お嫁に行けません……!(上)
「おまっ……最近動き早いな!」
「いつまでも負けるわけには、いかないんでっ!」
踏み込みとステップのタイミングをずらしながら蹴り上げた左足がジュードの左頬に直撃する。その勢いを利用し体を素早く半回転させて、鳩尾に踵を叩き込む。
これがほんと見事に決まりまして。
「筋トレの成果を見たか!」
地面に倒れこんだジュードへ得意げに胸を張る。久し振りに思う通りに体を動かせた気がする。
嬉しさから笑顔になったのもつかの間、顔に影が落ちた。
「え……」
「まぁ、いい打撃ではあったけど」
ジュードがbangと呟く。
「これが実戦なら死んだな?」
「……なにそれ、ずるくない?実戦とかいつ決めたの」
「なんとでも言え。現実は卑怯者が勝つんだよ」
悪態つきながら手を上に上げる。
それでようやく頭に突きつけられた銃は降ろされた。
その瞬間を狙って渾身の右フックを決める。
「……がっ!てめっ……」
「油断大敵、でしょ?」
「うっわぁ……すんごい痛そうだねぇ」
呑気な声が聞こえて笑顔で振り返る。
やや苦笑気味なルシアンがそこにいた。
「ルシアンもやる?」
「私は遠慮しておこうかなぁ」
予想通りの返答に、大して残念とも思ってない声音で残念と呟くとルシアンが苦笑した。
「それよりほら、日も結構出てきたしこっちおいで」
ルシアンは抱えていた日傘を開いて手招きする。
「さっすがルシアン!」
私は駆け足でその日傘の下へ滑り込む。
「てめ……少しは手ぇ貸せよな」
「そんな痛がってないくせに何言ってんのさ」
「明日は絶対泣かしてやる……」
「お手柔らかにどうぞ〜」
行こうとルシアンの服を引っ張ればそうだねと歩き出す。
ふぁ、と欠伸を手で覆い隠す。と、ルシアンに眠いの?と訊かれてしまった。
「よく寝てるんだけどね……」
「そうだよね?毎日夜の十時には寝てるもんね」
「効率よく学ぶためには質のいい睡眠が重要らしいから」
「本当にね。あ、どうぞ」
ルシアンが玄関のドアを抑えてくれている間に足早に潜る。
「ありがと〜」
「いいえ?」
城の中に入るとルシアンにはいと日傘を返される。なんという紳士っぷり。再度ありがとうと言いつつ受け取る。
「結構UVカット落ちてきてるっぽいね、それ」
「……やっぱり?」
この日傘はまだ半年ほどしか使ってないのだが、もともとイリーナのお古だったためそろそろ有効期限が切れるようだ。
傘を畳みながらうーんと悩む。
「買ってこようか?近いうちに休みあるし」
「……じゃあ頼んでもいい?」
「うんうん、任せて」
本当は、私自身が街に行って自分の目で見て選びたいのだけれど。
ちらりと見上げるとニコリと柔らかな微笑みが返ってくるだけだ。
未だ外出許可は降りないようだ。
心の中で落胆しながらルシアンの後ろをついていく。
準備期間として与えられた半年のうちの三分の二が過ぎた。
もうロシア語はお陰様でデフォルト装備だし、なんなら、イタリア語、フランス語、ドイツ語もあと少しと言ったところ。中国語はなんだかんだ言って結構読めた。英語の文法さえ理解できていれば他はもう単語さえ知ってればどうにでもなる。
自分にここまで語学の才能があるとは知らなかった。どうやら私は耳がいいらしい。確かに昔からリスニングの成績だけはよかった。リーディングとライティングをマスターした今なら、大学受験も余裕でクリアできる自信がある。
そのような状態なので、そろそろ外の世界にも慣れた方がいいと思うのだが……周りは随分と私に過保護だ。買い物どころか散歩すら行かせてもらえない。
私の行動範囲はこの城内と庭のみ。ぐるりと回っても一時間の半分にも満たない狭い範囲。
この先どうなるかなんてまだ詳しくは知らないけれど、買い物くらいはできなければマズイんじゃないの?一応、主様のお付きなんだし。
なんか買ってこいって言われても勝手がわからず主様に泣きつくということになるかもしれない。……いや、それは流石にない……か?
