私は何をすればいいの?(上)
嫌だ。行かないで。
彼が去っていくことに絶望を感じる。彼だけは私から去らないと思っていたのに。
なのに、どうして私から離れていくの——?
黒い背中に向け手を伸ばした私はハッとする。
私の腕は、天井に向かって伸ばされていた。
またか、と独りごちる。
今日も見た夢は最近の悪夢の定番だった。
前まで夢なんて一つも見なかったのに。
自分は随分と分かりやすい人間だったんだなと感想を抱く。
顔を外に向ければ、カーテン越しの外が薄暗いことに気付くいた。
急に心が沈んでいく。
最近、毎日、狭い場所にいるように思う。息が詰まりそうな閉塞感、その中に私は身を置いている。
伸ばされたままだった手から力を抜けば、枕元に置いていた手がこつりと瓶に当たった。コロリと動いて、中身がチャポンと音を立てる。
「めんどくさい……」
言いながらも、私はその瓶の中身を手に出した。
全身にくまなく、ムラなく伸ばしながら半クリーム状のそれを塗る。それを塗ると鈍感になるから、昔から敬遠していたがこんな事態にそんな我儘、言えるはず無かった。その面倒を怠れば死に直結する可能性があるのだから。
クリームを塗り終えた私はベッドから立ち上がると、小瓶をそのままそこに置いて、部屋の隅にあった部屋へと向かった。
パシャリ、顔面で冷たい水が弾ける。
私は顎から滴る雫をタオルで拭いながら、顔を上げた。鏡に映る自分は眉間に皺が寄っている。
「……見飽きたよ」
私が手を振ると、鏡に映った自分が水滴で歪む。その様に私は少しだけ胸が空いて鏡に背を向けた。
* * *
「よお」
「おはようございます」
私が庭に行くと、その男はすでに立っていた。右腕を上に上げてフラフラ振っている。
「相変わらずサイズの合わないグラサンだなぁ」
「……そう思うのであれば、私に合うものを買っていただけませんか?」
「俺に『参った』って言わせたらな」
私はため息をつく。目の前の男は笑いながら、足を軽く開いて構えた。ボクシングのそれだ。
「……ジュードはいつもそればっか」
「ほれ、いいからやるぞ。お前のリミット短いんだからな」
言うと同時に男は距離を詰めてくる。相変わらず早い動きだ。だが、機動力なら私も負けていない。男の腕が伸びてきた瞬間に軽く体を揺らしながらつま先の力だけで後ろに跳んだ。
着地するよりも前に飛んできた拳を左手で包み込むようにして下に落とす。同時にガードが空いた左顎を狙って打ちこんだ。だが、頭を振って避けられた。
……どんな動体視力をしてんだよ。
「遊び人のくせに……」
「なんか言ったか?」
「……っ……なんでもない!!」
ジュードの打撃はどんどんと重さを増していく。それをガードするのに手いっぱいで、攻撃らしいものはガードが消えた隙を狙った中段回し蹴り二発のみで、更に後半はほとんど攻撃に回れずに終わった。
「……腹たつ」
最後の最後に、足払いされて転ばされた私は灰色の空を見上げながらそうボヤく。
「足元お留守なのが悪いんだよ」
私に手を伸ばしたジュードの手を借りて立ち上がると、俺の十勝目、とこれ見よがしに言う。
もう一度腹たつ、と言えば負けるお前が悪いって言われた。
「……半年後に泣くのはジュードだから」
「ほお?……そりゃあ楽しみに待ってるぜ子ウサギちゃん」
その口絶対にいつか閉じてやる。
ジュードの後を歩きながらそうボヤけば、手に冷たいものが当たる。
私とジュードは慌てて城へと走っていった。
目が見えるようになって分かったことがいくつかある。
まず一つ目、三人の簡単なプロフィール。
遊び人のジュードに紳士なルシアン、姉御肌なイリーナ。三人はそれぞれ、イギリス、イタリア、ロシアの出身だった。
正直言えば、男二人の出身地は逆じゃないだろうかと考えた。
ガタイがよくて顔も濃ゆいジュードに、スマートで爽やかなルシアン。うん、やっぱ逆だと思う。
イリーナ姐さんは想像の通り、言葉じゃ言い表せないほどの美貌を持つ人だった。彼女で一番印象的なのはアメジスト色の透き通った瞳だろう。初めて見た時、言葉も忘れてガン見してしまった。申し訳ない。
