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やんなっちゃうよね、ほんと

今回はノエル視点&結構長いです_:(´ω` 」∠):



「ねぇ、父さん。葉月がβに連れて行かれちゃったんだけど」


 ——どうするの?


 高級ホテルの一室で、父さん達を前にそう言った僕は、父さんに殴られることを覚悟していた。

 そうなるだろうとハヅキから頼まれ事をされた時から理解していた。けれど、それを承知の上で引き受けた。

 確かに、この——父さんとハヅキの関係が拗れ切ったどうしようもない状況を打開するにはそれなりに破壊力のある事件が必要だと思った。めんどくさいと思いつつも、そう思わされてしまった。それが僕の敗因だろう。

 あの子の頼みじゃなかったら、こんなめんどくさいこと絶対に引き受けない。



 父さんとルシアンはそれを聞いた瞬間、二人ともほぼ同時に目を見開いた。

 ルシアンはすぐに怒りの声を上げた。それを見ていながらみすみす連れて行かせたのかと。

 僕は悪びれずに頷く。

 ……本当はみすみすじゃないけど。がっつりハヅキのことは見張ってたけど。

 βに気付かれないようにしながら二人のことを追いかけるのは骨が折れた。離れすぎたらいざという時にハヅキのことを助けられないから、βに気付かれない限界ギリギリの距離を保って追いかけた。

 二人が海辺の古びた倉庫に入っていくのを見てすぐ僕はトンボ帰りして、父さん達のいるホテルに来た。

 ハヅキのお願いを果たすために。



「——だって、関わるなって父さんが言ったから」


 しれっと。

 それが父さんの心からの言葉じゃないとあの時その場にいたルシアンは知っていた。勿論、僕も知っていた。……父さんだけは心からの言葉だと思っていたようだけれど。


 そんなわけで、「だから父さんの言うことを純粋に守りましたよ」って顔して、僕はそういった。寧ろ偉いでしょ?って顔で。

 父さんは何も言わなかった。言わなかったけれど、父さんの腕の筋肉が膨張して強張ったのが見えた。

 そのまま殴られるんだろうなと、このあと僕の頰を襲うであろう痛みを想像した。すぐに治るとはいえ、神経は通っているのだから痛いものは痛い。

 しかし、予想に反して何も痛みは与えられなかった。

 父さんの体は怒りで打ち震えていたけれど、僕を殴ることはなかった。

 僕はそのことに少しだけ安堵し、さらに感心する。——ハヅキの予想した通りだったからだ。



 ハヅキは何度も僕に確認した。本当に父さんからハヅキのことに関しての命令も頼みも下されていないのか、と。ハヅキの身辺について父さん達に報告の義務は無いのか、と。

 最初は関心が無いことにショックだったのかなと思った。けれど、ハヅキはそれを四、五回確認した後……ニヤリと笑ったのだ。何かを企む顔だった。

 そしてハヅキは僕にとんでもないことを頼んだ。


『βに襲われても助けないでほしい』


 それがハヅキの頼み事だった。

 聞けるわけがない。僕はすぐに反対した。

 父さんは僕に『ハヅキに関わるな』って言った。本当は心配で心配でたまらないくせに。側から離したくないくせに。ハヅキの無事を確認して安堵したいくせに。

 そもそも、ハヅキを日本に返すために数年前から、“日本から吸血鬼を根絶する”のを実行させるほど過干渉しておいて、何が関わるな、だ。とっくのとうに手遅れだよ父さん。

 実際僕が日本に行くことに一番安堵したのは父さんだ。僕が日本に行くことを告げた時、一度だけほうっと息を吐き出した。それが安堵のため息じゃなければ一体なんだって話だよね。すぐに取り繕ったけど、流石に長年一緒にいた僕を欺けるはずがない。

 僕は父さんの本音(・・)に頷いて、あえて(・・・)忠実に行動した。しかし、それを父さんは知ることはない。ハヅキを心配しすぎて少しだけ、後悔すればいいのにと思ったことは内緒だ。



