ペーパーナイフの使い方ぐらい知ってるんですけど(下)
ちょっとR15表現あり……かな?
主から今日はそのまま帰る。とメールが来てすぐ私は会社を出た。
そして向かったのは個室つきのレストランだ。そこで待っていた男に茶封筒を渡される。中身とその品の出来を確認して私も封筒を渡す。
男は中身の紙の枚数を数えて取引終了だと言った。
「いい取引ができましたと伝えておいてください」
レストランから出て私は礼を言う。男はそれに微笑んで「分かりました」と答えた。
ではとお辞儀をしようとした時、突然腕を引かれて体勢を崩す。そのまま引きずられるように移動する間に我に戻って——主様!と叫んだ。
「どうしてこちらに?あ、主様!?」
掴まれた腕が痛い。予想以上の馬鹿力に手を外す術がない。
骨が軋み、痛いと悲鳴をあげてようやく手は外された。しかし、主の機嫌が頗る悪い。今度は軽い力で、それでも逃げられない程度に反対の腕を握られる。
「あれは一体誰だ」
「え、誰……と言われましても」
「いいから答えろ」
答えろと言われても、ただの取引相手としか言いようがない。だが、馬鹿正直に答えるほど愚かではない。
主の尋常じゃない迫力に、自分の目的がバレたかと思ったがそういうわけではないらしい。ならば、誤魔化すしかない。
「道に迷ってたら案内してくれた方です。ですからどこの誰かは知りません」
「……じゃあ何故あんな焦った顔をした」
「主様の顔が怖かったため少々驚きました」
主は拍子抜けしたような顔をして、それから脱力感いっぱいで項垂れる。
「……無理矢理引きずってきて悪かったな。少し頭がどうかしているようだ」
やるせなそうに言う主に罪悪感が湧く。だが、ここで嘘がバレるわけにはいかないのだ。
私は何ともない顔でいいえ、とか、大丈夫ですか?とか主の体調を慮るフリをする。
「……そろそろ帰りましょう?ブランも待ってますよ」
主は何処かに出かけた日の夜は大抵ブランを触りに私の部屋を訪れる。だから今日もそのパターンだと思って提案したのだが、主はゆるゆると首を振った。
「今日はいい、少し出かけてくる」
「……行ってらっしゃいませ」
夜の街に消えていく主の背中を見ながら今日は来ないのかと落ち込む。なんとなく期待していたのに。あっさりと離された腕が少し寒かった。
何はともあれ、欲しかった物は手に入った。これなら連休に間に合う。
「もうすぐ会える……」
私は手元のバッグを見てふふっと笑い声を漏らす。
「あとはチケット買うだけっと」
呟きながら家路を急ぐ。ブランが家で待っている。
チケットはすぐに手に入った。
結構ギリギリになってしまったが時期は問題はない。
連休中のブランの世話はイリーナに話をつけてある。ジュードにどこへ行くのか頻りに聞かれたが、内緒と答えた。変に問題にするつもりはない。
そして連休の前日。
その日は……はっきり言って浮かれていた。
そして運が悪かった。
エレベーターの指紋の配置換えがその日だった。だが、部屋に戻ろうとした時私は以前の指をつかってしまったのだ。浮かれていたせいで配置換えのことを忘れていたのである。
それでも、普通は自分の部屋でないことに気づくはずなのである。何故なら鍵がかかっているから。しかし、目的地に鍵がかかってなかった。開いていたからこそ自分の部屋だと思ってしまった。
「ただい……ま……?」
エレベーターから出てすぐに足は止まった。変な臭いがしたのだ。微だったがなんというか、小学校の蛇口から出る水のような——そうだ、錆びた鉄の臭いだ。
ギシリと小さな音がして、身構える。
部屋にいるのはブランだけのはずなのに、聞こえる物音は猫が立てるようなものではない。確実に誰かいる。まさか初の侵入者か、と浮き足立ったのも束の間、その小さな音が再び廊下に響いた。
それが寝室で発生した音だと気が付いた瞬間、手に持っていた書類が滑り落ちた。
廊下を見ればいつものラグが敷いてあるはずの位置にラグがない。つまり私の部屋じゃない。ようやく気が付いた事実に慌てて書類を拾って踵を返す。
やばいやばいやばい。
ここは一体誰の部屋だ。いや、誰の部屋でもまずい。もし今部屋の主と遭遇したりしたら不法進入どころか、覗き魔のレッテルが貼られてもおかしくないことを私はしている。
イリーナやルシアンはなんとなく笑って許してくれる気がする。問題はジュードだ。
あの男は確実にニヤニヤしながら「欲求不満か?」とかなんとか言ってからかってくるに決まっている。表情まで想像つくぐらいだ。奴は絶対に言ってくる。
