないが、自分は思わず顔を伏せ、黙り込んでしまった。

 真知子は黙って立ち上がり、自分から離れ、その店を静かに出て行った。

 カップの下に、お茶代のつもりか、某かの紙幣が置いてあった。

 自分はその紙幣を見ながら、明日になったら、真知子に堂々と自分の気持ちを打ち明けようと思っていた。

 真知子が自分を受け入れるかどうか。

 でも、自分は自分の本当の気持ちを打ち明けたかった。


 しかし、真知子に明日という日は無かった。

 その晩、真知子は手首を切った。


 真知子の死体はホームステイ先近くの公園のベンチで発見された。

 宮田たちにも警察からの簡単な事情聴取がなされた。

 宮田は警察からの事情聴取に応じ、山田とのことは伏せ、特に思い詰めたような変わったことは見受けられなかったと話した。

 真知子は神経衰弱、つまりノイローゼによる発作的自殺と結論付けられたようだ。

 日本から真知子の家族が駆け付け、真知子の遺体は国際霊柩を扱う会社によって日本に送られた。

 当時の宮田たち日本人が真知子の自殺で受けた衝撃は大きく、真知子を妹分として可愛がっていた美樹は暫く学校にも来ず、自宅に引き籠ったほどであった。

 山田とアマポーラの仲は終わり、山田は学校当局に転校願いを出したようだが、認可されることは無く、ひっそりと学校に来て授業を受け、宮田たちと会話を交わすことも無く、帰宅するといった生活を送った。


 真知子が死んで、ひと月ほどした或る日、宮田は長距離バスに乗って、カリブ海に出かけた。

 船で或る小さな島に渡り、ランゴスター(大型の伊勢海老)の頭部だけがもがれて無残に打ち捨てられている浜辺に立って、夕陽を眺めた。

 無数のメキシカン・オパールを散り嵌め、七色の虹のように煌めく黄昏の海は言葉にならないほど、美しかった。

 宮田は胸ポケットから折りたたんだ紙片を取り出し、足下の砂の中にそっと埋めた。

 捨てられた女に美しい言葉なんて無い、と真知子は自分に言ったが、捨てられたその女を愛した男にはまだ美しい言葉はある。

 宮田は真知子への想いを美しい言葉で綴り、その便箋を砂に埋めたのだ。


 宮田はその時の光景を思い出していた。

 水平線の彼方にゆっくりと身もだえしながら沈んでいく夕陽を見詰めながら、その時、泣いたかどうかは覚えていない。

 ただ、その時の夕陽がカリブの海に沈んでいく光景は三十年経った今でもはっきりと覚えている。

 その時、自分は二十二歳だった。

 恋に恋する年齢では無かったが、愛する者のために、命を捨てられる年齢であった。


 同窓会開催時間の少し前に指定されたメキシコ料理店に着いた宮田は、幹事の美樹に挨拶をしてから、既に来ていた昔の仲間と他愛無い雑談を交わしながら、開催の時を待った。

 同窓会では暗黙の了解ができていた。

 真知子のことを話すことはタブーとなっていたのだ。

 始めの数年は時折話題となったが、十年ほど経ったあたりから、同窓会では話題にはのぼらなくなった。

 あまりにも沈鬱な話題であり、蒸し返したところでどうしようもない話題であったのだ。

 そして、いつの間にか、真知子という存在自体、話題とすることがタブーとなっていったように思われる。

 いつの間にか、真知子は元からいなかったような希薄な存在となっていった。

 十五名というグループは、真知子を除いて、元々が十四名であったという風にも宮田たちの心の中で変化していった。

 こうして、真知子は宮田たちの間で二回死んでいった。


 「皆さん、今晩は。来年、いよいよ、定年を迎え、会社からおさらばして、夢の年金生活に入る○○です」

 ひょうきんな代表幹事の挨拶に、皆どっと笑い、座は一遍に和やかな雰囲気に包まれた。

 「後で、全員に近況報告をしてもらいますが、本日は十年振りに山田雅彦君が来ています。山田君は現在、郷里の○○県で県会議員をしており、大変多忙な毎日を過ごされておりますが、今回はどういう風の吹きまわしか、この集まりに参加されました。後で、じっくり近況を聞かしていただきたいと思っております」

