一生の契約をしませんか?(中)
「私には的確すぎる脅しだな……」
「これが脅しになるというのなら……何故私を手放したのですか?どうして主様の手の届かないようなところへ私を追いやったのですか?」
顔を片手で覆って溜息を吐く主を私は今まで何度も見ている。大体が何か葛藤している時で、主は何かを断ち切るように一度二度と首を振り、やがて口を開いた。
「————を見たくなかったんだ」
「え?」
聞き取れず聞き返した私の上を主が掴んだ。
驚く私に構わず、主はその手に力を込める。痛くて少しだけ顔を歪めたが、すぐに取り繕った。
主はそのことに気付かなかったらしく、腕の力が緩められることはなかった。
そのまま主が話をし始める。
「……そうだ、私はお前の言う通り酷い男だ。自分の我儘を押し通そうとしたのだから」
主はそこで一度言葉を切ると、先ほどは聞き取れなかった言葉を今度ははっきりと告げた。
「お前が死ぬところを、私は見たくなかった。だからお前を先に手放すことにした……もう手遅れだったが」
主が私を手放した理由。それは思いもよらないものだった。
息を呑んで主をまっすぐ見つめる私を主は軽々と抱き上げた。
私は主の膝の上に座らされて、強制的に主と向き合わされる。
「何度も考えた……お前をずっと手元に置いておくことを。お前の気持ちなんて無視して、いつまでも膝の上に乗せておくことを……お前は私を好いていると知ったらその気持ちは更に強くなった」
「じゃあ……っなんで」
「お前は“いつまでも”なんて無理だろう!!」
至近距離で叫ばれて私は思わず肩を跳ねさせる。
「お前の言う通り、私は非道だ……自らの傲慢さを、お前のためと偽った!!全て自分のためだ!今だって私は自分のことしか考えていない!お前の幸せなんて少しも願っていない!!」
いつもは低く低く、這うような声で怒りを表す主が——滅多に声を荒げない主が、叫んだことに驚いて目を丸くしてその人を見つめ続ける。
「お前を籠の中に閉じ込められたらどんなにいいか。永遠に、お前がどこにも行かないように首輪を鎖で繋げられたら、どんなにいいか……!!」
そればかりを考えてる、と主は言った。
「私は貴方の側を離れるつもりはありませんよ……?」
「違う!お前はいつか必ず私を置いていなくなる!私の前から消えてしまう!私の行けないところへ行ってしまう!!」
責めるような口調。
不意に以前主に抱かれた日のことを思い出す。
あの時、主は『どの道お前は』と言った。その言葉に続くものを私はようやく知った。
何もかもが衝撃だった。
主が私を手放したのがエゴではなくただの我儘であったことも、私が死ぬ日が訪れるのを恐れているのことも。
「……私は人間ですから」
いつかは死ぬのでしょうねと答える。主の顔が分かりやすく歪むのが面白くて、嬉しくて、切なくて涙が出るほど笑う。
ぽろぽろと溢れる涙を主の指が拭った。その指を両手で包むと、そこにいる主に向かってそっと微笑む。
「……ですから、私に主様の子を産ませてください」
その言葉を聞いた時、最初主は異世界の言葉でも聞いたかのような顔をした。数秒経ってから見る見る間に大きく開いていく主の目。
「何を馬鹿なことを……」
私はその人の見開き切った瞳を見つめながら言う。
「私が死んでもその子がいれば、主様は一人ではないでしょう?」
「……それはお前ではない」
「でも私と同じ部分もあるはず」
数秒の見つめ合い、というよりは睨み合いを経て主は再び自らの手で顔面を覆った。
「そんなに嫌ですか、私と子作りするのが」
「そうではない……お前は知らないだろうが、吸血鬼の子を産む女は大抵が死ぬ。産む子にその体が耐えきれずに」
それを言う主の表情で、主が何故私に子供を産ませる気が無いと言ったのか分かった。
私を失いたく無いが故に主はそう言ったのだ。
自惚れているだろうか。
心の中で自問して、否と自答する。そんなことはないと思う。そうでなきゃこんな苦しげな表情を主が浮かべているはずが無い。
「大丈夫ですよ、私達にはルシアンがついているじゃないですか」
呆気からんと答えた私に、主の眉間の皺が深くなる。
「……どうしてそう楽観的なんだ」
「楽観的にならざるをえなくした原因がそれを言いますか」
「……」
無言になった主は自覚はあるらしい。
何度目かも分からない溜息を主は吐いた。
深く長いため息だった。
長いこと顔をあげない主が心配になって、控えめに呼びかける。
「……主様?」
「……そうじゃない」
……何が?
