名朗大学附属病院 精神科病棟は今日も通常運転
二年目の臨床研修医、神南備納得はバリバリの外科志望。不本意で回っている精神科の研修は、やる気が地の底モホロビチッチ不連続面……不貞腐れて糸結びマシンと化していた神南備の前に、大学一の名物准教授が現れる。彼の名は茂武苑一。名前が示す通り体格も顔も平均的、平凡を絵に描いたような准教授だが、実は知る人ぞ知る「妄想」の権威だった!
※筆者は精神科の専門ではありませんので、厳密な意味での用語の解釈の誤りはご容赦願います。
※本作品はフィクションです。類似の人物・団体・名称とは関係ありません。ええ、ありませんったらありませんとも!
2年目の臨床研修医にとって、精神科の位置付けは微妙だ。
メジャーと呼ばれる外科・内科・産婦人科が事実上の必修となり、加えて履修を奨励されている小児科・救命救急などにかなりの期間を割かれてしまえば、残りの期間で選ぶ履修科はかなり厳選しなくてはならない。
ただでさえ細分化・専門化が進んでいる診療体系を鑑みると、幾つかの科はどうしても外さざるを得ない。研修医も人の子、どうせなら華やかで稼ぎのある科へと興味は流れ、稼げず報われる事の少ない科には目を向けなくなる。
そんな「日の目を見ない科」のカテゴリーに、精神科はどうしても入ってしまいがちだ。
半ば行き先を強制された一昔前の医局絶対主義世代ならまだしも、全国どこでも自由に研修先が選べる今どきの研修医にとって、精神科研修なんぞよりはるかに魅力的な世界がなんぼでも拓かれているのだから。
だから……臨床研修医2年目の神南備納得が現在、精神科病棟をうろついているのは彼の本意からではない。
研修先マッチングの際に人気の施設行きの選に洩れ、他に空きがなかったからである。
親が外科医で実家は開業医である神南備はバリバリの外科志望で、一日中壁と会話しているおばさんや彼を孫扱いするボケたじいさんの相手をする暇があるなら、マグカップの持ち手で糸結びの練習でもしていたほうがはるかにマシだと考えている。
更に神南備のやる気を殺ぐように、精神科の教授も准教授もあまり院内にいない。
教授は典型的なタレント教授で、院内よりテレビ局にいる時間が長いくらいだし、准教授に至っては「境界無き医療団」のボランティア活動が忙しく、ある日突然ふらりと姿を消す始末。
いきおい研修医教育を始めとする各種業務は中堅指導医に丸投げとなり、指導医は忙しさにかまけて研修医をほったらかし……という見事な悪循環の完成で、ただでさえやる気の無い神南備の勤労意欲はもはや地の底、モホロビチッチ不連続面あたりまで落ち込んでいた。
おかげで久しぶりに……それこそ神南備が精神科研修に入って実に29日目にしてようやく「准教授外来」が行われると聞いても、神南備には重要性がいまいちピンと来なかった。
相も変わらずマグカップの持ち手に向かって、絹糸で結び目の行列を生産し続ける神南備の後頭部に、パコンと軽い衝撃がはしる。
「神南備く〜ん、いつまでマグカップと戯れてんの〜? 早く外来においで〜」
指導医の中瓶の気の抜けた声で控え室から誘い出され、しぶしぶ神南備が外来に顔を出すと、そこには名朗大学である意味一番の有名人が立っていた。
精神科准教授、茂武苑一 40歳、男性。
通常、大学教授や准教授と呼ばれる人物は、性格がぶっ飛んでいたり見た目が強烈だったり、何処かしら常人とは異なる圧倒的な存在感があるものだが(神南備の偏見を多分に含む)、この茂武苑一准教授はその名のとおり平々凡々、身長体重・顔立ちも全てが日本人男性の平均値と呼ぶべき、地味で静かで存在感が極めて希薄な人物だ。
言われなければ准教授だなんて思いもよらず、白衣を着ていなければ医師には見えない。そもそもそこに存在している事すら忘れられることがしばしばな「うっかり見失いやすい人物ナンバーワン」である。
それでいて日本で指折りの「統合失調症」研究の第一人者で、中でも「妄想」論文の引用回数が最多なことで知られている、隠れた世界的有名人だったりする。人は見かけによらない典型だ。
