それでも嬉しく思う私は馬鹿なんです(中)
今回も遅れてしまってすみません。
来週の火曜から週二連載に戻せたらいいなと思っていますので、よろしくお願いします。
主は一体何に耐えているというのだろう。
大切な餌を危険に晒したノエルに対しての怒り?そのノエルを庇う私に対しての怒り?
「……先程から、主様は何に拘っているのですか?」
何がそんなにも主の気に障っているのだろうか。
主の大切な餌たる私は今ここに無傷で存在している。怪我を負っているならまだしも、この状態なら「ああ、よかった。次はもっと気をつけてくれ」で済む話じゃないのだろうか。
理解できないことに対しての戸惑いが、次第に苛立ちへと変わっていく。逆ギレだとは分かっているが、この状況のままの方がよっぽど心臓に悪い。その苛立ちは私に大胆な行動をとらせた。
自らの襟元を引っ張り肌を露出させると「見てください!」と主の眼前に首を差し出す。
「ここを噛まれそうになりました。ですが、傷なんて一つもないでしょう?」
「そうだが……」
「貴方の大事な餌は、誰にも傷つけられてません。味も変わってないはずです。主様は前と同じように私の血を飲める。怒らなければいけない理由はありますか?ないでしょう?」
主の目を見ながら懸命に訴える。
それを聞いた主は、分かりやすいぐらいの苛立ちを見せて——寿命がこれで五年は縮んだ——顔を手で覆ってしまった。
何がそんなに受け入れられない。何がそんなに主の気に障る。
主が何故そんな態度を取るのか私にはわからなかった。
主は私のことを鋭い眼差しで睨むと「何故、庇う」と苛立ちを露わにした声で訊いた。
「お前はこいつのしたことを許せるのか?そいつはお前を囮に使ったんだぞ?」
「別にいいです。実際助けてくれたのはノエルですし。それに、最初は囮作戦も主の指示だったのかなぁと思ってましたし、なんの問題もありません」
「…………そうか」
主は一瞬だけ怒りとは別の感情を覗かせた。それがなんなのかわかる前に主はそれを怒りで塗り尽くす。
「だが、私には許せそうにない」
再びノエルに向けて足を踏み出そうとした主に「ダメです!」と咄嗟に叫んだ。
主様の眉間の皺が更に深くなる。ここまで深い皺を刻まれた人を見たことがない。それだけ腹が立っているのだと思うと、萎縮して体を小さくしてしまう。
「……主様、ダメです……それはしてはいけません」
言いながら自分でも何がダメなのか分かっていなかった。主に聞かれたら絶対に答えられない。それでも私は馬鹿みたいにダメですと繰り返した。
ノエルが主にとって信頼の置ける人物だとジュードから聞いて知っていた。それなのに、私のせいだと分かるこの状況で、主がノエルに手を挙げるところなんて見たくなかった。私のせいで、誰かが殴られるところなんて見たくなかった。
そのまま動かずにいる主に焦れて恐る恐る呼ぶと、暫くして彼は舌打ちをした。やりきれないと言わんばかりの主の様子を見ていると、不意に目があった。
その瞳に見つめられると私の中の時はいつも止まってしまう。
その瞳の奥に隠れた感情の名を私は知りたくて仕方がない。覗き込んで、奥の奥まで探ってしまいたくなる。ロマンスグレー色の瞳に浮かぶのはどんな感情だろう。怒り?悲しみ?苦痛?失望?それとも——
——それはないな。
自分で考えておきながら、あり得ないとすぐにその考え打ち消す。希望的観測すぎて笑いがこみ上げるレベルだ。主は吸血鬼だからその感情を抱くことは絶対にないと教わったにもかかわらず、私の頭はどうしてもそのちっぽけな可能性に縋りたいらしい。私はつくづく愚かな思考をしている。
「……主様」
私の顔を見つめていた主は再び舌打ちをする。
「……もういい」
と、私を抱き上げたまま踵を返して歩き出した。
ジュードとノエルはその場に放置する気だろうか。主に気付かれないようジュードを見ると、目が心配するなと告げている。ノエルは任せろということだろうか。
主に何も言えないうちに彼らは見えなくなった。
