第五章、その二
○月×日。それは最初、ほんの戯れの出来心であった。
その日俺と死闘を演じた固ゆで野郎が、散々てこずらせてくれたあげく愛用品のジャックナイフを死んでも放さずそのまま死後硬直しちまったので、その健闘と物を大切にする尊い地球環境保護精神に敬意を表し、利き腕もろとも切り離して持ち帰ることにした。
一時間にも及ぶ激闘のためへとへとに疲れていたので、俺の帰りを夜遅くまで健気に待ち続けていた少年の相手をすげなく断ってから、俺は早々に寝床に入った。
すると真夜中になって何だか耳障りな音が断続的に聞こえてきて無理やり目を覚まさせられたのだが、不機嫌きわまりなく身を起こした俺の目に飛び込んできたのは、あの純真無垢なる少年が俺の持ち帰ってきた固ゆでの右腕をむさぼり喰っている、まさに地獄の餓鬼そのものの姿であった。
──鞠緒が俺の目の前で人肉を食べている姿を見せたのは、これが初めてだったのだ。
たしかにこいつが、小動物や鳥類を何の調理もほどこさずに生肉のまま食べてしまう奇怪な習性を持っていることは、十分に認識して慣れ親しんでいたつもりであった。
しかしそれでもまさか人肉までも、何のためらいもなく食べることができるとは思わなかったのだ。
わかっていたらさすがの俺だって、人喰いのバケモノなんかとこんな蔵の中のような閉じられた狭き空間で、二人っきりで寝起きしようなんて思わなかったろう。
だが驚くのは、まだまだ早かった。
固ゆでの右腕を骨までしゃぶるようにして食べつくしたその少年の体が、呆然と見守っていた俺の面前でなんと、うら若く美しき女の体躯へと変わっていったのだ。
──それはまさにあの、『満月の巫女』の伝承そのものであった。
白い単がおもむろに、少年の両肩からすべり落ちていく。
一糸まとわず露になった、陶器のごとき白く滑らかなる肌。
しかしその性的に未分化で中性的だった華奢な肢体は、みるみる艶めかしく丸みをおび始め、腰はくびれ、乳房はふくらんでいき、肩までしかなかった銀色の髪は嵐の海の波濤そのままにうねりながら足元まで流れ落ちていき、そしてあたかも月長石のようだった青の瞳は妖しく黄金色に煌めく縦虹彩の玉桂の瞳へと変わっていったのだ。
それからその『女』は、ひたすらまぬけ面を晒して座り込んでいた俺の面前まで歩み寄り、血まみれの両手で顔を鷲掴みにするやいなや、真紅に染まった唇を押し当ててきた。
固ゆでの血と肉片が蛇のようにのたうつ彼女の舌とともに、俺の口腔へと侵入してくる。
そのまま床へと押し倒された俺にはもはや、彼女が身を重ねようとするのを拒絶する気概も理由も待ち合わせていなかったのである。
──彼女の胎内は、まるで大蛇にその身を丸呑みされたような錯覚をおぼえるほど、体温などないかのごとくただ冷たくぬめっていた。
◇ ◆ ◇
○月×日。あの驚愕の日の翌朝。
目を覚ました俺は、昨夜の予定外の『重労働』の倦怠感に鈍る心身を鞭打ちながら、すでに少年の体へと戻っていた鞠緒を激しく問い詰めた。
こいつが人肉を食べたことも驚きであったが、満月の夜以外にも女の体になることができるなんてちっとも知らなかったのだ。鞠緒のほうも別に何も言ってなかったことだし。何をもったいぶっていたんだ、こいつは。
何だかおちょくられているようで面白くなく、半ば手荒な手段を用いつつ何とか口を割らせてみれば、さらにとんでもないことを白状し始めやがったのである。
自分は人間の肉を食べさえすれば、いついかなるときでも女の体になることができるのだと。
──それはまさに、『悪魔の誘惑』であった。
これが普通の日常的環境の話であれば、誰もそんな『バケモノの戯れ言』には耳を貸さなかったにちがいない。
しかし、今は食うか食われるかの文字通り弱肉強食の『人間サファリ・パーク』状態であり、しかもここは外界から完全に閉ざされた『狂気のクローズド・サークル』なのである。自分が生き延びるために他者を殺そうがどうしようがお構いなしの世界であった。
つまりは、新鮮な人間の屍肉の供給には、当分困ることはないというわけなのだ。
次の日から俺は『狩り』を終えたあとには必ず、その死体の一部を座敷牢へと持ち帰るようになった。
俺の帰りを今か今かと待ちかねている、あの人喰いの少年に与えるために。
──そしてもう一度『彼女』の中で、あの冷たい体温に包み込まれるために。




