私に教えてください(下)
本日二回目のアップです
ご注意を
目の下を乱暴に拭い改めて見上げた主は、いつものようにそこから読み取れる感情はない。
崩れたと思った相貌も今や、憎らしいほどいつも通りだ。私はこんなにもぐちゃぐちゃの顔をしているというのに。
それでも最近は砕けた姿をよく見ていた気がした。少しだけ口角をあげ、少しだけ目尻を垂らす。そんな顔を主はたまにした。
あれは紛れもない笑顔だったはずだ。少々上調子の声を聞く度に心が弾んだ。主の目尻に微かに浮かぶ笑い皺のようなものを目にする度に心がどこかに持っていかれるような気がした。それで最後は顔を見合わせてどこからともなくくすりと笑う、それだけで辛いことなんて全て無くなった。
「……お前を見つけたのは日本だった。血塗れのまま倒れたお前の首には吸血鬼の噛み跡があった。……お前には言わずにいたが、吸血鬼は牙から毒が出る。その毒が全身に回った時に人は吸血鬼になる。お前の体に毒が回っているのは一目瞭然だった」
滔々と話し始めた主の瞳に視線を合わせる。主は私を見ているようで違う所を見ている。おそらく見ているのは過去。
「このまま置いていくのは酷だろうと思った。私がお前を吸血鬼にしたわけではなかったが、お前が吸血鬼になるというのなら面倒くらいは見てやろうと。それでお前を連れて帰った」
だが、とそこで主は言葉を切る。その先の言葉を私は予想できていた。
「お前は吸血鬼にならなかった」
そうだ。その通りだ。私はあの吸血鬼に噛まれた。なのに私は今も人間だ。だから主の餌でいられるのだし、一時期私は吸血鬼になることを恐れたのだ。
「……たまにいるんだ、吸血鬼の毒に抗体を持つ奴が」
私のように?
口に出さなかった言葉が「お前のように」と主の口から告げられる。
「そういう奴は大抵体に障害を負う。お前のように日に弱くなったり、目が弱くなったりする事が多い。吸血鬼として不完全な存在になる。——成長はするくせに血は欲しがる奴、一部だけ成長を続ける奴、細胞が元に戻らない奴……たまに、時間が経ってから吸血鬼になる奴もいる。そういう完全な吸血鬼でない奴らを私達は便宜上『パラヴィーナ』と呼んでいる」
パラヴィーナ、それはロシア語で時計の三十分を示す言葉だ。一時間の半分、つまり二分の一を示す。
二分の一。半分人間で、半分吸血鬼。吸血鬼の毒へ抗体を持っていたらしい私もその『パラヴィーナ』に分類されるのだろう。
「その場で吸血鬼にならずとも、後から吸血鬼になる可能性があった。そうなった時日本で一人で生きていくことなんて不可能に近い。吸血鬼の存在をバラすことに繫がる可能性もある。だから私は日本にお前を戻すことはしなかった。お前がそうなった時は、なるべくお前の意思に沿うように面倒を見てやるつもりだった」
主はそこで言葉を切った。言われなくとも分かってしまう、あえて主が続けなかった言葉が。
私は人間のままだ。そのことは当事者である私が一番よく知っている。
髪を切ったところで一晩で元に戻ったりしない。生理だってピルのおかげで定期的に訪れる。何より、彼らの言う吸血衝動というものを私は感じたことがない。
血液は血液だ。赤くて、しょっぱくて、微かに鉄のような香りがする。命じられれば飲むこともできるだろうが、それを自らの命を繋ぐ食べ物として見ることは生理的に無理だ。
だから、私は自分が人間だと分かる。その血を食べ物として見る主もよく分かっているだろう。
「……人の体は大抵六年ほどで、入れ替わるそうだ。事実、噛まれてから五年以上経ったパラヴィーナが吸血鬼へとなることはない。もうお前が吸血鬼になることはないだろう」
五年という数字が、主と結んだ契約の年数と合致することに気が付いた時、私は全てが腑に落ちた。
偶然ではなかった。主の怒りを買って、契約を結んだのは偶然なんかではなかった。全ては主の思うがまま。
出会った当初に抱いた不信感の謎が解けた。主に出会ったあの時に主が怒りを見せた理由、細かく定められた理不尽なルール。どうしてその方法をとったのかは分からないが、なにをしたくて契約を結んだのかは分かった。
「……本当に全て決まっていたのですね」
私が噛まれたのを主が見た瞬間に。
私の目はいずれ見えるようになることも。主の不興を買うことも。主と五年仕えるという契約を交わすことも。主の秘書をすることも。五年後、主の側を離れなければいけないことも。