うんうん唸っていると不意にルシアンが振り向く。悩んでいる間に随分とルシアンから離れてしまっていた。少し早歩きで追いかけながら、何かあったー?と声をかける。
「早くしないと朝食食べる時間無くなるよ?」
「それはやだ!」
貴重な誰かとの朝食だ。逃す手はない。
私は走るとルシアンの横に並んで歩きだす。
私に合わせてルシアンの歩調はかなり遅めだ。これがジュードだとそうもいかない。あいつは自分の歩幅で自分の思うままに歩く。
あれなら気持ち悪いとか言わずに対主様仕様のままいてもらえばよかったかもしれない。
「失敗した……」
「何が?」
ルシアンは不思議そうな顔をしたが私は適当にごまかす。
こんな馬鹿馬鹿しいことで悩んでるのか、なんて思われたくない。
* * *
ふわぁ……。
「なんだその大欠伸は」
「……見てないフリしてよ」
ああ、こんなところでもルシアンとの差が浮き彫りに。
なんでこの男はこうもデリカシーがないのか。やっぱりこんな野郎が英国生まれのはずないな。最近までアメリカにいたそうだが度を越した酷さだ。
欠伸のせいで少し出た涙をぬぐいつつ、やれやれと首を振った。人前で大欠伸をかましたことは棚上げする。
「集中してないんだったら今日はもうやめるか?」
「……集中してるんだけど、欠伸は勝手に出る」
「……つーてもなぁ」
お前最近毎日眠そうじゃん、と言われて言葉に詰まる。
そうジュードの言う通りだった。毎日しっかり寝ているのにとてつもなく眠い。
偶に頭痛がする時もある。微妙に痛いという程度ではあるが、それでも少し煩わしい。
「俺たちには休みあるけど、お前にはなかったしなぁ」
「……休んでる暇私にはないから」
私に残された時間はあと二ヶ月程。それまでにできるようにならなければいけないことはまだまだ山のようにある。それこそどこまでという上限がないのだから無限と言っても過言ではない。
そんな状態で眠いから寝る、少し頭が痛いから休むなんて言ってられない。実際睡眠は(主のおかげで)よくとれている。これ以上寝たら寝過ぎというぐらいに。
「じゃあ、続けるけどよ……」
少々含んだ言い方に私は小さく笑う。なんだかんだ言ってもジュードも気遣いできるらしい。ありがとう、先生と私も笑った。
体調不良らしきものはその状態を保ったまま数日続いた。
「……大丈夫か?」
いつもより柔らかみのある声に私はスープを零した。
「何をやってるんだ……」
「すっ、すいません!驚いてしまって……」
慌てて机を拭くものを探すが、その前に主がハンカチを投げてよこした。
「俺がお前の体調を気遣うことはそんなに珍しいか?」
心の中でバレてらと汗をかく。
しかし、主の膝の上でブランがニャアと鳴いた途端、主は私から目を離してブランを構い出す。
助かったと思うと同時にブランに心の中でありがとうと告げる。
その顔にお魚一匹と書かれているのを見て、私は小さく頷く。勿論美味しいのを用意しますとも。
その体調不良を楽観視できていたのも一週間ほどだった。
朝起きた途端私は布団に沈み込む。
痛い。頭が痛い。
頭が疼くように痛む。
昨日頭ぶつけたっけ?なんて思いながら寝返りを打つ。こういう日に限って主がいない。
ついでに言えばルシアンとジュードもいない。二人ともお休みの日だった。イリーナが来るのは午後になってから。
暫く眠れば少しはマシになるだろうと私はもう一度ベッドに倒れこむ。
しかし、頭の内側がガンガンと響いて眠れない。これが偏頭痛かと呻きながらどうにか痛くない格好を探す。
確かにこれはきっついわ。
偏頭痛持ちの友人がよく頭を押さえて死んでいた。そんな様子を見ながら、大袈裟な、なんて思ったあの時の自分をぶん殴りたいぐらい痛い。
いつ日が暮れたのか。薄暗い部屋の中で僅かな音を耳が捉える。
神経を研ぎ澄ますよりも早く、火照ったおでこに冷たい手が触れる。
「熱……は無いようね」
「……イリーナ?」
「大丈夫?すごい具合悪そうだけれど」
微かな声で頭が痛いと告げると彼女は分かったわと私の額から手を離す。
「ちょっと待ってなさい」
イリーナはそう言い置いて部屋を出て行った。数分後、イリーナは錠剤と水を持って戻ってきた。
「一般的な市販薬よ。飲んだことないから効くかよく分からないけど」
「大丈夫、ありがと……」
受け取って小さな二粒を嚥下する。
薬なんて飲むのいつぶりだろう。
「大丈夫?」
「……なんとか」
飲んだところですぐに効くわけでもないのだが、私はそう答えた。
イリーナにははっと笑いかけるが、力無さすぎて哀れなぐらいに弱々しい声しか出なかった。
自分でも分かってるのだから、イリーナが分からないはずが無かった。
「……今日の授業じゃ無しにしましょう?こんな状態じゃ頭に入らないでしょ」
「ありがたいような、ありがたくないような……」
「いいから素直に寝なさいな」
イリーナに無理やりベッドに押し込められる。ほんとあんな細い腕のどこにこんな力が眠っているのか。
この細腕で私のことを毎日お姫様抱っこして歩いていたとか、この目で見ても信じられない。そう言ったら以前軽々と抱き上げられてしまった。
仁王立ちして寝るまで見ているぞという体勢のイリーナを見て私はもそもそ布団に潜り込む。
「よしよし、いい子ね」
ふわりと額に乗せられた手に心地よさと、若干の違和感を感じる。それでも優しく額を撫でられるうちに違和感は薄れていった。
「……迷惑かけてごめん」
「迷惑じゃないわよ。貴女はもう私の妹みたいなものだもの」
「……イリーナお姉ちゃん?」
「ふふっ嬉しい響きね」
うわぁ……
私は思わずその笑顔を凝視する。
「私が男だったらイリーナに抱きついて盛ってたかも……」
「言い方酷いわね」
まぁいいわとイリーナは呟いた後、何故か大きく息を吐く。顔も険しい。何かを覚悟するような、そんなように見える。そしてイリーナは何故かベッドの中に入ってきた。
え、ちょっと待って。
イリーナの覚悟がいることって私と寝ること?それって結構ショックなんだけど。
ベッドに入る前のイリーナの溜息が気になって仕方がない私は顔を雲らせる。考えてみれば思い当たる節もある。
以前、イリーナに触れようとしたら逃げられたことがあった。
「……なんか、無理してない?」
眉が垂れた情けない顔で彼女を見る。姐さんは私のことを抱き寄せるとそんなわけないでしょと頭を撫でた。
「治るまでここにいるから」
「……明日、イリーナの休日じゃ」
「休日は延期するから、早く体調戻しなさい」
申し訳なくて眉を垂らす。
謝ろうと開いた口を彼女の柔らかな手が塞いだ。
「謝らないで寝ちゃいなさいな、治った時に謝罪は聞くから」
私はイリーナの柔らかな胸に頭を押し付けてうんと頷く。
薬が効いてきたらしい。
イリーナのおやすみという声がうとうとした私の耳に心地よく響いた。