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捨てる神あれば、ってやつ?(上)

「……ちゃん、おい……」


 誰の声だろう、と聞き耳を立てる。野太い声は私の肩を揺さぶりながら懐かしい呼び方で私を呼んだ。


「ばーちゃん?しっかりしろ〜」

「……っ!!」


 その言語の種類に気が付いた瞬間、私は目をカッと見開き、目の前にいた人物を凝視していた。

 懐かしい呼び方のはずだ。だって、それは日本語なのだから。


 はっはっと浅い呼吸を繰り返す私を、目の前の人もまた見つめていた。顔が赤く、焦点がフラフラと動く様を見るに、酔っ払っているらしい。その酔っ払いは無遠慮に私の顔に自身の顔を近づけると、「ん〜〜?」と目を細めて顎をしゃくった。


「目が、真っ赤だぞー?泣いてたのかい?」


 真っ赤と言われて自分の顔に手をやってギョッとする。サングラスがない。ついでに言えば、髪も白いまま。

 だからばあちゃんと呼ばれたのか、一人納得する。この酔っ払いは真っ白な私の頭を見てそう決め付けたのだろう。

 しかし、なんというか。真っ赤な目を見て笑っていられるこのおっちゃんは随分と図太い精神をお持ちのようだ。

 こんな薄暗い場所に白髪で赤眼の人間がいたら気味が悪いと倦厭しそうなものだが。


「大丈夫ですので……それでは」


 目を隠しながら立ち上がったせいか、何かを蹴ってしまった。慌てて下を見ると鞄があることに気が付いた。なんてことのない黒の鞄だ。だが、私はその鞄に見覚えがあった。

 それもそのはず、私の仕事用の鞄だ。

 鞄を引っ付かんで駆け出した私は自分が今どこにいるのか途中で気がついた。

 途中で壁に貼り付けられた写真を見つけた。

 印刷された文字は『情報求む』。貼られているのは髪が黒かった頃の私の顔。見覚えのあるそれは確か学生証の写真だったはずだ。色々と調べて、中は白シャツにし、肩のラインが分かる黒のジャケットをきた、まだ若い頃の自分。就活生みたいだと幼馴染に馬鹿にされた一品だ。

 せり上げたもので胸が塞がれる。立ち止まったせいで反響する靴音がやけに耳につく。恐らく上を電車が通ったのだろう、ガタンガタンと激しい音が近付いて、そして遠ざかっていった。


 どうやら私は帰ってきてしまったらしい——日本(故郷)へと。




   *    *    *




 ガード下から出て取り敢えず向かったのは公園だ。小さな公園には街灯が一つしかなかった。が、人気が無いのは有難い。

 ベンチに座って鞄を開けた私は中身を見て呻いた。

 中には札束が十、因みに日本円。久しぶりに会ったね諭吉君……じゃないわ!

 どうりで重たいわけだと頭を抱える。なんで現生。なんでこんな大量に。

 今職質されたら待ったなしで事情聴取だ。

 取り敢えず新札の紙幣は見なかったことにして鞄の中身を確認すると、他にも私愛用の特殊警棒と私名義の通帳を見つけた。

 警棒は分かるのだが通帳はバンク・オブ・ニューヨークのもの。こんなもの作った覚えがない。

 しかし名義は確かにディアナ・ブランシェットなのだ。訝しげに中身を見た私は驚愕で目を見開いた。

 天文学的数字がそこには並んでいた。

 預金額の合計は数学でしか見たことのないような桁になっている。


「………………せん、ひゃくまん、で、いっせんま……い、いやいや待て待て待て待て」


 もう一度と震える声で数えてもその額は変わらない。しかも、驚くべきは、これは日本円ではなくドルだということ。つまり、あと二桁は増える。ありえない額の書かれた通帳に呆然とした。

 私は一体何を期待されてこんな……大金なんて言葉で済まされないような額の金を持たされたのか。人生を三回送っても余るような数字だ。

 もしやこれは手切れ金とかいう奴だったりするのだろうか。他には、口止め料か……。


「……こわっ」


 額が大きすぎて使う気になれない。

 何か手紙でも入っているのではないかと鞄の中を漁ったが出てくるのは諭吉、諭吉、諭吉、諭吉……うざい!

