白昼夢、を見たようです(上)
なんだか謎な事件でてきますが、ここはスルーで、スルーでお願いします!!
「……はぁ」
目が痛い。すごく痛い。風が吹けば砂になって飛んで行くくらい目が乾いている気がする。
モニター上の時計が、ぶっ続けで二時間画面を見ていたことを示している。そりゃ痛くなるわ。
休憩を入れようと、私は地べたにごろんと転がり目を閉じた。
……うう、ショボショボする。
ギュッと瞼を降ろしてそのままの状態で待機していると、緩やかにだが眼球が潤っていくのが分かった。
ただでさえ視力悪いのにこれでドライアイになんてなったら笑えない。
これからは目を労ろうと心に決めながら私は起き上がった。コーヒーを淹れるためだ。ブレイク。ブレイク。
斗真の家に居候をし始めてから既に四ヶ月が経つ。その間、彼らについての情報は全く得られてない。
翻訳の仕事にかかりきりだったのが原因だ。
実は、私が日本に戻ってきて一月が過ぎたあたりで、ちょっとした事件が起きた。事件自体は大したことではなかったのだが、その事件の結果、人々は自分達の常識を改めなければいけなくなってしまったのだ。
その事件が発生してから二ヶ月が経って、最近ようやく下火になってきたが、少し前までいたるところでパニックが起きていた。私と斗真はその事件に直接の関わりがなかったため、遠い世界のことを見ているように感じたものだが。
人々の混乱ぶりは苛烈を極めた。スーパーには得体の知れない札がうず高く積まれ、道端には怪しげな術者なる人が溢れていた。
その事件は世界中の注目を集めたため、お陰様でというべきか翻訳の仕事が大量に生まれた。当初、仕事が全く取れないと嘆いていた私にとっては天の恵みであった。手当たり次第に仕事を受けた結果、翻訳を仕事とする人の分かれ目と言うべき額を超えた収入を得られるようになっていた。
私が翻訳した文章の出来の評判も良く、最近では大手の企業からも定期的に翻訳の依頼が来るようになった。翻訳家として軌道に乗ったと言えるだろう。事件様々である。
コーヒーを啜りながら先ほど仕上げた原稿を校閲する。問題は無かったので、メールに文書を添付して送信した。この後数度メールのやり取りは必要だが、とりあえず今日のノルマは終了である。
「今日も私、お疲れ様でした」
自分を自分で労いながら伸びをする。この、やるべきことを片付けた時の開放感は素晴らしい。しかも、今日はいつもよりノルマが少なかったため、かなり早く終わった。
「今日はあるかなぁっと」
私はのんびりとキーボードを押していく。
検索するワードは決まってスヴェルドルフ関係だ。特に代理人情報。最近知ったのだが、美形ぞろいでも有名なスヴェルドルフの代理人は芸能人のような存在でもあるらしい。追っかけのような人が少なからずいて目撃情報を集めた掲示板のようなものが存在する。
しかし、出てくるのはどこどこで見たという事後報告的なものばかりで、やはりというか、これからどこどこに行くらしいという先を行く情報はない。
元秘書の身から言わせれば、そんな情報が出てしまうことはとんでもなく恐ろしい事態であるのだけれど。
それから少しだけサーフィンをして、やはり有力な情報はないと結論付けるとパソコンの電源を落とした。
そしていそいそと洗面所へ向かう。そこには何の変哲もない茶色のウィッグがある。ネットで購入したもので使うのは今日が初めてだ。
ウィッグに悪戦苦闘しながらなんとか装備し、化粧も施す。
その他、サングラス、コンタクト、日焼け止め。左手には日傘を装備して私は斗真の家を出た。ほんの少しの間でも、日の下に出るためにはこれだけの装備が必要なのだ。
難儀な体になってしまったものだ。昔は健康だけが取り柄だったのに。
戸締りを確認しながら力ない笑い声が漏れた。嘆いても仕方ないと分かっているのですぐに気を取り直す。
カバンの中に斗真から借りた図書館利用カードが入っていることを確認すれば、準備は万端だ。
——いざ、図書館。
意気込み十分、私は陽の下へと大きな一歩を踏み出した。
無事に目当ての本を数冊借りた帰り道。
川沿いの道に出た途端光を感じて顔を上げた。
地平線に沈む寸前の大きな太陽が私の顔を照らしていた。
サングラス越しに見た夕陽は穏やかなオレンジ色をしていて、暖かさが心に染み入る。たまには散歩もいいかもしれないとその時は思ったが、自分の体が昔通りではないことを思い出してすぐに考え直す。危険なことはすべきじゃない。
