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それはとても綺麗ですね(下)

ちょっと長いです




 初めての体験はたった一瞬の間に終わった。

 ばちん、「いたっ!」はい、終わりーだ。


 左耳に穴を開けたのはついさっきのことだが、比較した時、右耳に痛みが殆ど無いことが不思議でたまらない。対して、左耳は痛みも違和感もたんまりある、

 そんな左耳の痛みも治まって、ようやく平常通りの態度が取れるようになった時、主が徐に「ブラン」と呟いた。


「撫でたいんですか?ちょっと待っててくださいね」


 あの子の昼寝場所の相場と言えば。

 私はソファから立ち上がると、真っ直ぐ洗面所へと向かう。

 洗濯機の上の棚の中、そこが最近のブランのお気に入りなのだ。案の定眠りこけたブランの姿を見つけて苦笑する。

 抱き上げてリビングに戻り主の膝の上に乗せたとて、半分寝たままのブランにお前も図太くなったなぁと苦笑を漏らす。

 仔猫の頃はあんなにも鳴いて嫌がったのに。それでも途中からは主の膝の上で寝れるぐらいにはなっていたが、あれはどちらかっていうと諦めのようなものからだったに違いない。

 主がブランの頭を撫でると、撫でてくれるなと言わんばかりの複雑な表情を浮かべる。しかし、気持ちが良いのには変わりないらしく喉からは隠しようのない愉悦の声が聞こえてくる。猫心はなかなかに複雑なものらしい。

 

「……お前は」

「はい?何でしょうか」


 ブランをニコニコ眺めていた私は、主の声に合わせて顔をあげる。それが、主と目を合わすことになって少し体を引く。結構な近距離で目があったら誰でもこんな反応をするに違いない。

 主もそれを分かっているようで、少し表情を険しくしたが特に言及されることはなかった。


「……何か気になることでも?」


 主が私に声をかけた理由が分からず、もう一度尋ねる。すると、たっぷり間を開けてから「座れ」と言われた。


「え」

「横に来い」


 少し驚きながらも言われた通りに座る。と主はすぐに私の方に向かって倒れてきた。


「……枕になれとは言わなかったじゃないですか」


 私の膝に頭を乗せながらブランを撫でる主に怨みがましい目を向ける。


「『枕になれ』」

「……畏まりました」


 釈然としない思いでいっぱいだったが、主の言うことは私にとって絶対である。すぐに諦めはついた。


 そのままの体勢でいること数十分。終わりの見えない枕業に私はほとほと困り果てていた。何と、ブランが主の腹の上で熟睡してしまったのだ。ブランのことを溺愛している主である。起こすわけがない。つまり、ブランが起きるまでこのままの状態は続くという……まさに地獄。

 ブランを見ている主を眺めるのもそれはそれで楽しかったりするのだが、空いた時間が長ければ長いほど考えごとは生まれる。

 何を言いたいかというと、先程の感覚の正体を聞きたくて聞きたくて仕方ないのである。

 主に噛まれた後に体内を這うような粘着物を感知したのは二度目だ。

 日本で化け物に襲われた時が一度目で、今回が二度目。その二つに共通することは噛まれたこと。

 彼らは吸血鬼であり、実しやかに噂される吸血鬼の特性を考えれば、あの感覚の謎は言わずとも知れる。


「……主様」

「なんだ?」

「『吸血鬼に噛まれると吸血鬼になる』……これは本当の事なのでしょうか?」


 結果として導き出された答えはこれだった。結局一周回って戻ったような、そんな答えだったがそれ以上に相応しいものが思い浮かばないのも事実である。

 主の目元を見続けるのもどうかと、少し視線を下にずらす。口元に焦点を合わせて待つ。主は特に気負いもなく「そうだ」とさらりとした口調で答えた。


「だが、必ずしもそうとは限らない」

「特定の条件があるということですか?」

「そういうことだ」

「……その特定の条件を教えてはいただけますか?」

「駄目だ」


 主はもう一度駄目だ、と念押しのように答える。


「これは人間に教えられることではない」


 それは明らかな拒絶だった。

 その言葉は、私にかなりの衝撃を与えた。主が人間と自分達(吸血鬼)を明確に分けたのは、覚えている限りではこれが初めてのことだ。

 そこまで拒絶されてしまったら私に聞く権利はない。できることと言えば「……失礼いたしました」と謝罪するくらいだろう。

 主はそれ以外のことを教えるつもりは、やはりないようでそれ以降口をつぐんでしまった。

 ひょんなことから、吸血鬼の謎を知れるかもと思った私は甘かった。そう簡単にうまくいくはずはないが、それでも吸血鬼の実情を少しでも見せてくれた主に期待が高まったのは当然のことだとも思う。


