これがひょんなこと?(上)
所詮社会経験のない者が書いております
ありえねぇと思う展開も目をつぶってご覧ください……っ
結構遅くなってから帰ってきた私を待っていたのは斗真の切羽詰まった声だった。
「なっ何事……!?」
玄関を開けた瞬間に飛んでやってきた斗真は私の肩を掴むなりがっくんがっくん揺さぶる。
「葉月!お前ロシア語できたよな!?」
お願いだから頷いてくれと懇願されて、困惑しながらも一度顎を引く。
それを見た斗真はまた奇声をあげて、今度は私に抱きついた。感極まれりと言った様子だ。
「……なんでもいいけど、中にいれてはくれませんかね?」
私はまだ玄関にすら入れていないことを忘れないでほしい。
斗真に促されるがまま彼の部屋に入り、ベッドの上でお互い向き合う。因みに正座の状態だ。
「——で、一体どういうはな」
「頼む!通訳をしてくれないか!」
「一からはなし」
「この通りだ、頼む!!」
「人の話は最後まで」
「葉月が頼みの綱なんだ……!!」
「……」
人の話を全く聞こうともしない斗真にぷっちん来てしまった私は、目の前で今にも土下座をしそうな男の胸ぐらを掴むと、手首を返して大の大人の体をベッドの上で転がす。
転がされた斗真はと言えば、何が起きたのか分かってないことを、ぽかんとした、少々情けない表情で示していた。
「ねぇ、斗真」
「はい」
「どっちが頼みを聞いてあげる側?」
「……葉月」
「どっちの立場が下?」
「…………俺」
「なら一回大人しく私の話を聞こうか?」
「ハイ」
仕切り直してもう一度ベッドの上に向かい合って座る。今度は斗真だけ正座だ。私は軽く足を崩している。
「で。……通訳の依頼だったよね?どうしてまた?」
「ある企業のトップが商談のためにこっちに来ることになったんだ」
「そのトップがロシア人ってこと?」
「うん、そう」
なんとなく話が読めた私は呆れてしまった。
なんて短絡的なんだ。
「英語じゃダメなわけ?斗真の会社大手じゃん。英語なら探せば使える人いくらでも出てくるでしょ」
「それじゃあ普通だろ……?」
「あんたは商談に一体何を求めてるの」
また私がキレそうになったのを察したのか、斗真が慌てて弁解する。
「今回はそことの契約がかかってて、できる限り好印象にしておきたいと言うか……」
「……ああ、そうゆうこと」
つまり、かなり重要な商談ということ。
商談のお相手さんがどこなのか知らない私には深刻さについてそこまで理解できない。が、社運がかかっているというのは理解した。
「好感度上げるのに、言語ほど簡単なものはないからね……」
私がスヴェルドルフにいた時に沢山の言語を覚えたのは、それも理由の一つだったりする。
言葉の壁というのは結構高い割に、もともと越えることのできる人間にとっては障害にならない。寧ろ同じ言語を使う相手に愛着心が湧くため、受け入れてもらいやすくなるのだ。差し詰め、向こう側から開門してもらえる感じだろうか。
「そういう大事な話なら、商談の日までまだ猶予あるでしょ。私なんかで妥協しないで他の人探しなよ。私以上に話せる人なんてもっといっぱいいるからさ」
ちょっとだけ嘘をついた。私ぐらい上手にロシア語を扱える人はそういないはずだ。できれば諦めてくれるといいなと思って。
斗真のためには一肌どころか二肌三肌くらいは脱げる。ただ、今回のようなその他大勢と接触するようなことはできる限り避けたいのである。
それにはいろいろな理由があるのだが、商談の相手が“斗真の勤める企業がへり下るくらいの大企業である”というのが一番大きい。
私のいたスヴェルドルフは世界的な大企業なわけで、企業のつながりは多岐にわたる。私が関わってきた企業も決して少ない数ではないし、接待する関係で名刺交換だって沢山してきた。手元にあった名刺の数は千や二千じゃ下らない。もしその中に今回の商談相手がいたら、私の素性がバレる可能性があるのだ。
それだけはなんとしても避けたいのである。
だが、目の前の斗真の表情を見ていると嫌な予感がして仕方ない。彼はどうしてそんな、苦虫を噛んでいるような顔をしているのか。
「……実は、」
すごく言いにくそうな斗真を前に、私はごくりと生唾を飲み込む。
「——商談っていうのが三日後で」
はい、嫌な予感当たりましたーーー!!
