第三章、その五
その昔。ロシア北方のとある王国に、『満月の巫女』と呼ばれる不思議な部族がいた。
なぜだかその数十名ほどの部族には成人は女性だけしかおらず、彼女たちは人里離れた山奥にある神殿の中で外界とはほとんど関わることなく、ただひっそりと暮らしていた。
人魚の血を引くという彼女たちは人には無い力を有しており、特にそのうちの『予知能力』が時の権力者から重宝がられ、王国から常に手厚い加護を受け続けていたのだ。
彼女たちが神殿に入る前に産み落とした子供たちは、これまたなぜか男の子ばかりで、神殿から離れた集落の中で、巫女自らが神託で選んだ他部族の男たちに育てられていた。
圧巻なのは伝承の中盤あたりで巫女の子供たちが、十四歳の満月の夜に神殿の近くの『聖なる泉』での禊の最中に、少年から大人の女性へと一斉に変化していくシーンである。
美しい月明かりの下、数十名の少年たちのいまだ性的に未分化な中性的で幼い肢体が、文字通りの『月のしるし』とともに艶めかしく丸みをおび始め、腰はくびれ、乳房はふくらみ、更には一族の証しである銀の髪が滝に水落つように伸び始め、月長石のようだった青の瞳もあたかも天空の月を映し出すがごとく黄金色へと変わっていったのである。
まさにその様はこの上もなく禍々しく、そして狂おしいほどに美しかったのだ。
しかし伝承はこれ以降一転して、とめどもなく血なまぐさく変わり果てていく。
『彼女』たちは女性化するとすぐさま集落へと立ち返り、何と自分の育ての親である他部族の男たちと交わり始めるのであった。
その狂乱の宴は男たちが精根尽き果てるまで続けられ、そのあとに女たちの『巫女』としての初めての儀式が行われた。
それは眠り続ける育ての親の首をはね、その血肉を喰らいつくすという、恐るべき『生贄の儀式』であった。
こうして一夜にして、初潮の血、破瓜の血、贄の血を、その身に浴びた彼女たちは、更に十月十日後に出生の血を流すことによって『満月の巫女』としての『血の洗礼』を終え、初めて神殿へ入ることを許されるのだ。
そして、彼女たちもまた選ぶのである。自分たちの子供を育てあげその贄となってくれる、哀れな他部族の男たちを。
◆ ◇ ◆
──思った通りだった。
──これぞ、俺が追い求めていた伝説そのものだ。
──見つけたぞ、俺は『人魚姫』を見つけ出したのだ。
──しかも彼女はずっと、俺のすぐ目の前にいたのだ。
──何度も餌付けをして、すっかり飼いならした『バケモノの少年』。
──間違いない。あの夢の中の妖精みたいな少女は、隠れ里に棲む者すべての主『御母堂様』は、不老不死の人魚の力を持つ『満月の巫女』は、まさしくこの少年──鞠緒であったのだ。
──そう。ついに俺は『人魚姫』を、自分だけのものにすることができたのだ。
◇ ◆ ◇
「……何だって! 鞠緒があの夢の中の少女で『人魚姫』だと!?」
そのとき僕はあまりの戦慄のために、知らず知らずのうちに手にしていた草稿を握りつぶしていた。
そんな馬鹿な。いくら特殊な血を引いている一族だからって、巫女姫とか呼ばれてちょっとした力を持っているからって、男が女に変わったりすることなど現実にありっこないだろうが。
それにこの『伝承』とかの内容は何なのだ。これのいったいどこが『贖罪の物語』だと言うのか。まさに叔父お得意の猟奇趣味のエログロ話ではないか。結局これ自体すらも、叔父さんの妄想の産物ではないのか?
しかし、そのときふと脳裏に浮かんだのは、煌々と光り輝く満月の夜の泉で出会った、あの妖精のような少女の縦虹彩の黄金色の瞳であった。
そうだ、幻なんかじゃない。僕は実際にあの少女と会っているのだ。あれはけして夢でも僕の妄想の産物でもなかったはずである。
ではなぜこんなに狭い里の中のことなのに、満月の夜以外にあの少女と一度も会えなかったのだろうか。
……仮にもし、この叔父の草稿に書いてあることが、すべて真実であるならば。
あの少女の正体が、いつでもこの僕にまとわりついてくる、かの少年その人だとしたら。
鞠緒が僕のことを叔父の名前で呼ぶことも、最初からすぐになついてきたことも、時おり大人びた憂いを秘めた表情をしていたことも、──そのすべての符合が、ぴたりと一致するのである。
「まさか……鞠緒が……そんな……馬鹿な」
くそっ、いったいどっちが正しいんだ。ええい、あいつってば、どうしてこんなときに限っていないんだ!?
『申し訳ございませぬ。鞠緒様におかれましては今宵の儀式の支度がお忙しく、おそらくは今日一日満様の許へはお伺いなされないかと存じます』
──『儀式』。そうだ、今日は満月の夜だ。
思わず僕は、蔵の外へと駆け出した。
すでに日は暮れ、天空には煌々と輝く夜の女王様が昇っている。
「鞠緒ー!」
僕はわずかの迷いもなく、あの聖地の泉へと走りだしていた。




