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あなたは誰ですか?(下)


「……あのぅ」


 おずおずと、偶然目があった遊び人に向かって問えば、その男はなんだと聞き返す。突然立ち上がった私に戸惑っている様子。だが、気にせず近寄る。


「この屋敷ってあなた達と使用人以外に人……いないんですか?」


 何を言いたいか最初理解できないようだったが、途中で合点がいったのか、ああと声を漏らす。


主人(マスター)のことか?」

「そっ……その人!どこにいるの!?」


 あまりの食いつきっぷりに遊び人は仰け反って、そろそろ帰ってくるだろうけど……としどろもどろ答えた。


「どっち方面から!?」

「門を出て右手にある木の方……ってお前!」


 椅子から立ち上がり扉に向かって一目散に走る私に紳士と遊び人共々が慌てた声を出す。


「待てっ……!?」

「どこ行くの!?」


 部屋を勢いよく飛び出した私の背中にそんな声がかかる。だが、私は決して立ち止まらなかった。あの人をこの目で見れるのだ。


「お前は主人に会ったことないはずだぞ——」


 私は彼の声が遠ざかるのを聞きながら、会ったことあるしと悪態ついた。


 部屋の中もそうだったが外もとても美しい装丁をしていた。新しくなければ美しくないということは決してなく、古いからこその美がそこにあった。柱一本一本に施された細かな装飾、窓枠一つをとってもアンティークと言えるほど見事なものだった。

 一瞬奪われかけた視線を首を振って、新たに前方へ定め直す。そして、私は塵一つ落ちていない廊下を駆け抜けた。



 嗚呼、なんて素晴らしいんだろう。



 もう、壁を伝い、段差につまづかないよう何度も足で床を確認しながら歩く必要はない。

 階段は二段飛ばしで軽快に駆け下りていく。こんなこと二度とできないと思っていた。だからこそ、それだけのことがこんなにも嬉しい。

 やがてこの屋敷の正面入り口の前に着く。そこは私の知っている玄関とは余りにかけ離れたものだった。大きい。とにかく大きい。その扉に人一人通れる小さな扉を見つけると、躊躇うことなくそこから外に出た。


 外は雪が降っていた。そのことに酷く驚く。建物の中はあんなにも暖かったというのに。それこそノースリーブで快適に暮らして行けるほどに。だからこそ今が冬だということに気が付かなかった。

 このまま進むことを一瞬悩んだが、私は腕をさすると勢いよく雪の上に足を踏み出した。


 あの男に会ったからと事態が好転するはずもないのに、何故か妄信していたのだ。彼に会えばどうにかなるんじゃないのかと。


 なんの音もなく足が雪に窪みを作る。降り始めなのか、雪はまだ一センチ程度しか積もっていなかった。

 私は再び走り出した。紳士の言う通りなら門を出てから右方向の丘の上。そこに確かに一本の木があった。



 そこに現れた長身の男、コートに包まれながらも分かる立派な体躯。その逞しい体を見た瞬間、私はその人に向かって駆け出していた。


 その男が顔を上げたのは私がジャンプしたのと同時だった。

 全体重をかけたのに男は軽々と私の体を受け止めた。その逞しく鍛え上げられた体、角張った男らしい手、見上げなければならないほどの高い身長——想像通りの姿がそこにある。


 この寂しさをどうにかして欲しくて、私はその男の頬に頬擦りした。


……じょりっ


 その感触に私の中で世界が止まった。


 もう一度頬擦りする。

 その感触は気のせいじゃなかった。


 そっと体を離して顎を見る。そこには、何週間も剃っていませんというような無精髭があった。


 視線を上へスライドして、じっと目の前の男の瞳を見る。癖のある髪質や生え際は酷似しているようだが、この男の目は切れ長だった。私が触って確かめた訪問者の目のように垂れていない。


「なんなんだお前は……」


 こっちの台詞だ、という暴言を飲み込みながら男を更に観察する。


「……ジロジロ見るな」


 底冷えするような低い声に体を震わせた一瞬の隙を男は見逃さなかった。男はいとも簡単に私の腕を解いて、ポイと放り投げる。


 見事な着地を決めながら仄かな疑問を抱いた。

 深夜にやってくるあの訪問者はこんなに低い声をしていただろうか。こんな風に手を振り払ったことがあっただろうか。あの人はこんなにも冷たい瞳で私のことを見ていたのだろうか——


