私は何をすればいいの?(下)
目を開けたとき。知らないうちにベッドにいた私はああ、と呻く。
頭を抑えて考えると、ジュードが目を見開く姿を思い出した。
とうとう倒れたんだなと他人事のように考える。腕に違和感を感じて、見れば点滴が付いていた。
点滴の管を外しながら起き上がろうと腹筋に力を入れる。しかし、それは横から伸びてきた腕に阻まれた。
「……なんで」
暗闇の中の微かな声は届かないと思っていた。だが、その男は静かに寝ていろ、と口を開いた。ここにいる理由は述べるつもりないらしい。
「……眠くない」
「お前は目を閉じれば寝れるだろう」
私はその声音に驚いて男を見つめた。セリフに感じた違和感もそうだが、いつも抑揚のない静かな声が感情を露わにするのは初めてだった。
「……貴方は寝れないの?」
男は数秒黙って、どうだろうなとはぐらかした答えを返した。
訪問者はここ暫く姿を現していなかった。最後の訪問は私の目が失明していないと知る前日だった。それから一切音沙汰なし。
私のことなんて忘れてしまったのだろうと拗ねていたけれど、実際はそうではなかったらしい。
男は、それでも体を起こそうとした私にのしかかるようにしてベッドに入ってきた。
「え……」
「いいから寝ろ」
「……やだ」
男はあからさまなため息をつき、諦めたらしく私の体を抱え上げる。いつものように。
私を抱き上げた瞬間の息を呑む音には気づかないふりをした。
大人しくしていると、男は私を男の膝の間に座らせ包むかのように後ろから抱きしめた。そうそう、これを待っておりました。
力を抜いて男に寄りかかれば、腹に回った手に更に力がこもる。
まるで、会えなかった期間を埋めるどこかの恋人達のようだと思った。
どうしてこんなに冷静でいられるのだろう。相手は姿すら見たことのない見知らぬ男なのに。
不思議な気持ちで首を後ろに向ける。
「どうした——」
視界は真っ暗で何も見えない。勿論男の顔も。しかし、二つの瞳の色だけは見えた。ロマンスグレーの綺麗な瞳。
それだけで私は全てを悟った。
「……敬語を使ったほうがいい?」
私の口から出た声は意外にもしっかりとしていた。
その言葉に後ろの男は体を硬くした。
「それともご主人様って呼んだ方が?」
「……何故分かった」
私の考えで正解だったらしい。
脅すかのような冷たい声。でも今は全く怖くなかった。
「……もっと、低くて怖い声出さないと……嫌えないよ?」
忍び笑いを混ぜながら話す私にピクリと男の眉が動いた、気がした。
まさか動揺してたりするのだろうか。あの冷徹を絵に描いたような男が?……だとしたら、似合わなすぎて笑える。
「……何故そう思う」
「なんとなく?」
二人が一致したことに本当は明確な理由があったが、イリーナのために教えることはできない。
正直、細かいルールと矛盾した怒りは私に嫌われようとしてのこと……?と思いついたのは一ヶ月を過ぎた辺りだった。なんとなくそうじゃなかろうかと自らの考えに半信半疑だったのだが正解だったとは。この男の思考回路はそんなに複雑でもないらしい。
正直言えば、言い当てられた男の反応を見ても嘘だろと思う自分がいた。何しろ私に嫌われたところで生まれるメリットが一つも思いつかなかったのだ。
顔を少し傾ける。
今日はあいにくの新月で部屋の中は真っ暗だった。そのためにいくら見たいと思ってもその顔を見ることはできない。瞳が見えるだけ。
男の顔を無理な体勢で見続ける私に男は体を離そうとした。
察知した瞬間に私は男の腕を押さえて引き止めた。
「……手を離せ」
「いや」
自分でも思わないほど頑なな声が出た。男も少々驚いたらしい。
何度か手を離そうとしたのはわかったが、結局男は諦めて大人しく私のお腹に手を回したまま呻いた。
「変なことはしないでね」
「……なら、その手を離せ」
「離れるのは駄目」
「…………お前は私をなんだと思ってる……ソファぐらいに考えてないか?」
「よく分かったね」
男は小さくクソガキと呟いた。案外口が悪いらしい。
「……なんだ」
「いや、意外だと思って」
「何がだ」
「上品……というか綺麗な口調のイメージだったんで」
「俺は貴族でもなんでもないからな」
沈黙が下りた。
