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『――起きなさい、カミラ──』
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カミラの意識は唐突に覚醒した。
「ここは……」
慌てて体を起こして周囲を見舞わせば、カーテンに囲まれた一角。
確か、見覚えがある。そこは学園の医務室だった。どうやら、ベッドの上にいるらしい。
屋上から身を投げた後、カミラの命は奇跡的に助かったようだ。おそらく、それで今まで気を失っていたのだ。
けれども、どうしてか随分と長い時間眠っていたような気がする。いや、それ以前にどうやって助かったのだろう。
混乱していると、誰かの気配を感じた。カーテンを開けて中に入ってきたのは三十代半ばの男性、おそらく医務室の先生だ。
「失礼。お、やっと起きたか。気分はどうだね?」
医務室の先生は、カミラの体調をひとしきり調べると、頷いて言った。
「ふむ、どこも悪くないな。至って健康だ。頭を打った部分はこぶになっているが、直に治るだろう。帰ってよし」
カミラはその診断に驚愕する。
「先生、私は確か四階建ての校舎の屋上から落ちたはずですよね……?」
「は? 何を言っているんだ君は」
自身の仕事に戻ろうとした先生は、呆けたような顔になって口を開く。
「それは二年前のことだろう」
「二年前……? それはどういうことですか……?」
訳が分からない、そのような表情をすれば、先生は慌てたように踵を返した。
「……まさか、記憶が飛んでしまったのか?」
次に先生は、真面目な表情になって再びカミラを診察する。いくつか質問を投げかけられ、カミラはそれに素直に答えてみせた。
その結果、
「……間違いないな。君はここ二年間の記憶がごっそり抜け落ちているようだ。それが一時的なものかどうかは判断できないが……」
同情するような声音で、先生は言う。
「今、君は非常に混乱していると思う。だが、現在の状況を知りたい気持ちがあるだろうから、事の顛末をかいつまんで話そう。詳しい話は後程、気持ちの整理が出来てから訊いてくれ」
先生の話によると、今から三時間前にカミラは階段から足を滑らせて転落したようだった。目撃者によると、とても些細な不注意であったらしい。何でも、彼女はアーノルドと会話をしていて、それに気をとられた結果だそうだ。
事態が呑み込めず、半ば取り乱しかけたカミラだったが、婚約者であった彼の名前を聞いて、それどころではないと、冷静さを取り戻そうと努める。
アーノルド――彼の名前を言葉に出して、カミラの心臓は早鐘を打った。じくりと、また心が痛んでくる。彼とは、最悪な別れをしてしまった。
今、彼はどうしているだろうか。あの少女と幸せになっているだろうか。それが、それだけが気がかりだった。
「アーノルド君かい? 彼は、君のことをとても心配していたよ。なにせ、二年前の事故があったからね。先ほどまで付きっきりで、君を看病していたんだよ。何とか説得して、ようやく教室に帰したところだったんだが、彼もタイミングが悪か……カミラ君、私の言葉がそんなにおかしいかね?」
カミラは、先生が発した言葉を胸の内で反芻する。アーノルドが自分を心配……? 付きっきりで看病……? とてもではないが、信じられなかった。
彼は、カミラを憎んでいるはずだ。だから、そのようなことをするはずがない。
「……彼は、本当に私なんかを心配していたのですか?」
「何について君が不安がっているのか知らないが、断言しておこう」
先生は居住まいを正す。そして、こう続けた。
「君たちは二年前、端から見ていて砂糖を吐きそうなほどに仲が良かった。そして、それは今も変わらず、君たちは仲睦まじい婚約者同士のままだよ」
一瞬、心臓が止まるかと思った。カミラは、震える声で訊き返す。
「私が……彼と……」
「そうだが……おいおい、まさか、二年前よりも以前の記憶が無くなっているとは言わないだろうね?」
それを聞いて、先生の表情に再び真剣味が帯びる。しかし、それをカミラは手を振ってすぐさま訂正した。
「い、いえ、ちゃんと覚えています。ただ、確認しておきたかっただけですので……」
「それならいいが……本当に大丈夫なのか?」
「はい、大丈夫です。だから、お気になさらないで下さい。怪我をした私を治療して下さりありがとうございました」
必死になるカミラにそこまで言われると、先生は引き下がるしかなかった。
♢♢♢
簡単な処置をされて、カミラは医務室を後にする。扉を開けて廊下に出れば、すぐ目の前には見覚えのある顔があった。
「カミラさん! 無事だったんですね!」
カミラの元に駆け寄ってきたのは、悪役となったカミラが虐めていたあの少女だった。
「もう、心配したんですよ!」
少女は、そう言って少し怒った表情になる。
「アーノルドさんには、もう余計な心配はさせないって約束したじゃないですか。本当に、あなたという人は……」
少女の声音はカミラの身を案じているようなものだった。まるで、少女は自分とは親しい間柄のように振る舞う。その様子は見ていて、酷く違和感を覚えた。
「私は……あなたを虐めていたのに」
一体、どういうことなのだろうか。頭の中身が、乱暴にかき混ぜられるような不快感に襲われる。思わず、カミラは頭を抱えた。
「……? どうして今更そのようなことを持ち出したのですか? その件なら、二年前の事故が起こった後に、きちんと仲直りしたじゃないですか。……それよりも、まだ寝てた方が良かったのではないですか? 具合が悪そうだし、それに何だか、体がふらついていますよ」
「……大丈夫よ。先生から薬を貰ったの。じき良くなるわ」
「それなら、いいのでしょうけど……」
釈然としない表情ながら、しかし少女はカミラの言葉を信じて頷いた。
「分かりました。けれど、まだ具合が体調が戻っていないのは見ていてまる分かりですので、一緒についていきます。教室に帰るんでしょう? アーノルドさんが待っています」
そうだ。彼に会って、直接この目で確かめなければならない。正直、気負いはする。どのような顔をしてアーノルドに会っていいかは分からない。
カミラにとって今の状況は、夢でも見ているのではないかと疑ってしまうほどに、信じがたいものだった。果たして、自分が目に映っている全ては現実なのだろうか。
だから、彼の姿を見れば、現実を直視出来るような気がしたのだ。あの時から、本当に二年の月日が経過しているのなら──知りたい。何もかも、どうなってしまったのか。
「そうだけれど、ありがとう……」
カミラが礼を言うと、少女は裏表のない笑顔を浮かべて言った。
「何を言っているんです。自分で言うのも恥ずかしいですけど、私達は、あの時──親友になったじゃないですか。だから助けるのは、当たり前です」