 彼等から全部を聞き出すのにどれくらい時間がかかるのだろう。数年、いや、数十年。それだけかかっても教えてもらえないのではないか。

 だが、そのままでいるわけにもいかない。

 彼等が秘密を話せるということは、それだけ私を信用しているわけである。更に言えば、彼等の秘密を知れば知るほど、彼等は私を野放しにできなくなる。

 つまり、秘密を知ることが彼等から離れずにすむ理由になるのではないか、と私は思ったのだ。

 だが、現実は甘くない。重苦しい感情を吐き出すように息を吐く。それで、心が軽くなってくれればよいが、なる気配はちっともなかった。


 そんな私は、膝の上から重みが無くなったことに気がついて、目を開けた。

 見れば、主が緩慢とした動作で身を起こして、ブランをぽかんとする私の膝の上にぽすんと置いた。そして、立ち上がるとスタスタと歩き出す。


「……主様?」


 どこへ行くのだろうと主の動きに合わせてソファの上で体を動かす。主は足を止めることはなかった。ただ、意思表示だけはしてくれた。それが私にとって有難かったかと問われれば、首を振らざるをえない内容ではあったが。


「……帰る」


 たった一言。それだけで私の思考は止まった。

 言葉の意味をようやく理解できた私は目を大きく見開いた。

 聞こえた言葉は聞き間違えではなかったようで、主の足は止まらない。



 食事をしに来たのではないのか、と問を投げれば別に自室でもできるとすげなく言われてしまった。

 ——しかし、それは。



 私以外を抱くと言うことでしょう?




「……だから、今日はいい」


 主の低い声に我に帰る。

 何が悪かったのかなんて考えている余裕は無く。

 今行かせたら、主は——その一心で。


 私は咄嗟にその背中へ手を伸ばしていた。

 


「……なんだ」


 低い声に肩が跳ねる。主の服に手が届く寸前で手が動きを止める。さっきまでと主の態度がまるで違うことに驚いた。

 服に指先が触れるよりも早く問われた声は、私を牽制しているように感じた。

 牽制、即ち拒絶。

 そして、そのことがとても。とても辛かったのだ。


 突き刺すような視線を感じた私は、それを避るために顔を伏せる。しかし、そのことを後悔するのは早すぎた。

 下を向いたせいで堪えられるものも堪えられず、留め置くところにも留め置けず。涙は玉となって下へ落ちていく。

 その雫の正体に主も早々に気付いたようだった。

 玄関へ向かっていた足が、つま先の位置を変えて私の元へと歩いてくる。そして、その足が私の目の前で止まると 、私は顎を掴まれ持ち上げて上を向かされる。濡れた視界の中に主の特徴的な瞳が映りこんだ。


