あなたは誰ですか?(上)
真夜中であることは確かな時間。
私は、来た、と心の中で呟いた。
静かな足音は扉の前で止まる。静寂が場を支配する。布団が擦れて物音を立てることすら許されないような空間の中で、私は緊張に支配され唾も飲み込めずにいた。
数秒の沈黙、そして、扉が鈍く軋んだ。
静かにその訪問者は近付いてくる。
私はその足音を聞きながら痛いぐらいに高鳴る心臓を意識していた。
枕元でその足音が止まる。この時が緊張のピークだっただろう。心臓の音が聞こえているのではないだろうか、と不安になる程心臓は激しく動き——訪問者の指が、私の頬に触れた時。私はシめたとばかりに手を動かした。
両掌に感覚があることを確認しながら、私は体を起こした。
相手の視線が私に向いているのが分かる。
言え!言うんだ!今しかない!!
何度も練習した「あなたは誰ですか?」を言うだけだ。と頭の中では分かっているのに、口が動かない。
段々と場が白けていき、とうとう自分ですらも言えと叱咤できなくなった。
この場をどう収めればいいのか……途方に暮れていると、私の手の中に収まっていた腕が静かに抜かれた。
あっと小さな声が漏れ出る。
訪問者が帰ってしまうと思った私は焦って、ベッドから身を乗り出して——無様に落ちた。
べしゃっという間抜けな音の後、沈黙の帳が降りる。
泣きたいなって思った。
もう、寝ぼけて落ちたふりしてこのまま寝てしまおうか、って考えたりした。そんな時だった。
地べたに這いつくばってる私の両脇の下に腕が差し込まれる。誰の腕かなんか考えなくとも分かる。
男は軽々と私のことを抱き上げると、ポスリと音を立てて置いた。彼の膝の上に。私のことを。
彼の腕が背中にあることを感じながら、私は頬を真っ赤に染めた。言うならば対面座位状態のこの状況に。
彼は私の手を取ると彼の肩にかけるように乗せた。私は戸惑いながらもその人が求めるように彼の首の後ろで手を組んだ。何故だか抗えなかったのだ。
彼は私の行動に驚くと同時に笑ったように思えた。背中に回った腕が私のことを引き寄せるように力がこもる。私はそれに従って男の肩に頭を乗せた。
その肩はとても広くて、首筋からはいい香りがして、私は気が付けば眠りに落ちていた。そんな私に男は甘い声で、おやすみと告げるのだ。
その日を境にその人は頻繁に現れるようになった。もしかしたら前からこれぐらいの頻度で訪れていたのかもしれないが、気付いていなければ意味のないことである。
私はその人が押した扉の音は日々のカウントには含めないようにしていた。
しかし、別には数えるようにしていた。
夜の訪問者は私が眠りに落ちる頃にやってきて、私のことをペットのウサギかのように簡単に抱き上げる。男の体をベッドにして子うさぎを閉じ込めるように抱きしめる。そして、私はその腕の中で安心して寝てしまう。
朝にはいつも夢なのかと思うぐらい、寝た時と同じ格好で私は寝ている。だが、これが夢でないことは知っている。
でなければ、目が見えなくて良かったと、毎回心の底から思うことはないだろうから。
あんな吐いた息すらかかる近距離で見つめ合っていたら発狂していたに違いない。
いつもの夜。五十三回目の訪問。
当初の目的はすでに忘れていた。その訪問者が何者なのか知りたいとはもう思わなくなっていた。
その日の私は珍しく眠れずにいた。背中には男の腹がある。いつもは男の香りを嗅いでいるうちに眠くなってしまうのだが、今日はいつもと体制が違うせいか、あまり眠くならない。
最近の私は男の体のあちこちを確かめるように触っていた。男は私のお腹に手を回して抱きしめる以外は好きなようにさせていた。
「……まだ、寝ないのか?」