だいたい、分かるはずがないんだ。パラヴィーナだとかいう重要なワードも教えてもらえず、自分がそんな事態にあることも知らされず。大事な情報が抜けた状態で、ここまで予想できるわけがない。
主の計画は決して綿密なものではなかった。穴だらけだった。だが、何も知らず、力もない私にはそれで十分だった。
吸血鬼の存在を隠そうとしていた理由も今なら分かる。吸血鬼の存在を知る人間を野放しになんてとてもじゃないができないだろう。命取りになる。
それを考えると、主は本当に私の血を飲む気はなかったらしい。
だが、ここで主は一つ失敗した。
主は恐らく私の血は飲まず、吸血鬼の存在を知らせないまま契約を終わらせるはずだった。そして、私は彼らの輪の外に放逐される。そのはずだった。
偶然私が部屋を間違えなければ。部屋を間違えたと気付いた時、すぐに部屋から出ていれば。部屋の扉を開けなければ。部屋の中を見なければ。
もしかしたらその時は吸血鬼の存在を知らずにいられたかもしれない。しかし、あくまでも『その時』限定で、いずれは吸血鬼の存在を知っていたように思う。
主の最大の失敗は私の血を軽視したことだ。飲まずにいられると、本気で思っていたのだろう。でなければ、私を主の手の中から解放するという選択肢を選ぶはずがない。最初から、吸血鬼にならない時は自分の餌にするつもりで連れ帰ればよかったのだから。
余計な教育なんて施さず、檻の中に突っ込んで、ただ血を飲まれるだけの存在にすればよかった。
「……主様」
ついと顔を上げた私を見て、主は何を思っただろう。全く変わらない表情は私に主の感情を思う余地を無くした。
「契約の延長は可能ですか?」
主は結局私の血を飲んだ。私以外はいらないと言った。
それだけ魅力的な餌を、どうしてわざわざ手放すと言うのか。餌は餌でいいと言っている。
なのに、主は首を振る。その選択肢は無いとばかりに。
「……理由を聞いてもいいですか」
別に選択肢なんて作ればいい。ゲームでは無いのだから。少なくとも主にはその選択肢を無理矢理作るだけの力ある。無力な私とは違う。私を食べたければその選択肢を作ればいい。なのに、何故拒むのか。
睨む私の顔を見て、主は微かに笑った。
「お前の意思を叶えるためだ」
本気で何を言っているのか分からなかった。
「……私の、意思?」
私の意思は『主の側のいること』で、決して主から離れることをよしとしているわけではない。寧ろそれは最悪な結末だと思っている。
なのに、主は『主から離れること』を私の意思だと言う。
ふざけるなと思った。
「私の意思はっ、貴方の側にいることです!!」
何故勝手に私の意思を主が決める。
私の感情は主のものではない。この想いは私のものだ。
だが、主は「それは違う」と言う。
「お前は私に『おばあちゃんになってから死ぬと思った』と言ったはずだ……お前は覚えていないかも知れないが」
目が痛いほど開く。どうしてそれを、と声に出そうとしてあの凄惨な現場に主がいたことを思い出した。
「お前は人間で、寿命も違う。……お前は私を愛したのだろう」
バレていた。私が契約に縋って、主の餌でいたい理由もきっと。主は全て分かって言っている。寧ろ隠せていると思っていた私がおかしいのか。
「ジュード達から聞いているだろうが、吸血鬼にはそういった感情が備わっていない。お前が私を愛そうと、私がお前に同じ感情を返すことはない……絶対に」
念押しのように付け足された『絶対』という言葉。
ショックだった。同時に愕然とした。そしてその感情に気がついて絶望した。
この瞬間、私は自身の気持ちに正しく気付かされた。
本当は吸血鬼と人は愛を育めるのではないかと知らずのうちに期待していた自分に気付かされた。
餌でいいんだ、と心の底から思っているはずだったのに、それは全て打算で塗り固められた自分すらをも騙す嘘だった。
しかし、それでもいいから主の側にいたいという気持ちは未だに変わらない。もしかすると変わらせることができないだけなのかもしれないけれど。
ここまで来たら意地だ。なんでもいい、とにかく主の側にいられればいい。
なのに主は更に私を突き放す。
「私はお前の言葉を知って興味を持った。できるなら叶えてやりたいと思った。だが、私を愛してもそれは叶わない。私は子供を作る気はない。それでは、おばあちゃんに、というお前の願いは叶わない」
「別に子供なんて——」
「食べるものも違ければ、寿命も違う。……考えてもみろ、お前が餌として用立てなくなった時お前は少なくとも今よりは老いている。結婚も望めない可能性もある」
