これがひょんなこと?(下)
「お風呂行ってくるね」
「いってらー」
二人で夕飯を食べた後、私は風呂場に行く。
一通り洗ってから湯船に浸かったのだが、腰を落とす前にシャッターは閉めたまま窓だけ開ける。そうするとあら不思議。
「ハヅキってば、今日お風呂遅くない?」
なんとノエルが召喚されるのだ。
「ノエル、こんばんは」
「こんばんはー」
窓を開けるというそんなに大きくない音に反応してやってくる彼の耳の良さには脱帽する。
私は湯船で、ノエルは外で。そこでちょっとした話をするのがここ数ヶ月の日課になっている。
「今日は結構色々あってさぁ、もう、なんか疲れた〜〜」
思い切り体を浴槽の中に沈める。はぁ、極楽極楽。
もう斗真は先に風呂に入っていたようなので気にしないで長風呂ができる。
「色々って、なんか長々と話してたあれ?」
「……見てたの〜?」
「うん、ちょっと個人的に気になって」
「個人的?」
聞き返してもノエルは個人的の部分について言及しなかった。
というよりはノエルも何と言えばいいか、分からないというのが正解に近い気がする。何かを言おうとしては、口を噤むのがわかった。
「知り合いなの?」
「……知り合い?知り合いってわけじゃないんだけど……会ったことがあるっていうか見知ってるというか……」
話を聞けば、数年前日本に初めて来た時に会ったことがあるのだと言う。今より幼かったけれど同じ人物だと思われるとのこと。
吸血鬼であることが一瞬でバレたことを聞いても、何故だか納得してしまった。
確かにあの子なら言い当ててもおかしくないだろうと思えてしまう不思議。
「なんというか……色々とすごい子だよね……」
「うん……なんか、こう、すごい子だった」
二人でしみじみ頷きあう。名前を聞かなかったのが今更ながら悔やまれる。
「——って、違うよ!」
「何が?」
ノエルのきょとんとした声に「ちょっと、お願いがありまして」と言う。
「何、出し抜けに……」
「また確認するけど、主の命令でここにいるわけじゃないんだよね?」
「僕の意思だよ」
「主に私のことについて報告したりはしてないよね?」
「実は僕父さんから直々に『ハヅキには関わるな』って言いつけられてるんだよね」
「……それバレたらまずくない?」
「うん、かなりマズい。きっと蹴られるだけじゃ済まないかな?」
「よし、信用しよう」
「それはよかった」
「というわけでお願いなんですが」
それらを聞いたノエルが絶句したのが分かった。
「やってくれる?」
「嫌だ」
「そんなぁ……」
「なんで僕が了解すると思ったわけ」
理解できないよ、と呆れた声だ。
「私にはもうこれしかないの」
お願いと懇願する。
ノエルの言葉を祈りながら待つ。私が考えたある計画にはノエルの協力が不可欠だ。
数分が経っていた気がした。
ノエルが半ばヤケクソ気味にいいよ!と叫んだ時はこのままの姿で外に飛び出してノエルを抱きしめてしまいたいほど嬉しかった。ノエルに丁重にお断りされたけど。
「もし、本当に危なそうだったらすぐストップ入れるから。父さんとか関係ないから!そこだけは譲らないからね……!!」
「それで問題ないない、ほんとにありがとうーーー!!」
持つべきは可愛い吸血鬼だね。
その夜私は必要なものを注文してから眠りにつく。
その翌日、早朝から私はパソコンに向き合っていた。抱えている仕事を全ての片付けるためである。新たに入った仕事は長期で海外に行くことになったと理由をつけて断る。
夕方になって注文しておいた荷物が届いたので一旦仕事を辞めて、届いたそれらを組み立てていく。斗真にそのブツを見られるわけにはいかないので、手際よくを意識してすごい速さでそれを完成させた。
窓を開けてノエルを呼ぶとノエルはすぐにやってきた。
「どう?見つかった?」
「うん、結構近くにいたよ」
私はそれに頷くと今日の夜に“お願い事”をやってもらうように頼む。ノエルはそれに神妙な顔で頷いた。
ついでに昨日は言わなかったお願い事も追加する。ノエルは可愛らしい顔を歪めて全身で嫌だと言っていたが、最終的にはそれにも頷いてくれた。
「とまぁ、色々お願いをしたわけですが……」
「……何、まだなんかあるの」
疲れ切った様子のノエルには申し訳ないが、これが作戦の要になる。ここは心を鬼にさせていただきます。
「ノエルってさ、吸血鬼じゃん?」
「今更何……」
「吸血鬼の顎の力どれくらいかなぁと思ってさ」
「は?」
ノエルが素っ頓狂な声を上げた瞬間に先ほど作成したばかりのものをノエルの前にぶら下げる。
