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 目の前の『彼女』の言葉を聞いて、カミラは何も言えずにいた。


 咄嗟に何かを言おうとしても、言葉が上手く出てこない。


 どれほど頑張ろうと、『彼女』は報われることがなかった。幸せにはなれなかった。自分のことを誰にも理解してもらえず、孤独のまま消えていくことしか出来なかった。

 そんな途方も無い苦しみや辛さや悔しさを味わった、他でもない『彼女』がこう言うのだ。


 ――あなたは愛されていると。


 ――だから幸せになれと。


 『彼女』が紡ぐ言葉は途轍もない重みを帯びて、カミラの心の中に積み重なっていく。


 いつしかカミラは震えた声で、呟いていた。


「私は、愛されているの……?」

「ええ、そうね。死ぬほど」


 『彼女』は肯定する。


「嘘じゃ、ないの……?」

「何で嘘付かないといけないの? あなたを騙しても、結局またうじうじするだけじゃない。鬱陶しい」


 そう、カミラの迷いを容赦なく切り捨てる。


「そもそも根拠や確信が無ければ、こんなこと言わないわよ。二年間、カミラとして彼に接してきたけれど、彼は一度も心から笑った笑みを私に向けることはなかったもの。しかも時々、どこか寂しそうな表情を浮かべてて、正直罪悪感が半端なかったわね……」


 それとね、と『彼女』は続ける。


「そもそも、一目見て私がカミラじゃないと分かっていたみたいだから、彼が私に対して好意を抱くというのは到底無理な話ね」


 アーノルドから見て、自分はカミラの皮を被っただけの別人に見えていたらしい、と『彼女』は語る。

 そして、その時を思い出したのか『彼女』はおかしそうに笑っていた。


「おかしいわよね。誰よりも、そして本人よりもカミラらしく演じてみせようと思っていたのに。まさか初っ端から躓くなんて」


 涙が出るほど『彼女』は笑う。

 ひとしきり笑うと、『彼女』は涙を拭って言った。


「――彼は私が偽物だと知っていた。だから、私が彼に愛されることは絶対にない。あるのは、私が目覚める前から彼と接していたあなた自身というわけ」


 そう、結論付ける。


 二年間、アーノルドと接してきたからこそ、『彼女』はカミラへと向けられた愛を理解したのだ。


 だから、カミラがどれだけ自分に価値なんてものはないと宣おうと『彼女』は、それを笑って否定することができるのだ。


 本当馬鹿みたい、と。


「信じられないなら、彼に直接聞いてみたら? ここを出て、彼と腹を割って今までの気持ち全てを打ち明けて話をするの。建前なんて捨ててお互いを本当に心の底から理解し合えれば、それならもう疑いようもないじゃない。……まあ、それが出来なかったから、あなたはここにいるのだけれど」


 本当困ったものだわ、と彼女は溜息を吐く。


「お互いの真意を確かめるのが一番手っ取り早いけれど、一番難しい。実に悩ましいものね」


『彼女』はそう言うと、おもむろにカミラの目を見つめた。


「それで、カミラ。あなたの気持ちは?」


 アーノルドはカミラを愛している。

 その気持ちが本物なら、カミラはアーノルドの気持ちに応えなければならない。

 自覚した以上、彼の気持ちから逃げ続けることは出来ない。


「私は……」


 カミラはアーノルドを愛していた。

 でも、愛を諦めている。


 だから、カミラはもうアーノルドを愛していない。



 ――本当に?



