平穏、が何よりです(上)
意識がだいぶ浅いところにあるのは気が付いていた。しかし、ぱっと起きれるほど頭は起きてなく、もう一度眠るというのには少し怖い気がした。今寝たら遅刻する気がする。
そのままの状態でいくらかぼんやりして、そのうち自分の体に鞭打って渋々起き上がった。
目があかない状態で何かがおかしいなと思ったりもしたのだが、如何せん頭がはっきりしない。頻りに欠伸を繰り返しながら私はベッドを降りた。
手探りで寝室のドアを開けた時、ようやく私は昨夜のことを思い出した。
その衝撃で目がぱちっと開く。背後のベッドの上を確認するとそこに少年の姿はない。
じゃあ、やっぱり。
いい匂いのする方へ私は歩き出す。ひょいと覗いたキッチンにその姿はあった。予想はしていたのに、なぜだか体が固まる。
「……おはよ」
なかなか動かなかった私に焦れたのかノエルが先に挨拶した。私は呆然としながら挨拶だけを返す。
ノエルに気が散るからどっか行っててよ、と言われるままに顔を洗いに洗面所に行った。
「……って、今の何?」
鏡に写った自分の顔はビショビショだ。ぽたぽたと雫が顎を伝って洗面台に落ちていく。流されてここに来てしまったが、信じ難い光景を見た気がする。
「……夢でも見たかなぁ」
濡れた前髪を巻き上げて、何度も頭の中を巡っている映像を否定する。あれは夢だ。幻想に違いない。
何度か唱えて戻ってきたら、ノエルが作っていたであろうそれらの食事は、きちんと机の上に並べられていた。
ほかほかと真っ白な蒸気が昇っている。
「すご……」
「言ってないで早く食べてよ。冷めちゃう」
セッティングも完璧な和食の前に座らされて、ノエルのジェスチャーに合わせて手を顔の前で合わす。
「……いただきます」
とりあえず、と一口含んだ味噌汁に悶絶した。うまい。味噌スープと違って昆布や鰹節の出汁が効いてる。うまい。本当にうまい。
どこで調達してきたのか、汁には油揚げが浮いていて、ひどく懐かしい味がした。
続いて無言で切り干し大根の煮物に箸を伸ばす。絶妙な弾力と柔らかな甘みに打ちのめされて私は呻いた。
「……なんなのあんた達」
「……美味しくなかった?」
不安げな表情を浮かべたノエル慌てて首を振る。
「違う!そうじゃなくて……!普通の食事摂れないのに、なんでこんな美味しい料理を作れるのか不思議に思っただけ!」
打って変わって花のような笑顔を浮かべてノエルは答えた。
「主婦スキルはヒモ生活に必須スキルだからね」
「……ひ、ヒモ……?」
いやいい。聞かなかったことにしよう。世の中には知らないことが幸せなこともたくさんある。
そうやって、美味しい和食を噛み締めながら黙々と食事を続けているとあっという間に用意されたものはなくなってしまった。
「美味しかったー!ご馳走様でした」
日本語で満足そうに言うと、ノエルも日本語でお粗末様でした、と返した。
それを聞いて自分の予想は十中八九正しいことを知る。
どうやらノエルは日本にいたことがあるらしい。それも長い間。でなければこんな完璧な和食は作れないだろうし、日本語を違和感なく発音することは難しいだろう。
日本に吸血鬼にとって生き辛いと聞いていたのだが、主達のような殺生をしない吸血鬼にとってはその限りではないということなのだろうか。
「……どうして朝食を?」
食べ終えた皿をも片そうとするノエルを遮り、後片付けを買って出た私はリビングのソファでに座っているノエルにそう問いかける。
カウンターキッチンなので、ノエルの頭がよく見える。
ノエルはあまり間を置かずに、泊めてくれたお礼だと言った。
「これからも泊めてくれる間は毎日作るよ」
「別に気にすることないのに」
ただこれからも毎日食事を作ってくれるという申し出は有難く受けた。最近体重が減ってしまっていたのだ。主に血をあげている身としては健康でない体はマズイかなと思っていたところだ。渡りに船とばかりに頷いた。
それから動きやすい格好に着替えて部屋を出た。今日はいつもより早い時間に起きれたため、朝食を摂っていたにも関わらず、ジュードとの朝練の時間にも余裕で間に合った。
人気のないジムを通り過ぎて道場内に足を踏み入れる。目があった瞬間ジュードは目を丸くした。
「……お前、ノエルと一緒にいたのか?」