 少なくとも、彼の顎に目の前の男のような無精髭は生えていなかった。

 ここでようやく私は自分が大きな間違いをしていたことに気がつく。


「……あなた、は、誰ですか?」


 震える声でそう問えば、男は馬鹿にしたような声をあげた。


「お前の方から勝手にやってきて、挙げ句の果てに『誰ですか?』とは……随分と惚けた女だな」


 男は私の英語にロシア語で答えた。

 その男は今まで以上に低い声を出した。地の底を這うような低音。


「長いこと居座っておきながら、この屋敷の主人には挨拶しに来ない……無礼な小娘と思っていたが、こんなにも阿呆だったとはな。……気まぐれなど起こすものではないな」


 その言い方にムッとする。


「……あなたが私を助けたんですか?」

「そうだが?……今は後悔してるがな」


 男は、堂々と返す。

 私はその様に嫌悪を感じた。助けてもらっておいて、とは思うがこんな男に助けられたくはなかった。そんな風に言うのであれば、助けないで欲しかった。


「そのまま日本に置いてくればよかったのに……」


 日本語ならば分からないだろうとボソボソ文句を言う。


「何か?」

「……いいえ」


 つまるところ、私はこの男に感謝の言葉を述べたくなくなったのだ。

 だが、礼儀は礼儀。私は溜息をつきたいのを我慢しながら腰を直角に曲げる。


「……私のことを(嫌々)助けていただいたこと、有難く思います。(あんたがお世話してくれた覚えは全くございませんが)ここまで世話をやいてくれたことにも感謝しています。(再び言おう。あんたに面倒をかけた覚えはこれっぽっちもございませんが!)面倒をおかけして申し訳ございませんでした。これ以上ここに留めていただくわけには行かないので明日にでも(邪魔なら邪魔って言えばその瞬間に出て行ったのにな!)お暇させていただきます」


 見たか。私の完璧な擬態を。

 これが、ジャパニーズお辞儀というやつだ。バイトで培ったこの綺麗な直角に感動するがいい——……なんて考えていた私は本当に馬鹿だった。


「本当にありがとうございました。では」


 そう言って踵を返そうとした私の腕を男が掴んだ。背筋が凍りつくほど冷たい手をしている。あまりの冷たさに肌が粟だった。

 それも束の間。


「……出て行く、だと?」


 足が突然震えだす。いつ溢れてもおかしくはない。それだけの怒りを含んだ声が私の耳に届いた。


——なにこれ。


 涙を出すことすら許さないほどの重圧感(プレッシャー)。それが一気に私に襲いかかった。

 どれだけ強い相手でも。どれだけ私よりも長く生きてても。私を本当の意味で脅えさせることのできる人間なんていなかった。

 そんな人間、存在しないとさえ思っていた。


 怒ってる。正直、こんな一言では表せないほど怒ってる。目の前の男は途轍もなく怒っている。

 何が着火石だったか分からないが、男はとにかく怒っていた。謝ることすら許さない空気に私は唾を飲み込むことすら忘れて呆然とする。

 足元だけを見ていた私は男が一歩踏み出したのが分かった。その次の瞬間、髪を引っ張られ頭を無理矢理上げさせられた。


「——誠意を見せたかのように、難しい謝罪の言葉を並べ連ねて、心の中では嘲笑う——小賢しい女だな。私が最も嫌うタイプの人間だ」


 顔面を引き攣らせる私に男は容赦なく言葉を投げつける。擬態を見抜かれていたことに慄くと男は口端を僅かに歪めて笑った。


「私が何年生きていると思っている……?馬鹿にされたもんだな。お前のような小娘に舐められるとは……」


 男は乱暴に私の髪から手を離して放った。バランスを崩した私は踏ん張ろうとしたが、恐怖で体が麻痺しそのまま地面に無様に転がる。

 雪はいつの間に雨に変わったのか、地面の雪は溶け、代わりにぬかるんだ大地が私の白い服を茶色に染めた。


 そっと頭をあげる。その先には底冷えするロマンスグレーの瞳があった。私はヒッと息を呑む。

 男が足を踏み出すと、ぬかるんだ地面がぬちゃりと音を立てる。後ずさろうにも腕も足も笑って使い物にならない。

 男は構うことなく、私に向かって歩いてくる。そして、目の前で男は片膝立てて座り、再び私の髪を掴む。


「先ほどお前は出て行くと言ったがな……そんなこと許されるはずあると思うか?」


 何も答えられるはずがなく、私は黙って男の眼を見続ける。


「この一年、私は重要な部下三人にお前の世話をするよう命じた。命を助けた者の義務でな。……三人だ、どれも有能な奴らばかり。それをお前のためだけに一年も使ったんだ……どれだけの損失が発生したか分かるか?」