 十四人のグループであったが、宮田たちの集まりはよく、この時も十人ほど出席していた。

 ホームステイ先は違っていたが、異国の同じ街で十ヶ月ほど、言わば、同じ釜の飯を食った仲間だ、仲はよく、酒が入ると、がぜん賑やかになった。

 参加した中で、最年長が五十九歳の代表幹事で、最年少でも五十歳になる。

 立派な、中年或いは熟年が若い当時に返って、思い出話に花を咲かせたり、近況報告に茶々を入れたり、気の置けない楽しい時を過ごした。

 「ボエミア、無いのかよう? ボエミアが飲みたいなあ」

 「お前は相変わらず、ビールはボエミアかい。たまには、ほら、コロナでも飲みなよ。ヤッピー・ビアだぜ。レモンを搾って、一気飲み」

 「馬鹿言え、コロナなんかおかしくって飲めるかよ。あんな、水っぽいビール。何と言っても、ビールはボエミアだよ。コクが違うっていうの。コクが、ね」

 「おい、そのサルサ(ソース)、俺にもまわしてくれよ。そのサルサ・メヒカーナをたっぷりかけて、この海老を食べたいんだ」

 「ほら、チレ・アバネロ(ハバネロ・タバスコソース)もたっぷりかけてやるよ。懐かしい辛さをご賞味あれ」

 宮田も昔の仲間と気の置けない会話をしながら、時々山田の方を見た。

 山田雅彦はでっぷりと太り、貫禄たっぷりな男となっていた。

 如才無く、座を回りながら、宮田のところにもやって来た。

 「よっ、宮田君、お久しぶり。ご無沙汰しておりました」

 「山田君もますます元気そうで何より」

 「政治の世界に居る者は何と言っても、体が資本でねえ。健康には十分気を付けていますよ。僕も毎朝、ジョギングをしている」

 「政治家で気を付けなければならないのは健康と、それに、スキャンダルだろう」

 「それはそうさ。利害関係者から金を貰ったとか、女性関係の噂が出たら、一遍に支持者が離れていくからね。恐いものさ」


 「スキャンダルと言えば、ね。実は、僕のところに先日、妙な感じの男が来てねえ。君のことを根掘り葉掘り訊いていったんだ」

 宮田は山田にビールを注ぎながら話を始めた。

 「その男が名刺をくれて、見たら、新聞記者なんだ。聞いたことのない新聞社だから、どうも、業界紙の記者だね。いわゆる、業界ゴロといった手合いかねえ」

 「その名刺、今、持っているかい? あれば、見せて欲しいんだが」

 「うん、念のため、持って来ている。但し、名前のところは消させてもらっているよ。ややこしいのは御免だから」

 宮田はこう言いながら、マジックで名前のところを消した名刺を山田に渡した。

 山田は名刺に刷られてある社名を見て、思い当る節があるらしく、頷いていた。

 「ああ、ここか。マスコミに名を借りて、恐喝まがいのこともする業界紙だよ」

 「そうか、心当たりはあるのかい?」

 「うん、大分昔になるけど、県議に立候補した時、僕の親戚のことでどうのこうのと言ってきたことがあるんだ。昔、傷害事件を起こしたことがある、とか何とか言ってきてね。親戚と言っても、随分と遠い親戚だけれどね。選挙に影響があるかも知れませんよ、と言葉はあくまで穏やかだったが、半ば脅しでね。その時は、地元の有力者にコネを使ってもらって、何とか事無きを得たんだけれど」

 そして、上目遣いで宮田を見ながら、陰鬱な口調で訊いた。

 「で、どんなことを訊いたんだい?」

 「君にはショックかも知れないが、小野真知子さんのことも訊いてきたんだ。どこから、彼女のことを聞き出したんだろう?」

 小野真知子の名前が出た途端、山田の顔が急激に蒼ざめていくのが判った。

 「そうか。・・・、そうかい」

 山田の呟きは低く、聞き取りづらかった。

 やがて、山田は宮田の席を離れて社会人研修生たちのところに行ったが、明らかに態度が変わっていた。

 宮田のところに来るまでは、世界は自分のためにあるとばかり、自信に満ちた態度を取っていたが、宮田のところを離れた時の山田は元気を失くし、一遍に老けたような足取りになっていた。

 店の中を歩く様子は、宮田には夢遊病者か墓場を流離い歩く幽鬼の姿を想起させた。

 宮田はふと、美樹の姿を追い求めた。

 美樹は窓際の席に座っていた。

 美樹も山田を見ていた。

 その内、宮田の視線と美樹の視線が出会った。

 美樹は宮田に微かな微笑みを送ってきた。


 山田は同窓会の会場であるメキシコ料理店を出て、赤坂見附から赤坂に向って歩いていた。

 赤坂には洒落た店が多い。

 辻々で、呼び込みから声がかかったが、山田は一人黙然と歩いた。

 途中、秘書から電話が入った。

 秘書は明日の予定を確認し、ホテルでの待ち合わせ時間の念押しをしていた。

 山田は、うんうんと頷き、携帯電話を切った。

 山田は赤坂の路地を彷徨うように歩いた。

 そして、歩きながら、宮田との会話を何度も反芻していた。

 あの業界紙は実にしつこい、マスコミの名を借りて暴露記事で稼いでいる、ダニみたいな集団だ。

 宮田は、誰からか聞いて小野真知子のことを根掘り葉掘り訊いてきたと言っているが、それは嘘だ、おそらく、宮田か、あの星野美樹が俺のことを訊かれ、真知子のことを話したに違いない。