「一応、どこに向かったかは確認したけどね」


 父さんはその言葉にハッとしたように顔を上げた。微かな希望の色が見える。

 分かりやすい。分かりやすすぎるよ父さん。


「……でも関わっちゃダメなんでしょ?」


 僕の指摘にぐっと喉に何かを詰まらせたような、そんな音を出す父さんに敢えて冷ややかな目を向けた。

 父さんはハヅキに関わると途端に愚かになる。ハヅキの近くにいた一年半で僕が学んだことだ。兄さんも、イリーナもルシアンも、ハヅキの側にいたメンバーは全員が気付いていることだ。

 気付いてないのは父さん本人のみ。



 ハヅキはとある女と話をしてから変わった。というよりは前に戻った。父さんのそばにいた頃のように生き生きとした瞳は、赤い艶めきを一層増していた。

 中学生の頃の面影を残した女とハヅキを、遠くからその様を眺めていた僕にはどんな話をしたのか分からなかったけれど、それが彼女にとっていい話だったのは誰にだって推測できたと思う。——実際は全くいい話じゃなかったのだけれど。

 そして、ハヅキはある計画を立てた。正直賛成しかねる危険な計画だった。ハヅキが入浴している時に聞かされたが、大声を出してはいけないことも忘れてダメだと叫んだくらいだ。


 彼女が考えたのは、父さんがすぐに助けに行ける状況で、βにわざと攫われるというものだった。


 どうやらあの女子高生からβが日本にやって来ていることを聞いたようだった。

 僕でもまだ気付いてなかったのに。女子高生に対する好奇心が膨らむのはわかったが、ハヅキの頼み事の前ではその探究心もあえなく潰れる。

 それを聞いてすぐに思ったのは無謀すぎるってこと。ハヅキの目的が何なのか分からないことはとりあえず置いておいてとにかく反対した。

 βに攫われるなんて、そんなの自ら死にに行くようなものだ。

 それに僕が反対するのは彼女はただの人間ではなくパラヴィーナであるってこと。

 パラヴィーナは吸血鬼の毒に抗体を持っていた人間が半吸血鬼化した場合の呼び方だ。

 彼女は自分がパラヴィーナだからこそ、噛まれても失血死にのみ気をつければ平気だと考えたようだが、それは違う。

 パラヴィーナが元々持っていた抗体が、抗体として機能するのは最初の一度だけで、半吸血鬼化した時に全くの別物に変化してしまうようなのだ。つまり抗体としての機能を果たさなくなるのだが、更に厄介なものになるところが問題だ。

 吸血鬼の毒が心臓に回った時、パラヴィーナの持つ元抗体は過剰反応を起こし、場合によっては心臓を止めてしまう。その原因は未だ究明されていない。

 噛まれてすぐならば心臓に達する前に吸い出せるので問題はない。それに全員が全員心臓が止まるわけではない。少ないながらも再び体内に毒を入れたことで運良く完全な吸血鬼になれた者もいる。

 だが、ハヅキがその幸運な存在でなければ?もし、助けに入るのが遅かったせいで心臓に毒が達してしまったら?

 ハヅキは失血死するよりも前に死ぬことになる。


 そのことをハヅキには伝えた。ハヅキは驚いたのか数秒無言になったが、それでもその計画をやめさせることはできなかった。


『ノエルは私が攫われたら私の居場所だけ確認して、主様のとこに判断を仰ぎに行って欲しいの。で、ちょっと揺さぶって欲しい。助けに行きますか?行きませんか?って。行くなら行くでどうしてそんなに必死になるんですか?みたいな』

『なにをそんな悠長な……』

『悠長じゃないよ、必死。これぐらいやらなきゃ主様の本当の気持ちは分からないだろうから』

『……ほんとうの気持ち?』


 そうだよ、とハヅキが答える。ちゃぽんとお湯の跳ねる音が聞こえてくる。


『というかハヅキの危険を見逃したってことで今度は蹴られるだけじゃ済まないと思うんだけど』

『私に関わるなって言われてんでしょ?だったら問題なし。それで蹴ることはないよ。前の時に散々非道いって言ったし。で、そんな質問しても行くって言ってくれるようなら連れてきて欲しい』

