第二章、その三
「ふむ。ヘリから見下ろしたときに感じたよりも、結構広々としておるのう。それに陽当たりや水場や草木にも十分恵まれているようだし。ちらちらと小動物の姿も見かけるし。これでなぜこの里の中だけではるか古の昔より自給自足できていたのかという謎も、解明されたも同然というわけじゃて」
僕──いや、わが輩は、そう満足げにつぶやきながら、顎の下に生えているという設定の架空の白髭を、無造作にしごくふりをするのだった。
前節においてミステリィおたく評論家の蘊蓄地獄からの脱出に辛くも成功し、かねてからの懸案事項であった『謎と不思議の人魚の隠れ里探索の旅』へと、ツアー・コンダクターである美少女風味でお得な鞠緒少年とともに旅発つときがやってきた──と、流し読みをしている人の興味を引くため、いかにも古式ゆかしき推理小説風冒頭シーンを、一部誇大広告気味に煽ってみました。
「潮こっちじゃ、はよう来い!」
本当はそんなに読んだことは無いくせに本格気取りで夢気分の僕に向かって、ようやく活躍の場を与えられて絶好調の鞠緒が、生き生きと瞳を輝かせながら里の案内役としての任務を忠実に務めんと、元気よくそこら中をちょこまかと駆け巡っている(浮かれすぎてはしゃいでいるとも言う)。
しかし、先ほど時代遅れの探偵さん(本場英米と違って免許不要だけど本格派)が述べていたように、この外界から隔絶され限られた土地しか持たない窪地は、思っていたよりも人間やその他の動植物にとって、暮らしやすい環境を整えているようである。
里といっても人家と呼べるのは平地のど真ん中にでんと文字通り居をかまえている、平安貴族邸宅風の雅で古びた和風建築物数棟だけであり、それも多数の住人と僕らを含めた三十名ほどの宿泊客を楽に収容できるほどの広大さにかかわらず、その周囲には結構有り余るほどのスペースが確保され、窪地といっても周りの岩壁の傾斜が緩やかなこともあり陽当たりも至極良好で、湧き水や岩肌の内外を伝って流れ落ちてくる湖の水による潤沢な水資源とあいまって、緑と各種野生生物に満ちあふれた地上の小楽園を形作っていたのだ。
「加えてそこに暮らしているのは、浮世離れした見目麗しき美女ばかりときたもんだ。『桃源郷』って、案外こんな感じのところだったかもしれないな」
すると目の前の天衣無縫な少年こそが、不死の仙女『西王母』の役どころってとこか。
まあ当人の性格はともかく本当に古の『巫女姫』の末裔であるそうだし、外見もまさに天女もかくやって美少女ぶりだからな。
しかし、こういうところだからこそ不老不死の『人魚伝説』なんてものが、まことしやかにほのめかされるはめになったのかもしれないな。
「潮、ここじゃ。ここが我ら館の者たちの聖地、『満月の泉』じゃ」
あれこれ妄想を駆け巡らせている人の心のうちなぞ露知らずに、僕を館の裏手の岩壁の際へと導いていく少年。そこにはまぶしい夏の午後の陽の光を一面に浴びた、大きな鏡のような泉が広がっていた。
「……『聖地』って」
やだなあ、ますます懐古趣味系耽美推理小説風になってきたよ。
まあこの大きさからして、どうやらここがメインの水資源の供給地のようだから、特別に神聖化されてあがめられているとも思えるけどね。
見たところ泉と言っても湧き水によるものではなく、取り囲むようにそびえ立っている三方の岩壁を小さめの滝のごとく流れ落ちている、上流の湖の水を源にしているようである。
ただしさっきから気になっているのは、一番奥手の岩肌にぽっかりとあいている洞穴の前で、とうとうと降りそそぐ落水すれすれに、館の女性の一人が所在なさ気にたたずんでいることであった。
目が合うとにこやかに会釈をしてくれるのは、もはや彼女たちのデフォルト仕様らしい。隠れ湯の里の従業員としては常識だ。……いったいいつから僕は温泉リポーターになったのか。
それに流水に邪魔されてわかりにくいけど、どうも穴の入口には頑丈そうな鉄の扉が設けられているようにお見受けする。
ふむ、やはりここは何か由緒正しき霊験あらたかな聖地の一つで、あの中には天然の鍾乳洞等を利用した宝物庫でも控えているのだろうか。
