私に教えてください(上)
カタンと近くで何かが落ちる物音が聞こえた。同時にそこにいた何かが息を詰める音も。
最初ノエルがどこかへ行こうとした時に誤って落としてしまったのかと思った。だがすぐに、ノエルは「今夜は食事をしに行くから」と、出かけていることを思い出した。
「……ブラン?」
寝起きの掠れ声で猫を呼ぶ。そうすれば大抵あの子は私の腕に擦り寄ってくるのだが、今日は返事がなかった。
おいでー、ともう一度呼びかけるもやはり反応はない。どうしたのだろうか。何かあったのか、怪我でもして動けないのかと不安に思ったところで、微かに香る甘い匂いに気が付いた。
ノエルのものとは違うそれ。ありえないと思いつつもその香りの人の名を呼んだ。
「あるじ、さま……?」
呼ぶと同時に確信めいたものが生まれてくる。
姿は見えないし、それに、主の予定ではまだ帰ってくる日ではないのだ。
だが、長いこと共にいた主の気配を私が間違えることなんて決してない。
「どうしたのですか?」
もう目ははっきり醒めてしまっていて、淀みない口調で物音のした方へ声をかける。
確かにまだ気配はあるのに返答はない。訝しみながらベッドから降りる。
「……主様?何かありましたか?」
今はロシアにいるはずの主が、しかもこんな夜分に訪れるなんてただ事ではない。
しかし、何も言ってくれない主に不安が募る。
「主様……?」
「寝ていると思ったんだ」
唐突に、主はそう告げた。
そう言い終えて主は部屋から出て行こうとする。私は慌てて主の後を追った。
寝ていたら何をする気だったのか。
「まっ……待ってください!」
廊下に出た主の腕を無礼ながらも掴めたことに一瞬安堵するが、同時に躊躇う。衝動的に主を引き留めようと思い、そうできたのはいいものの何を聞くか用意をしていなかった。
何を言うか迷った挙句、主の無言の圧力にはっと浮かんだことを吟味することなく口にする。
「あ、あの……寝てた方がよかったのであれば、今から寝ます……よ?」
……言うに事欠いてそんなことか!
顔が真っ赤になった。
後悔先に立たず。覆水盆に返らず。主の前で何度この言葉を痛感すればいいのだろう。こんなことしか絞りだせない自分の脳味噌は絶望的に救いがない。
床だけを見つめ、掴んだ腕は震えさすという体たらくさで私はお沙汰を待った。
しかし、一向に反応を見せない主に痺れを切らして、彼の腕を掴んだまま私は顔をゆっくりと上げ——そして固まった。
彼のロマンスグレー色の瞳は、闇の中でも微かな光を放つ不思議な色をしていた。その光に私は慄く。主が私を見下ろす視線の中に優しさなど欠片も見えなかった。
主の瞳は、下位のものを見る圧倒的強者の瞳。その中に紛れているのは侮蔑だろうか。
背筋が凍える。久しぶりに感じたこの感情の名前を私は知っている。
体が震えるなんていつ振りだろう。
この人をここまで恐ろしいと感じたのはいつ振りだろう。
——そうだ、ノエルに対して怒りを見せた時だ。
主に触れることそれは赦される行為なのだと、どこかで甘えていたことに今ようやく気付いた。以前は口を聞くのにも精神をすり減らす程気を遣っていたというのに。いつの間にかそんなことはなくなっていた。
何故そんな相手に私は舐めた口を聞けていたのか、それは目の前の獣が牙を隠していただけに他ならない。
今だって、私が無理やり主に触れようと手を伸ばしても怒りを買うことはないだろうと思っていた。それが甘かった。
何故こんなにも突然、態度が変わってしまったのだろうか。主に仕えてあと一月で五年が経つ。それくらい長い間付き合ってきた。この間だって自らこのままの関係を続けたいと言ったばかりだ、それなのに何故急に——
その瞬間気がついてしまった。
気が付いて、私は狼狽えたが、すぐにその考えを打ち消す。約束の日までまだあと一月もある。私の勘は間違っているはずだ。
だが、主が口を開いた時、私は、打ち消した自身の直感が正しかったことを知る。
主はそのままの表情で何の感慨もなしに。
「……ご苦労だった」
それだけを言ったのだ。
その言葉は私がお役御免になったことを告げていた。
「な……ぜ、ですか」
