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私と賭けをしませんか?(下)

前回言ったように短いです

残酷表現入ります


 暗闇の中で聞いたその音が自分の首か、舌か、どちらから鳴った音だかわからなかった。

 前にもあったなこんなこと、と巡らない頭で考える。あの時も確か死を覚悟していた。

 それで私は呟いのだ。おばあちゃんになってから死ぬと思っていたのにな、と。

 そこで息を一つつく。盛大に笑ってやりたかった。未だに馬鹿なことを考えている自分を。

 同じことを呟けばあの人が助けにきてくれるのではないかと、愚かなことを考える自分を。

 賭けに負けた敗者は死ぬしかないっていうのに。



 しかし、一向に訪れようとしない終わりが不可思議で、私は再び目を開けた。目を開けて自分が目を開けられることに驚いた。

 そして、私はとんでもないものを目にしてまた驚いた。


 無い。首が。……無い。

 目の前にあるはずのあの女の首が。

 衝撃的な光景に私は口が開いた。それと同時に私の口から何か出た。

 目だけ動かした私はその白いものの正体に気がついて絶句する。

 その白いものは私の視界を覆うかのように動く。だが、微妙に覆いきれていないことにその人は気付いていない。


 ——どうしてそれが。


 なんとか理解をしようとしていると、私の頭を掴んでいたβの手が弛緩して髪から離れていった。同時に彼女の体が弾けて、その下にいた私は諸に血を浴びた。

 自分の顔には筋張った大きな手があっておかげでかかることはなかったが、きっと私のスーツは散々な状態だろう。


 だが、私は服の状態を気にかけることもなく、ただただ呆然と、僅かに空いた隙間からその手の主を眺めていた。

 血液どころか色々と口に出せそうも無いものに腕を塗れさせた男が一人。地面に倒れている私の横に座っていた。

 男が血糊を払うようにその腕を振れば、付着物が床に当たってびちゃっと音を立てた。


「あるじ、さま……?」


 私の声が聞こえたのか主はその大きな手を退けて私の顔を覗き込む。血塗れの手を自らのスーツで拭って——それ、私の安物のスーツと違ってすごく高いのに——から私の頰を撫でた。

 きっと血塗れで涎まみれでぐちゃぐちゃの顔を、慈しむかのように。

 その手に歯型がついていることに気がついて、私が噛んだのは主の手だったことに気がついた。

 その瞬間涙が溢れてもともとよく見えなかった視界が閉ざされる。

 手探りで主の腕を掴もうと持ち上げれば、主は私の腕を支えるように取ってくれた。私はその腕をぎゅっと握りこむ。もう絶対に離さないとでも言うように。



 ——会いたかった。

 

 血が喉の奥に詰まってるせいでちゃんと言えなかった。だけど、主はちゃんと聞こえたとでも言うように背を丸めて私の頭を抱きこんだ。


「……すまない」


 主は私を解放した日と同じように謝った。しかし、今はそれを聞いても前よりは不安にならない。


「……痛いか」


 主の問いに僅かに顎を引く。

 もう“痛い”というレベルはとうに超えていた。酸素が足りないと言うように口は忙しなく呼吸を繰り返すのに、すればするほど苦しくなって、心臓を締め付ける圧迫感は強くなっていく。

 視界にもチラチラと光が瞬き始めていた。

 私の焦点が彷徨っていることに主も気付いたのだろう。


「——ルシアン!!」


 すぐに主が叫んだ。その声には焦燥感が強く滲んでいる。

 間髪入れずにルシアンが飛んできて私の顔を見た。その口から白い牙が僅かに覗いていたのが見えた。


「死ぬ気で抑えろ」

「……承知しております」


 そのロシア語がひどく懐かしく感じた。

 ルシアンが私の脇に座り込む。ルシアンの瞳がいつもと違ってギラついていたが、それに恐怖を感じることが無いのは頭が麻痺しているからだろうか。それとも現実を直視できていないからだろうか。