ここは巫女姫様自身に御解説願おうと、少年のほうへと振り向くと──
「何やっているんだ、あいつ?」
草地の上をバッタのように、両手をつきながら飛び跳ねている少年。秋を待ちわびすぎたのか、夏の陽射しが強すぎたせいなのか、判断に迷う瞬間だ。
「おい、まり──」
何かが頬をかすめていった。驚き振り仰げば極彩色にその身を染めた見たこともない美しい小鳥が一羽、今まさに泉を飛び越え岩壁の彼方へと消え去る寸前であった。
返す刀で鞠緒のほうへと目を移せば、こちらもどうやら蝶々や野ネズミなどの小動物を必死に捕まえようと悪戦苦闘していることに気づいた。
しかし、それらはどれもあまり平地では見られない特殊な色や形をしていて、その自然を自由気ままに謳歌する様はどことなく、この世のものとも思えない雰囲気をも醸し出していた。
何だかなあ、マジで『桃源郷』っぽくなってきたよ。パターンとしては『高野聖』あたりかな。宿泊客全員が牛や馬に変えられたりして。そしてそのままステーキなんてのは御免こうむるぞ。
この筋書きを書いていると思われる、どこぞの運命の神の貧困きわまる想像力を憂いている僕の耳に突然、か細く可愛らしい笛の音のような鳴き声が聞こえてきた。
「……あれってもしかして、『ナキウサギ』かな?」
岩場の陰から赤茶色の頭だけを出し、どちらかというとウサギよりもネズミのような短い耳をひくひくさせながら、ピーピーとさえずり続ける小動物。
たしかこいつらって日本じゃ北海道にしか棲んでいないはずだけど、中国東北部やサハリンにもいるそうだから、里の連中がロシアから渡来してきたときに一緒に連れてきたのが、この高地に運良く適応して繁殖したのかねえ。
「潮、あれが欲しいのか?」
本土では希少な動物を微笑ましく見つめていた僕を、いつの間にそばに来ていたのか二つの月長石の瞳がのぞき込んでいた。
「ようし、待っておれ!」
「あ、ちょっと」待ってくれよ、おまえこそ。別につかまえたいわけでもなかったのに。
標的を憐れな小動物へと変更し果敢にカエル飛びで襲いかかっていく、往年の名ボクサーみたいな少年。(あれ、バッタじゃなかったっけ?)
かわいそうに。小さな動物って、人間みたいに大きな生き物に触られただけでも心臓マヒを起こすって言われているのに。ほんと、迷惑な話だよな。
しかし相手は一応れっきとした野生の獣。そこかしこに空いているモグラ穴等を利用しながらちょこまかと逃げ回り、さしもの鞠緒ちゃんもだんだんと業を煮やし始めるのでした。
それにしてもあいつ、あの単とかいう白い着物しか着ていないくせに、ためらいもなく派手に飛び跳ねやがって。男だとわかっていても、あんな艶めかしい太ももをちらちらと見せつけられたんじゃ、当方としても何だかムラムラと「ぎゃうっ!」──えっ?
「おい、鞠緒どうし「やった、つかまえたぞ!」
にこにこと微笑みながら駆け寄ってくる少年。──その口元を血まみれにしながら。
「なっ、おまえ、なんで……」
もはや可愛らしい鳴き声を上げることもなくなった小動物。その身を貫いているまるで牙のような鋭い犬歯。今にも誉めて誉めてと言い出しそうに笑み歪んでいる青の瞳。
そのにぶい煌めきが一瞬、あの『夢の少女』とダブった。そう、あたかも爬虫類のような金色の、縦虹彩の双眸と。
「ふぉふぇ、うふぇふぉふぇ」
「うわっ」
あくまでも腕など持っていない生物のように口にくわえたまま、ナキウサギの死骸をこちらの胸元へと押しつけてくる少年。しかし僕はたまらずに地面へとはたき落とした。
「何をするんじゃ! もったいない」
そう怒鳴りつつ地面へと這いつくばり「──ま、」その少年は顔を押しつけるようにして「──まり、」ガツガツとあたりに朱色をまき散らしながら「まりお──」憐れな高山動物の成れの果てを喰らい始めたのだ。
三半規管を揺らすボロ布をひきちぎるような耳障りな音。噛み砕かれる臓物。吐き捨てられる白骨。血肉まみれになる単。歓喜に満たされる人形のような顔。
なぜかそのときの僕は、激しい既視感に見舞われていた。
──ウシオ。ワレニ、ほうびヲ、クリャレ──。