そんなこと到底納得できるはずない。なんでこんな急に契約を終わらせる。約束までまだ一月残っている。
しかし、私にその疑問をぶつけることは叶わない。私は従者なのだから本来このようなことすら聞いてはいけない。
だが、口は勝手に動いていた。
「なぜ、そのようなことを」
……脅えるな、自分。
今にも逃げ出しそうな自分の足に向かって叱咤していた。そうでもしないともう持ちそうになかったのだ。少しでも力を抜けば膝を床に打ち付けること必至。それぐらい足に力が入っていない。
なのに。
勇気を振り絞って聞いたのに、主は答えをくれなかった。
「お前の役目は終わりだ……どこへとなり行くがいい」
主はそこまで言って、私の姿を視界から外した。それから玄関のある方へと体を翻す。
……嫌な予感がした。
今主の手を離してはいけない。離せば最後、一生後悔する。そんな気がした。
衝動に突き動かされて指を首に沿って動かす。
思うままに動いた結果だった。
匂いを嗅ぎつけて一瞬で振り向いた主に微笑みを返す。
私を見た主が喉を鳴らすのを聞いた。
「——主様?飲まないのですか?」
私は自分の爪で首を掻き切っていた。
温かいものが首を滴り落ちていく。
私は知っている。主がこの三週間何も口にしていないことを。
今主は最高に飢えていることだろう。そんな主が私の血の匂いを嗅いで我慢できるはず無い。できるわけがない。
「我慢する必要なんてありませんよ」
私は笑う。「貴方の僕なのですから」と言って、また笑う。
「お好きなだけお飲みください」
私の声が終わるより早く、主は私の首に貪りついた。
——私は自分の血を囮にした。
我ながら甘美な罠だったと思う。
頭は興奮している。
体は高揚している。
そんな私を、私は離れたところから見ている気分だった。
私を眺める私は酷く冷めた目をしていた。
主は何か言いたげな顔をした。血を飲んで欲求が少し和らいだのだ。だから他のことを考える余裕ができたのだ。
それには気付かないフリをして主にしがみつく。主に何も考えさせたくなかった。私のことだけを考えていて欲しかった。
主に必死にしがみついて、高い声をあげる。
それでいい。
私を思うままに貪れば良い。
主が私から離れられないぐらい私の血の香りに酔っていると知っていた。私の血の味に溺れてると私は知っていた。
他の女を見繕うことなんて幾らでもできたはずだ。なのに、主は私を抱いてから、血を喰らってから、他の女を一切抱かなくなった。私以上を見つけられないと言った。私が主の唯一だと言った。
今だって、見つけられてないんでしょ。私以上に美味しい血なんて。
こんな飲んで吸って貪って、それが証拠になる。
……そんな体たらくで私を手放せると?——寝言は寝てから言ってよ。
そう思えてしまうほどには私は傲慢で、冷静に状況を見ることができていた。
主の上に乗る。首筋から流れる血はいつの間にか止まっていた。
「主様……」
もう自分の甘い声を何とも思わなくなっていた。
呼べば呼ぶほど主の動きは強くなっていく。一際強い衝撃に声を上げた時だった。
————ゴーン……
辺りに響く低い音にハッと顔をあげる。二人の動きが止まった。
鳴らしたのは壁の古時計だった。結局ジュードに支払わせた時計。
夜中だというのに、空気も読めないそれは低い鐘の音を響かせ続ける。
その時計を主は見た。何の表情も浮かべずに。まるで、感情というものが主から抜け落ちてしまったようだった。
さっきまでの恍惚とした色が主の顔から見いだせない。
「どう、したのですか……」
ようやく掠れた声を絞り出した時、主の口元から赤いものが滲み出す。
何故、それが。
思った瞬間、主は私の中から出て行った。
予想していない動きに私は主の顔を見つめる。主は冷めていた。その様は夢から醒めたと言っても差し支えがない。
嫌な予感が強くなる。その予感を振り切るように私は体を倒して主にキスをしようとする。なのに、その前に、主は口を開いた。
「……おめでとう」
唐突な祝いの言葉が耳に届く。それは想像とかけ離れた言葉で、余りにも場にそぐわない。面食らう私に主は告げた。
「たった今、契約は終わった」