 真知子が死ぬとは思わなかった。

 アマポーラとのことは、単なる火遊びに過ぎず、俺は真知子のところに帰って行くつもりだったのに。

 真知子はあまりに俺を独占したがっていた。

 俺はそんな真知子にいささか辟易し、少し逃げたかっただけなんだ。

 あの街は小さすぎた。

 噂はすぐ広まってしまうのだ。

 これが、東京とか大阪ぐらいの大きな街であったなら、あの国で言えば、首都程度の大きな街であったなら、真知子は真知子なりに自由に、俺は俺なりに自由に、呼吸できたかも知れない。

 しかし、あの街は閉鎖的な田舎町で、日本人の噂は注目の的ですぐ広まってしまう。

 真知子が俺を愛してくれるのは嬉しかったが、始終一緒に居るとなると、いくら好きな女の子であっても、息が詰まってしまう。

 少し、息抜きをしたかっただけなのだ。

 別に、アマポーラを愛していたわけじゃないんだ。

 仮に、愛していたとしても、真知子に対する愛情の方がずっと深かった。

 真知子はほんの少し、待てば良かったんだ。

 俺は必ず、真知子の空間に帰っていったのに。

 しかし、これから、どうしよう。

 あの業界紙は待ってましたとばかり、俺の昔のスキャンダルを書くだろう。

 もう、これは間違いない。

 どうしよう、・・・、どうしよう。

 山田はぎくっと立ち止った。

 路地の暗闇の中で、光るものがあった。

 それは、二つの眼であった。

 黒猫であったが、山田にはマヤの女神・イシュタブと共に、待ち受ける真知子の眼のように思われた。

 イシュタブと真知子が俺を呼んでいる。

 山田はよろよろと歩き始めた。


 翌日、宮田は二日酔いで昼近くまで寝ていた。

 昨夜は二次会では済まずに、三次会まで仲間に付き合って飲んだ。

 山田は、野暮用があるということで、メキシコ料理店での一次会でホテルに帰って行った。

 夕刊を見て、驚いた。

 まさか、と思い、宮田は激しいショックを受けた。

 山田の自殺の記事がかなり大きく載っていた。

 朝、約束の時間に現われなかったので、秘書が山田の部屋に行ったところ、何の反応も無く、フロントに話し、ドアを開けたら、山田の縊死死体を発見した、ということだった。

 遺書は残されていなかったが、発見状況から見て、自殺したと思われるということであった。


 「まさか、自殺してしまうなんて」

 宮田は茫然と新聞の記事を見詰めた。

 自分の行為がこのような形に結実しようとは夢にも思わなかったのだ。

 夢にも思わなかった?

 嘘を付け、半ば、期待していたくせに、と心の暗部で囁く声がした。


 「山田君、私はあなたが好きだったのよ。でも、あなたは私より真知子を選んでしまった」

 美樹は新聞から眼を離し、ガラス戸越しに空を見上げた。

 美樹は思っていた。

 振られた女は普通、その振った男は恨まずに、振った男が選んだ女を憎むというけれど、私は違った。

 私は真知子が好きだった。

 二つ違いの妹のような感じがしていたのよ。

 小さい頃、病気で死んだ妹が居るけれど、私が真知子に抱いた感情というのはその妹に対して持った愛情と似ていたの。

 私より真知子を選びながらも、その真知子本人をも苦しめ、死なせた山田という男が本当に心底から憎かった。


 美樹の回想は続いた。

 でも、セレナータを三人で観た時のことは今でも忘れないわ。

 彼が誘ったのか、私が誘ったのか、もう覚えてはいないけれど、カテドラルから少し歩いたところにある、あの教会の広場で毎週水曜日に開催されるセレナータという優しい響きがする地域の夜会音楽会にはよく三人で行ったわねえ。

