晴れて社会人になります(上)
「……ふぅん」
それだけかい。
予想以上の反応の無さにゲンナリする。
正直、最近の主ならなんかしら言ってくれると思っていたのだけれど……現実は厳しい。
初スーツなのにな。
溜息に自らの鬱憤を乗せる。
「置いていくぞ?」
「……乗りますよ」
一呼吸置いて黒光りの車に乗り込む。
因みにポルシェ。
もう一度言う。あの、ポルシェだ。細かい型番は忘れたが、セレブが挙って愛用するというあの ポ ル シ ェ だ。
初めて乗せられた時にチラリとロゴが見えた。それでこの車がポルシェだと知った。
あの時の高揚感はきっと一生忘れないだろう。だって、このメーカーの車と同じ値段で家が一件買えてしまうらしいじゃないですか。
根っからの庶民育ちなもので、はしたなくも興奮してしまった。御免遊ばせ。
そんな私も何度か乗れば慣れるというもの。乗り降りの際は気を使うが普通の車と同じような感覚だ。慣れって怖い。
主の隣に座りドアを閉めると車は走り出した。
再び深く息を吐き出す。それを聞いた主が眉を顰めた。
「……緊張しすぎだろう」
私の様子を見た主がそう呟く。
主の言う通り私は緊張していた。
手足は強張り、背筋は不自然なほどに伸びている。
「そんな大変なことじゃないんだが」
「……分からないじゃないですか、そんなの」
結局私は今の今まできちんとした業務内容を教えてもらっていない。
私の役目は秘書のようなものだと聞いた。しかし、秘書という職業は私にとって身近なものではない。全て小説やドラマの中でしか見たことがない。
「未だに主様のはっきりとした仕事も知らないですし、接待なんてできそうにないですし……なんでしょうか?」
主は私の顔を見て聞いていないのか……?と言う。
「……何をでしょうか」
主が舌打ちする。
え、何、怒るようなことあった?
慌てる私を他所に主は胸元から何かを取り出す。
四角い端末式の物を操作すると主はそれを耳に押し当てた。
……通話、してる?
え、それ、電話……?
主がその携帯らしき物を持ち替えた瞬間、チラリとマークが見えた。
欠けたリンゴ。
私は小さく声を上げた。
すごい早口で話す主は額に手をあて、何事か謝って電話を切った。
「すまない、伝達ミスがあったよう……どうした」
奇人を見るような顔になった主。だが、今の私はそれどころじゃなかった。
「それがあのっ……あのiPhoneですか!?」
「あ、ああ……そうだが」
「あああ、これがiPhone……次世代端末……」
「……触るか?」
「是非とも!!」
力一杯頷いた私に主はその四角いものを手渡した。苦笑されたが気にしない。
「うわぁ……思ったより軽い……画面大きい……」
「……ここがホームボタンで押すと」
「着いた!」
「横にスライドでロック解除になる」
「画面を触って操作ってこんな感覚なんだ!うわぁ〜すごいすごい!システムキーボードってこんな感じなんだ。へぇ、おもしろーい」
「一応ゲームもできるんだが……」
「わ、ほんとだ!!」
はしゃいでわちゃわちゃ弄っていると主が横から色々と教えてくれる。それに従って遊んでいたら車が停まった。
なになに、渋滞?と外を除けば薄暗いそこには沢山の車が停まっていた。
まるで、地下駐車場みたいな……うん?
……地下駐車場?
「……着きましたが?」
今まで一度も言葉を発しなかった運転手が主側のドアを開けながら告げる。
そんな顔してたんですね……じゃないよ!
