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――彼のことが嫌いだった。
カミラは、婚約者であるアーノルドに憎悪を抱いていた。
元はと言えば、お互いの家が勝手に決めた婚約によって知り合った相手だ。だから、良い印象を持てるはずもなく、出会った当初から彼のことが大嫌いだった。
我らの血統を後世に繋ぐのは、貴族としての――お前の責務であると両親は何度も繰り返して言う。何があろうと、高貴な血筋は絶やしてはならないのだと。
けれど、カミラの本当の気持ちは──「冗談じゃない」であった。どうして、自分が好きになった人と結ばれてはいけないのか? そもそも誰かを愛してはいけないのか?
何度も、自身の心に問いかけた。
そして、何度も同じ答えを出した。――「諦めろ」と。
彼女は、貴族の一子としてこの世に生まれて、そしてその境遇に相応しい教育を受けたのだ。だから、どれだけ理不尽であっても受け入れなければならなかった。
結婚に、私情を持ち込む余地はない。
貴族である自分には、貴族としての責任があるのだから。
でも、
「私は、あなたを好きになることはないわ」
「俺もだ。君を好きになることはあり得ない」
それでも自身の幸せを奪った、目に見える象徴としてカミラはアーノルドを見ていたのだ。アーノルド自身も同様である。
お互いの本音を晒したのはその一度だけだった。それっきり二人は、互いに対して心を閉ざし続け、ひたすらに貴族の末席として生きることに努める。
アーノルドとの仲は表面では取り繕って何の憂いもないように振舞っていた。不和が露見すると、自身の地位に響く。
「あなたの婚約者で良かったわ」
「俺もだよ、カミラ」
どうやら、彼も自分の芝居に乗っかってくれるようだ。内心、お互いを憎み合う仲なのだから、ある意味ウマが合うのだろう。
息はぴったりで、周囲の者たちはこぞって騙されてくれる。それからというもの、二人はとても仲の良い婚約者同士で、そのまま通すことにしたのだ。その方が互いに都合が良いのだから。
そして二人は成長する。それでも息をするように自然体でその歪な関係は相も変わらず続いていくのだった。
「愛してるよ、俺のカミラ」
「私もよ、私のアーノルド」
口にする言葉とは、真逆の感情を心に宿して。
♢♢♢
今後、他家の貴族達とより良い関係を築くことを目的に二人は学園へ通うことになった。
そこでも、二人は心を偽って良好な関係を演じ続ける。
『昔から仲の良い二人だ』
誰かが、二人の関係を羨ましがるような、妬むような声を呟いた。カミラは謙遜しながらも、その言葉を肯定する。
「ええ、そうよ。私たちは仲良しなの」
アーノルドも、照れ臭そうに言葉を返す。
「そうだな。いつまでも、このままでいたい」
二人して微笑みを浮かべるが、しかし、その心は驚くほどに冷めていた。
♢♢♢
学園に入学してからしばらくして、アーノルドに変化が訪れた。カミラは、偶然にも見てしまったのだ。校舎裏で、女子生徒と談笑をする彼の姿を。
アーノルドはその女子生徒と会話を交わして、楽しそうに笑っていた。大人しそうな雰囲気の少女は、控えめの笑みを浮かべる。アーノルドはそれに応えて優し気な笑みを返す。
彼のそのような笑顔は、カミラは一度として見たことはなかった。初めて目にした、彼の本当の笑顔。カミラはアーノルドから、そのような心からの笑みを向けられた覚えはない。いつも、取り繕った偽物の笑顔ばかり。
それを思うと、どうしてか胸が苦しくなった。心が痛い。自分は彼に縛られていた。反対に、彼も自分に縛られていた。
『──君を好きになることはあり得ない』
かつてアーノルドが口にした言葉を思い出す。──ああ、そうか。彼は、ここに来てようやく見つけたのか。
愛のない結婚は嫌だと心内で叫んだ自分がいた。今は、もうすでに割り切ってしまっているが、しかし彼は未だに諦めきれなかったのだろう。
『──私は、あなたを好きになることはないわ』
じくり、と心の痛みが一層強くなる。
逃げるようにカミラは、黙ってその場を後にした。
そしてその後、カミラはアーノルドと会っていた女子生徒に罵倒を浴びせて、陰湿な嫌がらせを始める。
何度も何度も、執拗に繰り返す。時には直接、時には己の地位を振りかざして間接的に。
少女には悪いとは思うけれど、止めることは出来ない。彼に気付いてもらうまでは。
これは断じて、アーノルドと少女に幸せになって欲しいから背中を押しているわけではない。
自分を差しおいて、貴族としての義務を放棄して一人幸せになる彼が憎くてたまらないのだ。
アーノルドに直接言葉を伝える選択肢は元よりなかった。カミラを憎む彼に、彼女の言葉が果たしてどれほど届くのだろうか分からない。
それに仮に、これが一因となって婚約が取り消されてしまえば、アーノルドとカミラは共に自由になれる。
もしかしたら自分には新たな婚約者を宛てがわれてしまうかもしれないが、どちらにせよ彼よりはましだろう。
……だから、両者万々歳ではないか。
幸い、演技は得意だ。カミラは、嫉妬に狂った悪女として振る舞うことに決めたのだった。
だって、すでに底値まで嫌われているのだから、構わない。周囲の目も気にならない。
……だから別に良いだろう?