二つのベルトの真ん中に鉄製の棒がついている形状のそれを見て、ノエルは顔を引きつらせた。
「……それって」
「歯は丈夫?」
瞬間的に逃げようとしたノエルの腕を掴んで脱走を阻止した私は、にっこり。
「ちょっと付き合って?」
吸血鬼のノエルがザッと顔を青ざめさせたのが面白かった。
ふらふらのノエルを送り出してすぐ斗真が帰ってきた。一瞬ノエルを見られたのではないだろうかと不安になったが斗真は何も言わなかった。ほっと胸を撫で下ろしたのは秘密だ。
そのまた翌日。私は会社に行く斗真を見送ってすぐにまた仕事に取り掛かる。
午後の四時、その時には依頼は完璧に終わらせた。元々そこまでの量があったわけでもないので死ぬほど大変ってわけではなかった。
休業を取引先には惜しまれたが、また機会があればとそつない返答をメールでしておいた。それから下に降りる。
コーヒーメーカーにコップをセットしてスイッチオン。いつもはそれだけで終わりなのだが、今日は待ち時間にやることがあるのだ。
私はシンクの下の収納を開くとそこからステンレス包丁を取り出す。そこで大事なものを忘れたことに気が付いて二階に戻る。赤いハンカチを右手で掴むとまた下に戻る。
シンクに赤いハンカチを広げて置いてから私はその上に左手をのせる。右手には先ほど取り出した包丁を構える。
「——よし」
呟くと同時にその刃を小指に突き刺した。
ぼたぼたと垂れてくる血を全てそのハンカチに染み込ませると同時に傷口を押さえて止血する。
動かしたときに痛くならないよう気を付けたつもりだったが……些か深く切ってしまったかもしれない。
予想以上に血を流したせいでハンカチの一部がぐっしょりとしてしまった。
血がしみていない部分を摘んで持ち上げると、重みに負けて滲み出てきた血が銀のシンクを流れて排水口へ流れていく。
暫くその様を眺めていたが、そのハンカチを四つ折りしてから外に出る。斗真の家から少し離れたところで誰も見ていないことを確認してその場にしゃがんだ。
ドブ板の隙間からU字溝へとそのハンカチを落としたらミッションは終了だ。
子供のいたずらのようなミッションを容易にやり遂げて私は家の中に戻った。シンクにそのまま置きっぱなしにしていた包丁を洗い、ついでに夕食を作り始める。居候させてもらう代わりに炊事は私が担当していた。
野菜類を切りながら今日はトマトやケチャップの類を使わないようにしようと思った。赤色は血を思い出してしまうから。
風呂に入りリビングでまったりしていると暫くして斗真が帰宅してきた。
「おかえり〜」
「ただいま」
出迎えた私に袋に入った箱が渡される。両手に乗せるとはみ出るくらいの箱だ。
「何これ?」
くるろと袋の向きを変えた私は表に印刷された文字に目を輝かせる。
「明日商談だから、景気よく行こうかと」
「ありがとーー!久々のケーキ!ケーキ!」
「……ガキか」
腹は立つけれど今だけは何も言い返せない。反撃はケーキを腹に収めてからだ。
とりあえずそのケーキ様を冷蔵庫に収めて料理の用意をする。
「おっ麻婆豆腐?」
「うん、斗真好きだったでしょ」
「へぇ……よく覚えてたな、感心感心」
「あんな貪り食べてたらねぇ……」
斗真は中華料理を好んで食べるが、その中でも麻婆豆腐は斗真の中で別格に位置付けられた料理だった。
あれは高校二年生だった時。夕飯にお呼ばれされて行った先で見た光景は一生忘れないだろう。
斗真は何を思ったのかうどんを入れるような器に米を山盛り盛って、そこに溢れるというか、落ちるというか……雪崩というかの量の麻婆豆腐をぶっかけた。とんでもない量の米だったのだが、ペロリとたいあげると同じものをもう一回。いくら成長期とはいえ限度ってのがあると思う。
斗真の麻婆豆腐好きは変わっていないらしく、昔みたいな無茶な食べ方をしないまでも、二丁も豆腐が入ったそれをほぼ一人で平らげた。
私は自分の分を確保するだけで精一杯だった。よそっている間にどんどん具が減っていくのだ。なんという暴君。恐るべき胃袋。
なんとか麻婆豆腐を口にして、他のおかずにも手を伸ばして腹を満たすとケーキを冷蔵庫から取り出す。
箱を開けた時箱の紙で手を切ってしまった。
なんの偶然か箱紙が切ったのは、夕方傷つけた場所だった。まだ塞がり切っていないそこを抉られて思わず痛いと口に出してしまった。
「切ったのか?見せてみ?」
断る前に手を取られて傷口を見られる。そこを見た斗真の目が僅かに大きくなった。