「……どこに泣く必要がある」


 主の呆れも最もだ。

 主には分からないだろう。主は私の心を知らない。だからそんなことが言えてしまう。

 私が言える言葉も多くない。

 愚手は我が身を滅ぼす。間違っても主を好きだとは言えない。少なくとも、今の状態では。


「……わからなっ……勝手に、」


 涙が、と続けようとした私の体を大きな腕が包んだ。

 抱きしめられていることに気が付いた瞬間、堤防が決壊した。


「何で更に泣くんだ……」


 手を離そうとしていることに気が付いて、やだっと主の背中に手を回す。


「こっままが、いい、です……っ」


 心のままに伝えると、主は私の後頭部に手を添えて引き寄せた。勢いのままに主のスーツに涙を付ける結果となり慌てるも、「気にするな」と主は手を離そうとしない。


「です、が……っ」

「……愛玩動物の慰めも飼主の仕事だろう」


 一瞬呆気にとられて目を丸くする。が、次第におかしくなって、くすくすと笑ってしまった。涙は驚きで引っ込んでしまった。


「……ペットは、泣かないでしょう」

「私のペットは泣くようだ」

「すみま、せんね」

「本当だ……スーツ代ぐらいは頂かないと割りにあわないか」


 何を考えるよりも早くにその腕で抱き上げられて寝室へ連れて行かれる。そして、寝台へ押し倒された。主は呆然とする私の顔をペロリと舐めた。


「……!?」

「ペットみたく可愛い啼き声を上げてみろ」


 それでチャラにしてやる、と主は獰猛な笑みを見せながら言った。その姿はまさしく、夢で見た黒い獣のようだった。





「————今日ぐらいはやめておいてやろうと思ったのだがな」


 主の声に反応して掠れた声を出す。問いかけは聞こえただろうか、と不安な顔をした私に主は手を伸ばした。


「まだ意識があったか……」


 主は少しだけ驚いたという感じを滲ませて、それからニヤリと笑んだ。


「一回では足りないのか……そうか」


 その声に言葉に本能で危機を察する。

 力の抜けた体に鞭打って逃げようとしたところでもう遅い。獰猛な笑みを浮かべながら捕らえた私を主は甚振って遊ぶ。


「『どういう意味?』か…………自分で考えろ」


 暴力的な快感に声なき悲鳴を上げてしまった私を見て、主は満足そうに笑った。




   *    *    *




「お、開けたのか」


 翌々日、私の耳元を見たジュードの目敏いこと。

 そして、その言葉の意味に気が付いた私は愕然とした。


「開いてないって知ってたの!?」

「そりゃあな」


 悪びれもしない態度に一気に頭に血がのぼる。


「あっ、あんたのせいでねぇ!!私はあんな目に……!!!」

「『あんな目』?」

「……うっう、う、うるっさーーーーい!

「はっ……?お前が言い出したんだろ」

「何も聞くな!黙ってろ!!」

「理不尽すぎやしねぇか?」


 だってだってだって!あんなこと語れるはずがないじゃん!!


 話したら最後、自爆する他ない禁じ手だ。

 私のHPは低い。自爆一発でジ・エンドになるのは火を見るよりも明らかだ。

 クッとほぞを噛む。この怒り誰にぶつけるべきか。


「楽しそうで何よりだ」

「どこが!?」


 目を剥いた。

 何がどうしてどうなったらそんな結論に辿り着くことが可能なのか。説明を要求する。


「無断で休んだ奴にそんなこと言う権利があるとでも?」

「無断じゃないって何度も言ってんでしょ!!」


 ジュードの言う通り結局昨日は出社できなかった。

 だが、主に軟禁されたも同然だ。部屋から出るなという言いつけに背いて出社しようとしたところ、部屋のドアが開かなかった。マスターキーはこういうこともできるらしい。スーツ姿のまま頭を抱える羽目になり、しょうがないので不貞寝した。

