一生の契約をしませんか?(上)
目をパチパチと瞬かせながら、私を覗き込んでいたその人を見る。
その人は瞬きもせずに私の顔をガン見して、それから誰かに連絡した。
とりあえず状況の把握を……。
主が誰かと話している間に体を起こそうと腹筋に力を入れる。その瞬間言いようのない激痛が胸に走った。
体を縮こまらせようにも痛くて動けない私の頭に手が被さる。
「……まだ寝ていろ」
主の手だった。
私の顔面くらい片手で多い尽くせる掌が私の頭の形に沿って何度も上下する。
電話は終わったのか、主は椅子に腰掛けていた。その手にスマホの姿はない。
主の単調な手の動きが心地よく、目を瞑って堪能する。
気持ちよさに酔いしれていると、変に入っていた力が抜けていく。それと同時に胸の痛みも和らいでいった。
……和らいだのだが。
寝ていろというのは聞けない話だ。
その手をやんわりと押し返しながら私は起き上がる。やはり胸が痛い。
だが。
今寝るわけにはいかないのだ。
何とか私を寝させようと試みていた主だったが、私の意志が固いと見るや否や諦めて私から手を引こうとする。
先ほど押し返したことなんて忘れて、その手を両手で掴むと困惑したロマンスグレー色の瞳と目があった。
「主様」
私はゆっくりと、予め考えていた口上を述べる。
「私と結婚しませんか?」
その言葉を正しく理解した瞬間の主の表情は見物だった。
今、主の丸い目玉が下に落ちたとしても私は驚かないだろう。それぐらい主は目を大きく見開いた。
……はっきり言おう。驚きっぷりが凄い。凄すぎて、見るのをやめた時にはもう遅かった。
「ぶはっ……!くっ、あははっ……、うくっ、ははははっ、ふぅっ……あははははははは!!!」
腹を抱えて盛大に爆笑する。しかし、肋骨の痛みが思い切り笑うことを邪魔してくる。
痛みから逃げようとなんとか笑うのをやめても、思い切り噎せてしまって余計に痛い。
体を折って咳き込む私が緊急事態であることに気がついた主が、背中を摩って落ち着けとか言ってくれるけれど、笑いの元凶にやられても先程の面白さが蘇ってくるだけで落ち着けるわけがない。
爆笑しながら、シリアスモードとやらが霧散していくのを感じた。
それから暫くして笑いの発作が治まってきた頃。
ふぅっと息を吐いて顔を上げた私に主が声をかけた。
「……落ち着いたか?」
「顔を向けないでください。笑いがぶり返します」
心配してくれた主に向けて辛辣な言葉をぶつける。
「どうしろと言うんだ……」という彼の呟きには覇気がない。
「当分このままでお願いします」
「……分かったから早く話せ」
一瞬だけ部屋が無音になる。
「——っそうだそうだ、結婚の話をしてました」
ぽんっと掌を叩いて、自分の言葉にうんうん頷く。
「……忘れていただろう」
「なんのことやら」
意味もなく惚けながら、私の言う結婚の内容を教える。
「単純な話です。主様は婚姻届にサインするだけ。対価として私は主様に血をあげます」
どうですか?
簡単な話でしょう?