「さっそくだけど神南備くん、『妄想の定義』わかりますか?」
遅れて来たのを咎めるでもなく、茂武准教授は穏やかに問いかける。ごくっと喉を鳴らせて神南備は記憶の引き出しをひっくり返す。
「ええと……訂正不可能な誤った信念……ですか?」
「……いろいろ足りないけど概ね正解かな。周囲から何を言われても、客観的証拠を示されても誤りを訂正する事が出来ない、というのが妄想の厄介なところだね」
穏やかで癖の無い声で言いながら茂武准教授が席に着くと、すかさずカルテが差し出される。電子カルテが主流の大学病院でも、病歴の長い精神科患者の経過はいまだに紙媒体に頼る場合が多い。しかも今や英語が主流の医学界において、未だにまさかのドイツ語である。
端が黄ばんだページをめぐりながら、最初の患者について中瓶のプレゼンが始まる。
「患者は30代男性、20歳発症の妄想型統合失調症です。20歳の時、道を歩いているとき突然足元が光り、異世界に召喚され……」
「異世界に召喚!?」
すっとんきょうな声でプレゼンを中断した神南備を、しかし准教授は咎めなかった。むしろニコニコと目を細めて神南備の反応を肯定する。
「びっくりでしょう? 彼はね、召喚された異世界でチート能力を手に入れて勇者になって魔王を倒す旅に出たんだ。途中で味方になってくれるのはみんな美少女ばかりでハーレム状態。魔王を倒した後、お城に戻ってお姫様と結婚するはずが、仲間に裏切られて殺されそうになったところを魔法陣を発動して、命からがら日本に帰って来たそうだよ」
まさに「妄想」の世界である。
「今から患者さんを中に入れて話を聞くけど、神南備くんにはひとつお願いがあります。とにかく患者さんをバカにしないこと。発言を中断したり否定したりしないでね……特に今みたいに口をポカーンと開けたり、呆れたような目付きをしない。患者さん達はそういうのに敏感だからね」
言われてようやく、神南備は自分の下顎を定位置に戻した。
「では、本日の外来を始めます」
そして最初の患者、疲れたような表情の男性が入ってきて、挨拶もそこそこに准教授にすがり付いてまくし立てはじめた。
准教授診察と言っても取り立てて難しいことをする訳ではない。ただひたすら患者の話を聞く、聞く、聞く。時々合いの手が入るのと、薬物療法中の副作用が無いかを訊ねる以外は、准教授はほぼ無言で穏やかに微笑んでいた。
患者の話はプレゼンに輪をかけて荒唐無稽だった。命懸けで戦った自分を蔑ろにした連中に復讐したいので、今は身体を鍛えたり魔法の知識をブラッシュアップして、再度異世界に行く準備を整えている所だという。
異世界についての身振り手振りを加えた臨場感ある話ぶりは、ハリウッド製のファンタジー映画並みに面白く、ついうっかり立場を忘れて身を乗り出してしまいそうになるが、そんな気持ちをぐっとこらえて神南備は無理やり顔に笑みを張り付ける。
「周囲の人間は誰も僕の努力を解ってくれない! それどころか僕が異世界へ再び向かおうとするのを邪魔してくるんです!」
そりゃそうだろ、と口から飛び出しそうになるのを慌てて飲み下し、再び笑おうと試みる。神南備の口輪筋がそろそろ痙攣しそうになった頃、患者が汚れたハンカチのような物を取り出した。よく見るとそれは薄い革の切れ端で、セピア色のインクで何やら紋様らしきものが描かれていた。
「見てください、先生。召喚陣だってちゃんと覚えてるんです」
ちょっと凝ったデザインのマンホールのような紋様は、患者曰く異世界へ渡る為の魔法の召喚陣らしい。三重の円を組み合わせた隙間に梵字か崩れた数字のようなものがびっしり書き込まれている。
「術式は合っているはずです。何故発動しないんですかねぇ……やっぱり此方の世界は魔素が足りないんでしょうか? それとも新月とか満月とか、タイミングが合わないのかな」
しょんぼりと肩を落とした後、患者は安定剤を処方されて帰っていった。召喚陣とやらは准教授のもとに残された。家に置いておくと家族に処分されてしまう恐れがあるからだそうだ。
