雪花
時系列ではイブニング・プリムローズの後になります
夜明けよりほんの少し前、一息入れようとしたタイミングで彼は猫のようにふらりと現れた。
通りすがりに窓の明かりが見えたから。そう言いながら不遜に笑む。こんな時の彼が見知らぬ男の匂いを纏っているのはいつものことで、俺はちくりと疼く胸の痛みを苦笑で吐き流し、扉の中へ招き入れた。
「何か書いてたのか」
資料や下書きで散らかした机周りに一瞥やると、するりと上着を脱ぎながらリットは聞いた。下は薄手のシャツ一枚。柔らかな生地で、すんなりとした体つきがよく判る。
「少し文章を頼まれてて……片が付きそうだったから、一休みしようと思ってたところだよ」
「ふうん」
つっと緩めた襟元に赤黒い花弁のような痣。あっと思わず目を逸らすと、気がついたリットがニヤリと笑って首を傾げ、見せつけるように指先でなぞった。
「ちっ、痕はつけんなって言ったのになぁ」
ぷつぷつとした内出血の斑点が、荒々しかっただろう行為を想像させて胸の中がぎくりとする。
「……湯」
「ん?」
「湯、多めに沸かしてあるんだけど」
居たたまれなくて俺は厨房の方へ逃げながら続けた。落ち掛けた竈に薪を一つ二つ放り込んでおこし、汲み置きの水を大鍋に足す。
「ん、ああ……成る程。他の雄の匂いは嫌ってか?」
ぱさり、そして衣擦れの音。リットはわざと大きい音を立てて着衣を解いていく。
「や、そういう訳じゃあ…」
「心配すんな、今日はもうそんな気分じゃねぇ。でもまあ、これから帰って体洗うのも面倒になりそうだしな。ありがたくもらっとく」
彼の声から険が取れ、俺は少しほっとした。だが振り返ろうとした視界の端にリットの白い肢体が飛び込む。俺は逃れるように浴室に逃げ込んで浴槽の準備をした。
背中で、呆れたようなため息がこぼれるのが聞こえた気がした。
風呂上がりに俺の寝間着を羽織ってクッションに埋もれ、寛いでいるリットの姿は妙に恋人めいていて、くすぐったかった。
「何か食べる?」
「今はいい。腹は減ってねぇ」
「泊まっていく? もう朝だけど」
「んぁ……んーそうだなぁ…」
どうしようかな、と白み始めた窓の方を見やりながら伸びを一つ。そのままの腕でポーチを引き寄せ、煙草のケースを取り出した。あの不思議な香りの手巻き煙草だ。
形のいい唇につっと銜え、擦った火を掌に抱えて巻き口にかざす。流れるような仕草に見とれていると、付き立ての炎と煙の匂いが漂ってきた。
化粧っ気がないのに、男だからそんなのは当たり前なのに、リットは、とても綺麗だった。ずっと見ていたいような横顔をしていた。
「…リットさん、お茶は平気?」
俺は半分にした椰子殻を差し出しながら聞いた。
「ん?ああ、あんま変なフレーバーじゃなきゃ大丈夫だ……ってなんだこれ」
「そうか、よかった、お茶の苦みが駄目な人いるからさ。あと、それ灰皿代わりにでもどうぞ」
リットは、何言ってんだとばかりにぴっと白い指先を上げて、挟んだ細身の紙巻き煙草を示した。
「今更、茶ぁ位で苦い渋い言う舌じゃねえよ」
「そっか、じゃあ一杯入れるよ。ちなみにココナツジュースもあるよ?」
椰子の漿果水と実は半分俺の主食なので、食料箱にたっぷりある。だが、彼は軽く手を振ってそっちはいいと断った。
そのあと。ふと、そんな風に俺を見て口を開く。
「そう言えばお前、煙草大丈夫なのか?」
「え? 大丈夫だけど……リットさんこそ今更聞くの?」
俺は苦笑しながら、器を二客出してポットを一番湯で流す。
「いや、お前、吸ってないなって思って」
ちょっとだけ目を逸らし、ふうと紫煙を吐く。微妙に俺の方へ掛からないように気遣っている仕草だった。
「大丈夫、俺、別に煙草が駄目なわけでもないと思うよ。親父も家で普通に吸ってたし」