主はスヴェルドルフのビルに向かったが、地下駐車場には行かなかった。そこにしかプライベートフロアに直接行けるエレベーターは無いのにと、思った私は見たことの無いエレベーターの中に入れられてから幻のエレベーターのことを思い出した。最上階と繋がっているというエレベーターは、地下駐車場のさらに地下だと思われる場所にあった。
いつものエレベーターは途中壁が途切れて景色が一望できるのだが、このエレベーターは目的地に着くまでただの一度も外の景色を見せなかった。
そして、着いた会長のための部屋。そこにもやはり窓は無い。品の良い家具に囲まれているにも関わらず、その部屋は閉塞感で満たされていて、息苦しいと感じさせた。
主は私を真っ白なベッドに放ると、私をそのまま置いて服を脱ぎ捨てた。主の危険は未だ治っていないようだ。ワイシャツが床に捨てられたはずなのに、何故だか鞭のような音が聞こえた。どれだけの力で投げつけたら絨毯に対してそんな音が鳴るというのだろう。
私は芸術と言い切れる裸体を晒していく主を眺めながら主を待った。上半身裸になった主の顔はまだまだ険しい。
服を脱いだということは、つまりそういうことなのだろう。私は黙って主の沙汰を待った。その間露わになっていく主の体を眺めていた。
壮年とは思えない体つきをしている主は、どこもかしこも筋肉で覆われている。実はジュードよりもいい体をしているのだ。どうしたらその体型を維持できるというのか。ジュードはまだしも、主が体を動かしているところを私は見たことがない。毎度不思議に思うのだが、この体を前にしては些末なことである。
主を見つめている私は乱暴されると分かっていたが、逃げようとは微塵も思わなかった。寧ろ、これからされることを想像して喜んでさえいる。人はこれほどまでに愚かになれるのかと、自分で自分に驚きはするが、
後は主の怒りを鎮められれば完璧なのだが……。凛々しい眉の間に刻まれた深い深い皺は、きっとちょっとやそっとのご機嫌とりでは取れるまい。
主がベットの中に入ってきた。ベッドのスプリングが軋んでギシリと音を立てる。だが、何故か主は私がいる場所から一番遠いところに腰を落ち着けた。
「来い……」
自分から放りなげておいて、来いとはなんと横暴な。だが、私は主の僕だ。そうでなくとも、私に断る理由はありやしない。言われなければ私から寄って行ったかもしれないぐらいだ。
体を起こすとにじりよって、一瞬頭の中で沢山のことを考えて、その結果主の膝の上に跨って座った。間違ってないかドキドキしたが、背後から抱きしめられたのでそれで正解だったらしい。主に背中を預けると、抱きしめる腕の力が更に強くなる。熱い胸板にスリスリと体をこすりつけて甘えた。
いくら主が怒っていても、私は主に抱きしめられているだけでどうでもよくなってしまう。嬉しいのだ。求められている気がして。恋人になれたような気がして。擬似的なものでも、主がそう思っていないと知っていても、嬉しさを消すことはできない。
甘える私の頭に主の顎が乗る。頭頂部に刺さって微妙に痛いが、絶妙な重みが心地よかったので甘んじてその痛みを受ける。
どうせなら対面して座ればよかった。気恥ずかしさもありやめたが、そうすれば主の体に抱きつけたのに。なんて勿体無いことをしたのか。
そんなことを私が考えていると、気付いてないはずなのに、主が億劫そうに息を吐いた。頭の中を覗かれたように落ち着かなくなったので、その思考にピリオドを打つ。
大人しくしているのが吉。そう思って極力動かないよう体に命じたのだが。
静止した私の体をぬいぐるみかのように強く抱き締めながら、主は静かに謝った。
「……悪かったな」
声に後悔が滲んでいる。
驚いたし、困った。後ろに主の体温を感じながら、どうしたものかと悩む。
主が私に謝罪をするなんて思っていなかったのだ。
「何に謝っているのですか?」
悩んだ結果口にしたのは、疑問そのままだ。
最初、私を囮にするようノエルに指示したのは主だと思っていた。それでも主の命令なら仕方ないと思っていたが、それをしたノエルに対して主は怒ってくれた。つまり私を囮にしたのはノエルの独断だったのだ。恐怖体験は主のせいではない。それなのに主は再び謝った。謝ってから話し出す。
「私があれにお前に付くよう命じた。……あれが余計なことをすると思っていなかったとはいえ、手綱を取りきれなかったのは私の責任だ」