色々と足りなさすぎて察することもできない。
わけが分からず首を傾げていると、主は未だ悩んでいるといったような顔で口を開く。
「……オルトロスだ」
「え?『オルトロス』ですか?」
どういうことだろうと灰色の瞳を見上げれば、呆れたようなため息をつかれた。
「それが名前だ」
何の?
口にはしていないけれど、私の表情でそれを正しく読み取った主が長い溜息をつく。
「……旦那の名前も知らずに結婚するつもりか?」
それを聞いた瞬間、ズガンと雷が自分に落ちたような気がした。それだけの衝撃があった。
カッと目を見開いて主のことをガン見する。
旦那。名前。結婚。
どれに一番最初に反応すべきで、どれに一番驚くべきか、判断がつけられなかった頭がフリーズする。
「……おい」
主がひらひらと私の顔の前で手を振っているのは見えている。見えているのだが、それ以外のことで頭がいっぱいで反応できない。
「ハヅキ?」
「……本当に」
「……?」
「結婚……してくださるんですね」
瞬間主の眉がつり上がった。
「……お前」
「そんな怒らないでください」
無理やり取り付けた結婚だ。形だけになるだろうと思っていた。
だが主は結婚に前向きな姿勢を見せた。
しかも、本当の名前を教えてくれるなんて。
そのことが嬉しくてたまらない。
怒気を孕ませまくった主の声を手で遮った私は、それからにひゃりと相貌を崩した。
馬鹿になったかのように笑いが止まらない。
「……オルトロス様」
「……なんだ」
私の手を退かして訊き返す主はどこか投げやりだ。私のことを手に負えないとでも考えているのだろうか。
しかし、今の私には全く関係ない。
「ふふっオルトロス様」
「だからなんなんだ」
「オルトロス様」
「……」
頭大丈夫かって顔された。だがそんな顔されても全て全て嬉しい。主の名前を呼んで、返事が返ってくることが嬉しくて堪らない。
呆れを通り越して心配そうにしている主を尻目に、私は主の名前を呟いては笑うのを繰り返す。
「……ハヅキ」
「なんですか、オルトロス様?」
「…………呼んでみただけだ」
自分からやったくせに微妙に恥ずかしそうな主に愛しさが際限なく溢れてきて、感極まって思わず主に抱きついた私のことを、主はそれはそれは胡乱げな目で見つめていた。
早まったとでも言いだしそうな顔である。言わせないが。
それでも数秒後には呆れたように溜息を一つだけついて、私の白い髪を梳くように撫でてくれるのだ。
その手は優しさで満ち溢れている。
ああ、好きだ。
私はどうしようもなくこの人が好きだ。
何度同じことを再確認させられるのだろう。そう自問して一人苦笑する。
——きっと一生なんだろうなぁ。
分かりきったことだ。
主が私を抱き上げるたびに。
髪を撫でるたびに。
私はきっとそのことを思い出す。
真っ白い髪をくるりと指に巻きつけてその髪にキスを落とした主。
それから主は私を膝の上から下ろしてベッドの淵に腰掛けさせた。
どこかに行ってしまうのかと、不安を滲ませる私の前で主は突然床に膝をついた。
そして私の掌をとって、主の大きな手の上に重ねられる。
その瞬間私は何かを察した。
予兆のようなものだったし、女の勘でもあった。けれど、主は今、私に何かをしてくれようとしている。
自然と背筋を伸ばした私に主は真剣な顔で囁いた。
「私の妻になってくれないだろうか……?」
求婚の言葉を。
膝をついて。
手を取って。
顔を見上げて。
まるで私からの愛を請うような姿に頰が林檎よりも赤く染まる。
それが主の心からの言葉じゃないことは理解していた。
その言葉で頰を染めて頷く私の姿は、きっとチョロい女だと思われていることだろう。
それでも、主が本当はしなくてもいいプロポーズを、わざわざ私のためにしてくれたことが、本当に嬉しかった。
それは私のことを少しは考えてくれている証拠なわけで、つまり、滝のように流れる涙が止められない。
「……泣きすぎだ」
私の目元を拭う主は呆れ顔だ。微かに口元は笑っていたが。
「……嬉しいと泣いちゃうんですよ」