「…………婚姻を結ぶ必要はあるのか?」
たっぷりと間をとってから主はそう言った。うんざりとした口調は理解できないとでも言いたいのだろうか。
「勿論ですよ」
大仰な仕草で頷いてみせる。
寧ろそれがなければ私が損するだけだ。
「……何故結婚なのか聞いてもいいか?」
「そりゃあ貴方の側にいたいからですよ」
なんの飾りもつけないで、自分の心のままを吐露する。
主の顔自体は見ていないけれど、言葉に詰まったのが手に取るようにわかった。
二人の間を流れる沈黙がその証拠だろう。
もうそろそろ見ても大丈夫かなぁ……と主の顔を見上げれば、案の定そこには険しい顔をした主がいた。
主は私と目があったことに小さく驚き、それから眉を顰めた。
「……もういいのか」
「まぁ、なんとか」
主の顔を見ただけで爆笑するという無礼な振る舞いをしたわけだが、それに対するお咎めはなかった。
「主様は覚えていらっしゃいますか?」
「……なにをだ」
不機嫌そうな声を出したって無駄。
主の普段の怖い顔よりも数段怖い迫力ある顔を前にしても、恐ろしいなんて感情少しも生まれない。
その顔が私を慮ってくれた結果だって分かっているのに、怖いなんて思えるわけがない。
「以前主様は私におっしゃいましたよね、嫁き遅れたら嫁にもらってやる、って」
「…………言ったか?」
「私も忘れてましたけど、確かに」
まだ、ロシアの屋敷にいて、主が吸血鬼だって知らなかった頃だけれど。
主も思い当たったらしい。顰められた眉がそれを表している。
「私のことをその時にかわいいとも言ってくださいました」
「……言ったな」
「“かわいい”私のこと、もらっていただけますよね?」
「あれは——」
「冗談だったとは言わせませんよ?」
口元を引きつらせた主に満面の笑顔を見せる。
日本では口は災いの元っていう諺がある。一度口にしたことは取り消させません。
「私は主様と結婚して子供を産んでいつかお婆ちゃんになるって決めました。主様がその選択肢を作ったのですから、断るなんてしませんよね?」
「……私はまだ子種をやるとは言っていない」
「何をおっしゃいますか」
着ていたパジャマのボタンを幾つか外して首元を主の前へさらけ出す。
本能に正直なその姿に私は小さな笑いを零す。
「今だって生唾飲むほど私が欲しいのでしょう?手が勝手に動くほど欲しているのでしょう?そんな状態で私を抱かずにいられるのですか?」
「……なんのための避妊だと思っている」
「避妊なんてさせませんよ?」
何言ってんだと言わんばかりの顔で告げる。
「主様が精子を下さらないというのなら私も貴方に血をあげません。もう貴方の僕ではないのですから、対価を望むのは当然のことでしょう?」
「………………嫌な奴だな、お前は」
「私のこともらってくれますよね?」
にっこりと。無言の圧力をかける。
この時、私は自分の勝利を確信していた。
なになに?悪女だって?……はん、好きに呼べばいい。手段を選んでいて不幸になるのは真っ平御免だ。
もうここまでやってしまったのだ。ここまで足掻いたのだ。それで幸せを掴めなかったら私の今までの苦労はなんだったのかという話になる。ここまでやったからこそ諦めるという文字はない。なんとしてでも幸せとやらを掴み取ってやる。
笑顔で主の返事を待っていた私は、しかし、主の返答に顔を凍りつかせる。
「……餌はお前だけじゃない」
——あろうことか、主は代替品がいる発言をしたのだ。
かあっと全身の血が沸騰したかのように熱くなる。怒りが全身に満ちている。
あんなにも私の血に執着していたくせに。
私の血以外はいらないとか言っていたくせに。
わざわざ一週間もかかるような大掛かりな術をかけてまで私の匂いを隠したくせに。
それなのに、私以外を餌に選ぶっていうの?
……冗談じゃない。
ふざけるなと思った。
私が歳を取り、血が劣化したというのなら仕方ないとも思う。だが今の私はまだ二十代で、そこまでマズイはずはない。
それらの鬱憤全てを悪意で包んで返す。
「私以外の血で満足いくというのですか?貴方が?……冗談は口だけにしてください」
高い声で笑う。
「……まぁ、私以外の血で満足しているというのならそんな酷い顔はしてないと思いますけどね?」
負け惜しみも忘れない。……いや、まだ負けてないから負け惜しみじゃない!……はず。
さぁ、どう出る?と笑みを湛えたまま主を見据えた私は、やっぱり顔を凍りつかせることとなる。
「……それも致し方ないな」
鼻に皺が寄った。眉根にも。恐らく額にも。
私は今、最高に不細工な顔をしているだろう。