『……そんなことしてる間にハヅキが死んじゃうよ』

『そうならないために、ノエルにはβを見に行って欲しいの』

『……どういうこと?』


 理解のできない僕にハヅキは、もう私には興味ありませんよって(てい)をして欲しいのだと話した。

 ただ、偶然出会ったみたいな感じで。今までみたく見つけた瞬間に敵意を剥き出しにしないで、興味なさげに見てそれから背を向けて去って欲しいらしい。


『……それが何になるの?』

『時間稼ぎになると思う。βはどちらかっていうと苦痛に旨味を見出す方でしょ。たぶんね、誰も邪魔する奴がいないって分かったら私のこと散々甚振ってから喰うはず』

『それだとハヅキが怪我するじゃん!』

『これぐらいのリスクはないとね』


 ——彼女はこれを賭けだと言った。

 自分の命を使った一世一代の大博打だと。


『ノエルの演技力にかかってるから、全身全霊であいつの警戒心を奪ってきて。追いかける時も絶対にバレないように。ノエルならできるでしょ?』


 そんなこと言うなんてズルいと思った。


『だいぶ無茶だって分かってる……?』

『ネジ吹っ飛んでるくらいは自覚してるよ』

『……ハヅキが考えたように行くわけないって……そもそも助けに行かない可能性もあるって、ちゃんと分かってる?ハヅキは父さんに捨てられた身なんだよ?父さんがわざわざ捨てた人間を助けに来ると思う?』


 わざと厳しいことを言った。諦めさせるために。できればそんな危険にハヅキを晒したくなかったから。

 だけど、ハヅキの意思はとても固かった。


『分かってる』


 ハヅキの顔はシャッターに遮られて見えないけれど、たぶん笑ってるんだと思う。


『でも、主様が助けにさえ来てくれれば私は幸せになれる。やるだけの価値はある……助けに来なくても、それで私は主様のこと諦めることができるから』


 どの道必要なことなの、とハヅキが言って水音がした。湯船から上がったのだろう。

 もう話を切り上げるつもりなんだ。


『……というか、βがこのタイミングで攫いにくるかどうかも疑問だよ?』


 最後の足掻きでこの計画の一番の問題について訊ねる。父さん達がいないならいざ知らず。計画決行時には、日本にいるって話じゃないか。

 注意深いβなら出てこないんじゃないだろうかと。

 しかし、ハヅキは『とっくのとうに注意深さなんて捨ててるよ。βは』なんて言う。


『なんでそんなことわかるの?』

『一回姿を現したら数十年姿を隠してきたβだよ?そええがこんなほとぼりも冷め切らない数年でやってくるなんて、どれだけ私の血は魅力的なんだろうねぇ?』

『……父さんがいないから絶好のチャンスだと思ったとか。ハヅキの言う通り父さん達が日本に来るって言うんなら、警戒しちゃうんじゃないの?』

『そしたら喉元掻き切って誘ってやる。今だって主様の術のせいで私が見つからなくて焦れてるはずだし、そんな時に大量の血嗅いだら抗えないでしょ』


 本当にやりそうで恐い。


 それからも色々と問答はしたが、結局僕は大穴の開いたその計画に頷いた。確かに、父さんが自分の感情に気付くためには、崖から足を一歩踏み出す程度のことは必要なのかもしれないと思ってしまったのが原因だ。