 だからと言って無防備にベンチの上にたくさんの諭吉を重ねるのは躊躇するため、結局鞄の中の諭吉にイラつきながら捜索を続けた。が、出てきたのは、最初に言った三点のみで、ケータイはおろかノートパソコンも、手帳もない。

 それらがない私に彼らに連絡を取る術はない。ネットで調べても出てくることはない。スヴェルドルフの代理人は世界の七不思議になる程のシークレットだ。そんな簡単に個人情報が出てきたら、元秘書の身としてはとても困る。

 はぁと溜息が勝手に出る。

 主は私と二度と会わないつもりらしい。徹底ぶりを見れば嫌でも分かる。

 こうなると知っていたならナンバーぐらい覚えていたのに。しくったと今更嘆いても後の祭りだ。


 大金を抱えたまま空をぼんやりと見上げる。浮かんだ三日月が下弦の月だったか、上弦の月だったか……そんなことも思い出せない。


「……ブランは大丈夫かなぁ」


 吸血鬼の気配に敏感で近付かれるのを嫌がるブランは今どこにいるだろう。イリーナと一緒ならストレスで禿げることもないと思うが……主と一緒にいるのならその限りじゃない。


「できればブランは一緒がよかったな……」


 ブランは私が見つけた大事な友人だ。こんな金よりもブランが隣にいてくれた方が、比べものにならないくらい嬉しい。私にとってはそれくらいかけがえのない存在だった。

 それはジュード達とて同じこと。兄や姉、弟、友人、好きな人を私はいっぺんに失ってしまった。

 あの大金はそれに対する慰謝料なのでは、と今更ながらに思い当たった。もしそうなら、とても腹立たしい。切り捨てるのなら余計な慈悲も与えないでほしい。この金を見るたびに彼らを思い出してしまうじゃないか。

 それは今の私にはとても辛い。



 いつまで腐ってても仕方がないと立ち上がった私は、どこへ行くべきかとても悩んだ。

 こんな大金を持ったままうろつくのはとても怖い。勿論、普通の人間にどうにかされるような柔な自分でもないが、やはり落としたらと思うととても怖い。

 早いとこどこかに隠すなりなんなりするべきだろう。


 警察に保護してもらうことも一度は考えた。だが、スヴェルドルフの代理人であったことを明かさずにはこの六年間を説明できそうにない。


 吸血鬼に襲われまして。助けてくれた人はスヴェルドルフの会長で、英才教育を施され会長の秘書をしていました。そして会長と関係を持ったが捨てられました。慰謝料に大金を渡されました。


 え、それ、なんていう漫画ですか。……最後すごい俗っぽいけど。

 まず頭を疑われるだろう。嘘は一つもないのに、これほど嘘っぽい話もない。経験したはずの自分ですらそう思うのだから、第三者は余計にそう思うはずだ。

 それ以前に自分がスヴェルドルフの代理人と関わりがあったことを誰かに言うつもりはない。ここで重要機密を誰かに漏らすことは卑怯だと私は思うし、何より腹いせのように見えて格好悪い。

 わざわざ彼らの不利益になるような行動は控えようと思っている。曲がりなりにもスヴェルドルフの一員だった私にだってプライドはある。

 どうせ彼らの秘密を私がバラした所で何も言ってこないだろうとは思う。だが、自らをも貶める行為はしたくない。

 よって警察へ保護してもらうという案は没。

 次に思いついたのは実家を訪ねること。今自分がいる公園はバイト先へ通勤するのに使っていた道だ。ここから家まで徒歩で十五分程度はかかるが、所詮十五分である。すぐに着く。

 しかし、この案も泣く泣く没にする。家族に自分が生きていることを伝えれば、家族は私の戸籍について悩むだろう。死亡届を今更取り消すことができるかは不明だが、出来ないことではないと思う。しかし、手続きには役所へ行く必要がある。私の失踪中のことを伏せつつ、秘密裏にその手続きを終わらせるのは不可能のように思えた。

 下手に答えれば不法入国で監獄行き、もしくは精神病院行き。どのみち最後は檻の中、だ。情状酌量の余地なんて考える意味がない。誰かに監視されるような立場になりたくないのだから。

 結局宿を取るというなんの変哲もない案に行き着く。金はある。……できれば使いたくはないが、この大金を守るためだ。どこかに部屋をとって金庫の中に閉まっておく。それが、銀行の口座すら作れない今の私にとって最適な案だ。

 カバンを背負い直すと、ひとまずホテルを取ろうとここから一番近い駅へと向かって歩き出す。

 ここから駅へはそれなりに距離があるのだが、それでもかかるのは三十分程度。日の昇る昼ならまだしも、今は夜。決して歩けない距離ではない。

 少し先を行けばタクシーがよく通る大通りがあった。だが、私はあえてそれに乗ることを選択しない。タクシーなんて金の無駄にしかならない。今の私は借金まみれのようなものだ。それを金があると勘違いすることは絶対にできない。したら破滅が待っている気がする。

