経験値が足りてません(下)
目を眇めたまま先を歩く。主を我が家にご招待するためだ。
最初は苛立ちからひょっとこよろしく口を突き出して歩いていたが、そんな所をジュードが通りがかれば絶対爆笑される、と思ったら更に腹立たしくてすぐにもとの顔に戻した。目つきだけはどうしても戻せなかった。
「辞めたのか……」
「何をです?」
「変顔」
変顔じゃない。
無性に腹が立つ。主に対してイライラする。そんなこと今まで無かったのに。対して主は飄々としていて私には無関心。ブランにはあんなにも関心的なのに。
エレベーターに乗り込んだ時一瞬主を置いていこうか本気で悩む。が、主の鍵は名前の通り全てのフロアに自由に行き来することができる。置いていったところで勝手にくるだけだ。
ガラス張りの巨大な箱は主も載せて動き出す。
というか、考えてみれば主の鍵は私の部屋もロックの解除関係なく開けられるはずなのだ。私の帰宅を待つ必要なんてどこにもない。勝手に訪ねればいい。私など主の所有物にすぎない。帰宅したら主がブランと戯れていようと文句を言うつもりはない。意外に律儀なのだろううか。
マスターキーの説明を受けた時に既に割り切っていたが、それから半年訪れることはなかったからすっかり忘れていた。
「……はい、どうぞ」
開いたドアを押さえながら手で部屋に上がってくださいと示す。
主はスタスタ入って、ラグの位置で靴を素早く脱いでさっさとリビングに向かう。
主の脱いだ靴を真ん中に置きなおして私も後を追う。皆靴を嫌がらずに脱いでくれるのはありがたい。しかも、言わずとも察知してくれるから楽だ。
しかし、と。振り返る。他の皆は土足厳禁に何かしらの反応を見せたのに、主は戸惑う素振りすら見せなかった。初めて部屋に来た人は誰もが何かしら言ったものだけど。
「……誰かに聞いていたのかな」
ポツリと呟かれた声に返事はなく。
ブランの悲壮な鳴き声が聞こえて慌てて私もリビングに向かった。
リビングに向かう途中、一度キッチンに寄ってから行く。その間もブランの不満たっぷりの鳴き声が絶えず聞こえてくる。
数分後ようやくリビングに入った。久し振りの邂逅を一頻り楽しんだらしく、主の顔はどこか満足気だ。大してブランはグッタリしている。私に気がついて恨めし気な顔をされる。私が長時間部屋を空けていた時と同じムッツリとした顔だ。
甘えたなブランは部屋に残されることを嫌う。一日程度ならまだ我慢してくれるが、これが二日になったりでもしたら最後、お気に入りのおもちゃにも反応を返さずムッツリ丸くなるだけだ。
それと同じ反応を見せるブランに笑いがこみ上げる。そんなに主に触られるの嫌だったのか。二人の温度差に苦笑しつつ主の寝転ぶソファに近寄る。
「コーヒーは飲みますか?」
「いや」
「ですよね。私も一個しか用意してません」
何故聞いたと言いたそうな顔を無視して反対側のソファに座る。ほんのちょっとした意趣返しだ。これぐらいは許されて然るべきだ。
主は私に対する関心をすぐに失って再びブランに意識を戻す。
気配を察知したのかブランは急いでキャットタワーの最上階に逃げ込んだ。
フられて悲しげな主に笑いがこみ上げる。
「……笑うな」
「ブランが可愛いくて笑ってるんです」
これぐらいの嘘なら許されるだろう。主も分かっているのか何も言わずにおし黙った。
いい気味、再びくクスッと笑えば胸がすいた。
「ブラン、おいで」
呼べばブランは何度か飛んで私の膝の上に着地する。撫でてやって機嫌を直したところでブランを主にパスする。
また後で撫でてやるからと言ってようやくブランは大人しくなった。
二人の様子を笑いながら眺める。懐かしい光景だ。あのころと部屋の様子も家具も何もかも変わったのに、二人の間柄は全く変わっていない。
ブランがもう限界と言うような鳴き声をあげる。合わせて壁にかかった時計を見ればもういい時間となっている。
「そろそろいいですか?私もしたいことありますし」
言外に帰れと告げてみる。これで察知出来ないほど察しの悪い方じゃない。だが、主の体はソファから起き上がることすらしない。
「主様?」
主の手は一心不乱にブランの肉球をふにふにしている。ブランの嫌そうな顔ったらない。
「主様ー?」
「……まだもう一匹触ってない」
ようやく来た返答は不可解だった。
「……もう一匹、ですか」
「ああ、ウサギだ」
「それって」
「白に赤目のウサギだ」
主の言うウサギが何か合点が行く。
「…………まだシャワー浴びてないし、ご飯も食べてないので嫌です」
拒否の言葉を吐いてコーヒーを一口飲む。……もう一口飲む。更にもう一口……ああ、もう!
