それでも嬉しく思う私は馬鹿なんです(下)
瞳が濡れていることに気付かれたくなくて、咄嗟に下を向いた。
主にだけは知られたくなかった。あんな嫉妬丸出しのセリフを吐いて、この後に及んで涙を見せるだなんて、どんなに鈍感でも私の抱える恋心に気付いてしまうことだろう。
それが報われる可能性が少しでもあるのであればいい。それならこの涙、上手く使ってみせる。
けれど、可能性はほんの少しもないのだ。そんなの、……そんなの、泣くだけ惨めじゃないか。
「……私が死んだところで周りに餌は巨万といます」
「いない」
「どうせ、契やって、……はい?」
何かあり得ないことを言われた気がするなと思って振り返る。主は私を真っ直ぐ見下ろしてはっきりと言った。
「お前の代わりなど存在しない」
顔が真っ赤になったのが分かる。涙が汗のようにポトリと落ちた。
いやいや待て待て!と何を言うわけじゃないが手を顔の前で振る。
「そこらへんに人間なんて沢山いるじゃないですか!条件に合う人は少ないかもしれませんが、それでも主には餌としている人がいらっしゃるでしょう?」
「いない」
なんでそんな嘘つく。
本当に何考えてんのかわかんない!!
嘘をつくにももっと分かり辛い嘘にして欲しい。嘘を嘘とすぐに分かるような嘘をつかれても、反応に困ってしまう。いや、嘘じゃんとしか言えない。
「で、ですが……餌は沢山いるようなことを前に」
「全部切った」
「……切った?」
鸚鵡返しをする私にゆっくりと手が伸びる。その手は私の首元をゆっくりと撫でていく。
「お前は本当に自分の価値を知らない……お前がどれだけ美味いのか、お前だけが知らない」
主が何度も撫でるのは、いつも切る場所だ。そこに跡は残ってないが主には分かるのだろう。
「お前が自分の味を知れば二度と代わりがいるなんてふざけた言葉、言わなくなるだろうに……お前がそれを知ることが永遠にないのが、酷く惜しい」
言っていることが俄かには信じられず、本当に?と訊ねる。
「私じゃないと満足できないんですか?」
「……麻薬のようなものと、言えば信じるか?」
中毒性があるということだろうか。
「この半年お前の血しか口にしていない。お前の味を知って、他の者血を飲む気にはとてもなれそうにない。お前だけだ。お前の血だけだ。私が欲しいのは」
まるで愛の告白のような睦言に頰が耳まで真っ赤になったのが分かった。
嬉しい。主が私を求めてくれている。私だけが欲しいと言ってくれた。こんなに嬉しいことはない。
嬉しくて嬉しくて天にも昇るような心地の中にいた。なのに、冷静な私もいた。
主が欲しがってんのは、私の『血』だよ。『私』じゃないんだよ?
……そんなの分かってる。
浮かれきった私が見る間に小さくなっていったのが分かった。
主の求めるものが私の血ではなくて、私だったらどんなに嬉しかったか。けれど、それで満足するしかないじゃないか。吸血鬼が人を好きになることはないのだから。求めてもらえる唯一の人になれただけすごいことじゃないか。
そして、私はその地位を守らなければいけない。私は主の側にいたい。だったら、この血を使うしかない。血だけでもいい。主を繋ぎ止められる存在にならなければ。
「なら……」
私は首元に自分の指を当てる。主は訝しげな顔でその様を眺めていたが、私が肌に爪を立てた瞬間焦りを見せた。
「やめろ」
主の手が届く前に指を横に滑らせる。チリとした痛みが走った後、首元を雫が垂れて行った。
「私は、餌ですから」
押さえられた腕とは反対の腕で首を拭う。サラリとした感触が指の腹を滑った。液体を丹念に指に塗りつけて、赤く染まった指を主の口の中に入れた時、通常より伸びた牙が私の指をかすめた。
「どうぞ、お召しあがり下さい」
それを聞いた主は目を見開いた。が、主は動かなかった。
私の言葉の意味が、彼に通じないはずがない。
「……食べないのですか?」
主は緩やかな動作で私と目を合わす。
その目は驚きに満ちていて、それでいて様々な感情がごちゃまぜになっていた。驚きというのも、たまたま表層に表れたのがそれだったというだけのようである。
主は私の指を口から抜き取ると、憮然と言い放った。
「……食べたかったのではないのですか?」
私は首を傾げて疵口を見せつける。そこは赤く濡れている。きっと今の主には堪らない匂いのはずだ。前回の食事からもう一月ほど経つのだ。今までの食事の周期を鑑みるならば、主は今強烈な飢えと戦っていることだろう。
「……お前は」
「なんですか?」
主は一度躊躇うそぶりを見せたが、私が促したことで続きの言葉を述べた。
「吸血鬼に襲われたんだぞ……」
予想もしてなかった言葉だったが、主の今までの態度が腑に落ちた。私が怖がると思っていたのか。吸血鬼である主のことを。
そんなの今更なのに。
散々、私の血以外飲めないと駄々こねた癖に。
私は手を伸ばすとその手を慎重に外す。
「私は主様のものなのでしょう?」
白い牙が主の口から覗いていた。普通の人より長くなった牙。吸血行為をする時伸びてしまうらしい。以前ルシアンが邪魔なんだよねぇ、と嘆いていた。
「そんなこと気にする必要ないのでは……?」
所有物の意思なんてあってないようなものだ。私の意思は所有者の意思に簡単に抑え込まれる。今迄だって何度もそうされた。なのに、なんでこんな時だけ我慢をするのか。
私はこんなにも欲しいのに。