契約は終わった——その言葉を何度も頭の中で反芻し、気付いた事実に目を見張る。
「もう、お前は自由の身だ」
脳に電気が走った気がした。
思い出した。
今、十二月の九日になった。
今日は。五年前の今日は。
「じゃあ、なんで」
何故今の今まで忘れていたのか。
「嘘、を、ついたのですか?」
十二月の九日——その日は今の私が主と初めて会った日だった。
カタカタと手が小刻みに震えだす。
主の中での契約の開始はこの日だったのだ。
私はまだ一ヶ月先だと思っていた。だが、主の中では違ったのだ。
私が勝手に勘違いをして、認識にズレを生んでいた。それだけのことだ。だからと言って、この契約終了という言葉が納得できるわけでもない。
視界がぐらぐらした。耳鳴りもする。
「私のこと離さないって」
「……」
「側にいろって」
「……」
「言ったじゃないですか」
「……すまない」
主の謝罪を聞いた時、頭の中で何かの切れる音を聞いた。
「なんで謝るの!?謝る必要なんてないじゃない!これからも、側にいろって、血を寄越せって、言えばいいだけでしょう!!」
「全て私が悪かった……すまない」
信じられないものを見たとばかりに目が丸くなる。
「私が悪いんだ」
違う。やめて。
貴方が悪いとか関係ない。
「……やめてよ」
「すまない」
「やめて……っ!!!」
謝らないでほしかった。
私はただ、彼を繋ぎ止めただけだったのに。
欲しいのは謝罪なんかじゃない。側にいろって言葉だけだ。
なのに、そんな謝罪をされたら嫌でも思い知らされてしまう。現実に打ちのめされてしまう。
私は主の餌でいるしか、側にいる術がない。他に主の側に居られる術はない。だから、ずっと、主が吸血鬼だって知ってからずっと、餌という立場に甘んじていたのに。
それでも主の側に居られるなら、と耐えていたのに。
こんな最後だなんて知らなかった。知りたくなかった。
「主様がっ!私を唯一って言ったから、だからっ、契約が終わっても側にいようって思ったのにっ」
主は喚く私の腰を持ち上げた。全身に力を込めていたのに、主はいとも容易く私を胸の上からから下ろした。
そして呆然とする私の前に彼は膝をついた。
そうだ、これは夢なんだ。妄想だ。
だってありえない。主が私に膝をつくなんて。
「何故ですか、私のこと美味しいって、私のことを囮にされたぐらいであんなにも怒ってくれたじゃないですか……なのに、なんで今私を手放すのですか?」
「今決めたのではない……ずっと前から決まっていたことだ」
「主様は私に、離れるなと言いました。どこにも行くなと言いました……そんなことを言った貴方が私を手放すのですか?」
「契約の間での話だ。それ以外では、どこへ行こうが構わない」
必死に堪えていた涙が頬を伝った。
床に落ちた涙は絨毯の中へと音もなく吸い込まれていく。
「……貴方の側にいたいと言った時、貴方は私を抱きしめてくれました……少しだけ笑ってくれました……あれは全て嘘だったのですか」
なにも言葉を発さない主を真っ直ぐ見上げる。
あの笑顔は嘘ではなかったはずだ。
主がそんなところで嘘をつく必要はない。だから、あれは嘘ではない。嘘のはずがない。
しかし、それも今の主を見ていると嘘だったのではないかと思えてくる。あれらの笑顔は全て気のせいだった、幻覚だったと、そのように思えてくる。
「教えてくださいっ……主様!!」
痛くて、痛くて、辛くて、悲しくて、出た掠れた叫び声。
それを聞いた主がくしゃりと顔を歪めた、気がした。それは本当に気のせいだったと思うほど一瞬のうちの出来事で、主はすぐにいつもの表情を取り戻した。
「……本当は」
主の口に私の目の焦点は移動する。
微かに開いて閉じてを繰り返すその口の動きを見た私は目を丸くする。驚きが隠せない。
その口は「お前の血を飲む気はなかった」と言った。
「……お前がこうなったのも、私に全ての原因がある」
もう一度、すまない、と謝る主を私は呆然と見つめていた。
私の心がガラガラと音を立てて崩れていくのを、私は成す術もなく見ていることしか許されなかった。
区切りが悪いので、本日12:00に下の方もアップします