「今ブランに触ってるじゃないですか!!」
「短い」
「長毛種ですよ!」
「短い」
「……私には一箇所しかありませんが?」
「別に問題ない」
頭にしか毛がないウサギってかなり問題あると思いますよ。見た目的にも。
「……とりあえずお風呂入ってきますので」
主の中では決定事項になっているようで、触らせるのは諦めることにする。前はよく撫でられていたのだ、なんの問題もない。
何はともあれとりあえずシャワー浴びてこよう。が、風呂場へ行こうと立ち上がった私を主が片手で押さえつける。
「入らなくていい」
「……いや、あの、汗かいてますし」
「石鹸の匂いは好きじゃない」
「いい匂いじゃないですか……」
「お前のそのままの匂いの方がいい香りだ」
すんと鼻を鳴らす音が真近で聞こえて肩が跳ねる。
「嗅がないでください!!」
「なぜだ」
「くさ……言わせないでください!」
私だって一応女なんです。体臭は結構気にしてるんです。
「なら、私が洗おうか」
「……何を」
「ペットを清潔に保つのは飼い主の務めだろう?」
間抜けな声が出る。
何の嫌がらせだ。
一人ハッとする。
もしやさっき、からかったのが悪かったのだろうか。いや、だが、その前に嘘ついたのは主の方だ。私はその仕返しをしたにすぎない。なのにこの仕打ちは割に合わなくなかろうか。あれ?意味変わった?
「……貴方のペットは自分で体を洗えるいい子ですのでお気になさらず——」
「届かないところだってあるだろう?」
きっぱり断りをいれてもこれだ。
先ほどから会話がマズイ方向に向かっている気がしないでもない。
「お手を煩わせるほどのことじゃないですから、ね?少しだけ待ってていた、だ、け……」
いつの間に、と漏らした声は喉奥に消えて現れたのは小さな悲鳴じみた声だった。
背後からから胸と腹の境界線に手を入れられて猫の鳴き声のような悲鳴が漏れた。
「あの、いや、ちょっ何を……ーーー!?」
「煩わしくなんか何もない……」
久方振りのスキンシップは本当にこんなことをしていただろうかと首をかしげるほど際どい場所を撫でていく。
吐息が耳を撫で上げて知らず高い声が出る。
体が強張って指先の操作すら危うい今、一番鋭い感覚は鼻で、肺いっぱいに吸い込んだ主の香りが勝手に意識される。
主の腕に更に引き寄せられているのに抵抗すらできない。
固まる私。それを更に固まらせようとする主。
耳から内に、声が、入ってくる。
「……私が触りたいだけだ」
くすりと慈しむようなからかうような不思議な声音の笑い声に頭の中の線が、ぷっつりと、弾けた。
「————だからって裸はどう考えても無理っ!!」
顔面を真っ赤にして叫びながら立ち上がり——ごぢん、となにか凄い音が聞こえた気がしたが、よく分からない。というか気にしていない。気にしてられない。
ソファから子鹿よろしく逃げ出した私は、手近なところにあったカリカリをぶん投げる。顎を摩りながら片手で袋をキャッチした主を尻目に全身全霊で洗面所にかけこむ。
「ごっご飯!ブランにあげておいてください!!」
言うが早いかドアを力任せに閉め、鍵をジャコンと閉めてようやくホッとする。安心したら体から力が抜けてズルズル滑りながら床にへたり込んだ。
なんだあれ。
あれは一体誰なんだ。
頭を抱えて呻く。頭の中は先ほどのリプレイがエンドレスで流れている。
あんな主見たことがない。今までセクシーだなとは何度も思った。あれらの姿は序の口でもっとすごい形態があるとは知らなかった。
囁かれた右耳が今でもとろけている。
今思えば今日の主は何かおかしかった。わざわざ仕事を捏造してまであの男から引き剥がしたのだ。理由は猫に触りたいから。
子供か。自分の欲望のためになら障害を蹴散らすのも厭わない。子供だ。待つことができない子供。
あの時は私が嫌がっていたから良かったものの、例えばもし、あの状況を喜んでいたのならどうしたのだろう。ナンパされたのを楽しんでいたのであれば、私は主にキレてる。自信がある。
それほどまでに毛皮が恋しかったのだろうか。
だから、今更ウサギの件を持ち出してきたのだろうか。最近かまわれることがなかったから私でも忘れていたこと。それを主はわざわざ掘り返した。
——私の髪の毛を実は本当に気に入っていた?