「……どうしてそんな急な日程なの!?」
「日程がずれたんじゃない!一人増えたんだよ……!!しかも、その人は事実上のトップとか言われてる人で……」
「……御愁傷様」
言い方に少し引っかかるところがあったが、とりあえず合掌して冥福を祈る。
「祈らなくていいから、頼むよ!俺達の仲だろ?」
両腕を取られて私は「えー」と眉根を寄せる。
いくら幼馴染の頼みとはいえ、聞けないものもあることをわかってほしい。
「私は外部の人間なわけで、そんな輩を社運のかかった重要な会議に出席させちゃまずいでしょ」
「お偉方からの許可は取っている」
「……早すぎない?」
「上もそれだけ必死なんだよ」
なぁ、頼むよ!と縋る斗真を尻目にどうしたものかと頭を悩ませる。
いくら打ち解けるためとはいえ、外部の人間では悪印象にもなりかねない気がするのだが。実際私が相手と仲良くなったところで斗真の会社には全く意味がないのだ。
しかし、これはどう足掻いても逃げられそうにない。なら、さっさと引き受けた方が身のためかもしれないと思い直した私は「しょうがないなぁ」と呟く。
「……せめて、相手の企業だけでも教えてくれない?」
それによっては引き受けてもいいよと斗真に言ってやった。斗真の顔が見る間に明るくなる。
関わったことのない会社なら私を知らないだろうという、根拠のない推測によって行動するのは愚か者だのすることだ。だが、ここまで必死に懇願されたら少しは融通をきかせてあげたくなってしまう。
「で、どこなの?」
「……ああ、でも……ここまで言っといてなんだけど……」
そんなことをごにょごにょ言った斗真は先ほどの表情と一転、少々渋顔だ。
「……多分、葉月でも絶対に知っているような会社でさ……不安になったりする、かも?」
「私が相手の名前で怖気づいて逃げるってこと?」
無言が肯定の証拠だ。私ははぁと呆れているのを隠さずに溜息をつく。随分と甘く見られたものだ。
「どのみち言わなきゃ否も応もないからね」
だからさっさと言っちゃいなさいよ。というセリフでようやく斗真は社名を告げた。
斗真の口が告げた社名に、私は本気で目を丸くする。驚きすぎて目が飛び出るという比喩を、体験するとは思わなかった。
「……うそ、でしょ」
確かに会話の合間合間にヒントは沢山あった。今なら気付ける。
しかし、私はその名前を聞くその瞬間まで、その可能性について考えていなかった。
だって、ありうる?
主に会いに行こうって決めてから、たったの一時間も経っていないんだよ?
まさかまさか、その相手企業が——スヴェルドルフだなんて、斗真に社名を再び言わせても俄かには信じられなかった。
「……やっぱ、そういう反応だよな」
私はふるふると体を小刻みに震わせていた。それを見た斗真が断られる未来を予想しているだなんて気付きもしないで私は一思いに言った。
「やる」
「……やっぱ、ダメって……え、は?」
「やるって言ってんの。今すぐその会議の資料貸して。どうせ持ってんでしょ」
「…………本気か?」
「嘘言ってどうすんの。ほら早く貸して」
「え、あ、うん。……ちょ、ちょっと待ってろ」
斗真が下にカバンを取りに行く足音を聞きながら私は歓喜の表情を浮かべていた。
なんというグッドでナイスなタイミングなのだろう。天は私に味方をしているに違いない。
——神様ありがとう!!
