ひとひらの贈り物
「姉ちゃん、十二を四で割るといくつや?」
「十二を四で? う~ん、一余り三かなあ」
「なんでやねん」
和也はうなだれた。
和也の姉、絵里は口をへの字にしてウーンと首を傾げている。背中まで伸びた黒い髪は寝癖で解れていて、なんだかテリア犬みたいだ。
絵里はもう中学二年生だ。中学生なのにこんな簡単な割り算もできない。彼女が宿題を持って帰ってくる度に、小学生の和也がその介護をしなければならなかった。
近所では最早絵里のお馬鹿伝説はネタにされていて、和也は知人とすれ違う度に肩身の狭い思いをしていた。小学生という繊細な時期の少年にとって、自分の家族を悪く言われるほどしんどいことはない。
そんな弟の苦労など露知らず、絵里は不器用に指折り数えはじめた。
「まず十二個の林檎があるやろ? それを父、母、弟、私で分けて……ああ、お婆ちゃんもおるから家はダメや。ほんならどうしよう」
「もういい、姉ちゃん。俺もう疲れたわ。犬の散歩行ってくる」
「行ってらっしゃい。ちゃんと糞は拾わんとあかんよ」
「わかっとる。姉ちゃんも宿題やりや。あ、答え写すなら式まで写さんとアカンで」
「おお! 流石や、かずちゃん。危ないとこやった。ほんま頼りになるなあ」
絵里はあどけない笑みを浮かべながら、こめかみをぽりぽり掻いた。
「痛っ。カサブタとれた」
「……はあ」
和也は再びうなだれ、ドアノブに手をかけた。
それを見送る絵里は何が可笑しいのかニタニタと笑い、ひらひらと手を蝶みたいに踊らせた。
和也は愛犬ルーの散歩をしながら我が姉の行く末を考えた。ルーは絵里が拾ってきた雑種犬で、もうすぐ五歳になる。とても大人しくて賢い犬だ。餌をねだる時はきちんと皿をくわえて持ってくるし、落ち込んでいる時には優しく頬を舐めてくれる。
「犬と飼い主は似るはずやのにな。あれ嘘やで」
和也はそう呟き、頬を膨らませた。
絵里はいつもぼんやりしていて、何を考えているのかわからない。というよりも何も考えていない。それでも中学では何とかうまくやっているという。周りの友達に恵まれているのだろう。
しかし今は良いとしても、今後の環境次第では苛められてしまうに違いない。それどころか割り算もろくにできないのだから、そもそも進学することができないかもしれない。和也は一日中コタツに潜り込む姉の姿を想像した。
人並み外れて頭が悪くて、おまけに寝てばかりの怠け者。まさに犬以下だ。
そんな姉が時折恥ずかしくてたまらなくなる。
これからも絵里が何かやらかす度に自分は俯いて歩かなければならないのだろうか。姉が将来結婚して家を飛び立つまでずっと……和也にはそれが果てしなく先のことに思えた。
まるで足枷のような存在だ。
「……姉ちゃんに結婚は無理や」
せめてもう少し姉の頭が良ければこんな思いをせずに済んだのに。エデンの園があるのなら、知恵の林檎をこっそり盗み出して姉に食べさせてやりたい。
和也は小石を蹴っ飛ばした。
「ルー、どうする? このままやと姉ちゃん生きていけへんで」
犬のルーは楽しそうに舌を躍らせている。散歩とご飯さえあれば快適に過ごしていけるのだから犬っていい身分だ。
「はあ、憂鬱や。人生って大変やな。なんで俺が姉ちゃんの心配せなあかんねん」
憂鬱な気持ちが募ったまま二十分の散歩コースは終わった。少し風にあたれば気分転換になると思ったのに全く変わらなかった。
物足りなさそうに騒ぐルーを犬小屋に繋ぎ、家のドアを開ける。
