平穏、が何よりです(下)
平穏は随分長いこと続いた気がする。
吸血鬼の数も順調に減って、今ではもう近郊に気配は無いという。ノエルを残して、他の隷属は住処に帰ったそうだ。
βがまた来る心配もあったのだが、ノエルが年柄年中側にいるなら問題無いだろうという判断が出たことによってそれは問題視しないことになった。実際あれほど接近を許したのは囮作戦を行っていたからに他ならない。
それにβは基本姿を見られたら最後何十年は近くにも来ないのだという。次に来るときに私が生きているかどうかも分からねぇな、とジュードは笑っていた。
問題が起きたのは別なところでである。吸血鬼とは全く関係無い。
ことの発生はノエルと人騒動があってから約一年後のことだ。
「——合併、ですか?」
「そうなるな」
唐突に持ち上がった話に、主もジュードもイリーナもルシアンも、皆して険しい表情だ。こういう所を見ていると、彼らが吸血鬼だとはとてもじゃないが思えない。人間よりも人間らしく見えてくる。
彼等が悩んでいるのは話は単純で、提携していた企業が不況の波に押されて潰れかけたのだ。新規事業をその企業と進めていたために、こちらにも飛び火した後始末をどうするかという話だ。
そのまま手を引いてしまっても良かったのだが、その企業の持つ独自の技術は見捨てるに惜しい。というわけで吸収合併の方に向かって動くことに決まったのだが、向こうさんは中々の頑固だった。
「始まりがあるならば、終わりは必ず訪れる……だが、これに終わりはあるのだろうか、……?」
「下らないこと言ってる暇あんなら黙って手を動かせ。さっさと訳して文書にまとめろ」
「ジュード達に訳した書類を見せる必要性が感じられない……」
「俺たち基準で考えんじゃねぇ、他の社員のこと頭に入れとけ」
「……そんなの分かってるよ」
ただ少し不満を吐き出したかっただけだ。胡乱な目付きで横を見上げた私の顔はきっと死相が出てる。
机に積み上げられているとはいえ、立ち上がった自分の身長をも超えていく書類の量に、溜息が止まらない。秘書課のお姉様方も仕事が山積みで、上がってくる文書の訳を全て任せきるのは余りにも酷い仕打ちだろうが……だが、この量は無い。結局秘書業だけではなく、ジュード達のように会議にも出されているのだから、尚更きつい、愚痴らなきゃやってられん。
もうこんな状態で二ヶ月が経つ。
「……いつになったら終わるの?」
「……ごめんねハヅキ」
弱音を吐く私の視界に、申し訳なさそうにしているイリーナが入る。その手元の抱えきれないようなぶ厚い紙の束を見た私の頰がひくりと引きつった。
「…………まさか」
「追加よ……」
どさりと重量のある音が死刑勧告に聞こえるほど、私は追い詰められているらしい。
「いやあぁぁぁぁぁ、家に帰りたいいいぃぃぃぃぃ」
「ガタガタうるせぇぞ!」
騒ぐ私にジュードの叱咤が飛ぶ。そんな彼の机の上にも私の机と変わらないほどの書類が置いてあった。
——ほんとお願いだから早く終わって!