主様の元にいた時はそんな我儘を言えるような立場ではなかった。忙しいのに、私は日中出歩けませんなんて馬鹿なこと言えるわけがない。
しかし、今の自分は外に出る必要がないのだから、それは我儘ではない。
今だって、本当は土手の上を歩くべきじゃない。それぐらい分かっているの。いくら日焼け止めを塗り直したと言っても、すべての紫外線をカットできるわけではないのだ。
だが、人間はやっぱり太陽に惹かれる生き物なのだと今すごく実感した。だって、こんなにも快い。
ほんのちょっとくらい、いいよね?と結局甘い判断を下して土手の上を歩き出す。が、前を見ていなかった。
ドンと何かに派手にぶつかった反動で日傘とカバンが飛んだ。ついでにヒールも脱げた。
一拍遅れて地面にカバンの中身がばら撒かれた。そんな音がした。
私自身はヒールが脱げた反動で尻餅をついてしまった。まともに衝撃を食らったお尻がとても痛い。
よそ見してて電柱にぶつかるとか恥ずかしい。恥ずかしさを溜息で紛らわせながら視線をあげた私は、ぶつかったものの正体に目を丸くした。
「大丈夫ですか?」
スッと私に向けて伸ばされたのは白魚のような手。相手は紛れもなく人間だった。
「なんで……」
疑問が口をついて出る。
よもやぶつかったのが人間だとは思っていなかったのだ。この私が人の気配に気付かないはずないと、悪く言えば自分の能力を過信していた。実際、その勘が外れたことがないために生まれた過信ではあったが、考えを改めなければいけないらしい。
灰色のブレザーに身を包んだ女子高生は、私の表情で何か悟ったのか苦笑する。
「すみません……私って存在感薄いらしいんですよ」
立てますか?という問いかけに頷くやいなや腕を引っ張られる。そして近くにあったヒールを履かせてくれた彼女は、ジュードよりもよっぽど紳士らしい振る舞いを身につけていた。ジュードに爪の垢を煎じて飲ませたいくらい。
くだらないことを考えているうちに、女子高生は散らばった私のカバンの中身を拾い始めた。ボンヤリとそれを眺めて——途中で我に返った。
「すいません!大丈夫です、自分で拾います!」
慌てた私の目に映ったのは、本の背表紙を見つめる女子高生の姿だった。
一瞬で頬が朱に染まる。
「後は大丈夫ですから……」
お願い今すぐ手を離して——
「……『ヴァンパイアについて』、『吸血鬼の神秘』、『銀の弾丸で吸血鬼は死ぬのか』」
いやぁぁぁぁぁ!読み上げないで!!!!
「……吸血鬼に興味がおありなんですか?」
女子高生にそんなことを聞かれて羞恥で更に顔が赤くなる。
もうやだ。消えて無くなりたい。
非現実的なことを調べていてすみません!いい歳してそんなもの調べててすみません!!
だけど、私の頭の中では超現実なんです。例え中身の信憑性がなく、役に立たなそうでも大事な資料なんです。だから……本の中パラパラしないで!お願い!やめて!!
私のHPはもうゼロよ!
本を取り戻そうと手を伸ばす。しかし彼女の方が背が高い。ギリ届かない。跳ねて取りあげようともしたが、届かない。どういうことだ。
彼女はちらっと私を見ると首を傾げた。
「これを読んだところで参考にならないこと、お姉さんはご存知では?」
体がピシリと固まった。それは今しがた私も考えていたことだ。だが、問題なのは何故彼女がそう思ったのかという点。
「吸血鬼は日の光浴びたところで灰にならないですし、十字架やら銀のアクセやらはファッションとか言って身につけてられる者も多い……ニンニクは個人差あるようですが」
「え」
「燃やすと言っても、次から次へと再生しますので、木っ端微塵にしてから灰すら残らないような業火——まぁマグマが最適でしょうか。そこに投げ込まなければなりませんが、なんたって相手は吸血鬼ですから……切り刻むどころか、まず火山の噴火口に連れて行く前にこちらがお陀仏です」
「……なんでそんなこと知ってるの」
女子高生はああ、と声を漏らすとこういうの詳しいんですと笑った。
それも気になったが、一番気になっているのは違う。
「そうじゃなくて、なんで私がそのことを知っていると思ったの?」
「そうですね、……私色々と敏感なんです」
「色々?」
なににという前に彼女は私に近づいてすんと鼻を鳴らした。
女子高生の顔はお世辞なしに可愛い。なんと言えばいいんだろうか……ホリはそこまで深くないが、目鼻立ちの整った顔をしている。日本人だけでなく外人からもウケのよさそうな顔だ。つまり、とんでもなく可愛い。