「本当にあなたはアーノルドを愛していないの?」


 『彼女』はカミラに問う。


 カミラは反射的に、そうだと答えようとした。


 自分はアーノルドのことをもう愛していないのだと。好きだった。けれど、もう愛を諦めたから。


 けれど、彼女は答えられなかった。

 どうしてか喉の奥からその問いを肯定する言葉が、出てこなかったのだ。


「えっ……」


 自分自身、驚愕する。


 肯定の言葉が出ないなら、首を縦に振るだけでもいい。そちらの方がよほど簡単だ。


 カミラは首を動かそうとした。しかし、それもどうしてか出来ない。


「そんな……」


 カミラは呆然とする。


 愛を諦めた。そのはずだった。


 けれども自分の心が、今はっきりとそれを拒絶したのだ。


 違う。

 諦めてなどいない。

 自分はアーノルドを愛しているのだと。

 心がそう何度も訴えかけてくるのだ。


「ほら、やっぱり」


 『彼女』は小さく笑った。まるで最初から知っていたという風に。


 アーノルドはカミラを愛している。

 カミラはアーノルドを愛している。


 言葉にしてみれば、たったそれだけの話だ。難しいことでは決してない。


 悩む必要は、どこにもない。


「そんな……私は、一度恋を諦めたのに……」


 けれどカミラは、まるで自分の心がアーノルドが自分を愛していることを知ったから、もう一度愛したいと言っているように思えてきて、とても浅ましい気持ちになる。


 カミラは自分への嫌悪感で吐きそうになる。

 苦しくなって、泣きそうになる。


 違う。違うのだと。


 そんなことはもう無いのだと。

 だから、この気持ちは違うのだと。何かの勘違いだと。


 何とか『彼女』に伝えようとする。


「……あなた本当後ろ向きにばかり思い切りがいいのね。前を向きなさい、前を」


 本当面倒な性格をしていると、『彼女』は笑った。


「もう彼のことを好きでもなんでもないのなら、あなたはどうしてそんなにも苦しんでいるの? 泣いているの? もしそうなら、普通なら何とも思わない。少なくとも私は彼が好きかと聞かれたら真顔で「は?」って返すもの」


 ――だから、あなたはまだ愛を諦めていない。アーノルドを愛し続けている。


 そう『彼女』は断言した。


「気づきなさい、カミラ。見て見ぬ振りをして逃げてはだめ。何度でも言うわ。――あなたは愛されている」


 そう、カミラに突きつけた。


 愛されている。

 自分が。この自分が。こんな自分が。

 愛されているのだと、『彼女』はそう告げるのだった。


 何かに駆られるように、カミラの喉から言葉がせり上がってくる。それは一度して言葉に出したことがない心の叫びだ。


「……私は、愛されていいの……?」


 おもむろにカミラは震えた声で訊いていた。

 『彼女』は答える。


「なんで私に訊くの? あなたの勝手でしょう? 勝手に愛されて勝手に幸せになればいいじゃない」


 カミラは訊く。


「私は、許されていいの? ……とても酷いことをしたのに」


『彼女』は返す。


「知らないわよ。悪いことをしたなら謝りなさい。許す許さないはその被害者の気持ち次第。――まあ、私はあなたを絶対に許さないけれど」


 一生、私への罪悪感の記憶を刻みつけてやるのだと『彼女』は笑う。忘れたくても忘れられないように。

 それがカミラに対する最大の意趣返しなのだと。


 目の前の『彼女』は否定も肯定もしない。

 ただこう言うのだ。


 ――自分の人生なのだから、自分自身で決めろと。


「私は……どうしようない人間、なのに……」


 自分自身よく知っている。自分は最低な人間だ。つまらない人間だ。どうしようもないほど愚かな人間なのだ。それを自覚して、自分というものがひどく嫌になる。


「知ってるわよ。あなたと代わってから今までずっとあなたを見てきた。だから誰よりも知ってる。本当最低よね。自分本位で、わがままで、図々しくて、厚かましくて、嘘ついて他人の気持ちを平気で裏切ってばかりいる意気地無しなのがあなた。でもね――」



 ――それでもあなたは誰かに愛されている。それを忘れてはならないわ。



 もしも誰にも愛されていないと思っていても、それは愛してくれている人を見つけていないだけだ。

 それなら行動あるのみ。探せば、きっと見つかるのだと『彼女』は言う。


 そして、カミラを愛している人間はすぐ近くにいる。


 『彼女』の言葉を聞いて、そこでカミラはようやく理解する。


 ああ、そうか。

 自分は、愛されているのか。


「……こんな私でも愛されて、いいんだ……」


 ようやく『彼女』の言葉を本当の意味で呑みこむことが出来たのだった。


 それを聞いて、『彼女』はわずかに微笑む。そして言った。


「カミラ、自分というものを見つけなさい。あなたが気がつけば、ハッピーエンドはすぐ近くに転がっているのよ。だから――」


 『彼女』がカミラの後ろに回り、カミラの背中を押す。


 そこで気づく。先程まで屋上の縁に立っていたカミラは、いつの間にか屋上の扉の前に立っていたのだった。


 気がつかないうちに、カミラは前へと歩み出していた。

 絶望へではなく、希望へと。


「死ぬ気で頑張りなさい。死ぬ気で努力しなさい。死ぬ気で目の前の物事に立ち向かいなさい。でも、死んでしまってはだめ。あなたは愛されている。だから、誰かが悲しむことになる。そのことを決して忘れてはならない」


 ――心に刻んでおきなさい。


 『彼女』はそう言って笑うと、屋上の入り口となっている扉を開けた。

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