自らの説にありえないことではないと見解を出す。最初ブランを飼う時、主は動物に好かれないと言っていた。実際ブランは今でも主に完全に懐いているわけではない。
その点、私はどうだ。もう主に慣れきっている、かつ、髪の触り心地は悪くない(主観)。少々動物にしては長すぎるが、頭だけを撫でる分には問題ない。
結論、主は私を本気でペットだと思っている。……そう思い込むのが賢明だ。
つっ……ツッコミはしない方向でお願いします。
私だっておかしいのは重々承知しているんですよ……!
「…………翻弄されてるなぁ」
少しは平常運転へと戻り始めた動機を確認しながら顔をあげれば、真っ赤な瞳の私と鏡越しに目が合う。もう一年経つ。この瞳を見るようになって、もう一年。老人のような白い髪も肩甲骨まで伸びた。正直、黒髪だった昔の自分が思い出せない。
慣れとは恐ろしい。
「あれ……」
浴室から出た瞬間、鼻がいい匂いにつられてくんくんと動く。
解錠して廊下を伺うと美味しそうな香りが周囲に充満していた。
まさかと疑いながら服を着てリビングに向かったのに、机の上にお皿が一つ置いてあった。その皿の中を見て嬉しい。そう思ったにも関わらず眉根を寄せる。
「……美味しそう」
そう、とても美味しそうなのだ。それが問題である。
「丁度いいタイミングだったな」
主だ。
言いながらことりと机に置かれた椀の中を覗き込む。ジャガイモやタマネギ、ニンジン、ベーコンなどがスープの中にゴロゴロ沈んでいる。
ポトフだ。野菜がとろっとろにとろけて、とても美味しそう。
大皿に盛られていたのはパエリアだ。
豊富なシーフードに野菜、彩りも豊かで見ていても楽しい。追加で置かれたベーコンサラダの盛り付けもとても美しい。
どれも私では作れそうにない。なのに主はできるってどういうこと。
「何見てるんだ」
「……美味しそうだなぁと」
私だって昔から自炊してたしなかなか料理上手い方だと思っていたのに、プライドがズタボロだ。前に一度戴いた朝食は至極簡単なもので、そこまで嫉妬するようなものではなかった。だが、目の前にある品々を見てしまえば主のスキルのレベルの高さに悔しさに打ちひしがれる他ない。
「食わないのか?」
机の上にある料理はどれも一品ずつしかない。
「え、主様の分では……」
「俺はこんなもの食わない」
ピキッとこめかみに力が入る。
『こんなもの』だって——?
ギリィと奥歯を噛み締めながら主を見上げる。
……こんなにも美味しそうな料理を、こんなもの、で済ますなんて!
この流れだと以前と同じく、私のために用意してくれたと見て間違いないだろう。
だが、こんなもの、程度のものを食べさせるつもりなのかと小さく怒りを覚える。
「食べないのか」
「……食べますけど」
「ならいいじゃないか」
よくないわ!!
料理ってのは真心こめてこそ美味しくなるんです。
「心はこめた」
こんなもの呼ばわりする料理に心がこもっているとは思えないんですってば。あと、心こめたって言葉が主には似合わなすぎます。
「いいから食べろ」
「んぐっ」
主が乱暴にパエリアを掬って口の中に押し込む。
文句は言い足りなかったが口にスプーンを突っ込まれてまで、話すほど行儀悪くはない。黙って咀嚼する私の顔を見て、主が珍しく笑う。
「美味しいだろう」
ええ……ええ!美味しいですよ、この上なく!!
微かに得意げな表情が気に食わない。が、事実は事実。認めないわけにいかない。
スプーンを受け取って黙ったままもぐもぐする。
美味しいんですから、この微妙な心情も理解してください。ほんと頼みますから。
キッチンに洗い物をしにいって、この短時間でどうしてあんな野菜とろっとろのポトフといったものが作れたのか理解する。
「こんなのあったんだ……」
私の手の中でアワアワになっているのは圧力鍋だ。どこから引っ張り出したのだろう。と棚の奥の方にもう一セット見つける。それを見て、ここに来た時に置いてあったことを思い出した。音が怖くて嫌厭しているうちに奥に追いやってしまい、そのまま忘れていた。あのシュッシュって音苦手。爆発しそうで。
しかし、便利なものではある。短時間であれだけ煮込めるなんて凄い。今度もう一度挑戦してみよう。
「いつになったら帰るんですか」
遂に針は零時を回った。にも関わらず主は未だにソファでブランと戯れている。もう我慢の限界だ。
家事でもやってればそのうち変えるだろうと思ったのに、目論見が外れて舌打ちしたい気分だ。
と思ったら舌打ちされた。先越された悔しい。
「明日朝一で飛行機に乗るんですよ?……百歩譲って別の日に触っていいですから今日はおかえりください」
「……問題ない」
どこが問題ないんだ、よぉおおお!?