 ルシアンは私の体を、特に胸元を見て眉根を寄せる。そして何かに気付いたのかハッとする。


「……まさか、肋骨が?」


 首を微かに動かして頷く。私の胸は誰の目にも明らかなくらい、膨らみすぎていた。


「どっち!?」

「たぶ、ひだり……」


 刺さってると血を喉に詰まらせながらそう言うと、ルシアンの顔色がはっきりと変わった。


「——今すぐ病院へ!急がないと間に合わない!!」


 私のことをずっと見ていた主がその言葉を聞いて弾かれたように私から離れる。腕が離れていく感触に私は呻いたけれど、主が戻ってくることはなかった。


「ノエルは救急車!」

「……え、」

「日本語できたよな!?緊張性気胸って言え!!」

「わ、わかった!」


 破るよ、という声の後にルシアンが私の服を噛んだ。何を、と思う間もなくスーツが引き裂かれる。吸血鬼の意外な牙の使い方に驚いた。

 ルシアンは私の胸を少しだけ押すように触って、最悪なものでも見つけてしまったかのような顔をする。


「くそっ……!!おそらく肺が潰れてる!」


 ルシアンらしからぬ乱暴な物言いだ。

 スマホを耳に当てるノエルへ細かく指示を出していくルシアンも、動揺は大きいようで指が細かく震えているのが見えた。

 やがて聞こえてきた怒鳴り声で、主もどこかに電話をかけていることを知った。

 その間も胸の苦しさは収まらない。この苦しみは主への恋情からではなかったのかと今更ながら気がついた。

 ルシアンは私の顔を見ながら、あれがあればまだ……と呻く。


「とにかく体は動かさないで。深呼吸もしないように。苦しいかもしれないけど……」


 分かったと頷きたいのに、さっきから意識が朦朧としてしまってダメだ。

 ゆっくりとルシアンの声が遠のいていく。

 ルシアンの焦ったような声を最後に意識が途切れた。




——————…………



 気付いたら私はそこにいた。

 あ、と思う。

 これは夢だ、と。

 何故って私はまた、叢の前にいるから。

 ぼんやりと背の高い草を見上げる。

 

 ——いつ、来るのかなぁ。


 黒い獣はいつもそこから現れる。

 だから今日も、とそこで獣が来るのを待つ。

 しかし一向に、その叢の向こう側に気配を感じない。

 今日は来ないのだろうか。

 立っているのに疲れて地面に伏せって手の上に顎を置くと、ふかふかの真っ白な足が見えた。

 ……そこは真っ白で黒なんて見当たらない。黒くないんだよなぁなんて、当たり前のことを思う。

 当たり前のわけがないのに、黒はもともと私の色だったはずなのに。


 いつから私は真っ白でいるのが当たり前になってしまったんだろう。

 今更考えても意味のないことを考える。暇だからか、どうでもいいことばかりが頭を通り過ぎては消えていく。

 本当はもっと考えなければいけないことが沢山あるはずなのに。でも何を考えなければいけないのか分からないから、ぼんやりと思いつくまま適当に考えてみる。つれづれなるままに、ひぐらし硯に向かいてってね。

 しかし、待てども待てども待ち人は現れない。……いや、待ち人、待ち獣?待ち吸血鬼?

 総じて語呂が悪いなぁとか思いながら土の上にゴロンと転がった。

 真っ暗な空に浮かぶのは月だけだ。星も雲も、虫も何も。

 月は穏やかな光で兎を包む。その中で白いウサギは目を閉じた。



 そのまま伏せした状態でどれくらい経っただろう。寝ているような、起きているような微妙な感覚の中で、私は一つの音を聞いた。

 耳をピクンと動かしてそちらを窺う。そこに何かがいるのは明らかだった。

 顔を動かして揺れる草を見上げる。誰かが来た。それは理解していても私はそこに飛び込まなかった。

 草根を掻き分ける音が不意にやんで。私はそれと目があった瞬間に、それとは反対の方向に駆け出した。

 必死に手足を動かして跳ねながら最初にこの夢を見たときのことを思い出した。

 最初もこうやって逃げた。あの時と同じで後ろから聞こえてくる音は次第に大きくなっていく。

 その時は捕まったけれど、黒い獣がそれを追い払ってから私を喰べた。それを思い出して一瞬足を緩めそうになった自分を叱咤する。

 今捕まっても主はきっとこない。

 私は賭けに負けた身だから。

 だからずっと待っていたのにあの獣はこなかった。

 私が賭けに負けたから。


 今後ろから迫るあいつに捕まっても私はそいつに喰われるだけだ。主に喰べてもらえはしない。

 なら逃げ切るしかない。


 私は必死に駆けて駆けて駆けて——突然開けた場所に出た。

 そこは沼だった。

 落ちそうになる寸前で足を止める。

 真っ黒で澱んでいて、とてもじゃないけど底が見えない。もしかしたら底自体最初から無いのかもしれない。

 波紋一つない水面に月が一つだけ写っていた。それがあの人の色彩と同じで、後ろから迫るあいつに捕まる寸前、私はそこに飛び込んだ。

 ただの一瞬も迷わなかった。

 真っ黒で銀色の月が水面に写っているその沼はまるであの獣のようで、この沼にならいくらだって沈んでもいい。この水に喰らわれて骨だけになっても気にならない。むしろそんな最後も悪く無いと思う。

 私は賭けに負けて、あの狂った女に喰われるところだった。それに比べたらこんな最後は痛くもかゆくも無い。主様の色彩に包まれて眠れるのだから。


 軽い体がずぷりずぷりと沈んでいく。自分の真っ白な毛皮が真っ黒に染まっていく。それを見ながら残念に思う私はもういろいろとおかしい。

 だってこの中に沈んでいくことが気にならない。真っ白な毛皮を失うことを悲しく思っている。

 黒はもともと私の色だったのに。いつから私はこの白を気に入ったのだろう?

 


 ずぶずぶと沈んでいく自分の体で、水面の下にないのは腕一本。頭はとうに沈んだ。

 そんな私の腕に何かが触れた。

 同時にざばりと水面上に持ち上げられた私の体。


 ——ぱちりと目が開いた音がした。

 きょとんとする私が月色の瞳に映っていた。


 その瞳に映る私は、兎なんかじゃなく人間だった。




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