 長いスカートを翻して民族舞踊が優雅に舞われ、ギターの伴奏で唄われる地域色豊かな歌の数々、軽妙な司会の下、老齢で既に引退した歌手が聴衆を前にして、一世一代とばかり、昔取った杵柄で自分の持ち歌を熱唱する姿はいつ観ても、私を感動させるものだった。

 私が真ん中に座り、右には山田君が居て、私の左には真知子が座って居た。

 いつも、座る順はこの順だった。

 あの頃は本当に楽しかった。

 男と女、という関係では無く、純粋に友達関係が私たちにはある、と信じていたもの。

 いつまでも、このような関係が続くものと私は信じていた。

 愚かだったのは、私。

 山田君と真知子はいつの間にか、友達関係から男と女の関係に移っていたのよ。

 知らなかったのは、私くらいなもので、私を除く研修生は全員知っていたみたいだった。

 山田君は私では無く、真知子を恋人として選んだ。

 でも、私は真知子のことを憎む気にはならなかった。

 知った後でも、私は真知子に対しては、そう、姉のような気持ちで接していたのよ。

 これは、本当の気持ちで、今もそう思っている。

 でも、憎い山田が死んでも、ちっとも嬉しくはならない。

 これって、どういうことだろう。


 四月の初め、桜が満開の季節となった。

 宮田と美樹は飛鳥山公園を歩いていた。

 「この街には、思い出があるんです」

 「あらっ、どんな思い出?」

 「学生の頃、高校の頃の親友がこの街に住んでいたんです。時々、そいつのアパートに遊びに行きました。近くに、ラーメン屋があり、そこの広東麺が美味かったことを覚えていますよ。僕たちが行くと、ご飯をサービスしてくれました」

 王子という街は何となく親しみを感じさせる街だった。

 あの頃流行った『同棲時代』の漫画とか、あがた森魚の『赤色エレジー』という歌の主人公たちが肩を寄せ合ってひっそりと暮らしているような街だった。

 

 「本当に、桜の綺麗なこと。うっとりするわ」

 「昔、誰だったか忘れてしまったけど、桜の樹の下には死人が埋まっている、と書いた有名な作家が居ましたよね」

 「ああ、その話。私、本当だと思っています。この桜の樹の下にも、死人が埋まっていますよ、きっと。誰の死体かは知らないけど」

 そう言って、美樹は宮田の顔を見上げた。

 今日の美樹は少し怖い顔をしている、と宮田は思った。


 「美樹さんもご存知のように、マヤの宗教にはいろんな神様が居ますよねえ。その神々の中に、復讐の神、或いは、女神は居ましたっけ」

 「さあ、どうかしら。復讐の神か? 聞いたこと無いわ」

 「マヤって、変な宗教で、自殺の神様は居ますよねえ」

 「イシュタブ、のこと?」

 「そう、そのイシュタブ。つまり、自殺の女神」

 「あの女神は不気味な姿で描かれているわねえ」

 「首を吊った姿で描かれているんですよ」

 「しかも、首を吊った体はなんと腐乱している」

 「マヤの宗教では自殺を奨励している、と考えていいですよねえ」

 「キリスト教では自殺は大変な罪ですけれど、マヤでは反対で、自殺した者は天国に行けるのよねえ」

 「僕の記憶に依れば、マヤの死者で、天国に行ける者は極めて限定されていて、貴族・神官層、戦争での戦死者、生贄となった者、お産で死んだ女、それに、この、自殺した者、という五つの区分に合致する者しか天国には行けない。普通の病気や怪我で死んだり、寿命がきて死んだ者なんかは、天国には行けず、死後は一度、シバルバという地底の地獄に落ちて、厳しい修行をしてからでないと、天国には行けない」

 「自殺者は自殺の女神・イシュタブに随伴されて、安らかな天国に行く。本当に、面白い宗教ですわね」

 「真知子さんは、イシュタブに連れられて天国に行ったんでしょうか?」

 美樹は宮田の言葉を聞いて、微かに笑った。

 「そんなことを言うなら、山田君もイシュタブに祝福されて、天国に行っているかも知れません」


 美樹の言葉に、宮田は鋭く反応した。

 「まさか、山田が死ぬとは思いませんでした」

 美樹はさっと宮田を振り返った。

 「嘘! 死ぬと思っていたんでしょう」

 美樹は容赦ない口調で宮田に言った。

 「いや、本当に、死ぬとは思っていなかったんです」

 宮田の言葉を聴いて、美樹は少し微笑んだように思われた。

 「でも、・・・、殺したいとは思っていたんでしょう」

 宮田は驚いて、美樹の顔を見た。

 美樹はゆっくりと顔をあげ、桜を見ながら呟いた。

 「私も、そう、思っていたんです。殺したい、と」

 その後で、美樹は呟いた。

 「でも、こうして今、考えると私たちの行為は一体何だったんでしょう。山田という許せない人間に私たちは復讐を果たした。これは事実。でも、山田が死んでしまった以上、私たちはこれから彼に復讐され続けるのよ。恐らく、私たちが死ぬまで。ずっと、よ」