 それに、今のうちに見ておきたい場所があった。

 そんな理由もあってタクシーを捕まえる気は無かった。


 はぁっと息を吐くと白い蒸気が冷えた空気の中に霧散していく。街行く人は皆どことなく楽しげだ。

 明るいコンビニの前を偶然通りかかり、周りの人が笑顔を浮かべる理由を知った。


「降誕祭、ねぇ」


 もうそんな時期かと少し感慨深く思った。この六年、それを楽しんだことは一度もない。だから忘れていたのかもしれない。


 私は意図的に背中を丸めると、いつの間にか止めていた足をまた動かし始める。なるべくゆっくりになるよう心がけて歩くのは骨のいる作業だったが、そうでもしないと真っ白な髪が注目を集めてしまう。コンビニから出てきたカップルが私の顔と頭を何度も交互に見たのを見て気がついた。背筋の伸びた女と、白髪がうまく結びつかなかったようだ。

 会社へ行く用の小洒落たカバンも弊害になったらしい。コートの中に隠すようにしてカバンを持った。


「……さむ」


 ついでに、コートの襟を搔きよせて口元に引き上げると共に真っ白な髪をその中へ隠す。

 私が着ているのは愛用していたものと違うコートだ。ダウンは向こうで着たことがない。どうせ防寒着を恵んでくれるというのなら、マフラーと手袋も付けて欲しかったなと、愚痴がポロリポロリと道に落ちていく。

 まるで森に撒かれたパンくずのように。

 それはきっとすぐに消えてなくなるはずだ。


 それから三十分程歩いて、私は駅まで残り僅かといった所まで来ていた。

 のたりのたりと歩いたせいで思ったよりも時間がかかったが、あともう少しだ。

 だが、私は今まで真っ直ぐ歩いていた足を止め、横道へそれる。迷子になったわけではない。行きたい場所がこの先にあった。

 歩いて行くと見慣れた家々が目に入る。

 近所の岩塚さん、江藤さん、山田さん、河原さん。全く変わらない家の並びに僅かどころではなくホッとする。安堵とかそういう感情からではなく、安心感というべきか。……遠くへ旅行して帰ってくる時、家へ近付くと共に見慣れた道が目につくと「帰ってきたんだな」という安心感を抱くことがある。それに似ている。

 帰ってきた、という実感が今更ながら再び湧いてきて、私は胸を押さえた。

 一度は捨てようと思った場所だった。家族よりも彼らを取ろうとした。しかし、それを選んだことによって気付かぬ内に無理をしていたようだ、と嬉しそうにはねる心臓の鼓動を聞きながら思った。


 河原さんの隣の田山さんの家の角を曲がった先に私の家はある。もう残りあと少しだ。家まで数百メートルもない。ともすれば駆け出しそうになる足に言うことを聞かせながらゆっくり歩く。

 家族に私の生存を知らせる気はもうない。張り紙を貼ってまで探してくれた両親には申し訳なく思うが、話せば話すほど家族を面倒な状況に巻き込むこととなる。家族のことを考えると無闇に会うべきではないと結論付けた。だから私は近くからそっと見るだけだ。元気そうであれば、笑顔で去って駅への道を進むだけ。

 ああ……でも、道場も見ておきたい。家に隣接する道場で祖父に空手道を習った。幼馴染と弟と共に通って鍛えられた。男二人は中学に上がってやめてしまったが、私の肌にはあっていたようで、それで大学までスポーツ推薦で行かせてもらえたのだから空手様々だ。


 曲がり角まで来ても私は足を止めなかった。緊張は指が震えるほどしていたが、喜びで足が勝手に動いただけだ。ただ、その喜びが裏切られるような景色が先にあるとは知らなかっただけだ。


 どさりという何かが落ちたような音にも気付かずに私はそれを凝視する。

 打ちっ放しコンクリートの壁。

 それなりに車の停められた駐車場。

 横に二つ、縦に四つ。光の漏れる窓はそのうちの六つ。どの部屋にもカーテンがかかっている。


 ——私の視線の先には見知らぬ集合住宅があった。随分小綺麗なそこは築数年のようだ。入居者は募集していないらしい。

 道場も、友人に立派だねとよく言われた日本家屋も、何もない。


 嘘。

 認めきれずに否定の言葉を吐けば、消えると信じていた。なのに。


「誰か、嘘だと言ってよ!!」


 叫んでもその現実(マンション)が消えることはなかった。


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