二つ目、三人はとある企業の幹部級の役職を持った人達で、ボスであるらしいあの髭親父に命じられて私の世話を見ていたらしい。
私のお世話は報酬がよく、尚且つ細々したルールはあったが大量のお休みがあるも同然、……つまり美味しい仕事だったらしい。その話を聞いた時三人は嬉々として仕事を受けたらしい。
あの日——外に行ったっきり帰ってこなかった私を心配した二人に私は泣きながら謝った。
どんな言葉を言ったか忘れたが、世話してくれたにも関わらず碌な感謝をしなかったことと、名前を教えて欲しいといった旨を伝えたはずだ。
彼らは私が落ち着くのを待ってから名前を教えてくれた。ファーストネームしか言われなかったこともあって、馴れ馴れしくもそれで呼ばせてもらっている。
驚いたのは、わざと名前を言ってなかったのだから泣かないで、という姐さんの言葉だった。気にしないでと前置きしながら語った説明に呆気にとられた私の涙はちょちょぎれた。呆然とする私に彼女は微笑みながら二度目の『気にしないで』を言った。
そう、それがルールの一つだったのだ。名前を告げないように言われていたと。
そこで思ったのは何故私はあんな怒りを買わなければならなかったのか、ということ。
だが、私はその不満を誰にもぶつけられずにいる。何故ならイリーナ姐さんに「これルール違反だったわ」て言われてしまったからだ。——つまり、『“名前を教えるのは禁止”という命令が出ていることを私に伝えることはルール違反』ということだ。
……どういうことだよ、髭のおっさん。私ほんとになんであんなキレられたの。お世話した損失が出た下りはわかるけど、後半部については納得いかない。細かい理由を五十文字以内で教えて欲しいくらいだわ。
閑話休題。
三つ目、私の体は思った通りアルビノであると診断されていた。いわゆる色素欠乏症。
目に包帯巻いてたのは、言葉もよく分からん状態で注意したところで、日光直視して失明するルートに突っ走りそうだったからだそうだ。いや、一応言われれば注意できるよって言ったらば、ジュードは目を点にした。
そして、返した言葉は『子供の言葉は信じられない』だった。
私十九ですけど!?と叫んだ声はかなり遠くまで聞こえたそうな。そして、私、実は既に二十歳どころか二十一歳。いつの間にやら成人してました。納得いかない。
二十一歳であることをなんとか理解してもらった私は、あの老爺医者に私の体の状況を細かく説明してもらった。
それによるとただ単にメラニンが無くなっただけかと思いきや、メラニンを作るために必要な遺伝子が無くなっているらしい。原因はと問えばストレスと返ってきた。ストレスの原因は心当たりある。まぁ、十中八九化け物のせいだろう。
だが。
ストレスで、遺伝子変化って起きるんですね。知りませんでした。……ほんとか?
それはさておき、私の髪の毛と肌は一生真っ白、目は血の色(薄暗いと紫っぽく見えるらしい)。視力も以前と比べ格段に落ちた。これから生きていく上でUVカットクリームとUVカットサングラス、コンタクトレンズは必需品というわけ。すごく鬱陶しい。
四つ目、私がいたのは屋敷どころかガチモンの城だったということ。石造りの中世の城らしい。中身はバッチリ近代化しているが。
実際今いる厨房はシステムキッチン(オール電化済み)。そこで私は今ベーコンを焼いている。火力を調節しながらこれもI-Hだもんなぁと呟いた。因みに日本で有名な某メーカー。
こんなにも設備は整っているにも関わらずここはボスの住居というわけではないらしい。所謂別荘的なものだったらしいが、私の療養のためにわざわざここを改装したらしい。
正直意味わからん。
なんでここ?空気はいいかもしれんが、病院でいいじゃん。肺の病気じゃないんだから。病院でいいじゃん!
ていうか、なんでまず日本じゃない!なんで私はロシアにいる!?
そして、そのリフォーム代は誰が払うんですか!?私だよね!?ふざけんな!
……っはぁ。それはさておき。
五つ目、私がロシアにいる理由。それは、私が人身売買にかけられているのをたまたま見たボスが競り落とした、というもの。
……嘘だ。絶対に嘘だ。
今までのは、疑問が残りつつもまだ理解を示せたが、こればっかりは、絶対に!うそだっ!!!!