寧ろその方が高いだろうと言った主は思ったよりも状況をよく理解していた。
「お前は耐えられるか?周りの女は夫との間に子を作り、孫の顔を見、夫と共に老いて死んでいくというのに、お前を餌としか見られない。愛情はない。孫どころか子を腕に抱くことも叶わない。いつかは捨てられると分かっている未来に怯えて、愛されないままに老いていく自分に絶望して、独り死んでいく。その時に後悔しないと言い切れるのか?」
主は状況を理解すると共に、主自身のこともよく分かっていた。
そして、それらは私に対して最大限気遣っている結果だと気が付いてしまったら、言葉に詰まってしまった。主の気遣いを受け入れたいと思う自分と、跳ね除けて頑なに主の側にいることを願う自分。
主の言葉で十年後、二十年後、独りでいる自分を一瞬想像してしまった。そうしたら、なりふり構わずに主の側にいたいと叫べなかった。
寂しい人生が怖かった。恐ろしかった。
主は私の弱さに気付いていた。それを親切に教えてくれただけだ。事実そのことを一瞬でも恐れたのは誰でもない私だ。文句を言われる筋合いはないだろう。
それでも、「ならば何故」と恨みがましく思ってしまう私は自分でも面倒くさい女だと思う。
笑いかけてくれなければ。
抱かなければ。
私の血を飲まなければ。
食事を用意してくれなければ。
私の頭を撫でたりしなければ。
私のことなんて放っておいてくれれば。
あの時私を見殺しにしてくれれば。
ここまで好きにならなかった。
私を手放すと分かっていたのであれば、主は何が何でも私に手を出すべきではなかった。あんな労わるように頭を撫でて、愛でるように体を引き寄せて、貪るように抱く。そんなことされれば誰だって恋に堕ちる。
それでいて恋をするなとは随分酷な話ではないか。
所詮言ったとことで何も変わらない。主が私を放るのはもう変えられようのないことだ。嫌という程思い知らされた。
言いたい言葉を全て胸に収めて、代わりに主を睨めつける。
「貴方は非道い方です」
「……そうだ」
私は非道い。主はさも当たり前のように言った。
「だから私のことは忘れてしまえ」
これは全て夢だったと、そう思えと主は言った。
「もう私の言いつけを守る必要はない。私の命令に従う必要も」
その時彼は笑った。初めて見る笑顔だった。とても——言い表せないほど哀しそうな笑みだった。
その笑顔がいくら危険なものか分かっていても、魅力的なそれから目を反らすことはできなかった。
ゆっくりと迫る主。そして。
私の額に彼は一度キスをした。
それに術がかけられていたと気付くのは一秒後、崩れる自分の体を主はそのままの姿勢で見ていた。
私は床に倒れた後も主の真意が知りたくて、ともすれば閉じようとする瞼に抗いながらそのロマンスグレーの瞳を懸命に見上げる。
だが、そこから理解できることは何も、何一つとしてなかった。
「ハヅキ」
ハヅキ。それは私の名前だ。それも違和感も何もない。言い慣れたような響きが私の耳に届く。
愕然とした思いで、必死に主を見上げる。
なんでこのタイミングで名前を呼ぶの。あんまり呼んでくれなかったのに。
名前で呼ばれた時は笑顔で頷きたいと思っていたのに。
主は私の頭に手を伸ばした。何度も撫でてくた大きな手。あの手が私を慰めてくれた。優しくしてくれた。好きになってしまった。
やめて。触れるぐらいなら連れて行って——そんな事すらもう言えない。
何も言わしてくれない。
「お前に最後に一つだけ、命を下そう」
私の髪の毛をさらりと撫で上げて彼は一言告げた。
「必ず幸せになれ」
何それ。
どの面さげてそんなこと言うの。
独りよがりにもほどがある。
こんな唐突に、無理やりに別れを言っておいて、どんな精神をしているのか。
私の幸せを思うなら、このまま連れて行けばいい。私が老いるまで餌として、つき従わせればいい。それだけで私は幸せになれる。
なのに。
貴方は私を置いていく。煩わしいものを捨てて、私の手の届かない遠くへ。
「卑怯者」
それは声になったのか、ならなかったのか。
傍観していた私が「滑稽ね」とつぶやいたのを、薄れゆく意識の中で聞いた気がした。
なんだか皆さんに怒られそうな展開……どうにかして軌道修正をしようと足掻いたけど無理でした_(:3 」∠)_
主様頑固すぎ。これだから頭の固いおっさんは(褒め言葉)
残り10話程度の予定(あくまで予定です。最初なんて10話で完結の予定だったのに、現在その4倍。おかしい)なのでちょっと頑張って執筆スピード上げたいと思います