えっ、はや。
まだ対面してすらいないんだけど。
ジュードとの間には数メートルの距離がある。にも関わらず確実に当てに来るこの嗅覚。まさに犬。
「泊めたの。毎日屋上で寝起きしてるっていうから」
「……叱られてもしらねぇよ」
「誰が怒るっていうの?」
ジュードは一言主様にと答える。
「こんなことで怒るかなぁ」
「……自分の物に他人の匂いが付いていたら誰だって切れるだろ」
「ご飯についた他の匂いなんて気にしたことないけどね」
それが愛情からの嫉妬ならとても嬉しいのだが、彼ら吸血鬼にとっては物欲からの嫉妬だと知っているので遣る瀬ない。
「気にするも何もお前にはわかんねぇだろ」
「正解〜」
「……なんか腹立つな」
少しイラっとしたジュードが立ち上がる。
「お前だって食べようとして買ってきた……チョコレートに、他の奴の名前が付いてたらキレるだろ?」
「そりゃキレる」
誰だよそんな勝手なことすんのは!ってなる。しかし、今回のはそれと少し違うだろう。
「ノエルは私の抱き枕だから、そう簡単には手放せません〜」
「なんかやけに今日は腹立つな」
ぱぁんと耳元で弾けた音がなる。ジュードの蹴りを受けた結果だ。
反対からもう一度蹴りが来るのを察知して、自分もタイミングを合わせて素早く足を上げる。入ったかと思ったが、すんでのところで弾かれ軽く舌打ちした。
「私は別に悪いことしてないよ」
ノエルに血あげてるわけじゃないんだし、と言いながら後ろ回し蹴り。それをジュードは右によけて私の襟を取ろうと手を伸ばす。それを躱して、下ろした足に体重を乗せ切らないまま、ジュードの右頬を狙って左足を跳ね上げた。今度こそ入った。素早く離れて距離を取る。
「……なんで今の体制で蹴りが出せんだよ」
俺でも無理だ、とジュードが呻くのを見るのはとても気分がいい。
「ノエルは女の人は食べないって言っていたし、主様のこと父さんって呼んで懐いているノエルがわざわざ私を食べようとなんてしないだろうからね」
「お前はあんな目に遭わされておいて、よくもまぁ信用できるな」
「別に?反省したことは知っているし、わざわざ同じことを繰り返すような子とは思えないから」
ジュードが呆れた目つきで私を見る。
「お人好しだな」
「ノエルだから許したの」
誠意を見せてくれたから、そう答えればやれやれとジュードは首を振った。
「それに可愛いし、抱き心地いいし」
「……生理の時は追い出せよ」
「分かってるわ!」
言われずともそのつもりだ。ジュードですら私の血を見た瞬間に豹変するのだ。危ない真似をわざわざするわけがない。
「……あの子はいい子だね」
その言葉にジュードは顔をしかめながらも、そうだろと同意の声をあげた。
「まだ子供だけど」
「まだ子供だが」
ピタリとハモった言葉に二人で同時に吹き出す。何故だか笑いが止まらなかった。
「だからって同じベッドに寝るのは反対だがな」
「ケチ!!」
「お前のために言ってやってるんだ……」
そのあと着替えて出勤して、主に挨拶した私がどんな目に遭ったかは……言いたくないです。
* * *
「ノエルを泊めると、夕食もついてくるのか……」
しかも美味しい和食。
仕事を終わらせて帰ってきた私の目の前には出来立ての食事があった。
机の上に並べられた美味しそうなおかずの数々に舌鼓を打っていると、早く着替えてこいと寝室に追いやられてしまった。面倒見もいいようだ。
思わぬ拾い物である(失礼)。
寝室のベッドの上にブランはいた。ノエルが近くにいるにも関わらず結構寛いでいる。壁一枚隔てれば安心とでも思っているのだろうか。
「……お前も図太くなったなぁ」
「にゃう」
「…………主様連れてこようか?」
途端に振っていた尻尾をぺそりと下げて、必死な顔で見上げてくるもんだから笑いが止まらない。
「冗談だよ」
「にぃ」
この調子ならすぐにノエルのいる生活にも慣れてくれそうだ。主との共同生活は無理そうだが。
スーツ等々を脱いでクローゼットにかけて、適当なパーカーズボンを手にとって着替えてリビングへ戻る。
机の上に並べられた食事は未だ真っ白な湯気をあげている。
「……食べていい?」
「どうぞ?」
いただきまーす!と言ってから箸を取る。