ドアを開けた瞬間、待ちかねたような顔で屹立する絵里がいた。絵里は両手を後ろに回して、いつものように意味もなくニコニコしている。
「おかえり。待っとったで! あのな、姉ちゃんな――」
「宿題、答え持っとらんの? 流石に俺も中学生の数学はできへんで」
「違うよ、かずちゃん。なあ、今日は何の日や?」
絵里は何やら嬉しそうに和也の顔を覗き込んだ。
「今日? なんやっけ、ポッキーの日? それとも肉の日?」
「ちょっと本気で言うとんの? かずちゃん冗談きついわ」
絵里は困惑顔で言った。その言葉に和也は思わずムッとしてしまう。いつも冗談キツいのは絵里のほうだ。こっちはそれで苦労しているのに。和也は真顔で絵里の横を通り抜けた。
「待ってかずちゃん」
「なんやもう。うるさいな」
立ち止まり、憮然とした表情で姉のほうを振り返る。
絵里は幼稚園児みたいな笑顔で、いつの間に持って来たのか嬉しそうに正方形の紙を胸の前に掲げていた。
「これ、うちからの誕生日プレゼント!」
「へ? 誕生日? というか、なにそれ」
「絵や。絵を描いたんや。うち、それくらいしかできんから」
はい! 絵里は賞状を授与するような恰好で一枚の絵を差し出した。状況を飲み込めないまま、あまり期待せずにそれを受け取ってみると、和也は思わず瞠目してしまった。
消え入りそうなくらい繊細な線で描かれた雪景色の中で、自分そっくりの少年が黒い雑種犬と戯れている。それはとても鮮やかなコントラストで、書き手の温かな内面と不思議な感性がよく反映されている絵だった。
これをあのアホの姉ちゃんが書いたのか。絵の完成度よりその事実の方が和也には衝撃的だった。一体どこで覚えたのだろうか。並大抵の努力じゃ書けそうもない。さてはついに盗みを……。
和也は姉の顔を呆然と見つめ、
「……めっちゃ上手いやん。姉ちゃん」と呟いた。
「本当? ありがとう! 嬉しい」
絵里の小さな手が和也の頭に被さり、くしゃくしゃと髪が波立つ。あっという間にテリア犬のような頭になった和也は、むず痒さを感じて思わず後ろに退いてしまった。少しでも姉を疑った自分が恥ずかしい。
本当はもう少しだけ、撫でて欲しかったのに。
姉ちゃんの手は柔らかくて温かい。
「……」
「驚いとるね。うち、毎日一生懸命練習してんで? 放課後の美術室に缶詰や。美術部ではないけどな」
絵里は得意げに鼻を鳴らし、癖毛の髪をぽりぽりと掻いた。相変わらずクネクネした前髪がかかっている童顔も、今は少しだけ大人っぽくみえた。
「……でもな、姉ちゃん。残念やけど俺の誕生日は三日後や」
「えええ! ほんま? えっと、確かうちの誕生日の十三日前やから……あれ、もしかして今年はうるう年やったんかなあ」
「どんな覚え方しとんねん」
「ごめんな、かずちゃん。うちアホやから数が数えられんかってん。本当にごめんね」
絵里は悄然と手を合わせ、柄にもなく肩を落とした。
「ふふ」
和也は堪らず吹き出した。
「ええよ、姉ちゃん。別に三日くらい間違ってても構へん。今日は前祝いや」
和也は少し早い誕生日にうなだれながらも、心地よさげに背伸びをした。今日は誕生日でも特別な日でもない。なんてことない普通の日だ。そして、姉ちゃんは相変わらず悩ましいくらいの馬鹿だ。
でも、これで良いんだ。欠点を無理に修正する必要なんてなかった。時には間違いが予測不能な贈り物をくれることだってあるのだから。
絵里は賢くはないけど、とても素敵なものを持っている。
「姉ちゃんはそのままでええんや」
和也はひとひらの風景画を大切に抱きしめた。