この空気、どう耐ろと?
ガサリ
近くの草が音を立てて揺れた。
その音につられて見上げた草は、茎の上の方で急に力を失ったように垂れてアーチを作っていた、
その背丈の長い草は見覚えあるものだったが……こんなに高いものだっただろうか?
——いや、違うか。
自分の視線が低いのだ。
地面すれすれに視界が広がっていた。
倒れてんの?私何したよ。
顔を上げると同時にピクリと耳が動いた。あまりに自然な動作だったことに遅れてあれ、と不思議に思う。
いつから私は耳を動かせるようになったのやら。しかし、基本は適当な私。
これで一発芸は困らんね、とか思いながら呑気に音のした方へと進む。
再び揺れた葉。それを認識したと同時に私は小さく喉を鳴らした。
爛々と光る二つの玉が私を捉えるまで一秒とかからなかった。
逃げなければ、そう思った瞬間には私の体は駆け出していた。
私が逃げれば逃げるほど視界が大きく上下する。何故かだなんて考える暇もなく、ただただ跳ねる。
なのに、荒い息はゆっくりと、だが確実に近付いてくる。鋭い爪が大地を抉る音と共に。
追いつかれることを恐れ、私は右に進路を変えて、今度は左、右、右、左とカクカク走る。
だが、草に足を取られて気が散ったほんの少しの間に私の体は宙に浮いた。
そのことに驚く間も無く横っ面に衝撃が走った。間髪入れずに剥き出しの腹をそれに踏みつけられた。
いくらもがけどこうなってしまっては小さい体で抜け出せるはずも無く。
「——ッハッハ」
野犬が私の顔に自分の鼻っ面を近づける。
喰われる。
そう思った。
だが、突然内臓を潰すかのような重みが消えた。何が起きたのか分からないまま顔だけ起こした私は、目の前のものに視線を奪われた。
黒い獣。それはまっすぐに私を見下ろしていた。
瞳の中に小さな子ウサギが映っているのを見て、だから耳動かせたりしたんだ……と場違いなことを考える。だって、今更逃げられるとは思えなかった。
私を追い掛け回した犬なんて目でないほどの大きさ。口なんて私を丸飲みできるほど大きい。
それは犬よりも何周りもでかい鼻先を私の腹へと近づける。
内臓から食いたいらしい。
できるのであれば一飲みにして欲しかった。口の中に入れると同時に頭蓋を噛み砕いて欲しかった。
獣はペロリと私の腹を舐める。
なんで、そんな風にするの。
そんな憐れみの目を向けないでよ。
どうせ私のことたべるんでしょう?
こんな寿命を全うできない一生を憐れんでくれるのであれば、さっさと食べちゃって。苦しまないようにするぐらいお手の物でしょ。
目を閉じると同時に脇腹に獣の牙が突き刺さった——
「——っはぁ!!」
深い海から浮上したように、私は目一杯の空気を肺に入れた。その酸素を全身にめぐらそうと、心臓がとんでもない速さで動き出す。
その激しさに、私は汗ばむ右手で心臓を強く押さえ込んだ。
いつか破裂する……そんなバカバカしいことを想像してしまうくらいに動いていた心臓は、強い圧迫に落ち着きを取り戻し五秒と経たないうちに平常運転へと戻った。
小さい頃から緊張した際に執拗におなじ行為を繰り返した私の体にとって、その胸を押さえる行為は緊張が確実に溶ける一種の呪いとなっていた。
浅い呼吸を三回、とびきり深い深呼吸を一回。それで私の体はいつもを取り戻した。
ゆっくりと体を動かす。昨日カーテンを閉め忘れたのか室内はやけに眩しいよう感じた。
まずったなぁ……。
この明るさは目に毒だ。サングラスが近くにあれば問題ないのだが、生憎手を伸ばした所には見当たらなかった。きっと洗面所に置いたままだ。私は迂闊だった自分に目を閉じたまま舌打ちした。
頭を振りながら床に足を下ろしてそのまま歩く。
包帯を巻いていた頃からの習慣で今も私の部屋は常に整頓されている。床に余計なものなど一つもないし、ものが積み上げられていることもない。一年間の経験を頼りに壁へと手を伸ばし、硬いその感触を辿りながら私は浴室へと入っていった。
サングラスは思った通り流し台の上に置いてあった。それをかけながら居室に戻った私は固まった。
「……うん?」
私はサングラスを一瞬素早く確認する。うっ眩しい……けど、ゴミはない。
掛け直してソファを見る。
「……いつの間に」
私の視線の先にいたのは新聞を広げる御主人だった。
しかも、なんかいい匂いする。
美味しそうな匂い。
主は何も言わずに新聞を優雅に捲る。
とりあえずおはようございます、と声をかける。
「ああ……おはよう」
主それだけ言うと紙面へ視線戻した。
……え、どうすりゃいいの?