「なっなにするんですか!?」
「運んでやろうと」
「どこへ!?」
一瞬の内に浮いていた自分の体が信じられない。全く気配を感じさせずに近付く主はもっと信じられない。さっき背後を取られた時も思ったが、私が気付いていないだけで疲れているのだろうか。
というかどこに向かうんだ。何故そっちへ。やめて、そっち寝室!
「離してくだ、うあ!」
ポイッと放られて受け身を取るべく構えたが、その先はベッドだった。スプリングの効いたマットレスが優しくお出迎えする。
拍子抜けしてすぐ硬いものに囲まれて体を硬くする。主の腕だった。横になった私下に一本、頭に一本。逃げようと思えばまぁ逃げられる。しかし、この(よく分からない)状況で主がみすみす見逃すとも思えない。
シャワーも浴びたので懸念事項は特にない。というわけで大人しくそのまま力を抜いた。
主の手が頭の上を往復しだす。逃げる気は完全に無くなった。
単調な動きがなんとも眠りを誘う。
ウトウトし始めたころ、主の手が止まった。何故撫でるのをやめたのか主の方を窺うと目があって驚く。
「……邪魔だったか?」
突然すぎる質問に意味がよく分からないと返す。
「あの男に誘われていただろう?」
「……ああ、そのことですか……」
やっぱり。主は私のことを助けてくれたんだ。
「困ってたので助かりました。ありがとうございます」
「……礼を言われるようなことではない」
「ですが、助かりましたので」
本当に助かったのだ、方法はいただけなかったけど。主が嘘をついてくれなければあのまま帰れなくなっていただろう。
「…………のったことは?」
「はい?」
「今まで誘いにのったことはあったのか?」
「ないです、けど?」
「嘘は」
「付いてません」
主は怪訝な顔でどうしてだと聞く。何がどうしてだに繋がるのか全く分からない。順序立てた説明ぷりーず。
「普通ついていかないか?」
「ついていくわけないじゃないですか。……絶対楽しめないですよ」
「わからないだろう、そんなこと」
分かるんですよ、そんなこと。
「ああ、でも……主様となら食事に行きたいですね」
主の呼吸音が不意に止まった。
「……私とか?」
「一番行きたいのはイリーナですけどね」
「…………そうか」
「皆、ご飯食べないので誘うつもりはないですけど……食事でなくてもどこかに出かけてみたいですね」
こんな体じゃ長い時間外にいられないけれど、という自嘲の声は脳内にとどめた。言ったところで何にもならないし、主の方が私の体についてよく分かっている。何せ三十分外出するだけで心配のメール(?)を送ってくるくらいなのだ。
一言しかないメールを思い出して笑った瞬間、急に腕を掴まれて驚く。そのまま引きずられて何とも情けない声が出た。
「何するんです……」
「遠い」
「……嫌なんですか?」
「…………どうだろうな」
主の言葉までの長々した間に吹き出す。
「主も寂しがり屋ですね。ブランと一緒」
「黙れ」
それ以降もう何も聞かないと言わんばかりに目を閉じた主を、少しだけ残念に思う。
……最近誘われることが多くなった。男に見られているのが多くなった。
なのに主は私をペットとしか見ない。女として見ない。
それが、いいことなのか悪いことなのか私にはまだ判別がつかない。
自ら主の腕の中に擦りよっていくのを見ればもう答えは出ているようなものだが、まだ私としては悩んでいたいのだ。これを認めれば地獄に成り代わるのは分かっている。だからこそ足掻きたい。何とかなるうちに。
腹に回った逞しい腕を抱えながら、小さな声でお休みなさいと囁いた。
ある日のやりとり
「そろそろ帰ろうかなぁ……あれ、メールいっぱ…………」
『日焼け止めは塗ったのか』
『帽子は被っているのか』
『サングラスは』
『露出は最低限なんだろうな』
『もう30分経つぞ』
「主って意外とおかん……」