「着いちゃった……?」
「ああ」
「まだ何も聞いてないのに……?」
「そうだな」
呆然とする私に降りないのかと問いかける主。恨めしげな視線を主へ送りながら降りますよと答える。
結局何も知らないままだ。私が悪いのだけれど。
少しでも情報を求めていたはずなのに、あんな罠(罠じゃないよ)に引っかかるなんて……ああ情けない。
主は数メートル先にあったエレベーターに迷わず乗り込む。私も後に続けば、驚きで目を丸くした。
ボタンがないのだ。これでは行きたい階に行けないではないか。どうするのか見ていると主は胸元から直径二センチ程度の円状の銀盤を取り出して、本来ボタンのあるはずの場所に唯一あった二重の円の内側に近付ける。その瞬間ドアは閉まりエレベーターは上昇を始めた。
ドアの上に小さなライトが灯り、それは徐々に右へ右へと点灯を進めていく。
ハイテクか。
突っ込んでいる間にもエレベーターは上昇し——突然視界が開けた。
全面ガラス張り、視界の先に広がるのはニューヨークの高層ビル群。息を飲むと同時に夜景が凄そうだと思った。
呆然と外を眺めているとエレベーターはまた覆いに囲まれて外が見えなくなる。残念だ。その箱は緩やかに減速を始めやがて止まった。
チーン。
なんとなくレトロチックな音だ。扉の上の表示板に光る小さなライトはそれ以上右に行けないようだ。つまりここが最上階。
ここから先は戦場なんだと本気で考える。
気合の代わりに頬を軽く叩く。そして主の後に続いてその箱の中から外に出た。
ふかぁ。
なんとも柔らかな感触が足の裏から伝わって顔を下へと向ける。毛足の長い絨毯がそこにあった。
顔を上げる。
そこはまるで、話に聞くスイーツのような部屋だった。
「——オフィスじゃないだと!?」
「いや、ここがオフィスだ」
は!?
このホテルの一室が?オフィスですと?
いや、そんなはずない。私の思うオフィスというのは、デスクがこう所狭しという感じで並んでいて人が沢山いるはずだ。
しかし、ここにはデスクもなければ、人も全くいない。
ただ豪華な部屋の中にソファと卓があって、視界の端に書類と電話が置かれたデスクが一つあるのみだ。
主はそのデスクの座り心地のよさそうな、ザ・社長みたいな椅子に腰掛け、優雅に肘をついて組んだ手の上に顎を乗せる。
細めた目の色気が堪らない。
「ここは……私の仕事場所だ」
マジか。
そんな呟きを漏らしたの許してほしい。
でもさ、信じられる?
——高層ビル群の中でも頭が出ているビルの最上階。
そんな所で私の主は日々仕事に励んでいるなんて。
信じられん。
主はこっちにこいと手招きする。
それに従って、近付いた私に主は名前を一つ告げた。
その名前を復唱する。
「……『アレクサンドル・イリイーチ・スヴェルドルフ』ですか?」
「そう、それが俺の名前だが……どうかしたか?」
「あ……いえ、少しだけ気になったことがありまして……」
主の口から告げられたスヴェルドルフ、という名前はどこかで聞いたような名前だったのだ。
ジュード達と話した時に聞いたのではない。もっと前、私が日本にいた頃……「!」
「まさかっあの、『スヴェルドルフ』ですか!?」
「あの、が何かよく分からないが、私の肩書きはそこの会長だ」
頰が引きつったのが分かった。
世界中に息のかかった大企業を持つ大財閥『スヴェルドルフ』の会長が、私の主……?
この豪華な部屋の意味を理解した。ここは社長室ならぬ会長室だったんだ。
「……どこへ行く気だ」
「む、無理です」
「なにが?」
「……わ、私なんかにそのような方の秘書なんて、務まるわけが……とにかく、絶対に無理です!」
「おい、今までと態度が違くないか?」
「同じでいる方が無理でしょう!」
私は半ば涙目で告げる。
スヴェルドルフの会長といえば常に世界の富豪の頂点近くにいるような人間だ。総資産を見れば、持ち城を持っていてもなんらおかしくない。
私の主はどっかの企業のかなり上の地位にいることは分かっていた。
だが、それがこんな世界に名を轟かす大企業のトップだなんて、思うはずもない。
しかし、知った今では、ちょっとした企業の社長なんかで治る器ではないと思う。
私なんて秘書の仕事の半分も知らない。どのようなことをすればいいというのは調べていた。しかし、本当に調べただけである。
例えば接待の用意という仕事がある。しかし、どのように接待の用意をすればいいのか私は知らないのだ。