 「あの名刺、山田に見せたあの名刺はどこから手に入れたんですか?」

 「私、企業の広報部門に居るでしょう。蛇の道は蛇、とやらで、結構業界紙には顔が効くんですよ」

 言われて、宮田はなるほどと思った。

 美樹は留学から日本に帰って、某化学会社に就職したが、一貫して広報部門に携わり、現在は広報次長という役職にあった。

 その立場では、山田の地元の業界紙と云うか、ゴシップ紙の名刺を入手することも案外簡単なのだろう。


 同窓会が開催される前日に、美樹から連絡を受けた。

 「あっ、宮田君。実は、山田君の地元の業界紙の記者の名刺が手に入ったの。まあ、業界紙といっても、実際のところ、えげつないゴシップ紙だけれど、かなり地元の政財界では一目置かれている新聞社なの。山田君をびっくりさせるには十分よ」

 「つまり、・・・、その名刺をちらつかせ、真知子との関係が露見するかも知れないと山田に思わせるんですか」

 「そう、そうよ。いつまでも、山田君に順風満帆な人生を味わせておくわけにはいかないわ。真知子を死なせた報いは受けるべきなのよ」

 「過去の青春の傷みを十分味わって貰う、ということですか。真知子とのことがいつ暴かれるか、びくびくしながら、生きていけ、ということですね。山田には辛い過去だものねえ。人一人、死なせた罪は永遠に残り、三十年過ぎても時効はあってはならないんだ」

 そして、同窓会の会場に行き、宮田は美樹からその名刺を受取った。

 見たら、名前はマジックで消してあった。

 名刺を受け取りながら、宮田はにやりとした。

 名前は消されていたほうがいい。

 名前が分かれば、ひょっとすると、山田は揉み消しに取りかかるかも知れない。

 その記者に直接アクセスするかも知れない。

 その結果、宮田たちの目論見が無に帰すという事態も起こるかも知れないから。

 宮田の笑いに気付いたのか、美樹も薄い笑いを顔に浮かべた。

 その名刺を胸ポケットにしまった上で、宮田はレストランのトイレに入った。

 手を洗いながら、ふと、洗面所の鏡を見た。

 一瞬、宮田には自分の顔が蛇に見えた。


 飛鳥山で宮田は美樹と別れ、王子駅から電車に乗った。

 青春って、案外残酷なものだな、と宮田は車窓から流れていく風景をぼんやりと眼で追いながら、そう思った。

 甘美なものとは到底思えない。

 青春時代に味わった辛い経験は鋭い痛みとなって、永遠に残る。

 感受性の強い年齢の時、経験した辛いことは感受性が強かった分、いつまでも癒えることは無い。

 思い出す度、傷口が開き、また新たな鮮血が吹き出す。

 一方、楽しかった思い出は歳月と共に鮮明さを失い、徐々に風化していくものである。

 結局、痛みだけが切なく残り、思い出す度に疼くのだ。

青春残酷物語、かと思った。

 そんな映画が昔あった。

 自分たち四人の中で誰一人、幸せになったものはいない。

 真知子は心に深い傷を負ったまま、絶望して死んだ。

山田も人には言えぬ苦い思い出を心の深奥に隠しており、それが白日の下に引き出されようとした時、耐えきれず死を選んでしまった。

美樹は山田と真知子にそれぞれの愛憎を抱きつつ、その後の人生を一人で過ごしてきた。

 自分も、山田には鋭く胸を切り裂くような嫉妬と憎しみを感じ、真知子には俺なら君を幸せにできたのにという無念さと恨みを感じつつ、その後を生きてきたのだ。

 復讐は快感を伴うはずなのに、今の、この空しさは一体何だ。

 山田を破滅させた美樹と自分は当初予測したような快感は得られず、無限の暗闇に落ちた自分たちを自分自身の目で眺めているのだ。

 こんなはずでは無かった。

 何が違ったのだろう?

 飛鳥山で満開の桜の下、美樹と並んで歩きながら、宮田は思っていた。

 自分たちはまるで、挽歌を歌いながら歩いているようだ。

 自分たちの青春と、これからの人生に対する挽歌を。


 どこにも、終わりは無い。

 この世に居る限り、挽歌の終わりは決して来やしない。




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