予想外。驚きでぽかんと口を開けたまま主の方を振り返る。本当に予想外だ。今回の事態を主がそこまで重く受け止めているとは思っていなかった。
我に返った私はいやいやいやいやと首を振る。が、御構い無しに主は続ける。
「すまない……お前を危険に晒してしまった」
「主が責任感じる必要なんてないでしょう!?……もともと危険は承知で外に出てましたし、」
それに、と付け加える。
「ノエルは純粋な護衛というわけではなかったのでしょう?」
主の体が強張った。
「どこでそれを……」
「ジュードが口を滑らせました」
主は脱力して、あいつめ……と恨めしげに言った。覚えておけよ、とも。
あとで何かされるのは確実だろう。ごめん、ジュード。
「なんと言われようと生きてますし、何度も言いますが、助けてくれたのはノエルです。だから、私は文句もなにもないです。寧ろ、ノエルには感謝の気持ちでいっぱいです」
感謝の気持ちで、というのは大分誇張表現である——恨みがましく思ってますよ、そりゃあね!死を覚悟したぐらいですし!——が、私が気にしていないと分かれば主が責任を感じる必要もないだろうと思ったため、そのようなことを言った。
弱気な主は似合わない。
……と予想したのだが、主は全く違うことを考えていたらしい。もしかしたら最初から責任だのなんのは考えていなかったのかも。
とにかく、私に分かったのは主の地雷を踏んでしまったこと。主の雰囲気が明らかに変わったことでそれを知った。
「え……あ、あれ、主様……?」
「何に感謝する必要がある」
「だ、だって、助けてもらったので……」
主の額に青筋が浮いた気がした。
「……あいつは私に楯突いた。それが許されるとでも?」
「楯突く……?」
いつノエルがそんなことをしたのか、私には分からず初めて聞いた言葉のように繰り返す。
主がこいつは、と呟いた声が余りにも低すぎて一気に不安に押し潰された。何を間違えた。
主が怖い。
怯える私に気が付いてすぐにいつもの空気に戻してくれたが、未だ怒っていることが表情から窺える。
ビクビクしながら主の沙汰を待つと主が悪かったと再び謝った。
「……だから、そんなに怯えるな」
と言われましても、だ。なんとか平静を装うが、さっき感じた恐怖は拭いきれない。
主はもう一度怯えるなと言いながら私の体を腕の中に閉じ込める。
「誰かに任せたのが間違いだった」
はあと、主の甘い吐息が私の耳をくすぐっていく。主からは甘い香りがする。その香りは、血を飲まない時期が長くなればなるほど強くなると気付いたのはいつだっただろう。
主は飢えている。
私の血を飲んでから、おそらく一ヶ月はもう経った。
「あ、主様」
血を、と言う前に私の顎を主が捕らえる。
「少し間違えていたら、お前は死んでいた」
その言葉の意味を私が完全に理解する前に、主は私の顎をぐいと持ち上げて上からしゃぶりつくようなキスをした。
「……んむっ!?」
突然のことに目を白黒させる。
主は容赦しなかった。
「お前が死んだら」
「ふ……む……んぁ」
「私はどうすればいい」
「んんっ……!!」
どうするもなにも、他を探せばいいでしょう、と言いたいのに言う隙がない。いつの間にか手もガッチリホールドされていて、逃げ場もなければ降参すらもさせてくれない。
滅多にしてくれないキスなのに、堪能する余裕がない。
やっとのことで解放された時、私は我も忘れて叫んでいた。
「——私はただの餌ですよ!?」
悲鳴のような甲高い声だった。
主が理解できない。
今までだって完璧に理解できたことはない。寧ろ感情を読み取れたことも少ない。それでも今回は今まで以上に分からなかった。
「私がいなくなったところで、餌は他にいるじゃないですか!」
こんなこと言わせないでほしかった。代わりがいるだなんて思い出させないでほしかった。
主の餌は私だけなどと、自惚れられるわけがない。最初に痛いほど思い知らされていることだ。私は多数のうちの一なのだと。
主の言葉を自分に都合よく捉えることなんてできるはずがない。あとで突き落とされるのは私なのだ。悲しむのは他でもない私なのだ。
涙で視界が閉ざされていくのがわかった。