そんな私は小さな呻き声のようなものを聞いてしまった。
「……え」
今の声は——
扉に釘付けになる。この先にいるのは、まさか。
ゴクリと一度ツバを飲む。さっきまで何ともなかった心臓が急に自己主張を始めた。トットットッという音はやがてドッドッドッとなり、ドアノブを掴む時には立っているのも辛い程になっていた。
ここを開ければ彼らの秘密が分かる。
溢れんばかりの血臭がそれを私に教える。
この間まだ知らなくていいと決めたばかりだ。今知るべきではない。何故なら私はまだ覚悟ができていない。
なのに、私の手首はゆっくりとドアノブを捻る。ダメだって分かっている。けれど——
——がちゃり
扉は開いた。小さな音と共に。
* * *
目の前で足を止めた気配にのろのろと耳を手から解放する。
「いい加減出てこい」
その声に思わず顔を上げてしまった。
目の前にいた主の顔を見て作戦だったことを知る。私は目を反らしながら、出られないようにしたのは誰ですか、と恨めしげに尋ねる。
「俺だ」
「……知っています」
そんなことは言われずとも分かる。嫌味だと分かっていてこの返答なのだから嫌になる。私は再び顔を伏せた。
「どうだ、感想は?」
「……部屋を間違えたことに関してですか、情事に遭遇してしまったことに対してですか、それとも貴方が——吸血鬼ということに関してですかですか?」
主は選択肢を鼻で笑った。
「総括に決まっているだろう」
「なら簡単です。……最悪の一言に尽きますね」
寝室のドアを開けた時。その扉を開けたら後戻りできないと分かっていながら、開けてしまった自分を私は冷めた目で見ていた。
驚く自分と、やっぱりと思う自分。
そんな私のことを、主は女を抱えながら見た。
嬌声をあげる女の赤い首筋を舐めながら。
その赤いものが何かは辺りに漂う臭いで分かった。彼女の首から流れる一筋の赤い血を、主は零さぬよう舐め上げた。
淫らで淫靡的なその光景を見せつけるかのような主に私は逃げた。
そこに恐怖という感情は一欠片もない。ただ、二人を見たくない。女を抱く主が見たくない。その一心でエレベーターに戻る。
しかし、エレベーターへ続くドアは決して開かなかった。入る時はすんなり入れたというのに。
何を試してもダメだった。どうにか開けようとモニタを弄る間も女の矯正は聞こえてくる。失敗した。ドアを閉めてくるのを忘れたのだ。
前の扉は開かず、後ろからは女の嬉しそうな悲鳴。
ああ、嫌だ嫌だ。これ以上聞きたくない。
不快すぎて吐きそうだ。
私は奥の部屋、リビングを通り抜け浴室のバスの中に座り込む。そこに来るまでのドアを全て閉め、膝の間に耳を塞いだ状態で頭を挟んで。それでようやく物音はしなくなった。
主が私の元へ来たということはあの女性は帰ったのだろう。
「……シャワーも浴びせずに帰らせたんですか」
「浴室に今ウサギがいると言ったら帰った。動物嫌いだからな」
その情報はいらない。女性と親密さを聞かされてどのような顔をすればいい。へぇ、そうですかなんてとてもじゃないが言えそうにない。
こういう時はそのまま下を向いているに限る。
と思ったはずなのに、次の瞬間には何故か上を向かされていた。
不思議な銀の色に目が引き寄せられる。銀の中に一点赤い光がある。私の目の色だ。
いつ見ても不思議な目だ。穏やかな雪原のように静かな瞳をぼんやり見ていると何もかも忘れてしまいそうに——ってそんな場合じゃない。
顔を下に向ける……ってビクともしない。首の筋肉に力を入れて……動かない。
主の指の力が強すぎるらしい。せめて横を……いや、向けられない。なんでだ!!
「お前のせいだ」
何がでしょう。
「一人逃げられた」
……あのような女性が他にいるという自慢だろうか。
「どうしてくれる」
「……なら、一人補充すればよろしいのでは」
人と話す時に棘を意識して生やしたのは初めてだ。言ってから少し後悔した。あくまで少しだが。
この後悔はほんの少しの罪悪感からきたものだ。八つ当たりにすぎない。
主にこのような口をきいてタダで済むはずがないことを理解した上での狼藉だ。怒りを買おうと、罰を与えられようと、別に知ったことでない。
「……ほう、そうか」
主も思うところがあったらしく声のトーンが落ちている。私の顔を固定していた手も離れていく。
「では、そうさせてもらおう」
急に視界が変わった。頭が大きく振られて息がつまる。胃が飛び出るかと思うほどの圧迫感を感じた後揺れが消えた。見えるのは主の広い背中だけ。……背中?