「……こうなったのだって主様がしっかりマーキングしてなかったからなんじゃないんですか?」
違うって本当は分かっている。今回は相手が悪かった。
「……貴方の物にはちゃんと印つけといてくださいよ」
安っぽい挑発だが、これが私の精一杯だ。
主も私の狙いにもう気付いてるはず。
「私の匂いがしなくなるぐらい」
「……もういい、黙ってろ」
主は一つ溜息を吐く。
「なんでお前はそう……」
「勿体無いからですってば」
こうやって話している間も私の体内から血は流れていく。
「早く」
主の頬を両手で包んで、早く、と繰り返す。
「……私を美味しくしてください、主様」
主の声に私は口元を綻ばせる。嬉しくて嬉しくてつい伸ばしてしまった手を、主は取って指先を口に含んだ。舌の柔らかな感覚が肌に直に伝わって、吐息が漏れる。人差し指を丹念に舐めてから、主は私の耳元に口を寄せた。くちゅりと恥ずかしい音が耳を打つ。
「後悔させてやる」
できるものならどうぞ。
私は不敵な笑みを浮かべると、主の首に縋り付いた。
一瞬気が遠くなった。恐らく一瞬だったと思うのだが、気付いたら主が私の顔を覗き込んでいた。その顔があまりにも余裕がないから笑ってしまった。
「……落ち着きました?」
その質問は主の気に障ったようだ。分かりやすく顔を顰めた主は、無言で私を睨みつけた。
「美味しくなかったですか?」
そんなことないと分かっていながら聞く私は、性格が悪いうちに入るのだろうか。主は面白いくらいに顔を歪めてみせる。
「……そんなことは言っていない」
悪い、飲みすぎたと謝る主に微笑んで「なら、よかったです」と私は言った。
「でも謝ってくれるのなら、美味しいステーキで手を打ちますよ」
「……現金なやつだ」
了承してくれたらしい。
にっこり笑って、それから「ついてますよ」と主の顎を舐める。私の血は強い鉄の匂いがした。甘くなんてない。どうしてこんなものを美味しいと思えるのか、舐めながら首をひねった。
「……体は」
「特に問題ないかと」
シーツを巻いてから体を起こす。主は安堵を見せつつも、未だ眉間には皺を寄せていた。
「まだ怒ってるんですか……」
渋顔を見ての感想だ。
「ノエルにですか?」
「……どうしてそう思う」
なんとなくと答えると眉間の皺が深くなった。
主に近づくとひょいと抱き上げられて膝の上に乗せられた。そこまで機嫌は悪くなさそうだ。自分の考えを述べるべく私は口を開いた。
「貴方の大事な餌を危険に晒したことで怒るのも分かりますが、私の血は飲めるのだからいいじゃないですか。……それに、ノエルは私よりも大事な存在なのでしょう?そんな存在をあんな風に虐げて、後で後悔するのは貴方なんですから」
「……そうではない」
「なら、何に怒ってるんです。ノエルに対して怒っているのでないと言うのなら、私に対してですか?」
主はその問いに苦虫を噛み潰したかのような顔で以って答えた。そうではない、と主は繰り返し呟く。
その姿を見ながら主が普段の主らしくないと思った。主は普段ハッキリとした感情を見せるような人ではない。それなりに話はするし、冗談のようなものを口にすることはあるが、彼が普段笑うところをあまり目にしない。
何事にも例外があるように、目の前に小動物がいる時と、ベッドの上にいる時は別人のようになるが。
「埒があきませんね……なにかあるなら言ってください。早く。言わなきゃまた同じことやりますよ」
一種の脅しである。主の従僕だというのなら、そんなこと言われずとも察しろって話だが、何せ即席なゆえ私に主の心中を慮れそうにない。
ということを、ありのままに言ったわけだが……私は失敗したことに気が付いた。
「……お前には再教育が必要らしいな」
サイキョウイク。
その言葉が表す意味とは。
ゴクリと喉がなった。
怯える私の脳裏には、主の不気味すぎる笑みが焼きついた。
ぴとりと肌につけられた冷たさに驚いて腹を見る。
いつの間に。
角ばった腕が私の服の中に侵入していた。冷たい手に体が驚き反射的に逃げようとしたが、主に深く抱き込まれてそれは叶わない。その間も主の手の悪戯は止まらない。
「さっき……したばっ」
「お前の体はお前のものではない、私のものだ」
「ひゃぅ……っ」
背中は弱いのに。主は私の声を楽しむかのように集中的に背中を撫でる。いやらしい手つきに声が止まらない。
「今回はノエルに言い聞かせていなかった私が悪かったが、お前自身が自分の価値に気付いていないと意味がない」
主が何に謝罪したのかなんとなく分かった気がしたが、主の冷たい手に思考がかき乱されて、うまく考えが纏まらない。
耐える私を嘲笑うかのように、弄ぶ腕が一本増やされた。それは私の体の前に回って特に弱いところを遊び始めた。
びくんと体が反応する。
「そこっ!……やだぁ……ひっ」
「……ノエルは私の僕だ。あいつは私に害なすことは許されない。にも関わらず、私のものを無防備なまま危険に晒した」
「やぁっ……もっ、やめ」
「——いいか、もう一度言う。お前は私の僕であると同時に、私のものだ。お前は守られるべき存在だ。私の知らないところで傷をつけることは許さない。それは私に対する反逆行為だと肝に銘じておけ」
銘じられるかーーーー!!!と雄叫びをあげようとしたのに、口から出るのは嬌声のみだ。そんな真面目な顔して、よくもまぁこんな不真面目な行為できるなといっそ感心するわ!!