半年間という短い期間ではどれもこれもなんてできなかった。私にできるようになったのは、数カ国語を扱えることぐらいで、そんなこと私じゃなくても他の三人は勿論、主だってできる。というかできなければおかしい。
私の存在価値は何なのだろう。必要のない人間をわざわざ役目まで作って連れてきたようにしか思えない。
その時、聞き慣れた声をかけられて顔をあげる。そこにいたのはジュードだった。いつこの部屋に来たのだろう。エレベーターのドアが開く音に気付かなかった。
「よぉ、スーツ似合ってるな」
「……ありがと」
褒められたことに一応お礼を言う。流石遊び人と言うべきだろう。だが、褒めて欲しかったのはあんたにじゃない。
恨めしく思うももうそのことは忘れた方がいいだろう。
何故この場にジュードがいるのか、その理由を考える。と言っても思いつくのは一つだけだ。
「お待たせして申し訳ございません」
「後は任せた」
「畏まりました」
主様にのみ慇懃な態度で礼をした私の腕を取ると奥に引っ張っていった。もう何をすべきか言いつけられていたに違いない。
何度か見ているが、毎回こいつは本当にジュードだろうかと勘ぐってしまう。
エレベーターに私を乗せた後、ジュードが何か取り出す。円盤状のそれは一度見ている。
ドアが閉まり降下し始めてようやくジュードは手を放した。
「悪いな。誰かしら話したもんだと思ってたけどよ、皆そう思ってるとか笑えるな」
「……笑えねぇよ」
ドスの効かせた声にジュードは竦み上がる振りをした。ほんっと腹たつ、この野郎。
またレトロな音がした後ドアが開く。そこはまだオフィスっぽかった。少なくともホテルではない。
人はいないけど。ガラス張りだし。
開放感がすごい。夜景なんて見たら感動して涙流すだろうな。だって、私のいる場所は他のビルより頭二つ三つも出ていて、ここより高いビルなんて数えるほどしかない。
さっきの場所ならもっと見晴らしがいいだろうと考えて、あの部屋に窓が無かったことに気付く。何故だろうと考える前に書類を投げられてその疑問は隅に押しやられた。
「さて、そこに大体の業務が書いてある。まぁ、適当に目を通しておけ。俺も適当に書いた」
「……は?」
低い声でちゃった。
でも、適当にとはいただけないセリフだ。
「……適当にってなにさ」
「今更業務のあれこれなんて書き出すのはめんどくさいし、普通に教えたほうがいいだろ?」
「……なにを」
「何って秘書の業務に決まってんだろ」
あの召使のようなジュードが思い出される。あれはつまり秘書業務の一つなのだ。
「……ジュードが?主様の秘書?」
もう一度確認と訊ねればああ、と答えが返ってくる。
「秘書かぁ……」
「そう、それともう一つ、お前の育成係だ」
「いく、せい?」
思ってもない言葉にキョトンとすればジュードが鼻を鳴らした。
「そうだよ。いくらなんでも突然あれやれこれやれなんて鬼畜な所業するわけねぇだろ。半年で使えるやつにしてやるから覚悟しておけ」
私はでも、と続ける。
「なんでわざわざ新しい秘書を用意する必要あるの?ジュードだけで十分じゃない?」
ジュードが秘書なんでしょ?という問いは遮られて言えなかった。
「俺が秘書やってる余裕がなくなるんだよ。今まで秘書も兼ねるから割り振り少なめだったんだけど、もうすぐ新しい支社ができるからそうも言ってられなくなる。俺はそこの責任者。流石に兼任できないからな、新しい奴をつけようってわけ」
「でっ、でも!秘書って他にもいるんでしょう!?こんな新人使わなくても」
「それがダメな理由があるんだよ」
どんな理由?首を傾げた私にジュードは私へ投げた書類をペラペラめくってここを読めと渡される。
そこに書かれているのは主の名前とその簡単な経歴。そしてこの会社の不可思議な経営体制だった。その文を無言で読む。
「何が分かった」
数分後投げかけられた問いに、私は静かに口を開いた。
「主は詳細不明の人物で、顔バレもしていない。それは前代、前々代の会長も同様、ってあたり?」
「そう、そこだ」
主は顔バレしちゃいけないんだよ、とジュードは答えを言った。
「……でも会長なのにそんなことできるの?」
「だから俺らがいたんだ——会長の代理人。それが俺ら三人と主様の役割だ。俺は代理兼秘書ってこと」
「ちょっと待って……」
今聞き捨てならないことを聞いた気がする。
エレベーターキーの表現を円盤に統一しました