「ここに来る患者さん達は、妄想に悩まされてる人が多い。なかでも物を取られるといった被害妄想が一番多いね……うわあ、本物の羊皮紙だよこれ。よく手に入ったね。こっちでも高いだろうに」
召喚陣をためつすがめつしている准教授の表情は読めない。手の中でぐるぐると切れ端の向きをかえて、あ、こっちが上か、と呟いている。
上下なんてあるのかね、こんなもん。どうせ妄想の産物なのに。
患者が退出するやいなや笑顔の仮面を放り捨てた神南備に、相変わらず穏やかな准教授の笑顔が向けられる。
「こういった妄想が体系化していて、がっちりとした世界が出来上がっていることを何と言いますか?」
「えと……も、妄想構築?」
准教授の笑みが深まる。良かった、正解だ。確かこの辺は彼の専門分野だったので、名朗大学での精神科研修が不可避になった時点でさらっておいた甲斐がある。
「そう。凄いですよ? 異世界だとか転生だとか、剣と魔法の世界だとか、本当にそんな世界が存在するのを私達が知らないだけじゃないかと不安になるくらい、良くできた話が次から次へと聞いていて飽きません。神南備くんはどう思いましたか?」
「ぶっちゃけ面白かったです。充分物語として成立してるレベルで」
「そりゃそうだろうね。だって今の患者さん、申屋万一ってペンネームのファンタジー小説家だから」
「えっ!? 『いせ☆リベ』の申屋万一ですか、今のが?」
ファンタジー小説には詳しくない神南備でも、さすがにその程度なら知っている。確かネットの小説投稿サイトから人気がでて、書籍化を経てマンガになり、さらに深夜枠のアニメになった……ハリウッドがフルCG映画化を狙っているという噂まである……作品の著作者が、さっきの疲れた中年男だというのか。
周りを見回すと、中瓶たち先輩医師が皆ウンウン頷いている。
「彼の場合は准教授が勧めたんでしたよね、小説に書き起こすの。異世界の事を誰も信じてくれないって、自殺企図まで出そうだったから、それなら自分の『経験』を文章にまとめてみたらって」
「……まさかそれをネットに載せたり、さらに収入源になってしまうとまでは思わなかったけどね」
初めて准教授の表情が苦笑に歪む。世界が水玉で構成されている芸術家とか、海産物一家のマンガの作者とか、昔から現実世界と折り合いが付かず自主的に精神科のドアを叩くクリエイティブな職種の人間はしばしばいたというが、精神科患者をクリエイティブな職種に導いてしまったというのは如何なものか。ますます妄想が酷くなって現実との区別がつかなくなってしまわないのか?
「他にも、デスゲーム閉じ込め系の作者の千絃英雄、タイムスリップ系歴史小説の園倉手与賀郎、乙女ゲーム転生ものの座間アミィなんかも来るよ。それから……」
次々と挙げられる名前は、小説家や漫画家、アニメ監督など、男女取り混ぜて両手に余る人数に登った。神南備は初耳の名前もあったが、どれも独特の世界観が話題の有名作家であるらしい。
「あ、神南備くん、解ってると思うけど、今の話は職業上知り得た秘密だからね、外でペラペラ言わないように」
「あ、はい。それはもう解ってます」
立てた指を唇に当てて、准教授が微笑む。
医師の一族に産まれ育った神南備は、医師の守秘義務という概念は子供のころから染み付いている。
「妄想の内容も最近は、最初からチートで俺強ェえ!よりは、最弱からの成長や不遇からの成り上がりが増えましたね」
「乙女ゲーム系は悪役令嬢のフラグ折りまでは相変わらずだけど、下衆の極み主人公へのざまぁは減ってきてて、むしろ悪役令嬢の第二の人生充実へシフトしてきてます」
何でいい年した医師がこんなにネット小説詳しいんだよ、つか妄想にも流行があるのか? 神南備は失意のあまり身体が前屈しそうだ。
「私は未だに乙女ゲームというのがよく分からないのですが」
「複数の三高イケメンを婚約者から寝取って、二股どころか五~六股以上の逆ハーレムを形成する、超肉食系女子向けの恋愛シミュレーションゲームです」
准教授が顎を撫でていると、中瓶がすかさず切り返す。実に端的な説明だが、三高ってなんだっけと神南備は記憶の引き出しを引っ掻き回して昭和のラベルに行き当たる。
中瓶、あんた何歳だ?