──悪役に染まることが出来るのは、婚約者である私の特権なのだから。
カミラは、この時自分の本当の気持ちに気付かなかった。
だから、自分が半ば自暴自棄になっていることにも気付かなかったのだ。
♢♢♢
きっかけは何時で、それは一体何だったのだろう。分からないけれど、カミラはいつしかアーノルドが少女に見せた笑顔を自分に向けて欲しいと思い始めていた。
何気ない、ふとした瞬間にカミラは自分の本当の気持ちに気付いたのだ。憎しみが、愛おしさに変わっていたことを。学園に入ってから変わったのは、アーノルドだけではなかった。
けれど、何もかもが遅かった。
カミラが、本当は嫌いだと思っていたアーノルドに対して密かに恋心を抱いていたことを自覚したのも、アーノルドとの関係をやり直そうと試みるのも、
――今ではどうしようもなく、すでに手遅れだったのだ。
二人の関係の亀裂は長年広がり続けて、修復など不可能な状態だ。それに、もう後戻りは出来ない。自分は、彼に顔向け出来ないほどに手を汚してしまっている。カミラの悪役令嬢振りは、大半の学生の知るところになってしまっているのだから。
悪行を知ったアーノルドに校舎の屋上に呼び出され、カミラは大人しく黙ってそれに応じた。来る時が来た、そう観念して。
「理由を聞きたい。どうして、彼女を傷付けるんだ?」
「どうして、って分からないの? あの子が、私達の仲を引き裂こうと邪魔をするからよ」
「違う。嘘を吐くな。俺が勝手に堕落すれば、君は喜ぶはずだ。なぜ、一緒になって名を落とそうとする? わけが分からない……」
カミラは悲しみの感情を悟られないよう強く笑みを浮かべた。
「あの子に嫉妬してしまったの」
「また嘘だな、お前は別に何とも思っていない」
アーノルドには、カミラの本心は伝わらない。当然だろう、長年傍に居て彼と心を通わせたことは一度もない。
けれど当然だと思っていても、少しは分かって欲しいと思う身勝手な自分がいる。虫のいい話だとは思うけれど。
「私はあなたを愛してるの」
――自分の心をちっとも理解してくれないあなたが大嫌い。
「だから私ね、あなたが大嫌い」
――だけど、私はあなたを愛してる。
心の中で、空しくそう呟く。
そう言えば、彼の本当の笑顔を見たことあるが、自分の方は彼に見せたことはなかったと、思い立つ。
――だから最期くらいは、彼に対して心から笑ってみせることしよう。
「さようなら、アーノルド」
微笑を浮かべて、カミラは柵のない屋上の縁に立つと、そのまま宙に身を躍らせた。
悪役には、無様な最期が相応しい。けれど、彼に軽蔑の目で見られるのは耐えられそうにない。だから、卑怯だけれど彼女は逃げることにしたのだ。
「――カミラ!」
アーノルドが急いで駆け寄るが、もう遅い。
体が浮遊感に包まれ、次第に空が遠ざかっていく。無意識に流れた涙が、空へ昇っていく。
……何もかもが、夢であったらいいのに。自分は今、辛い夢を見ていて、いつか幸せな現実に戻れたら、アーノルドが震える自分の体を抱きしめてくれるのだ。
それならさぞ素晴らしいだろうに。
──勿論、あり得ないことだ。そのようなことは絶対に。でも、そう在ってくれたら良かったのになとカミラは幸福を夢想する。
次の瞬間、
強い衝撃に襲われ、ぷつりとカミラの意識はそこで途絶えた。