「気持ちよくても、だろう?」
それが何を意味しているのか理解した私はベシッと主を叩く。
叩いてから、やば……と、この先の主からの怒りに堪えるべく身を固くする。のに、主は「力がないな」と笑うだけだ。
その笑顔からは毒気というものがまるで感じられない。構え損だ。
ちょっとした気恥ずかしさを隠すために剥れてみせる。
「……そりゃあ一ヶ月も寝ていれば」
私のことを抱き上げてベッドに腰掛けた主は私の首元に顔を埋める。
「お腹でも空きました?」
「何処かの誰かが美味しそうなものを盛大に見せびらかしてくれたからな」
「……誰のことですか?」
わざとらしく惚けてみる。
「私の可愛い兎が」
「じゃあ、私ではないですね」
にんまりと笑う私のこしに主の手が伸びる。がっしりとしたその腕を私の体に巻きつけると「痛くはないか?」と主に聞かれた。
それに私は首を横に振ることで答えを返しながら、主の首の後ろで両手の指を絡める。
「オルトロス様?」
「……なんだ」
私は締まりのない顔で笑って、「頑張りますからね」と告げる。
「何をだ」
「なんでも。……頑張って、あなたのこと置いていかないようにしますから」
——主は私が知らないうちに私のことを鎖で繋いでしまった。私が知らないうちに、私のことを籠に閉じ込めた。だけど、主はそれを続けることができなかった。
哀れな兎に自由を。
そう言って主は籠の鍵開けた。繋いだ鎖は錆びさせた。
主は本当は私を放したくはなかったのに。
兎を籠の外に出さないことが、鎖を外さないことが彼の未練だと気付きもせずに、主は私を解き放ったつもりでいた。
ならば私は、主の願いを叶えよう。
主が籠を開けるというのなら、私は黙ってそこに座り続けよう。触れれば崩れる錆びた鎖で繋がれているというのなら、私は動かないでいよう。
「……だから、これからよろしくお願いしますね?旦那様?」
笑顔で告げれば主の腕に力が入れられる。
二人の顔が不意に近付いて、吸い付けられたように唇が重なる。
そのキスに私がしたような荒々しさはなく、優しさと愛しさが過剰なくらい含まれていた。
主の冷たい舌が私の唇をなぞる。
私は微かに口角を上げると、唇を綻ばせた——そんな時だった。
扉をノックする音が室内に響いたのは。
「まだかかりそうですか」
そう宣う声はくぐもっているが確かにルシアンの声だ。
それに主は舌打ちをする。私から少しだけ唇を離すと扉に向かって振り返る。
「……取り込み中だ」
そんな堂々と言うものじゃなかろう。
唖然としながら少し下にある主の顔を見下ろす。機嫌がよろしくないらしい。
言い終えてすぐ、今度は私の胸元に顔を埋めた主にペロリと肌を舐められた。そこにこびりついた血を舐めとるように、何度も冷たい舌が私の肌を舐めあげる。自分の口から出た小さな声で我に帰った私は、主の顔を押しやりながら慌てて声を上げる。
「なんも取り込んでない!取り込んでなんかないから入ってきて、ルシアン!!」
裏切り者を咎める視線が突き刺さる。
そ、そんな視線に負けるものか!
「さっき電話してルシアン呼んだの主様じゃないですか!呼んだ以上待たせてはいけないでしょう?」
「私の妻になったのなら……」
「まだ届けが出されておりませんので!」
契約はなされておりません、とは流石に言わなかったがその意図はきちんと読み取ってくれたようだ。
おかげで主の顔が怖い。
「後で覚えておけ……」
そんな台詞とともに私から手を離した主は、「入れ」と扉の向こうの人に言った。
「失礼します」
ルシアンはにこやかな顔で入ってきた。一瞬表情を強張らせたが、すぐに元に戻す。恐らく私の血の匂いに気がついたのだろう。
だが、すぐに平静に戻った辺り、昨日ぐらいに食事に行ってきたんじゃないかと思われる。
「ひと段落ついたみたいだからとりあえず検査させてもらうね」
その言葉でルシアンが、ずっと扉の外で待機していたことを知った。
全て聞かれていた事実に頰がカッと熱を持った。
が、ルシアンは私に構わず診察を始めた。
やっとくっつきおったーーー!!