なんだよ、人身売買って。競り落とすって。オークションか!
そんな物語な世界あるわけない。
まず、日本からどうやって運び出すって言うんだよ。船か?飛行機か?いくら深夜だったとはいえ、それなりに人通りが絶えない街に私は住んでいた。いくらなんでも人間一人内密に運び出すのは無理ありません?
だが、ここにいる理由は他に思いつかないのも事実。……ガチであったりするの?オークション……。
これが、私が教えてもらった事実だ。たぶん嘘ばっかだろう。だが、イリーナ姐さんの報酬額を減らさないためにも突っ込まないようにしている。
イリーナ姐さん優しいから。問い詰めたらきっとすぐ答えてしまうだろう。
見た目は勝気美人なのに。中身は押しに弱い。ギャップ萌え。
私は焼けたベーコンと目玉焼きの乗ったフライパンを片手にパンを目指す。食パンの上にそっとそれを乗せれば……(ちょっと豪華な)ラピュ◯タパンの完成。それを行儀悪くも立ち食いしながら時計を見る。ジュードが部屋に来るまではもう少し時間があるはずだ。
私はいそいそと卵を取りに冷蔵庫へ向かった。
冷蔵庫を開けると仄かに暖かい。その中から卵を適当に取り出す。
諸々の準備を済まして、炊飯器をオン。今日はこいつを作るために米を諦めたのだ。
「だから、美味しくなってね」
言い残してキッチンを出る。
はぁと手に息を吐きながら自室へ向かう。誰にも合うことない廊下は冷んやりどころか凍える寒さだ。
本格的な冬を迎えたということだろうか。
手をさすさすしながら歩いていけば空から雪が落ちてくるのが見えた。寒いわけだ。
私は早足で部屋へ戻る。そこには既にジュードの姿があった。
「戻ってきたならそこ座れ、座学始めるぞ」
ソファに踏ん反り返って座る男の格好に眉を顰める。
「どうした?」
ソファに座ろうとしない私にジュードは片眉をあげる。
それに応えることなく私は、疑問を口にした。
「……寒くないの?」
「は?」
「だから、寒くないの?」
私はといえば、三枚ほど重ね着している。にもかかわらず彼はVネックのシャツ一枚だけだ。見てるだけでも寒い。なのに、彼はなんだと言いながら笑う。
「鍛え方が違うからな」
「そういう問題ではないと思うんだけど」
言い募ると、ジュードはしまったと呟いて、突然言葉を切り替えた。今日はドイツ語らしい。
はあ、と私はため息つきながら席に着く。
『なんでそんなため息つくんだよ』
『見た目、寒い』
ロシア語と英語と違い、ドイツ語はまだ一ヶ月しか使っていない。片言程度にしか話せない。にもかかわらずジュードはどんどん話を進めていくから気が抜けない。私は重要な単語だけを取り敢えず走り書きする。
今話しているのはドイツの保証制度について。昨日はギリシャの情勢について教わった。アテネ五輪の年から四年……いや、六年、ギリシャの情勢は少しずつ悪くなっているそうな。その前の日はユーロ経済について。正直何を言っているか分からんが、とにかく耳を傾け、分からないことは何度でも聞いて、がむしゃらに知識を集めた。
ルシアンは経済学について、イリーナは世界の流行について。
三人とも毎日みっちりと様々なことを教えてくれた。私も教わったことを無駄にしないよう努めた。
気がつけば、二週間が過ぎていた。
外はどんどん寒くなってきているけれど、三人とも優しくて、城の住み心地はよくて、覚えなければいけないことは沢山あって……毎日充実してる。
だけど、あの男に会ってから感じるようになったこのどうしようもない閉塞感は、消えるどころか日々酷くなって私の心を重くする。
唯一軽くなるのは体を動かしている時だけ。それを知ってか知らずか毎日ジュードが組手に誘ってくれる。曇っている日は外で、それ以外の日は屋内で(最近は雪が積もってきて毎日屋内だけど)。
私はどちらかと言えば脳筋野郎で、大学も運動神経で入ったようなものだった。
組手は楽しい。している間だけは何もかも忘れて集中できる。
しかし、ふとした瞬間に閉塞感に苛まれる。
例えば、お風呂に入っている時。ご飯を食べている時。廊下を歩いている時。そして、ベッドに入る時——
つい、考えてしまうのだ。家族のことを。友人のことを。——そして、これからのことを。