願いが天に通じたのか。それから比較的すぐに合併の話は纏まったのだが……その時の私はまだ知らない。
そこが地獄の入り口だということを。
「トラブル、トラブル、トラブル、トラブル……!どこまで行ってもトラブルしかない!!」
「合併の後はそういうもんだ。慣れ親しんだ仕事と違うことをやらされるあちらさんの方が大変なんだ、少しでも改善に努めるのが俺らの役目だろうが」
「チッ……正論吐きやがって」
「……この数カ月で随分荒んだな」
うるさい。
分かっているが愚痴らせて。お願いだから愚痴らせて。
今や合併する前の方が楽だったように思うのだから、この仕事量は普通じゃない。
だが、愚痴を言ったところで仕事が減らないのもまた事実。肩を軽く回してパソコンの画面に集中する。
一刻も早く仕事を終わらせて、事態を落ち着かせなければ死人が出る気がした。
肩こり、腰痛、目の疲れからくる頭痛、それらと戦いながら更に一ヶ月。天井に届く勢いだった書類の束は最近漸く見れるレベルに落ち着いた。それでもまだまだ多いのだが。一番上の書類に手が届く幸せ。
しかし、数ヶ月に及ぶ合併騒動になんとか決着が付きそうな今日この頃。
久しぶりに定時で帰れそうだと、伸びをする。体中バキバキだ。暫く体を動かしていないのが大きいのだろう。
「……そんな余裕なかったからなぁ」
朝に時間を取るどころか、ゆっくり眠ることもままならない毎日だった。
実はこの騒動の合間に私はまた一つ歳をとってしまっている。自分でも誕生日が終わって一週間後に気が付いた。が、正直に言えば気付きたくなかった。何故なら、今回の誕生日で私は二十六歳になってしまったのだ。
とうとう二十代後半に差し掛かってしまった。日本にいた頃はまだ二十歳にすらなっていなかったというのに、まだお酒も飲めない年だったのに——それがもう二十六歳。時間の流れに感動するべきか、絶望するべきか悩むところである。
イリーナが二十五歳で吸血鬼になったそうだから、私は彼女の年上になってしまうのだろうか。……泣きたい。
因みに、ルシアンは三十で、ジュードは二十九の時にだったそうだ。彼らの方がまだ年上だが、それも最早あと数年のことだ。五年もすれば私の方が年上になってしまう。
主だけは詳しいことは分からないというが外見上から四十代辺りだろうとイリーナは見当をつけていた。二十年もすれば軽々と追い越せてしまう。
誕生日なんて祝われたくないと嘆いた母もこのような気持ちだったのだろうか。自分が老いていくのに絶望するような。
……きっと、私の方が絶望度合いは大きいだろうが、今なら母に心から同意できた。
祝われるより、年を重ねない方がよっぽど嬉しい。
そう思うことこそ、年をとった証である事実に打ちのめされながらも私は帰宅準備を整える。
「……暇になったらイリーナと買い物に行こう」
まだ当分先になるだろうが、それでも終わりが見えているだけ気は楽だ。
主が海外へ長期出張してしまうので、暫くはまだ忙しくはあるが、それでも眠る暇もないほど忙しいわけでもない。
主が帰って来ればそれこそ平穏が帰ってくるのだ。これほど嬉しいことはない。
ご機嫌になってふんふんと鼻を鳴らしながらパソコンのセーブをしていると、会議から主が戻ってきた。
立ち上がり挨拶を述べると主は軽く頷いた。その目の下には隈がある。主もこの数カ月で頰がこけた気がする。
無理もない、と心の中で思う。主はここ一ヶ月、私の血を飲んでいない。
同じように部屋に戻る準備を始めた主に向けて「あの……」と声をかける。
「今夜は如何致しますか?」
明日から主は長期で海外に行く。その間一ヶ月。最近の主は何かと忙しく、少なくとも一ヶ月は主と夜を共にしていなかった。
血を飲むにしてもこのタイミングしかないだろうと思っての問いかけだ。
主は、今思い出したと言わんばかりに呻く。無理もない。この一ヶ月は飢えを忘れても仕方が無いほど、忙しかったのだから。
私とてノエルがいなければ何度病院に運ばれたか分からない。食事を摂るのを忘れるくらい働いた。
ノエルがいてよかったと本当に思う。昼夜を問わず働いて、帰った家に食事が用意してあるのはとても有難かった。
「……部屋の鍵を開けておく」
後で主の部屋に来いということだ。
「畏まりました」
腰を折り頭を下げる。視界に入った足がこの場を立ち去ろうとするのが見えた。この様子だと、今日も私が言わなければ飲まずに海外へ行ってしまったに違いない。
この一ヶ月の間に、何度か主の元へ自ら行こうかとも思ったが、それを実行に移す余裕はまるでなかった。呼び止められたらすぐに伺おうとだけ心に決めてはいたのだが、そんな暇あるなら少しでも眠りたいというのが本音だった。従者失格である。
結局今日この時まで主から私に声がかかることは無かった。