「……その所業の一体何処が『乙女』なんですか」
「大丈夫です、実際に日本で販売されている女性向けシミュレーションゲームのうち、そこまでえげつないのはほとんどありません」
眉根にシワを寄せる准教授に対して、要するに日本女性はちやほやされ慣れてないんですよ、と中瓶が締めくくったところで病棟回診の時間になり、神南備達はその準備に取りかかった。
一旦医局へ戻り、担当患者の病状のまとめを見直そうとした神南備ははたと気づいた。メモ替わりのタブレットが見当たらない。
匿名化はしてあるとはいえ患者の情報が入ったタブレットをうっかり置き忘れ、万一にも第三者の目に触れたりしたら個人情報の流出だ。
置き忘れたとすればあそこしかないと外来へ引き返してみると、案の定診察室の隅っこに小さく点滅する光が見えた。
診察室に入ろうとして、ふと足が止まる。
中にはまだ准教授がいた。
幸い准教授は向こうをむいていて、タブレットは入口近くの棚の上にあるから、こっそり入れば気付かれずに回収できそうだ。
抜き足、差し足。息を殺して診察室に入り、准教授の様子を伺いながら神南備は精一杯棚へと手を伸ばした。
患者を見送った時のまま椅子に座り、准教授は机の上に拡げた例の「魔法陣」を見ていた。
「……召喚陣、ねぇ」
ふぅ、と漏れるため息。その呆れ返ったような響きに、神南備は何故かほっとしていた。
先程までのこの部屋でのやり取りを聞く限り、准教授は患者の妄想を全面的に受け入れているように聞こえた。無論、患者の訴えをそのまま受け入れるというのが精神科診療の基本だと解っている。しかし、あまりにもすんなり患者の言い分を受け入れる准教授を見ていると、まるで患者の語る妄想の世界が本当に存在しているかのような気がして……それを受け入れられない自分が酷く狭量に思えて、何とも落ち着かなかったのだ。
でも今、患者の目が無いところでなら准教授も呆れた様子を隠さない。
それが不思議と神南備を安堵させていた。
「……単なるハッカノカンイシキを」
………………は?
何かの聞き間違いだろうか? ハッカノカンイシキって、何ですか?
「しかもこんな効率の悪い式……彼程度のステータスで発動するわけないだろうに」
聞き慣れない単語を必死で検索中の神南備の目の前で、茂武准教授は「魔法陣」の紋様の、特に線が込み入った部分を指先でなぞる。
その指先が触れた部分が淡い緑色に発光したり。
発光した部分の紋様がきれいに消えたり。
消えた後の空白に指を滑らせると、今度はそこが金色に発光したり。
金色の光が消えた後にはさっきとは全く異なる記号が浮かび上がったり。
……そんな風に見えたのは、きっと疲れているせいだ。
「只でさえこっちは魔素が足りないのに」
元よりずっとシンプルで洗練された紋様に変わった「陣」の上で、准教授はパチンと指を鳴らす。
……ボッ!
一瞬で「陣」は燃え上がった。
リチウムみたいに鮮やかな赤の炎が、残像を網膜に焼き付ける。
「……発火の簡易式、か……」
神南備の脳内でやっと単語の意味が漢字に変換され終わった時には、准教授は神南備の方に身体ごと向き直っていた。
炎が消えた後の診察室は静かだった。かなり大きな炎が出たにも関わらず、煙も立たず火災報知器も反応していない。
自分がが生唾を飲み下す音が、神南備の耳にやたら大きく聞こえる。
「見られちゃいましたね」
慌てるでもなく、准教授はまた指を唇に当てる。
「皆にはナイショですよ?」
神南備は即座に首振り人形と化した。
「あ、はいっ! それは……もう、よく、解ってますっ!!」
守秘義務ですから! と神南備が返せば、准教授は怪訝な表情を浮かべた後プッと吹き出した。
「そんな大袈裟な。今度の新歓コンパまででいいですよ」
「…………へっ?」
今度は神南備が怪訝な顔をする番だった。
「これは隠し芸ですから」
准教授は既にすっかり見慣れた笑顔に戻っている。けして大柄ではない平均的な体格のはずなのに、ゆっくり近づく准教授からは妙な威圧感が漂っていて、神南備はタブレットを抱きしめたまま動けずにいた。
「この程度、ただの隠し芸ですから、ね?」
「…………はい」
両肩にポンッと手を置かれて、にっこり微笑まれて。
くるりと身体を反転させられ病棟回診に向かわされて。
神南備は「隠し芸って、どの程度の規模までが『隠し芸』なんだっけ?」という疑問を頭の中で散々反芻した挙げ句……脳内ブラックボックスの中に放り込んで、固く封印を施した。
そして、やっぱり自分は外科を目指すべきだ。極力、精神科と関わらない方向で進路を決めよう、との決意を新たにしたのだった。