第五話:私、まだお留守番をしているの
変な噂を聞いた。
この桜第二高等学校のあらゆる部活動の部室がある旧校舎二階の女子トイレ。
その女子トイレの奥から二番目の個室には、無数のお札が貼り付けられており、やってきた女子生徒は呪い殺されるという噂だ。
"トイレの花子さん"。よくある都市伝説の一つだ。いや、どちらかというと学校の七不思議だろうか。
あくまでも噂であり、実際に誰かが死んだという話は聞いていない。そんなことがあれば大事件、噂レベルでは済まないはずだ。
物好きの生徒達が面白半分に噂を脚色し、尾ひれを付けていったのだろう。
逆に、尾ひれを付けられる、脚色される噂の本体があるものと考えられる。
はたしてどこからどこまで本当だろうか。
「ハナコさんは今日もお便所とお友達ですか~?キャハハ」
考え事をしながら歩いていたら、不快な笑い声が聞こえた。
新校舎二階、私達一年の教室のある"一年廊下"の女子トイレから出てきたのは、同じクラスの女子。校内では普段の素行の悪さから、結構な不良として有名な日下由利亜と、お付きの二階堂蘭だった。
今度は誰を弄って遊んでいるんだか。
夏休み前に私も絡まれたことはある。面倒臭いのでひたすら無視をしていたら、面白くなかったのか割りと直ぐに標的ではなくなった。
日下と二階堂は幼馴染みらしく、無駄に仲間意識が強い。とは言っても二階堂は性格的に、日下の尻に敷かれている所があるため回りから見るとやはり、二階堂は日下の舎弟程度にしか見られない。
「あー、くっさ。てめぇみたいな汚物がクラスにいるだけで教室が臭くなる。
古くっさいそのお名前にカビでも生えちゃってるんじゃないですか~?花澤華子さん↑」
ケラケラと日下は笑っている。どうやらあの花澤華子が虐めを受けているようだ。
『花澤さんのこと、気にかけてほしいな』
昼休みに聞いた委員長の言葉が私の頭の中を過る。
確かに虐めが良いものと思うつもりはないが、ここで正義感に駆られるほど私は優しい人間でもない。
ここで手を出すことによって、私にターゲットが移る可能性も大いにあり得る。
と、思ったのだが――
「あら、そこにいるのは漆原さんじゃありませんか~」
傍観しているのを気付かれてしまった。
微妙に語尾を伸ばすその話し方が勘に触る。
「どうしたの?もしかして、この豚のお友達~?」
あ、この流れはマズイ。
手を出さなくても巻き込まれる。
「何だか最近ご機嫌が良いらしいじゃない~」
つかつかと日下が歩み寄ってくる。
入学当初から金髪に染め上げていたが、生活指導の教員では手が付けられなかったらしい。目鼻立ちもくっきりとしており、日本人なら目立つであろう"由利亜"という名前も、それとなく違和感がないような印象を受ける。
ようは結構な美人なのである。既に中学時代に"初体験"を済ませているなんて話もある。本当か嘘かは知らないが……。
「お母様の御加減が良くなったのかしら~?」
委員長といいコイツといい、そんなに私は浮かれてるように見えるのか。
確かに、家でのことを思い出してたっまーーーに、思い出し笑いすることはあると思うが。
「それとも」と付け加えて日下はニヤリと悪い顔をした。
「逆にヤバ過ぎて、吹っ切れちゃったとか~?キャハハ――
ドンッ!!
あ?
人間には触れてはならないラインってものがあるんだよね。
「言って良いことと悪いことってあるよね?」
自分でも驚くほど低い声が出た。壁に叩きつけた右手がジンジンと痛む。
「な、何によ~。たかがジョーダンにマジギレ~?ダッサ~」
少したじろぎながらも口は減らなかった。ホントに勘に触る喋り方するなお前は。
「……こんなんでマジギレとか↓。なんかシラケた。蘭、帰ろ~」
無言で睨み続けていると日下は「馬鹿馬鹿しい」と言うような溜め息を吐いて、二階堂を連れて去っていった。
楽しそうにはしていたものの、二階堂は一言も喋っていなかったな。
逆に何考えてるのか分かんなくて怖い。
まったく。せっかく授業も終わったしさっさと帰ろうと思ったのに、嫌な思いをしてしまった。
明日以降、日下達の動きがどうなるかは気になるが、気にしてもしょうがない。
「あ、忘れてた」
歩き出して思い出した。
そうだ。私は花澤華子が虐めを受けてる現場に鉢合わせて、巻き添えを食らったんだった。
……まだ、女子トイレにいるんだろうか。
少し、様子を見ていこうか。
「は、花澤さん?私、漆原だけど」
彼女に声を掛けるのは初めてだったから少し上ずってしまった。
返事はない。
彼女がどういった虐めを受けているのかは私は知らない。
トイレの個室の扉が一つだけしまっている。奥から二番目の個室だ。他に人が居ない。ここか。
コンコン。
軽くノックする。
「アイツらは帰ったよ。もう、大丈夫」
個室の扉の下が水浸しになっていた。それに少しなんか変な臭いがする。何かの液体が個室の中にぶちまけられたのだろう。随分と古典的な虐め方をしたものだ。
「どうして、助けたの」
掠れるような涙声が個室の内側から聞こえた。
「別に貴女を助けるつもりはなかったわ。ただ、向こうが私に喧嘩売ってきたから」
助けるつもりはほんとになかった。
結果的にそうなっただけである。
「アイツらはさ、貴女の反応を楽しんでるのよ。だからさ、無視をするのが一番なんだよ」
ちょっかいを出せば出した分だけ彼らにとって、面白いと思う反応が帰ってくる。仕返しもしてこない。付け上がるばかりである。
だから、まずは虐めても楽しくないことを教えるべきなのだ。
「……何がわかるの?」
扉越しに微かに聞こえた。
「アンタに何がわかるの!?」
先程とはうって変わってヒステリックな悲鳴にも似た怒声が女子トイレ内に響いた。
「授業中にゴミ投げられたり、教科書を破られたり、罵られて蹴られたり、殴られたり、こうやって水を浴びせられたり、脱がされて写真とられたり……。
これでも泣くなっていうの?アンタには無視できんの!?」
張り裂けんばかりの声が私の胸に突き刺さる。軽く考えていたかもしれない。
「さっさと、帰って……」
トーンダウンした声に自分の無力さを思い知らされる。
「どうせ、あなたたちの"助けよう"なんて偽善なの。だから、あなたたちには頼らない……」
……私に出来ることはやはりないのかもしれない。
委員長ならこういう場面はどうするのだろう。返す言葉は思い付くんだろうか。
手を差し伸べ続けるのだろうか。
「ごめんなさい」
一言、そう謝って女子トイレを出た。
ずっと、クラスメイトのことなんて考えてもいなかった。父さんがいなくなって、母さんが入院してから自分のことしか考えてなかった。
虐めを受けて、泣きながらもまだ花澤華子は学校に来ている。
あの様子で家族が知らないはずもない。
彼女は私の考えているよりもずっとずっと、深い闇を背負ってるのかもしれない。