「思う…って、他人事みたいな変な言い方だな」
「うーん、なんていうんだろ、きっかけを逃しちゃってさ」
「きっかけ?何が?」
「えーと」
なんて言えばいいんだろう。
「人生の、煙草吸い始めタイミング?」
俺の答えに、は?と眉を寄せて、それからリットはぷっと吹き出した。
「あー、うん、あるな、そういうタイミング。成る程な」
くっくっく、と肩を軽く震わせながら煙草を指先で叩く。
「じゃあ遠慮なくやらせてもらうぜ? 最近うるさい奴が多いから、面倒は避けておきたかっただけだからよ」
すい、と口元にやる仕草も様になっていて、俺はむしろリットの吸う姿は好きだった。たまに軽く食われるキスも、吐きかけられる息も、少し肺が痺れるようで悪くはなかった。
ふと、灰の落ちて剥き出しになった火口を、リットは少し目を細めて見やる。何かを思い出すような遠い瞳。
「きっかけ、か」
ぼんやりとした呟きには冥い寂しさが宿っていた。ここ最近になって、ごくたまに見かける表情だ。
優しい思い出なのか、辛い思い出なのか、それともない混ざってもうどちらともつかない、苦い記憶なのか。それきり言葉の途切れたリットからは何も、察せられなかった。
硝子のポットにころんと茶葉の塊を落として、湯を注ぐ。湯気の暖かさと共にぱあっと、青みの残った甘い葉の匂いが立ち上った。
「工芸茶か。この街じゃ珍しいな」
「うん。商人さんが南東のキャラバンから仕入れたんだってさ」
俺はリットの前に麻のマットを敷いて、ポットと二人分の碗を置く。クッションは全部リットが自分の周りに集めてしまっているから、俺は向かいの床に直座りだ。
硝子の中で木の実のような塊が揺れて、ゆっくりと金色のゆらぎを放ちながらほつれていく。リットはごろりとクッションの巣に寝そべって、器の中を覗き込んだ。
「…睡蓮みたいだ」
器の中でふわりと開いていく茶葉を見つめながら呟く。凝っていた葉が熱で潤み、やがて掌一つ分の大きさにふっくらと開花した。
と、花の芯に紅い色が現れる。
ほろり、ほろりとそれはこぼれ出した。薄紅い、心臓の形をした花弁だった。金の渦に揉まれて何枚もの片がひらひらと舞い始める。
「ん? これ…花は本物なのか?」
淡く透けた花弁に澄んだ葉脈が潜んでいるのに気が付いて、彼は尋ねた。
「――椿だよ」
リットは、ふっと俺を見た。不思議そうな、無防備な、何ともいえない顔で。
「小さいから、抱え咲きの山椿だろうね。味はないから、彩りだけなんだけど」
覚えてたのか。そんな顔だった。
「もういいかな」
俺はポットを取り上げてくるくると回すと、器二つにつぎ分けた。白茶の甘い香りが中りに漂う。リットは煙草の灰をぽんと椰子殻に落として、体を起こした。
花弁が一枚づつ、それぞれの碗に流れ込んでいく。白磁に透けて、華やかに咲き誇っていた頃の色合いを少しだけ取り戻していた。
「熱いから気をつけて」
「ん」
薄手の碗の縁を両脇から挟むようにして取り上げ、口元へ運ぶ。長い指、すっとした頬、臥せられる瞼、長い睫。
「……悪くねぇ」
音もなく一口啜って、息を付きながらリットは言った。
「よかった。湯はまだあるから、おかわり自由だよ」
ん。短い鼻にかかった返事は、心地良い時の彼の返事だ。
俺も一口啜り込む。東方の、懐かしい、甘い青い味わい。鼻に抜ける香りが優しい。
「椿か。久しぶりだな……ふうん、茶に出来るんだ」
碗の中に花弁を揺らしながら、リットは懐かしげに呟いた。
「俺の育ったところのすぐ近くにさ、椿の名所があるんだ」
「へぇ?」
「山茶花の南限でもあって、二つが入り交じるように何万もの花が切れ目なく咲き続ける。冬から春にかけて。素敵な所だよ」