その背中に手を当てて上体を逸らした私は目を見開いた。
私の体は荷物のように担がれていたのだ。
「——なっ」
「うるさい」
叫び声を上げるよりも早く、口に何かが突っ込まれる。
「これでも噛んでおけ」
噛めるわけない。主の指なのに。
主に荷物のように担がれながら、行き先に気付いて悲鳴をあげた。私をもう一人にするつもりなのだ、この人は。
「やだっ!やめて!!離して!!」
「ダメだ」
何がダメなのと叫ぶと主の足が止まった。
「お前は私の何だ」
「…………秘書」
「違う。お前は私の僕だろう?」
至極真面目な主の言に私の体は凍りつく。
——それの意味することは。
カタカタと指先が震えだす。
「そ、そんな……だって……!」
「偽りの誓いを立てたとでも言うつもりか?」
「こんなことをする羽目になると知っていれば意地でも誓ったりなんかしません!」
「何を言うかと思えば……言い訳か」
言い訳なんかじゃと言い募ろうとした私は急に主が動き出したせいで舌をかみそうになる。そんな私に主は気づかない。
「お前に仕事をさせたのは温情に過ぎない。何も知らないまま餌になるのは可哀想だと思ったからな。だが、……恩を仇で返すような輩に気遣いなど無用だろう」
いつ仇なすようなことをしただろうと憤慨する。
「先ほどはっ……少し邪魔したかもしれませんが、他に主の邪魔立てなど」
「勝手に逃げようとしただろう」
「逃げ……なんでそうなるんですか!?」
あの場面で逃げない人がいるだろうか。あいにく私は覗き見するような特殊な性癖は持ち合わせていない。
「……何も知らないと思ったか」
顔面に手を突きつけられて面喰らう。
いつの間に取り出したのか。主の手の中のものに焦点を合わせ……絶句する。
「どうしてそれが!」
「落ちていた」
「なっ」
そんなわけないと言おうとして、さっき書類の束を落としているのを思い出し口を噤む。その中には確かに手帳もあった。その時に落とした可能性は否定できない。
返してと声をあげた瞬間、ベッドに荷物のように放られた。スプリングの軋む音がやけに耳につく。
「……羽田行きか、馬鹿にしている」
何を言う間も与えず、主はそのチケットを引き裂いた。
「ちょっ……」
「行かせないし、休暇もなしだ」
「何それ……っ」
最低と声を上げる。主に何のダメージを与えることもできないと分かっていたが、上げずにはいられなかった。
「早く諦めろ」
「何を……!」
「遅かれ早かれ、お前は元々私の餌になる運命だった。今逃げなくともいずれは」
頭の中が真っ白になる。
必死に勉強したのも。必死に仕事を覚えたのも。主のためになれるよう。最初はそうでなくとも、そばにいるうちに主のために少しでもなりたくて、面倒を見てくれる恩を返したくて——。
なのに、それら全てを否定された。
「この腐れ外道!!」
私の罵倒にも主は少しだけ眉を顰めただけで、ニヤリと笑った。
着ていた服を脱ぎながらベッドに入ってきた主を見て、本当に喰う気なんだ、と諦めにも似た気持ちが私を揺さぶる。もう抵抗する気にもなれなかった。
私の胸に伸びた堅い手がワイシャツのボタンを引きちぎった。
飛ぶボタンを見ていたら不意に記憶が蘇った。前に見た夢。美しい獣と小さなううさぎの夢。被食者と捕食者の辛い夢だった。だが、それが現実になるとは、思いもしなかった。
「……よく笑ってられるな?」
「笑ってる……?」
徐に口元へ手を伸ばす。口は固く引き結ばれて、口角は少し上を向いていた。……これが笑っているように見えるなら。
「……あなた様は随分おめでたい頭をしていらっしゃいますね」
「言うじゃないか」
主はそれでも相貌を崩さない。
「そんな余裕なくしてやろう」
言うが早いか主から唇へ噛みつくようなキスが落とされる。唇が喰われる。息をする暇もない。
酸素を求めて喘ぎながら、馬鹿だな私と自嘲する。
自分は要領が良くない方だとは前から思っていたが、ここまで痛感したことはなかった。
何もこんな時に——喜ぶ、なんて。
————喉に冷たいものが触れた。
ヒヤリと鳥肌が立つような冷たさも火照った体には丁度いい。
その冷たさに酔うのも一瞬で、首筋を襲った鋭い痛みに眉を寄せると、たらりと雫が垂れた。
私と同じ体温のそれを、冷たいものが舐めとる。肌を這うぬるりとした感触がとても気持ち悦い。
「…………はぁっ……」
震えた吐息を漏らせば、私の首元から微かな笑い声があがった。
あんなにも動いているくせに汗ひとつかかない体は、前は温かいと、そう思ったはずなのに今やこんなにも冷たい。
何気なく背中に手を回してスルリと背中を撫で上げる。指先に伝わってくるのはシルクのような触り心地と私とは違うリズムを刻み鼓動。
ゆっくりと停滞するように刻む心音に本当に人間じゃないんだと実感する。その事実はするりと内に入った。
閉じていた目を開けて、そっと、私の首を切ったものを探す。
——あった。
寝台の隅に投げ出されたそれは、脇には赤いシミを作っていた。残っていた雫がシーツに染みたのだろう、。
転がっているのはジュードがペーパーナイフと語ったものだ。透けたそれは硝子の肌にシーツの白と赤を映しだす。
……ジュードの嘘つき。
それは、紙を切るためのものじゃないんじゃん。
やっとここまで来た感……もうバレバレだったと思うけど吸血鬼タグ追加しました