子守唄のような声に、男の首元を触れる私は眠くないと答えた。
「……いいから、寝ろ」
男は私の体を反転させると、額に軽く触れた。
チュと男が私の額に吸い付いた瞬間、意識が突然遠のいていく。最後に触れていた男の顎は滑らかで簡単に手から離れていった。
その日は、おやすみ、ではなく、じゃあな、と言われた気がした。
* * *
六百二十一回目、無意識に呟くと私は体を起こして伸びをする。
今日も男は隣にいない。手でベッドを探りながら寂しく思う。
恋では無いこの気持ちはなんだろう。ペットが飼い主を想う気持ちだろうかと冗談じみたことを考える。
「おはよう」
「おはようございます」
扉を開けて入ってきた紳士と挨拶をする。
ロシア語は完璧とは程遠いが使いこなせるようになっていた。発音で戸惑ったり、聞き取れないことはもうほぼ無い。
しかし、今日の私は戸惑った。紳士の他にもう一つ気配があったからだ。
「あの、どなたですか?」
「ああ……お医者様だよ」
紳士が優しく答える。
相変わらず君の勘はすごいな、と紳士が呟いて、ニコリと笑った気配がした。
「君の目を診に来たんだ」
私は目を診るには少し不安だから、という彼の言葉も含めて、訳のわからない呪文のように思えてしまったのも無理はないと思う。
「何故……目を?」
「一年経ったからね、そろそろ日の光を見てもある程度は耐えられるはずだよ」
「どういうこと……?」
一年経った?
日の光に耐えられる?
……全く以って意味がわからない。
混乱する私を他所にカーテンを閉める音が聞こえた。いつも薄い方のカーテンはしまっているのだが、分厚い方を閉めたようだった。
そちらの方を向いていると、紳士が念のため、と優しく告げた。
とりあえずといった感じで部屋の中央まで手を引かれるままに着いていく。と、ソファに座らせられた。
目の前でカチャカチャと何かを弄るような音が聞こえてくる。なにする気だ。
「触りますよ」
老獪な声に少々身を固くしながらも頷けば、頭の後ろに指先が触れた。
指は慎重に動いて、やがて包帯の結び目を見つけるとスルスル解いていった。ギュッと目を瞑る私を他所に包帯は回収された。その布がないことが途轍もなく心細いように思えて、私は焦ったように返してと手を伸ばす。
「大丈夫だから、ほら?落ち着いて?」
取り乱す私を宥めるように紳士が肩を一定のリズムで叩く。そのテンポに段々と
落ち着いてきた私はソファに身を沈めた。
ふうと息を吐いた私耳が力強い足音を捉える。この足音は知っている。部屋にズカズカ入ってくると同時に、その男はよおと挨拶をした。
「……仕事はどうしたんだい?」
「こんな日に仕事なんてできるか」
遊び人の答えに紳士ははぁとうな垂れた。ため息つきながら、彼は私の肩に手を置く。
「あのバカが仕事に早く戻るよう協力してね?大丈夫、怖いことはなにもないよ」
紳士の柔らかい声にこくこくと頷くと肩から手は離れていった。
同時にうおっほん、と医者がわざとらしい咳をする。
「では、お嬢さん……少しだけ、ほんの少しだけ目を開けてください」
言われたことに従って、恐る恐る薄眼を開ける。そして、えっ……と小さく声を上げる。
「眩しすぎたり、痛いと思うことはございませんか?」
「……いえ、全く」
私の声は隠しきれない驚愕で満ち溢れていた。
——何故私の目は光を感じているのだろう。
もう少し開けてください。と言われ、ゆっくり半分ほどまで瞼を引き上げる。先程と同じ質問に同じように返す。そして、瞳を全開にした私は、辺りをキョロキョロと見渡す。初めて見た私のいる部屋は、中世のお城のような豪奢なものだった。
前々から調度品の一つ一つが細やかなところまで細工されているなと思っていたが……正直こんな、お姫様がいても不思議じゃないようなレベルだとは思っていなかった。