「紙で切った傷か、これ?」
当然の疑問だろう。紙で薄皮一枚切ったような、そういう傷とは明らかに違う。
よく見れば皮の奥の肉まで見えるぐらいなのだから。
「包丁でちょっと」
「こんな手の外側、普通は切れないだろ」
「落としちゃって慌ててキャッチしようとしたらそうなった」
「……器用だな」
明らかに褒めてない。
面白くない様を隠さずに右手をずいと差し出す。
「絆創膏」
「お前はどこぞのお姫様だ」
「『妾に使われるのに何か不満でも?』」
「……演技の才能もないんだな」
可哀想なものを見る目にさすがに辛くなった。
「いいから絆創膏とってこいよ〜」
「ああ……もう暴れるな。血が垂れる」
言われて流れた血が机の上に垂れていることに気が付いた。私の手を取っていた斗真の手も血で濡れている。
「結構出血してるじゃん」
「……ったく」
悪態ついた斗真は何を思ったのか、パクリと。本当にパクリと私の小指を咥えた。
ちう……と傷口を少々強めに座れる。一瞬の痛みに肩を揺らした私の顔を、斗真が指を咥えたまま見上げる。その顔が笑った気がした。
肉厚で柔らかなものが私の傷口を舐めあげる。その感触にポーカーフェイスを気取っていた顔が崩れる。
その舌はやがて傷口から離れて指を這いずり回る。その動きから連想できてしまうものがあって、私は必死にそれ以上表情を崩してなるかと堪える。
だが、頑な私を嘲笑うかのようにその舌はゆっくりと掌の方へ向かい出す。それが指と指の間の股を擽るように舐めあげた時私は斗真の名前を呼んだ。
しかし奴は「血がついてるから」と答えてまたその行為に没頭する。
「……洗えばいいだけなのですが」
斗真はしれっとスルーした。
結局彼は腕の半ばまで舐めたところで私の腕を解放した。
「……すげぇ血の味」
顔を顰めた斗真を一瞬本気で殴ってやろうかと考えた。
しかし、斗真は手当しただけで、私が主との行為を連想しなければいいだけの話なのである。
眉間にしわを作り、口をもごもごさせる斗真に味について問いかけた。
「しょっぱい?」
「あと口の中が鉄っぽい」
「…………だよねぇ」
洗面所へうがいをしに行った斗真を見送って私は机に突っ伏した。
「甘い匂いなんてするわけないじゃんね……」
人間にとってはただの赤くてしょっぱい液体が、吸血鬼には甘露にもなりうることを不思議なことだと思いながら斗真を待って、それから二人で一緒にケーキを食べた。
傷口には絆創膏を貼っておいた。同じことが起きないように。
二人で一緒にベッドに入る。これにもすっかり慣れてしまった。本当はきちんと別室を借りているのだが、そちらで寝ることを斗真が嫌がるためここで寝ている。
しかし、この日ばかりはいつもと同じように見えても、何かが違うように思えた。きっと明日のことを二人とも少しは考えていて、その緊張が僅かながら伝わってくるのだろう。
軽く会話しながら眠気が襲ってくるのを待つ。
散々ノエルに手伝わせたため、なんとか仕込みは終わった。後は明日を待つだけだ。
これが私の想像通りにうまく動いてくれるかは今の段階では分からないけれど、うまく動いてくれればいいと祈りながら眠りにつく。
それが斗真には明日の商談に緊張しているのだと勘違いされたようで、散々からかわれた。仕返しに斗真の足を蹴ったら睨まれた。
先にやったのはそっちじゃん。
そんなことを繰り返していたら、いつの間にか眠ってしまったようだった。夢も見ないほど深い眠りだった。
翌朝、いつもより早く起きると念入りに化粧を施していく。
瞳には黒のカラコンを入れて赤を隠した。まつ毛には丹念にマスカラを塗りつけ、目の縁もアイラインでしっかりと線を描いて白を隠した。
眉毛にもマスカラを使ってから描いた。
頭は編み込みにしピンで纏めてから茶色のウィッグを被った。
死人の如く白い頰には控えめにチークを落とした。
口にはピンクローズの口紅を引いた。
鏡を見ながら仕上がりを確認しているとそこに斗真がやてきた。
「おはよう、別人だな」
「おはよう……派手?」
「いや、昔みたいだなと思って」
言いながら斗真の手が私のウィッグの髪を掬い上げる。
「昔は黒かったけど」
そこだけが不満らしい。だが、黒髪だと昔と同じすぎて不都合も考えられるので却下したのだ。
二人で一緒に家を出て鍵を閉める。
もう後戻りはできない。
「忘れ物か?」
「……ううん」
斗真の家を見上げていた私は首を振ってから斗真の元へ駆け寄ると、斗真の会社へ向かうために歩き出した。