私以外で調達している可能性も一度は考えたが、主の目の下のクマと最近のイラつき度合いからそれは無いと結論付けた。むしろ何故ここまでイラついていて血を飲もうとしないのか理解ができない。
……主に呼ばれればすぐに行くのに。
悲しいような悔しいような、よくわからない感情を持て余しながら顔を上げた私は主と目があったことに驚く。立ち去ったのでは無かったのか。
「……先ほどの言葉は撤回する」
挙動不審になった私の方へ主が足を踏み出す。私が十歩は使う距離を主は僅か五、六歩でやってくるのだからやるせ無い。
簡単に私は捕まって担ぎ上げられる。別に逃げやしないのに。
「今すぐ寄越せ」
腹が主の方に圧迫されて苦しい。それから逃げるように体を起こせば、主は既に歩き出していた。
そこで漸く自身の失敗に気付く。
シャワーを浴びてから、主の元を訪ねるべきだった。飢えた獣が私の血の誘惑に勝てるはずが無い。
後悔しても後の祭りというやつだ。
いつも以上に持って行かれたと、ベッドの中でくったりしながら思う。色んな意味で体が重い。先ほどから視界をチカチカとした光が覆い尽くしている。
非常に良く無い兆候だ。
気怠くではなく、本格的に具合の悪そうな私に主もいくらかバツの悪そうな顔をしている。珍しい表情だと心のシャッターを押したのは内緒である。
私は大丈夫と意思表示のために起き上がろうとして、失敗した。頭がズキズキと痛む。
「……悪い」
「我慢のしすぎは体に毒だと、証明されましたね」
主の、ではなく私の、だが。
軽口を叩く余裕が私にあることに主は少なからず安堵したようだ。迫るような緊張感は無くなり、代わりに安堵した空気が主の周りに流れ始めた。
それでも完璧に罪悪感が無くなったわけではないようで、主のいつもはキリッとした眉がどことなく垂れている。
「主様……ご存知ですか?」
「……何をだ?」
「あと二ヶ月で契約期間が切れることを」
「……そうか」
「そうなんですよ」
もうそんな時間が経つのか。
直にお別れだな。
主の言葉に続くのはどちらだろう。それとも、それ以外か。
主の返答はどちらともとれる曖昧なものだった。主が契約のことを忘れるなんてことは無いだろうが、興味のなさそうな返答はそのまま私への興味の表れだろうか。
だとしたら、勝算は薄い。
「……何が言いたい」
それきり押し黙ってしまった私に主が顔を近付ける。ロマンスグレー色の瞳が私を覗き込むから、胸が、詰まってしまった。
この人をずっと見ていたい。
「契約期間が終わっても、私をこのままここに置いてはくれませんか?」
「なに?」
言おうか言わまいかずっと悩んでいた。けれど、覚悟は今決まった。
「私は貴方のために生きたいと思います。家族も故郷も捨てる覚悟です」
私は主のために、それから……自分に正直に生きると決めた。家族以上に大切になってしまったものがここにある。
「それは……」
「主様のお側にいたいのです。どうか一考して頂けませんか?」
餌でもなんでもいい。自分が恋人になれないことはとうに知っている。それでも構わないと思った。虚しさよりも幸福が勝った。私が来ここに残る理由はそれだけで十分なはずだ。
呆れを含ませた、それでいて穏やかな目を主は私に向けた。胸がグッと苦しくなる。ぎゅっと胸を押さえた私を、私よりも数周り大きな体は覆いかぶさるように抱きしめた。
満更でもなさそうな反応だ。私も主の広い背中に手をまわす。たったこれだけのことが、涙が出るほど嬉しい。
五年前と比べると余りに違う暮らし。それを思えば感慨深いものがあった。
二ヶ月後も、三ヶ月後も、一年後も……願わくばそれから先も、ずっとこうやって寝られればいい。恐らくそれは叶わないことだろうけれど……少しでもこの時間が長くなる、それだけで私は幸せだ。二度と小野葉月と名乗れなくても。それだけで私は幸せになれるのだ。
「考えておこう」
「……お帰りになった暁には、答えをお聞かせくださいね?」
「……分かった」
もう空はきっと明るい。主も私もそれほど寝れないだろう。主も同じことを考えていたらしい。今まで横たえていた体を主は起こした。
温もりが離れていくのが寂しくて、無意識に主の頰へ手を伸ばしていたことに遅れて気がついた。
流石に無礼だろうと伸ばしかけていた手を引こうとすると、その手を冷たい大きな手が軽く掴んだ。触れ合った肌の感触に、不安に塗れていた瞳は嬉しさで目尻が垂れる。
「お手伝いしましょうか……?」
「いやいい。……お前は寝ていろ」
そこに私を気遣う気配が見えて、嬉しくて嬉しくて、堪らなくなって笑顔を浮かべる。
「行ってらっしゃいませ……早いお帰りをお待ちしております」
ああ、と耳に心地の良い声を聞きながら私は目を閉じる。本音を言うともう瞼が重くて重くて堪らなかったのだ。言葉に甘えて瞼を閉じた私の額を主が一度だけ撫でていく。
主の戻る一月後が待ち遠しかった。