 ブランは代わりに機嫌が頗るよかった。擦り寄ってきたブランを撫でているとそのうち本当に眠ってしまった。

 翌朝、つまり今朝。再び挑んだドアはすんなり開いた。そういう設定だったらしい。


「……私がいようといまいとジュードには関係ないでしょ?」

「予定が分からなくなるだろ」

「それがっおかしいって言ってんでしょ!?」


 元々、私は主もといロージャ様の秘書だ。なんでジュードの予定管理もしなければいけない。イリーナやルシアンはいい。労ってくれるから。

 だが、目の前の男に気遣いなど存在しない。


「もうやだ、こいつ……早く中国でも韓国でも好きなところに行っちまえよ」

「てめぇ……誰のせいで俺がまだここにいると思ってんだ?」

「そういやなんでまだいるの?中国とっくのとうに行ったんじゃなかったの?」

「今更だな!」


 曰く人事の変更があったらしい。


「俺の代わりに違う奴が行ったよ」

「……それも吸血鬼?」

「吸血鬼」


 どこまで行っても吸血鬼に支配されてる会社だ。皆そんなこと知らずにこの会社に羨望の眼差しを向けているわけだ。

 気付かない方が幸せとはよく言ったものだ。自分達のトップがファンタジーの住人と知ったら社員達はどんな反応を示すのだろう。

 少し試してみたい気もするが、ハイリスク、ローリターンになるのは目に見えているので絶対にやらない。


「因みに。なんで行かなかったの?」

「お前がそれを聞くのか……?」

「やっぱ私のせいか」

「正解」


 近くに吸血鬼が湧いてるような状態で、味方を一人減らすわけにはいかなかったようだ。

 何せ護るべきは彼らの崇拝する主人の大事な大事な餌だ。そこらの野良犬にみすみす奪われるなんてことあってはならないのだろう。

 ご苦労なことだ。私としては有難いのだけれど。死んだら二度と主に会えなくなる。そんなの御免だ。



「本当は私達だけで片付ける予定だったんだけれどね」


 「誤算だったわ」と言いながら入ってきたのはイリーナ姐さんだ。


「何が誤算だったの?」

「ハヅキの血は魅力的すぎたのよ、お陰様で古参者がわらわらと」


 それにいち早く反応したのはジュードだ。


「……イリーナ」

「隠した方があぶないわよ。ハヅキなら事実を知った方が上手く動けるわ」


 イリーナを強く睨んでいたジュードもその意見には一理あったようで、ムスリとしながらも黙った。


「私達の中では千年以上生きている吸血鬼を『古参』って呼んでるの」

「千年……?」


 イリーナはええ、と頷く。もう長すぎてひえええとしか言えない。


「長く生きてるから、単純に強いのよ。経験多いから。それでもジュードや主様(ボス)より長く生きてるのは珍しいのだけど、肩を張るぐらい長生きも何人か確認されてるのよ」

「それってやばいんじゃ」

「やばいのよ」


 なんて言いつつイリーナは至って普通の顔だ。焦りなんて微塵も感じさせない彼女は相変わらず美人だ。

 しかし、この情報にその涼しげな顔はそぐわない。


「でも、安心して?私はそれなりに強いし、ルシアンも軍医だったから戦いってものを熟知してるわ。ジュードはかなりの古株だし、主様より長生きは存在しないぐらいよ」

「……ジュードは一体何歳のジジイなの」

「張り倒すぞてめぇ」


 いやだってさ、気になるでしょ。六百歳のイリーナに古株って言われるぐらいの歳なら千歳は軽く超えてるはずだ。仙人レベルじゃなかろうか。


「いくら長生きでも複数の吸血鬼を相手にとって生き残るのはなかなか難しいのよ。だから隷属を招集したわけ」

「吸血鬼が一箇所に集まりすぎると、諍いが増えるからほんとは嫌なんだがな……危険を減らすためだ、仕方ねぇ」


 縄張りを荒らされんのは好きじゃねぇんだ、というジュードに顔が引きつる。

 ニューヨークが吸血鬼の狩場とか。笑えない冗談だ。


「でも、ハヅキに格闘技の心得があってよかったわ。じゃないと外出も許可できなくなっちゃうから」


 まさかまさかの軟禁ですか。

 そんなこと笑顔で言われてもこっちだってどんな反応返していいか分からない。

 イリーナは笑ってはいるけど声音は至極真面目だ。正直、そんなこと言われると外に行きたくなくなるのだが、仕事は山積み。

 私の身の安全のためには、それが一番適切な対処なのだろうが、それが無理だということは彼らも分かっている。それは私が彼らの役にはたっている証拠のようなもので、こんな状況にも関わらず少し頬が緩む。一応餌以外にも私に存在価値があることに胸を撫で下ろした。



「ずっと訓練つけてたのがようやく報われた気分だ」


 ジュード言ってるのは早朝訓練のことだろう。あんな昔から今回のことを予期していたのかと驚きかけて、脳裏を掠めた主の言葉に顔を険しくさせる。

 分かっていたに決まっている。主はもともと私を餌にするために買ったようなものだ。となれば血は流れるわけで、匂いにつられる吸血鬼はいくらかいるわけで。

 寧ろこの事態になったのは遅すぎたぐらいだったのかもしれない。


「……て言ってもなぁ。吸血鬼に私が敵うと思う?」

「落ち着いてさえいれば問題ないだろ。何せ俺のこと吹っ飛ばせるぐらいだからな」

「ああ、それなら大丈夫ね」

「……楽観的すぎるんじゃないかな」


 そんな言い方だと私が化け物みたいじゃないか、よしてくれ。


 実際この時は楽観視していた、と思う。彼等だけじゃなく私も含めて。

 ここはニューヨークで、人は至る所にいるような場所に怪物の出る幕はない。

 少しばかりの恐怖はあったが、近くに沢山の味方がいるという情報が私の中に少ないが確かにある恐怖を、更に薄めてしまっていた。




 “緊急事態”と呼ぶような事態が発生したのは、そのピアスをつけ始めてから三ヶ月目のことだった。




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