久しぶりの焼き魚に胸が躍る。ノエルは本当にどこから食材を調達しているのだろう。私の生活圏内では、こんな美味しそうな魚を手に入れることはできない。
私は知らずのうちにとんでもない人材をゲットしていたらしい。
黙々と食事を進めている私を他所に、ノエルは少々浮かない顔をしている。そのことに気が付いてはいたのだが、魚と久し振りの格闘をしているうちに隅の方まで追いやってしまった。
なので、話しかけられてもすぐに反応できなかった。
「昨日の……こと、なんだけど」
「うん?なに?なんか言った?」
魚から顔を上げてノエルを見る。小骨に夢中で何を言ってるのか聞こえなかった。それで聞き返したのだが、ノエルは少し悩んでる様を見せてから「何でもない」と言った。
「ただの独り言」
ノエルが嘘をついたのはすぐに分かった。だが、ノエルの顔を見ていたら問い質す気にもなれない。
「そう?」
「うん、そう」
「分かった」
魚の方に集中を戻す。ノエルが何か言いたげな顔をして、その都度頭を振るのは見ないフリをした。
言わなきゃいけなくなったらどの道言うだろうからと私は見ないフリを選択したのだ。
「——ごちそうさまでした」
手を合わせて軽く礼をする。
「美味しかった」
満足なのだと伝わるように腹を摩る。
「ノエル、ありがとう」
「……べ、別に僕がお礼したかっただけだから」
照れるノエルは本当に可愛い。そのまま捕まえて食べちゃいたいくら……いかん。
目を覚ませ私。おっさん好きどころかショタ好きにも目覚めてどうする。しっかりしろ。
こんな時は風呂に入って煩悩も洗い流すべきだ。手早く食器類を片付けてしまおうとキッチンへと向かったが、思い直してノエルの方へ振り返る。
「ノエルはシャワー浴びた?」
「……いや、まだだけど」
「なら、先に浴びちゃって。私これから皿洗うから」
ごねそうな気配を見せたノエルに尚言い募る。
「私風呂出たら今日はすぐに寝たいけど、その時ノエルいないと寝れないから。早く入っちゃって」
「先に入るのは……」
「つべこべ言わずにとっとと行く!」
この場所では私が女王である。
口答えは許さん。
そういったオーラに気付いてかノエルはぎこちなく頷いて浴室へ向かった。
それからすぐに出てきたノエルに代わって私もシャワーを浴びる。出てきて寝室へ行くとベッドの上に座るブランと、床の上に座るノエルが対峙していた。
どちらも一瞬たりともお互いから目を離さない。……部屋の主が帰ってきたというのに。
フワフワvsモフモフ。どちらが勝つのか見ていたい気もしたが、あいにく眠かったためノエルを掬い上げてベッドに放る。すかさず逃げようとしたブランも腕の中に閉じ込めた。どうせあのままでも決着は付かなかったに違いない。
「ほら、寝るよ」
ノエルは渋々といった様子でベッドに寝転がる。
「僕達ってそんなに睡眠いらないんだけど……」
「寝られる時は寝ておくべきだと思うけど?」
それに重要なのはその体なのです。
暴れるブランを逃して、代わりにノエルを抱き寄せる。ほんと抱き締めるのに丁度いい体だ。少年らしい細っこい体を抱き締めて、フワフワの髪に顔を埋める。私の髪と同じ香りがした。
昔の記憶がその香りと共に蘇る。
よく弟ともこうやって寝たなぁ——
二度とすることもないだろう遠い日の記憶。奴はとっくのように私よりもデカくなってしまった。そして恥ずかしい、だの、怖いだのなんだの言って一緒に寝なくなってしまった。……今更だが怖いってなんだ。恥ずかしいはわかるけれど。
幼馴染ともこうやって寝ていた時に私も恥ずかしいって思った覚えはあったからだ。恥ずかしいと思っても止めなかったが。幼馴染とはそれなりの年齢まで一緒に寝ていた気がする。今考えると大分まずかったんじゃなかろうか。
「……おやすみ」
物思いに耽っているとノエルがそんなことを言う。もう寝たと思ったようだ。可愛い奴め。
「おやすみ」
「っ!」
慌て出すノエルに満面の笑みを浮かべながら今度こそ眠りにつこうと目を閉じる。
彼らは元気にしているだろうか、と眠る間際に思った。
「ほらだから言っただろ?」
「……うっさいわ」
「戻って早々悪いが、仕事だ」
「……容赦ないね」
それでもいいんだ。主からはお許しもらえたから……べ、別にいいんだから!