周りを見てアホみたいに口を開けて呆然とする様を見て、紳士と遊び人が同時に笑った。
「お前、自分の顔見てみろよ!とんでもなく間抜けな顔してるけど?」
バカにした声にムッとする。彼はチョイチョイと私の目の前を指差した。苛立ちながら前を見た私は机の上に鏡があることに気がついたが、それに映るものを見つめた後、信じられないものを見たとばかりに悲鳴を上げる。
「誰!?」
「どうしたんだ?」
私の様子が普段と違うと思ったのか、遊び人が後方から近付いてくる。そして、彼の腕が私の頭に乗ったと同時に、鏡の中の少女の頭にも手が乗った。
「一年間鏡見なかっただけで自分の顔忘れたのか?」
笑いながら遊び人が、頭を撫でる。その撫で方は今までと同じで、この鏡が壊れていないことを確認する。
遊び人は、恐ろしいほどのイケメンだった。シャツに包まれていても分かる鍛え上げられた肉体。精悍な顔つきをした青年は黒い髪を乱雑にオールバックにしていた。ガラの悪い大人と言えばそれまでだが、どうしてか色気がある。
他に何もなければ私は彼に見惚れていただろう。他に何も異常事態がなければ。
私は目の前に映るものが現実と認めきれずに、再度呟いた。
「この……白い髪の女は」
——一体誰なの?と。
昔から褒められることの多かった真っ直ぐで透けるような黒かった髪は、少年とも思えるほど短く、今や老爺のように真っ白だった。
それだけではない。
日本人特有の茶色かった瞳は、赤く染まっていた。
まるで白い子うさぎのように。
肌も病人のように青白く、私の知っている私は姿を消していた。
* * *
部屋の隅で膝を抱え静かに涙を流す私に、男二人が困っているのは分かっている。だからと言って、笑顔を浮かべろというのは無理な話だ。
髪の毛が短いのは知っていた。途中から自分で体を洗うようになっていたのだから当然だ。
髪は伸びるからいいや、と軽く考えていた。だが、それは黒い髪が前提で、こんな——真っ白な髪は想像していなかった。
——どうして、こんなことに。
老医者はいつの間にか姿を消していた。癇癪を起こした子供の面倒なんて見てる暇なかったのだろう。
再び溢れてきた涙を隠すように、私は背を丸めて膝に額をつける。
とにかく嫌だった。
自分という確かなはずの存在が急にあやふやな存在になってしまった。こんな髪で日本に帰ってどうやって生きていけばいいのだろう。瞳だってこんなに赤い。せめて真っ赤でなく、紫っぽい色でよかった。
そこまで考えて私はふとした言葉を思い出した。
「……アルビノ?」
口に出せばそれが正解だとばかりに、脳に一本の線が通った。
白い髪も、血の色が透けて見える赤紫の眼球も、黒子一つなくなった青白い肌も、全部、全部繋がる。
だが、家系にアルビノが一人もいない私はその原因が理解できずに呻いた。あれは遺伝だと聞いている。突然変異の可能性がないわけではないだろうが、こんなに成長してからの突然変異なんてあり得るのだろうか。どうも納得できないまま、私は顔を膝の間に埋める。
今、私がどうにかしなければいけないのは、このままならない焦燥感を消すことだろう。
私がアルビノになったのだとわかっても、この喪失感は消えてくれなかった。
脱ぐろうとしても不安は色濃く心の底に居座り続ける。
どうしたらいい、私はどうしたらいい?思わず助けを求めていた。無条件で甘やかしてくれるあの人に。
あの人なら今の私も甘やかしてくれるに違いない。
私はふと立ち上がる。
一筋の光が見えた気がした。
あの人に会えばこの不安も無くなるかもしれない——唯一の希望とばかりに私はそればかりを考えた。