主は最後に分かったなと言ってから手を離した。解放された私は息も絶え絶えだ。文句を言おうとしても声が出ない。
前に倒れ伏してはふ、はふと息をする私を主は再び抱き上げる。私は虚ろな目で主を見上げた。先程まで漲らせていた怒りは消えているように見えた。今の悪戯で少しは発散できたのだろうか。
くったりとした私の体を主はいいように動かして、組んだ膝の中にすっぽりと入れてしまった。そのまま落ち着かせるように、頭を撫でてくれる。規則正しい動きに呼吸が落ち着いてくると、なんだか眠気を催してしまった。
うとうとしていることに気が付いたのか、主は溜め息吐きながらも寄っかからせてくれる。なんだかんだ言っても主はやはり優しい。
「……肝に銘じたか?」
「なんとか……」
答えるとその腕の動きが止まった。
「主様……?」
「忘れるなよ」
ここで何をと言ったら再び制裁が始まることは火を見るより明らかだ。
畏まりました、と応じると主が私を抱きしめていい子だと笑う。滅多に見れない笑顔にくらりときた。だめだこの笑顔に勝てる気がしない。続けて言おうとしていた言葉は飲み込むしかなかった。
言葉の代わりに黙って抱きつくと、主も私を抱きしめ返してくれた。
主が抱き締めているのは、ただの餌なのに主は本当に優しい。今なら何でもやってくれる気がする。
試しにゴロリと転がってみた。主の膝を枕に借りて、だ。
以前、膝枕を強要された時からやってみたいなぁと思っていたのだ。
一瞬主の眉間に皺が寄ったが、やがて目元が緩んだ。あんまり見せてくれない顔だ。主の手が私の髪をゆっくり撫で始める。
「……伸びたな」
「そうですね」
同意しながら、私は吸血鬼の特徴について思い出していた。
——吸血鬼の細胞はそのままであろうとしたがる。その結果、見た目は何十年、何百年経っても変わらないのだと。
成長しないのだから吸血鬼の髪は伸びない。髪どころか、あらゆる体毛全てだ。そういうわけで、一度切ったらもう二度と生えてこない——わけではない。
「主様は髭を剃らないんですか?」
「……覚えてるのか」
はい、と頷く。たった数年前のことだし、その顎髭のせいで夜訪れる誰かと、初めて見た主が一致しなかったのだ。苦い思い出をそう簡単に忘れられるはずもない。
驚くべきことに、吸血鬼は髪の毛を短くしても次の日には元の長さに戻っているらしい。そのトリックを利用して撹乱されたことのある私だ。ルシアンから聞かされてなんだそれ、と脱力したのは記憶に新しい。
主は顎髭を確認するように撫でながら、あの時はと過去を懐かしんでいる。
「……脅えさせたくなかったんだ、確か」
「予想外なお答え」
毎回剃るだなんてめんどくさい行為を私のためだけにしてくれていたのかと思ったら、勝手に頰が緩んでしまう。主から睨まれていたのは分かっていたが、止まらないのだから仕方ない。
ニヤニヤしながら主の膝の上でゴロゴロする。
「私のためだったんですか?」
「……すぐに気付かなかったがな」
「目見えなかったのを考慮していただければ、結構早く気付いた方だと思いますよ?」
だんまりしてしまった主だったが、それも嬉しくてにやけ顔が止まらない。黙り込むということはそれを認めたということだ。
少しなら主に甘えてみてもいいのかなと、小さな欲が首をもたげる。
「今度は触るんじゃなくて見てみたいです」
「……」
冷たい目。だけど負けるもんか。
「ここがつるつるの主様、見てみたいです」
本当に見てみたい。無精髭を生やした主もいいのだが、髭のない主も見てみたい。
だが、願い虚しく主から色よい返事がない。無言を貫く主を見て、瞬時に粘ることをやめようと思った私だったが。
「……気が向いたらな」
思いがけない言葉を貰って、おや、と首を上げる。
「…………気が向いたら、だからな」
まさか承諾を貰えるとは思っていなかったため、驚いてしまったが、繰り返される念押しに私は「はい」と破顔した。