 髪を掴まれたまま微かに横に首を振る。


「部下の穴を埋めるために私がどれだけ働いたか分かるか?一年間、休みもなく働いて、お前に会うことがなかったのもそのためだ。少し考えれば分かることだろう……それをお前は随分と自分本位に捉えてたな?礼を言いに来たかと思えば、飛びついて?人違いだと分かれば、認めないとばかりに拒絶して……挙げ句の果てに私を騙そうと巫山戯た真似をして……何様のつもりだお前は」


 全て……全て見透かされている。もう首を動かすことすらできなかった。

 恐怖に支配されて私の体は凍りついたように固まっていた。


「お前は助けられたお礼に、何かするべきだとは思わないのか?…………思わないかと私は聞いているんだ」


 男はぐいと、返事をしなかった私の首を引っ張り上げる。


「話をお前は聞いているか?」


 コクコクと必死に首を縦に振る。


「何かしようとは思わないのか」


 震える声で思います、と返す。

 そこでようやく男は手から力を抜いた。


「どうせ、お前は馬鹿だから何をすればいいかも分からないだろう?」


 悔しいがその通りだった。男の言うように私はどうすればこの恩を返すことができるのか、全く分からなかった。

 情けないほど眉を垂らす私を見ながら男はぞんざいに告げた。


「——だから俺がお前に命じてやろう」


 全てが芝居のように見えた。この状況(シチュエーション)にも、男の話す言葉(セリフ)も。全てがよく出来た台本のように思えた。

 そして男は口を開く。


「お前は五年間俺に仕えろ。報酬なんてものはない、これは賠償だからな。反論は認めん。反抗も許さん。お前は従順な私の僕になるんだ」


 ——そうだ、これは芝居だ。よく出来た戯曲の一幕だ。だから私の行動も予め台本で決められている。たった一つの行動しか私には与えられていないのだ。即興(アドリブ)は決して許されない。


 私の頷く様を見た男は満足したかのように笑う。


「契約成立だ。半年の猶予をやろう……ジュード達に教えを請うがいい」

「……ジュード……?」


 思わず漏れた呟きに、男は眼を見開いた。何かまた余計なことを言ったのかと不安になる。その予感は的中した。


「お前は世話をしてくれた者達の名前すら知らんのか……」


 呆れたと言った男の声は鳥肌が立つほど恐ろしく、私の体は再び硬直する。


「いいか?半年後には使えるようになっていろ。これは最初の命令だ。——分かるか?私の命令は絶対だ。できなかったは認めない。できなければいけないんだ。それ以外は許さない」


 思わず顔から血の気が引いていく。半年で、使い物になれ?言葉も満足に使えない異国の地で?

 男が私に何をどのレベルまで求めているのか分からないが、この男が求めるのだ。生半可なレベルではないだろう。

 それをたった百八十日で……?——無理に決まっている。


 ——なのに。


「返事は」

「…………はい」


 私はそう答えてしまった。自分で自分を追い詰めた。他に逃げ道がなかったのは事実だが、私の顔面はますます蒼白くなっていく。

 だが、男は私の返事に満足行かなかったらしい。分かりやすいほどに眉を釣り上げる。


「お前は私の僕ということを分かっているのか?僕が主人に向かってそんな口を聞いていと思っているのか?」


 私は怯えながら男の言葉を何度も反芻す、少しだけ心の中で考えて……そして、静かに、畏まりました——と告げた。



 その瞬間を私は生涯忘れないだろう。

 私はその一言で自らに枷をかけた。


 その解答は正解だったらしい。男は私の髪から手を離すと屋敷へ向かって歩き出す。

 その後ろ姿を見ながら私は静かに涙を流した。



やっと主様出せたー

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