「何万…そりゃすごいな」
「二万本はあるらしいけど、ちゃんとは数え切れないみたいでね」
山一つ分の椿の群。その光景を想像しているんだろう。リットは口元にほんの僅か、夢見るような笑み。一口、二口、気に入ったようにペースが速い。
「椿は分布がはっきりしてて、輸入されて植えられてない限り、こっちの大陸には生えてないんだ」
俺は、リットの碗に茶を継ぎ足した。
「ああ、そっか、それで見かけねぇのか」
「だから、リットさんが雪の日の椿を好きだって言ったのは、ちょっと驚いた」
「お前、あのときニヤニヤして気持ち悪かったぞ。」
「リットさんが同じ景色を知っているっていうの、それが好きだっていうのがさ、ちょっと嬉しかったんだよ」
俺は人見知りだから。
全く知らない世界にいる人ってものがうまく想像出来なくて、そのままだと触れ合うのが怖いんだ。
「……ばぁか」
少し狼狽えるようにリットは言って、煙草を吸う振りで目を逸らした。
彼は悪徳と堕落の塊のように振る舞いながら、さびしくて繊細で柔らかい心をしてる。俺はもう知っている。
このまま、本当は、もう体を交えないで友達になっていきたい。俺は喉の奥で声に出さず願う。君に恋をし続けると、きっととても、辛い、俺には。
「――椿は不吉だっていう人、多いなんて知らなかったよ」
リットの言葉を思い出しながら、俺は言った。
「そうなのか?」
「俺の国では…っていうか、俺の街では、そんな風に言う人はいなかったから」
とても身近な花で、当たり前に暮らしに馴染んでいたから。
「椿の花が丸ごと落ちるのはタネがあって、それは花弁すべてが根本でひと繋がりに繋がっているからなんだ。ただ、それだけのこと。本当にそれだけのことなんだ」
俺は丁度よく温んできた茶を、大きくあおった。
「雪の降った朝には、よく早起きして一人でその山に向かった」
もう一度ごろりと寝そべったリットは、上目遣いに俺を見ていた。まるで眠いのに人の動きが気になって伺っている猫みたいな仕草だった。
「誰も踏んでいない白い雪の上で、重みに負けた花がぽろぽろと散ってる。リットさんは知ってる光景だよね」
「……」
「真っ白な、天も地もない真っ白な世界で。俺以外誰もいない世界で」
鳥の声も風の音もなく、しんとした沈黙に耳に届くのはただ自分の鼓動と息遣いだけ。
「雪に落ちる椿たちは綺麗だった。何万もの花が、もう一度咲くようだなって思ってた」
見渡す限りの花々、傷つくことなく雪に抱かれ眠り入る姿を見てしまったようで、人外の世界に紛れ込んでしまったようで、それ以上踏み入る勇気もない、そんな静謐で壮麗な光景。
「それは不吉だなんて恐ろしいなんて思う余裕もない、素晴らしく清冽で美しくて――俺の冬の、一番の喜びのひとつだったよ」
リットは珍しく、遮ることもなく取り留めのない俺の話を聞いている。だから暖かくなった体の緩みにつられて、俺はふと、続けて思うまま話を続けてしまった
「花は一つ一つが命ではなく、散るのは役目の過ぎ去る証でしかない。だから落花に……花の終わりに、魂の重みのことを考えても仕方ないんだ」
そのとき、唐突にリットの目から、すっと光が消えた。
「――お前は、置いていかれたことはあるのか?」
「え?」
突然の態度の変化と問いに、俺は間抜けな声を出す。
「――死に別れた、こと。誰かと」
「いや……」
ないわけがない。この歳になって喪失を経験していないなんて筈がない。だけど俺は、思わず首を振ってしまった。
「うーん…そうだなーじいちゃんとかばあちゃんとは、死に別れたって言わないよな?」
そう答えて頭を掻きながら反射的にはは、と笑ってしまった。
「なにせ今までのほほんと、生きてきましたんで……」