どうやら男はソファになることを受け入れたらしい。大人しく私のことを膝の上に乗せている。
そのままでどのくたい時間が経っただろう。私は目を閉じかけていた。
そんな私にポツリと声がかかる。
「……帰りたいか?」
私は目を開いてゆっくりと振り返る。
言わないようにしていたのだろう。男の口調はとても苦々しかった。
最初私を抱き上げた時、男が小さく息をのんだことは知っていた。だが、口に出すことはないだろうと勝手に思い込んでいた。
私は少し考えて口を開く。
「……日本でうさぎはなんて言われてるか知ってる?」
突然の問いかけに驚いた風ではあったが、硬い口調ならが知らんという言葉が返ってくる。
「うさぎはね、『寂しいと死んじゃう』んだって」
そんな事実はない。その言葉はただのドラマの中でのセリフにすぎない。
でも最近は本当にその通りなんじゃないかと思った。
「最近私寂しいの。誰も一緒にご飯食べてくれないし。世話する必要がなくなってから、イリーナ達が私のこと必要以上に触らないようにしてるのも知ってる。……でも触れ合うって大事なの。独りじゃないって実感できるから」
だが、男は訂正することなく私の言葉に耳を傾けてくれているらしい。聞いてくれるならと更に言を紡ぐ。
「だから、あなたのことずっと待ってたの」
「なぜだ」
「あなたは私のこと抱きしめてくれるから。ペットみたいに、簡単に」
お腹に回った腕に力がこもった。
「ペットみたいでいいの。人間扱いじゃなくていいから。私のことうさぎだと思って……たまにでいいから抱っこしに来て」
そしたら、と言葉を紡げば男と目が合う。引き込まれるようなロマンスグレーの瞳。
綺麗だと思った。
雪が降る空の色。
私はその目を覗き込みながら小さく、そしたら死なないから、と日本のうさぎを教えてあげた。
「死なずに頑張れるよ」
「……今なら帰らしてやると言ってるんだ」
「そりゃまぁ……帰りたいけど……」
「やっぱり帰りたいんじゃないか」
そう言った男に私は——帰りたくないのと小さく呟いた。
「……貴方は何も思わないかもしれないけど、私の髪と目は自分の国じゃ受け入れられるものじゃない」
「……染めればいい」
「こんな真っ白なのに綺麗に染まるようには思えないかなぁ」
それに、と私は続けた。
「私はまだ貴方に何も返せてないの」
男は目を見開いた。
「……そんなに驚くほど?」
「だが私はお前に——」
「あの日の貴方はとても怖かったけれど、正論だと分かってはいる」
男はあの日をすぐに私と初めて会った日のことと理解した。
「あれが正論だと?」
「私はそう思ってる」
今まで何度もあの日のことを思い返していた。木の下での初めての邂逅。
男は正論しか言っていなかった。なのに、あそこまで打ちのめされる。ということは、あれらの言葉は本当のことで、それだけ自分が傲慢であったということ。
……いくつか納得いかない点もあったが。
だが、それらも全て私が先に行動すればいいことだったのだ。
目が見えなくなってから流されるままに流されて、本当に適当に生きてきた。全て受け身で自分から行動なんてしなかった。与えられるものをただ受け取ることしかできなかった。挙句の果てにそれを当たり前だと思いあがり、感謝を忘れ身勝手にふるまう始末。
なんて醜い振る舞いだろう。
ここに来てからの一年間。私は自ら考えることをやめてしまった。その結果があれだ。
自分では頑張っているつもりだった。しかし、実際は自分のことを悲劇のヒロインのように考えて、悲劇のヒロインにしては頑張っているんじゃないの程度のことだった。
つまり、努力なんてしていない。
怒りを向けられるのは当然の結果だ。
男が何を考えて嫌がらせをしていたかまでは読み取れないが、今の男を見ればそれが悪意からだったわけではないと理解できる。
あの男は憎たらしくあるが、私の醜さに気付かせてくれたというとんでもない恩がある。そして、そのことに気が付いてから尊敬の念が生まれたのも確かだった。
彼が何をしたかったのは一向に分からない。だが、確かに私はあの日化け物に食い殺されるはずだった。それを経緯はどうであれ拾い上げたのこの男だ。男が拾い上げてくれなければ私は今どのような状況に身を置いていたか……平和な日本で暮らした私には考えることすらできない。男は使える部下に甲斐甲斐しい世話をさせてまで私を生かした。