そんな綺麗な顔が近付いてきて柄になく照れる。彼女はいい香りと呟いてから離れた。
「……この香りでこれまで生きてこれたことが奇跡なぐらいです」
それこそ吸血鬼の庇護がなければ。
彼女は確かにそう言った。
「一度お会いしたかったんです。小野葉月さん」
体が再び固まった。今までの浮ついた気分が一瞬で吹き飛ぶ。得体の知れないものへ対しての恐怖からだ。背筋を汗が伝ったことで自分がかつてないほど緊張していたことに気がついた。
何千年と生きた吸血鬼を前にしても、ここまで緊張したことはあっただろうか。
こんな十近く離れた子供に私が竦むなんて。
「……あなた一体」
「言ったでしょう?詳しいって」
そうじゃない。そう言いたいのに口が動かない。
カバンを渡し、最後に日傘を渡してから「では」と帰ろうとした彼女。その腕を咄嗟に掴む。私の行動に彼女は驚いたようだった。女子高生はキョトンと彼女の腕を掴む私の腕を見ている。
「……甘いものは好き?」
私は絞り出すような声でそんなことを言っていた。
「……すみません。ご馳走になってしまって」
「私の方が大人だし、そもそも引き止めたのだって私の方なんだから気にしないで」
「ありがとうございます」
彼女はカップに刺さっていたストローに口をつけてすぐ瞳を輝かせた。気に入ってくれたらしい。
「あんまり来ないの?」
「……はい、気後れしてしまって」
私が彼女を引っ張って連れてきたのは全国チェーンのカフェ店だ。女子高生はこのような店に来たがるものだ思っていたが、一概にそうとは言えないらしい。
今私の目の前で飲み物をちびちび飲んでいる女子高生はとても嬉しそうに季節限定の桜色の飲み物を飲んでいる。
この女子高生を見てまず思ったのが、顔小さい!目大きい!肌白い!だ。全体のバランスがとにかくいい。顔のパーツパーツが理想のもので、それが見事なまでにぴったりな場所に嵌っていると言った感じだ。
顔だけでなく、プロポーションも素晴らしい。華奢なくせに、胸の主張ははっきりしている。足もまっすぐで、それでいて適度な立体感を持っている。彼女の長い黒髪は緩いウェーブを描きながら背中へと落ちている。曰く癖っ毛で困りもの、らしいが、どこまで言っても理想的な姿をしている女性だった。
学校でも大いにモテることだろうと思ったが、彼女曰くそんな経験ないという。
ダメだな今の男共はという感想を抱く。草食系男子……とか言っただろうか?それにも程があると私は思う。こんな可愛い子を前に草食のままいたら逃がしてしまう。それはいつか絶対に後悔する、絶対にだ。
視線を感じたのか女子高生が顔を上げた。目があった瞬間に微笑む彼女は綺麗だ。
「聞きたいことはなんですか?」
「……ああ、そうだった」
「知っているものならなんでも答えますよ。お姉さんより知ってることは少ないだろうけれど」
私は「それ、それ」と声をあげる。
「なんで私があれに詳しいって思ったの?」
人が大勢いるカフェで吸血鬼と口に出すのは憚られてあれで誤魔化す。
女子高生はその質問に眉をひそめて、どこかを見る。何かを考えているような表情だ。
「お姉さんは今まできゅぅ……ええと、あれ、の近くで暮らしていたんですよね?」
「……どうして分かるの?」
「やっぱり、気付いてないんですね」
彼女は肩を竦めると小さな声で何事か呟いた。
「私が気付いていないってなに?なんかマズイこと?」
「いいえ。お姉さんに強力な呪がかけられてるっていう話ですよ」
まじない。
最近、その言葉はよく耳にする。特に日本に帰ってきてから。しかし、それは少し遠い世界での出来事のように思っていて、自分に関係があるとなると不思議な感じがした。
「まじないってさ……最近流行ってるあの札……みたいな?」
「同じものではありますが……あの札は呪としての機能を果たせていません。貴女にかかっている呪はもっと強力なものです。量産品のお札なんか比べ物になりません」
ここまで強力なものだと、私たちは術と呼んでいます、と彼女は続けた。
術というものにはなんとなく覚えがある。主が私の額にキスをすると眠気に抗えなくなる、ということが何度かあった。あれも術の一種だったのだろうかと訊ねればその通りですと返ってきた。
今、私にかけられているという術も、誰がかけたかなんて一人しか思い浮かばない。
「……主様」
私はポツリとその名前を呼んだ。