私は生まれて初めて本気で神に感謝した。
戻ってきた斗真は紙の分厚い束を差し出しながら、怪訝そうな表情で私を見下ろす。
「なに?その顔」
「……なんでそんな掌返すみたいにやる気になったのかと思って」
ああ〜……と力ない返事のような、呻きのような、そんな声が出る。
彼らに会えるチャンスに有頂天になっていて、理由をまったく考えていなかった。
「……あの人達の、ファンだから、かな?」
長いこと考えて、言えたのは結局それだけだった。
誤魔化すの下手すぎると、凹む。
案の定斗真も不審そうに「ファン……?」とか呟いている。
「私が秘書を務めていた方とそのスヴェルドルフの代理人達は結構浅からぬ仲だったらしくて、その方からよく話を聞いてたの。すごいやり手の人達だってよく褒めてて……私自身は面識なかったけれど、いつか会えたらなって思ってたの」
「……そうか」
なんとか誤魔化せたらしい。斗真の不信感もいくらか和らいだのではないかと思う。
斗真にバレないようにそっと息を吐き出した。
「そうなると、お前も結構名の知れた大企業に勤めてたんだな……」
「……そんなことないよー?ちっちゃな会社だったの、社員も数人しかいなくて……代理人達とはたまたま個人で知り合いだったって話だし」
「そうか」
そうだよー!と豪快に笑い飛ばしている私の心情としては、体中冷や汗でぐっしょぐしょだ。
あっぶなーー!!
ネット上には代理人としての私の写真もいくつか存在する。ほんの一枚二枚だが、斗真に見られたら一瞬でバレる。斗真は私の顔も、髪の色も知っているのだ。私だと気付かないわけがない。
検索されたら即終わりな私にとって意識を逸らすことは重要課題だったりする。
斗真はわざわざ検索しようとは思ってなさそうだ。もともとあまりネットを使う人間ではないのも起因しているだろう。油断はできないが、とりあえずのところは大丈夫そうだ。
もうやだ、心臓に悪い。
胸を押さえて呼吸をしていたから、そのジェスチャーの意味を知っている斗真が顔を顰めた。
「本当に大丈夫かよ……」
緊張していると思ったのだろう。だが、残念。緊張はしていない。焦っただけだ。
それを誤魔化すように不敵な笑みを浮かべて斗真を見る。
「なぁに?私を疑ってるの?」
「そういうわけじゃないけどさ……」
目が泳いでいるのに、それにも気付いていないのか。
唇を突き出して拗ねて見せるけども、ガシガシと頭を掻く斗真の気持ちも分かる。
頼んだとはいえ、フリーの翻訳家でなんのお手紙も付いていない私だ。それは不安になっても仕方がない。
「まぁ、大船乗ったつもりでいてよ」
「……泥でできてないだろうな」
私は兎か!と突っ込もうとしたところで、自分が主の兎だったことを思い出す。なかなか上手いことを言う。斗真は気付いていないのだろうけれど。
確かに私は兎で、斗真を騙している。
「まぁまぁ、安心してなさいって」
資料をペラペラめくる私の顔は、にこやかなはずだ。
「絶対に契約もぎ取ってあげるから、ね」
「……お前は通訳だけどな」
「そうだったね」
斗真は非常に不安そうな顔をしていたが、腹を括れと叩いておいた。
斗真が知らないままに依頼した相手はこれ以上にないほど最適な人物だ。なんたって私はスヴェルドルフの代理人の元秘書。
彼らが何を求めているのか私以上に知っている人は他にいないだろう。——そして、主の母国はロシアではないってことも。
主から詳しい話を聞いたわけではないので正直なところは分からないのだが、主が生まれたのはどうやらギリシャ辺りらしいのだ。ロシアで長年暮らしていたために——一時は貴族でもあったらしい——標準装備はロシア語だが、彼は吸血鬼だ。
どこかに定住するよりも、色々な所を転々としている時のほうが長い。愛国心なんてものは主にない。
しかし、私はそれを言わなかった。自らチャンスを潰す必要はないのだから。