 ハヅキを日本に返す時、一緒に日本へ行った僕に父さんが言った言葉が『ハヅキに関わるな』だった。……まぁ、すぐに破っちゃったけど。どうせバレないから問題ない。

 どうしてそんなことを言うのか理解はできるけど、同意はできなかった。

 それが父さんの本意ではないとバレバレなのだから余計にだ。

 今だって、今すぐ彼女の元に行きたくて行きたくて仕方がないって顔している。なのに、建前が本音を邪魔している。

 そんな顔するくらいなら、最初からハヅキを手放さず、大事に囲っておけばいいのに。

 ハヅキの事情なんて無視すればいいのに。

 彼女のために身を引くなんて、どこの悲恋だって話だ。

 父さんは建前を本音だと思っているようだけれど。


 ほんとやんなっちゃう。

 自分でそんぐらい気付いてよ、めんどくさい。


 なんで三千年も生きてる人の恋愛にこんなやきもきしなければならないのか。めんどくさい、めんどくさすぎる。


 僕らは恋をするための方法は覚えていない。

 が、他人が恋をしているかどうかぐらいは、分かるのだ。

 ハヅキはあんなにも父さんにベタ惚れで、父さんに向ける視線は熱いものがある。

 そして、ハヅキに対する父さんの視線の中にも同じものが混ざっていることに気付いたのはかなり前だ。

 僕が気付いたのは、思いっきり蹴られた時。あの時父さんに蹴られながら、まさかと思った。

 監視対象のハヅキのことを僕はよく見ていて、ハヅキの父さんに向ける視線に気付いていた。その瞳に込められた感情が何かは分かっていた。

 ハヅキを監視しながら、彼女の気持ちは報われないのによくやるなぁと思ったものだ。それが間違いだったとあらゆる意味で蹴られながら気付いた。

 すぐにはその事実が受け入れられなくて、ハヅキにめんどくさい態度を取っちゃったけど……。

 外野も父さんがハヅキに恋していることに薄々気がついている。

 皆散々あり得ないって思ってきた。考えた。だって僕達は吸血鬼。人間が餌で、餌に恋をする生き物なんていない。餌に恋なんてしたら餓死するしかなくなるから。

 ありえないと思いながらも、父さんの行動が“いかにも”すぎてその可能性を否定したくてもできないのだ。

 吸血鬼は元が人間だから。余りにも餌と自分達が似過ぎているから、神様が僕ら吸血鬼って存在を作った時に“恋”っていう感情を消したんだって昔々にあった吸血鬼が言ってた。

 けれど父さんの行動はハヅキに恋してるからって考えなければ説明がつかない。それだけ吸血鬼としてはあり得ない行動ばかりしてきた。

 なのに父さんはそのことに気がつかない。自分の事であるが故に父さんは自分の感情に気付けず、常に蚊帳の外にいる。


 でも、僕は気付いてしまった。

 父さんの幸せにつながるかもしれない可能性があるのかもしれないってことに。

 その可能性がハヅキも幸せになれる可能性を作ることに。

 僕にとって、少しの優越はあれど、どちらも大切な存在で、同時に幸せになる方法があるのならば、そうなってほしいと思う。

 要は必死のハヅキの助けになりたくなってしまったわけだ。

 けれどそれはほんとに僅かな可能性で、それを希望と言うのには勇気が必要だ。けれどハヅキは真っ向からその可能性を掴みに行った。

 強いと思った。父さんがハヅキを日本から連れ帰った時、あいつは強い奴だって言ったのが今ならよく分かる。

 だから、ハヅキの言う賭けに、僕は乗った。




 僕は冷ややかな表情は崩さず、しかし、影では早く助けに行くって言ってよと父さんを詰っていた。

 父さんが焦っているのはよーーーーく分かる。見てれば。だけど、僕だってそれは同じだ。内心では同じくらい焦っている。ここに来るのに五分も使ってしまった。それだけあれば、両手足を折ってもお釣りがくる。

 ああもう、焦れったい!めんどくさい!

 こういう時は一度引いてみせるのがいい。


「一応報告しに来ただけだから、僕帰るね」


 踵を返した僕の腕を咄嗟に掴んだ人がいた。

 父さんだ。

 

「……助けに行く」


 だから、案内しろと僕の腕を掴んだまま父さんは言う。その声に焦りが混じっていることに父さんはきっと気が付いていない。自分では冷静なようにみえているぐらいには思っているはずだ。