手の腹にじっとりと生理的な汗がにじむ。
なぜ? どうして? 突然? どう答えるべきだ? そう考えが回る前に、配慮でも計算でもなく、本能が先回りして告白を回避した。俺は自分で自分の反応に驚きながら、この無意識の行動を追認、了承する。
ああそれでいい。これでいい。
リットにどう思われてもこれで、俺は彼には間抜けで無神経な男の体裁で通したい。
「――そういう、なんていうか……その、俺は大した話もないなぁ。ごめん」
「そうか」
リットはぽつりと冷たく、言った。なぁんだ。そんな風に。
「そんな気はしてた」
はは、と俺はもう一度笑う。気楽に笑って誤魔化すつもりが、喉に息がうまく通らず掠れた。こぼれたのは震えた、弱気な声。
リットはチッ、と舌打ちして、冷め始めた茶を啜った。
「おかわり、いる?」
「――いい」
つまらなそうに、リットは答えた。気まずい沈黙の中、俺は彼が俺に急速に興味を失ったことに傷付きながら、少しだけ安堵していた。
たぶん俺は、脆いところに直に触れられそうな恐怖で竦んだのだ。
俺は温んだ茶を一息に飲み干す。空の器に、花弁が一枚ぐずりと張り付いて残った。しおれ直した花の風情で物悲しい。そっか、とうの昔に死んでいたってのに、お前はもう一度熱に潤され咲かされて、枯らされるんだな。
開け放した窓の外では、ゆっくりと夜明けの藍が消えようとしていた。
目の前に、リットの綺麗な横顔。気紛れで獰猛で傲慢で不安定で、時々優しい、友人でも恋人でもないひと。
「……ベッド、好きに使っていいよ。俺もう少し仕事するから」
「……」
返答はない。もしかしたら、この一服が終わったら、彼は出て行ってしまうかもしれない。俺は返事を待つのが怖くて立ち上がり、作業机に向かった。
ペンを取って、紙に落とす瞬間。俺は衝動に胸を突かれ目眩がした。灯籠細工の影のように胸をよぎった古い、傷のままの記憶を、そこに書き付けそうな衝動に捕らわれたのだ。
猫に、友に、肉親に、思い出に、自分自身に。
「……」
喉が詰まる。さよならを思い出すとそれだけで喉が詰まる。
抜け道のない確実な終わり、消える吐息、艶やかなままもう何も見てない瞳、完全に抜け殻の手足、薄く開いた唇とへこんだ胸。冷たく硬くなっていく体が、それでも笑んだままでいるようにと両手で、頬を包み続けた数時間。むくろを守った三昼夜、死の匂い。荼毘の火を放った松明。燃え残った花。骨の間の折れ錆た刃先。一つ一つが棘のように小骨のように、溶けず俺の心に今も刺さっている。
死んだときの何グレインが計算に合わなくて魂となるのか、それはどこへと消えていくのか、疲れ切ってそればかり考えて、悲しいも苦しいも、思う余裕がなかった。
記憶に固着して消える事のない苦み、それが俺にとっての喪失だ。
俺は何度か手酷く死に別れて、自分の感情に気付いて、人の気遣いに触れて、それで世界に、この案外悪くないと思えた世界に、やっと人間として生まれたんだと思う。
だけどそんなものを、そんな個人的でつまらない感傷を、彼に聞かせても仕方ない。
背中にはまだ、リットの気配。クッションを集め、ごそごそと寝そべる音がする。
ああ、眠る気なんだ。俺のベッドはお断りだけど、この部屋で、寝てはいくつもりなんだ。
俺は、ふうと緊張が解けた。彼が寝入ってしまったら、毛布を掛けにいこう。
それにしても。俺は乾いてしまったペン先を拭いてインクに浸し直しながら思う。軽蔑されて安心するだなんて、彼に出会ってから、俺の自尊心もだいぶ変なところにくっついちまったもんだな、と。
だけど俺は、この時別れの傷がある事を伝えなかったばかりに、彼と長くすれ違ってしまう未来が待っているだなんて、思ってもいなかった。