テーブルの上を見ればそこには湯気のたった美味しそうなお食事。
どういうことか……呆然と立つ私に主はちらりと視線をやった。
「座らないのか?」
「すっ……座っていいんですか?」
私の言葉に眉を顰めた主に、大声で同席させていただきます!と宣言しながら座った。
が、この後をどうすればいいのか全く分からない。
私の目の前に置いてあるのはクレープに似たブリヌイ。中身はベリージャムとサワークリームだ。
しかしそれは一膳のみ。
主は食事に手をつける気は無いらしい。食事の膳は明らかに主の反対側の席に座る者のためにセッティングされている。
たぶん、私のための料理なのだろう。昨日泣き言を言った私を慮って主がわざわざ持ってきてくれた?のだと思う。作ってはいないはず……たぶん。完璧に偏見だが、料理を作れるようには見えなかった。
一緒にいてくれようとしてくれるその気持ちはとっても有難い。そして嬉しい。私のことを少しは大事にしてくれているのかなぁと自惚れてしまう。
——が、一つだけ問いたいことがある。
何故一緒に食事を摂らないのか……と。
忠誠を誓うとか言ったその次の日に主を差し置いて一人で食事?……正直したくないです。流石に弁えるということはできます。だが、主は本当にただ新聞を眺めるのみ。
食べるか、食べないか……どうするのがこの場においての正解なのか。私にはわかりません。もうやだ。逃げたい。逃げていいですよね?
「早く食え」
「はい」
私は素直に食べました。味なんて全く分かりませんでした。
主は私が食べ終わったのを見届けると何も言わずに去っていった。
私はそれを黙って見届けると、今更になって泣きついたことを後悔した。
有り難いけど、あの沈黙は逆に辛い。
故郷の日本には天邪鬼という言葉があった。使ったことなんてなかったけど、自分がそれとは今の今まで気がつかなかった。
***
「……あの方と?」
「そう、あの人と」
「お食事を?」
「私しかご飯食べなかったけど」
「そう……お食事を……そうなのね」
ちゃんときいてー、とイリーナの肩を揺さぶる。イリーナは顎に手をやったまま石のように動かない。
顎に梅干し作りながらイリーナから手を離した。
「……ボスは何か召し上がったりは?」
「私が見てる限りでは何も口に入れてなかったよ」
主が私と一緒に(?)食事を摂ったことがかなり印象的だったらしい。頻りに反芻してブツブツ言ってる。
確かにワガママ聞いてくれるとは思っていなかったけど、私はそれよりもイリーナが主をボスって呼んだことの方が印象的だよ。
「……そんなに驚くこと?相手はご飯食べてないけど、普通食事って誰かとするもんじゃない?家族とか友人とか」
彼女は私の言葉を聞いて考え込むように俯く。その口はそうか、と動いたようだ。
「……失念してたわ」
「え、何を」
「食事は誰かと摂るものだったわね」
「……そこ?」
まぁ一概には言えないけれどと一応付け足しておく。自分も大学時代ぼっち飯したことはある。頻度は少なかったけど、友人が皆してサボるときがたまにある。そうなると、……まぁ、悲しいけれどそうなる。
とは言えあまり親しくない人との食事も今朝のように悲惨なことになる。
こうやって考えると食事って結構難易度高めだ。栄養を摂るだけのものなのに。
しかし、今ので一つ理解した。イリーナが常にぼっち飯だったとは。まさに晴天の霹靂。
そんなこと考えてもみなかった。ずっとあの三人もしくはあの内の誰かとで食事をしているものだとばかり思っていたが、実情は違うらしい。
仲間はずれ……としょんぼりする必要はなかったと。少し損した気分。
「気回らなくてごめんなさいね?」
「そんな謝る必要なんて……」
二人でいえいえ、いやいやと深々頭を下げながら、もしや今お願いしたらいけるんじゃないの……?なんて僅かな希望を抱く。
「……もしも、なんだけどね、イリーナさえよければご飯一緒に食べない?」
お食事の誘いをちょっと勇気を出してやってみる。イリーナは半ば予想していたようだった。少し躊躇いつつも淀みなく話し始める。
「……つまり、イリーナはご飯食べないけど、食事中同席はできる、ということ?」
「そういうことね」
私は思わず天を仰いだ。
何で御主人様同様にこの人は一緒に食事を摂らないのか!