「どうして?もう関わらないって決めたんじゃないの?」

「……知ってしまったら行くしかないだろう」


 ズルい言い方だ。ルシアンも眉根を寄せた。この期に及んで……って顔だ。

 僕もそう思った。だから言ってやった。


「……それでまたハヅキを置いていくの?」


 父さんがはっきりと刺されたような顔をした。

 それが今の僕には無性に腹立たしかった。


「置いてかないでって泣くハヅキを放って行くなら、助けないでこのままの方がいいんじゃない?変に希望を持たせるより絶対にそっちの方がいいと僕は思うけど」


 はっきりと反抗の意を述べた僕に、父さんは眉を釣り上げる。だけど、今の僕には全く恐くなかった。


「父さんがそうやってハヅキにヒドい真似するなら、ハヅキは僕が連れて行くから。邪魔しないで」

「……それは」

「ダメだって?なんで?手放したのは父さんじゃん。もう父さんの餌じゃないじゃん。僕の餌にしたって構わないでしょ?」

「……お前には無理だ」

「なんで?気持ちよくできないから?別に気持ちよくさせなくたってハヅキは甘いいい匂いがするし。それに方法なんていくらでもあるし」


 例えば、他の男に抱いてもらう、とかね。


 父さんが目を瞠った。これでもかというぐらい大きく開けて。


「募ればいくらでも志願者出てくるよ。ハヅキ可愛いから街歩けば色んな男が振り返るし……実際父さんの秘書してる時だって明ら様な男沢山いたよね。皆が睨み効かせてたから大事なかったけど、今はそういう人いないし。今だって幼馴染の家で幼馴染の男と一緒のベッドで寝てるんだよ?」


 もういつ食べられちゃうか不安で不安でしょうがなかったからやめて欲しかった、正直。

 けれど、父さんの顔色が変わったのが分かったので更に追い討ちをかけることを画策する。

 

「今日なんか朝からイチャついてたよ。見たでしょ?ワイシャツのボタン、上までしっかり閉めてるのをさ。……あれ、キスマーク隠すためだよ」


 嘘だ。イチャついてなんていない。迫られてもいない。正直ドギマギすることがあったのは事実だけど。あの子無防備すぎて、あの男も毒気を抜かれてたっぽいけど。

 キスマークも勿論嘘。そんな触れ合いをしたことがないのに、キスマークなんて知れものがついてるわけがない。


「……やっと父さんのこと吹っ切れて、幼馴染と付き合い始めた途端にあれだから参っちゃうよねぇ。ほんと。犬みたいに盛ってさぁ」


 内心でとにかくハヅキに謝る。

 ハヅキがとんでもない淫乱みたいになってしまった。しかし、それも父さんを煽るため。そしてハヅキの願いを叶えるため。だからとは言わないけれど、許してほしい。

 狙い通り父さんの怒りはいい感じに溜まっている。早く爆発してよ。


「——ハヅキのイく時の声って、エロいよね」


 わざと恍惚とした表情で。


 それが決定打だったらしい。

 周辺の空気が一気に冷えたせいで、父さんの怒りが頂点に達したのが分かった。


「——ふざけるのも大概にしろ」


 父さんの怒りを直に受けても、怖くない。寧ろ隠れて笑ってしまう。

 こんなことで挑発されてしまうなんて。ハヅキの欲しい答えを言ってるも同然だ。


「……あれは私のだ。誰にも渡さない」


 耐えきれなくて僕は大声で笑った。ハヅキの思い通りになったことが、僕には関係ないはずなのに堪らなく爽快だった。

 父さん達は急に笑い始めた僕のことを驚きの表情で見ていることも、また面白さに拍車をかけた。


「て、笑ってる場合じゃなかった。ほら、何突っ立ってんの!?早くしないと——」


 言いながら、入ってきた窓から外に飛び出て先導するべく走り出す。

 父さんもルシアンも僕の唐突の態度の変化に虚を突かれたのか一瞬遅れたが待っている時間なんてない。焦っているのは僕だって同じなのだから。

 ハヅキのことは好きだ。彼女が死んだら絶対に後悔するぐらい好きだ。そんなことになれば、あの時何故頼み事を聞いたのかと、僕は自分を許さないだろう。


 ハヅキにはβに喰われないための秘策があるようだったが、βがハヅキの思ったように動くかは誰にも分からない。できれば早いとこ回収して安全なところに置いてしまいたかった。


「あんな屈辱的なことさせたんだから……無事じゃないと承知しないんだからね」


 走る脚にさらに力を込めて跳躍する。——海岸沿いの倉庫まであと僅か。



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