例えそれが打算的なものからの行為だったとしても、私には救いになったのだ。
「貴方には色々と気付かせてくれた恩があるし、借りはあまり作りたくない」
「借りってお前なぁ……」
「とにかく、貴方の言う通り五年間奉仕する。問題ないでしょ?」
「問題はないが……」
「じゃあいいじゃん」
本音を隠して私は笑うと男の腕を解いて目の前にちょこりと正座した。
男はと言えば自分の腕と私の顔を交互に見る。私が目の前に座っていることを信じられないようだった。
少しだけ胸の空く思いがしたが、いけないいけない……私は笑いたいのを堪えながら深々と頭を下げた。
シーツの上に手をつきながら。
形から入るとはよく言ったもので、気持ちが追いついていなくとも形をとればある程度自分の感情を左右できる。
目の前にいるのは自分の主人である——そう考えた瞬間私の中の男の像は定まり、私の覚悟は決まった。
「私は今より五年間……貴方に心からの忠誠を捧げましょう」
男へゆっくりと誓いを述べる。
急に畏まった言い方にシフトチェンジした私に男は小さく、そんな話し方出来たのか……と独り言を言う。何とも失礼なとは思ったが、それが私への正直な評価だ。今までの無礼すぎる態度を叱るなら叱ればいい。だが、そんなことをするようになるわけではなく、私は少しだけ頭を上げて彼の目を見た。
彼は私に本心から逃げて欲しかったのだと今更気がついた。だが、もう遅い。私は貴方を尊敬した。恩に報いる必要があると判断した。その上で逃げるという判断を下すことはない。
「……貴方のことは何とお呼びすればよろしいですか?」
今の私ではその文を告げるので精一杯だった。
「……好きなように呼べ」
男はどこか苦しげな表情をしていた。しかし、私にはそれを問う資格などない。
「……では、『主様』と」
「それでいい」
男改め我が主は本当にどうでもいいと言ったような口調だった。
本当は名前を知りたかったのだが——私程度に呼ばせる名はないらしい。いつか聞けるだけの信頼を得てやろうと思いながら私は姿勢をただした。
背筋を伸ばして、睨みつけるわけではなくただ真っ直ぐに主の微かに光る二つの瞳を見る。
もう、そこから主の感情を読み取ることはできなかった。
「一つだけ、教えてください」
月の光が届かない深夜で、見えずと言えども主が怪訝な顔をしたのが分かる。
「大したことではないはずなので」
「……なんだ」
主から了承を得たことにほっとしながら、ずっと考えていたことを聞いた。
「……あの講義は何のために?」
言わずもがなジュード達の行う講義のことだ。
目の前に座る私の主はそんなこと知ってなんになるって言いたげな顔してる。
「勉強のモチベーションを上げるためにも知りたいのです」
どうか教えていただけませんか?と懇願した私に、主は諦めたように小さく吐息を漏らし、ゆっくりと口を開いた。
「お前には、私の声となり、言葉となってもらう」
声となり、言葉となる——混乱する私をよそに主は言い募る。
「私が言葉が堪能なわけではなく、毎回、違う誰かを連れての交渉に行くんだが、最近面倒になってな……そんな時お前の飲み込みがとても早いことを知った」
「……私もまだ二言語しか話せません」
「五ヶ月であと三ヶ国語は増やしてもらう」
見つめ合う私と主。先に音を上げたのは私だった。
「……逃げるんじゃないぞ。お前さっき自分から従うって言ったんだからな」
「いや、でも待って。……流石にあと五ヶ月でそれは……」
「今までは多めに見ていたが……お前は私のことをなめているのか?」
「そのようなことは一切ございません。!」
それでいいと男は満足そうに頷いた。
少々早まったかと思わず考えてしまった新月の夜。
月すら見守ることのない中、一月の十五日に私はよく分からない男を主と定めた。
まだ言葉だけの拙い主従の関係ではあったが、男はわたしの覚悟に対し何も言わなかった。
この日のことを知るのは私と主のみ。
他には誰も知らない誓いは、どこかロマンチックなものに思えた。
辻褄の合わなかった部分を改稿しました