主の返答が彼の強がりだとは分かっていた。何故って頻りに私の首元を見ているから。本当は今すぐ飲みたくて仕方ないのが手に取るようにわかる。
だからこそ、そんなことを嘯く主が腹立たしい。
「……何故そんなにも頑固なのか伺ってもよろしいですか?」
募るイライラを前面に押し出しながら問いかける。
主はその問いに答えるのは早かった。
「お前が不幸になるのを私は望まない」
もう我慢ならなかった。限界も限界。
言葉にならない激情を吐き出すかの如く、私は寝ているベッドを思い切り殴った。
「——私が不幸だと勝手に決めつけないで!!」
吼えた。それが一番合う言葉だと思う。
私は主に向かって吼えた。
主人に牙を向ける駄犬のように。
冷静でいたかったのに、我慢の限界はとうに越えた。というか、主に放り出された日から越えっぱなしだ。
それなのに、主が未だにそんなことを言うもんだから、平静を保とうとして心に纏わせていた鎖は一瞬で砕け散った。
「馬鹿にしないで!自分のことぐらいっ……自分が一番分かってる!!」
「……お前は分かっていない」
「なにが!?何が分かっていないっていうの!?私は、主様の側にいられるだけで幸せなんです!主様のお役に立てれば幸せになれるんです!!」
幸か不幸かなんて他人が決めるものではないはずだ。
他人が不幸だと言えば不幸になる、というものではない。自分の心の有り様で全てが決まる。
「私が分かっていないことって一体何!?私は貴方の餌でしかないこと?いつか貴方が老いた私を捨てること?それとも貴方よりも先に醜く老いること?子供を産むこともできないこと?一生誰にも愛されないこと?……っ、貴方に愛されないこと!?」
「それだけ分かっていてお前は私の元にいることを選ぶのか?」
「それでも選ぶって言ってんでしょ!前から、ずっとずっと!!」
高ぶった感情は治らずに更に体は熱くなっていく。
いきなり手を伸ばした私に主は驚いたのか少しも動かない。その主の胸ぐらを掴んでベッドの上で膝立ちしていた私の元へ引き寄せる。
「何をそんなに渋ってんの?貴方は私の血を求めていて、私は貴方のそばにいることを求めてる。それだけで一緒にいる理由にはならないっていうの?」
「それがお前の不幸になると言っている」
此の期に及んでまだ言うのか。
怒りで目の前が真っ赤に染まった。
「————何度も言わせないで」
私はその時自分から初めて主にキスをした。
触れ合うだけの簡単なものじゃない。とびきり濃厚なキス。
それは私の血の味がした。
何故なら私はわざと唇を噛みちぎったから。
主は目を見開いた。私はそれを近距離で見続ける。
それでも唾液と一緒に自らの血を舌に乗せて主に流し込むことは止めない。
主の呼吸が荒くなってもその行為はやめなかった。
動かない主の舌を嬲って私の血を嚥下するように促す。舌を絡めて、奥へ奥へ。
主の首に添えた手の下で、張り出た喉仏が上下に動いたのを確認してから私は口を離した。
二人の間に伸びた糸がぷつりと切れる。
ふと下を見やれば垂れた唾液がシーツにシミを作っていた。それも結構な量。
白いシーツに落ちた赤色。
それは前に見たものよりも大分薄い色をしていた。
「……どうしたの?」
柔らかな笑みを浮かべながら主の胸にしなだれ掛かる。
顎を熱い液体が伝っていく。
それは首を伝い、あるいは雫となって服やシーツに赤い染みを作っていく。
私にはただの血液。
しかし、主にとっては甘露のようなもの。
甘くて、甘くて、一度味わってしまったらそれ無しには生きられない、とびきりの麻薬のようなもの。
「……それだけじゃ足りないんでしょ?」
主の喉が上下に動く。
「欲しいんでしょ?私の血」
我慢する必要なんてないのだと、両手を主に向けて広げる。
「頷いてさえくれればいくらでもあげますよ?」
主の目は私の地に釘付けだった。だが、主は一向に頷こうとしない。
私は一つため息を吐くと手を下ろしてから主を呼んだ。
「貴方の好きにすればいいじゃないですか。貴方の思うままに私を好きにすればいいんです。私も自分の好きにします……それじゃあダメなのですか?」
「……ダメだ」
本当にこの人は頑固すぎる。
頭突きでもすれば少しはかったい頭も柔らかくなるのだろうか。
「ですが、貴方に連れて行ってもらえないのなら、また私は自分を危険にさらしますよ?貴方に会うためだったら。何度でも」
今回で嫌という程思い知ったことだろう。私の無駄な行動力を。
昔は私だってこんな人間じゃなかった。
すぐに諦めるような、諦めてその状況を受け入れるような——間違っても状況を変えようと足掻くような人間ではなかった。
それを変えたのは主だ。
次回、痴話喧嘩決着