「なんでさっ……!」
「わっ、ビックリしたぁ」
イリーナ姐さんが少々上擦った声を上げる。本当に驚いたらしい。ちょっとだけ可愛いなんて思ったり。……じゃなくて。
「ご飯私が作るから!嫌いなもんあるなら作んないし!寧ろ好きなものしか作らないし!なんなら——」
「いえ、そういうことじゃなくてね」
イリーナはポツリと食べれないのよと言った。
「食べれない?」
「そうすごい小食なの……何十日かに一回食べれば十分保つのよ」
「……は?」
なにそれ、と呟くともう一度彼女は説明した。食事は余り必要じゃないと。
「なるべく恋人といる時に食事摂るようにしているわ。ディナーに誘われても食べれないのは申し訳ないから……」
「え、イリーナに恋人……確かに偶にいなくなるけど、数週間に一度じゃ……」
その時にご飯食べてるの。と再度言う彼女に私は絶叫した。
「……耳いたっ」
「うっそぉ!?それで生きていけるの?寧ろ生きてるの!?」
「ちょっと待ちなさい。なにその手……って待ちなさいってば!」
「脈確かめさせて!」
「いやよ、怖い!」
「いいからっ」
「やだっ、その手気持ち悪い!!」
ぞくり。
姐さんの顔を見ていたら何か分からんがお腹にクる。
「……ムリ」
「いやぁ!」
「……おめぇら何やってんだ」
突然入ってきた低い声に反応して顔を上げるとそこには変な顔したジュードとルシアンがいた。
「遊んでた」
「人で遊ばないでよ……」
ごめんと言いながら体を離す。イリーナは剥れてる。美人なお姉様の剥れ顏とか……ああなんだか新しい世界の扉を開いてしまいそう。
閑話休題。
「はぁ……?まぁ同席ぐらいならできるけどよ」
「あんたらもか」
私は絶望を顔で表現しながらソファに倒れこむ。
軽く今までの流れを説明しながらイリーナと同じお願いをしてみるも、なんだか色よい返事はいただけない。ルシアンも同じだった。
「なんであんたら皆して小食なの……?」
「いや、俺は小食ってわけじゃ」
「じゃあ何でさ」
ジロリと睨みながら聞くと、お前遠慮なくなったな……と返ってきた。
それには確かに。と同意する。
今まではなんとなく壁を感じていたのだが、自分だけ仲間はずれにされていたわけじゃないと分かってからはその壁が無くなったように感じていた。自分の中で勝手にだけど。
正直あんなに悩んで思いつめていたのが嘘のようにスッキリしていた。昨日散々泣いたのもいい方向に向かうきっかけだったのかもしれない。
「だめ?」
「……いや?」
ならよかった、と小さく呟くとジュードはふぅんと意味深そうに頷いた。
「……なにか文句ある?」
「それが本来のお前なんだなぁって思っただけだよ」
「うわぁ……上から目線」
「当たり前だろ?同じ部下だとしても、俺の方が序列は上だ」
「ああ、……そっか。そうなんだ」
この三人が主の優秀な部下だということをともすれば忘れてしまう。
ダメな慣れ方してしまったなとは思うが認識を改めるのはなかなかに時間がかかりそうだ。
だが、気は入れ替えなければ。そう思ってすみません……と殊勝に謝ったのに。
「気味悪いな」
「敬語なんて嫌よ」
「他人行儀に感じるねぇ」
「……分かったから」
とまぁ、そんな感じでなかなか改善されそうにない。敬語使っているうちに態度を直せると思ったのに、という泣き言は心の奥深くにしまった。
「じゃあ話戻すけどさ……なんでジュードとルシアンは一緒にご飯食べないの?小食ってわけじゃないんでしょ?」
「そこに戻るのか……」
「戻るに決まってんでしょ」
ガシガシとジュードが頭を掻く。何か悩んでる風だ。
「言い辛い……?」
「いやぁ……ううん、……まぁ」
「どれよ」
思わずといった感じでイリーナからツッコミが入る。
ジュードはうう……と呻いた後にああっと叫んだ。
「ただ単に食い方汚ねぇから見られたくないだけだよ!」
案外小さな理由になんでそんなに悩んでたんだと感想が浮かんだ。
「……ええ、別にそんなの私は構わないけど……」
正直ああっという叫びが納得いかず頭を傾げつつルシアンの方を向く。
「……ルシアンは?」
「私は——」
「ルシアンはとんでもねぇゲテモノ食いなんだよ」
割り込んだジュードにルシアンは抗議の声をあげた。だが、ジュードは御構い無しにもう一度繰り返した。
「……ゲテモノ?」
「そう、ゲテモノ」
三度目の肯定を経てルシアンをまじまじと見る。
「好物は……蛙とか虫、とか?」
「いや、違いますけど」
「……じゃあ何が好きなの?」
その問いにルシアンはぐっと吃る。
「…………言えないぐらいゲテモノです」
彼は観念したかのような苦悶の表情を浮かべていた。
対して私は脳裏に様々なグロ生物を思い浮かべて顔を顰めた。
「流石に……ゲテモノ料理は……」
「……いいよ、無理しないで」
悲壮さ漂うルシアンに私は静かに謝罪した。
でも……ああ、一番紳士だと思っていたのに、まさかそんな罠があったとは……。
皆食事には付き合うと言ってくれたので、申し訳ないながらも数日に一度同席してもらうことにした。それも精神安定のため。甘えてしまってすみません。
料理を作りながらルシアンと同じ器具を使って料理をしているのだろうか、と一度だけ考え……その後深く考えないようにした。
料理を作る前に念入りに洗うようになったのは内緒にした。
やっと皆の性格出せてきました。
***
ジュード→口悪い系男子。性格はワイルド。食べ方もワイルド。
ルシアン→物静かなお兄ちゃん。綺麗な顔に似合わずゲテモノ食い。
イリーナ→お色気担当のお姉様。葉月が手を突っ込みたくなるほどの見事な谷間。小食とは思えん。
ルシアンの好物は……考えようによっちゃあとんでもないゲテモノです。そのうち分かります。想像して楽しんでください(´∀`)




